19.「まるであの人は天使」




森が夕日に因って赤く染まり、オレは庵に付いた小さな縁側に腰掛ながら其れを 見つつ煙管を蒸かす。
もう夏も終わり秋に差し掛かった今の季節、この時間帯は妙に嫌な記憶を連想させてくる。
其れはオレが持つ灼熱の能力の所為か、はたまた、オレの背後に居る餓鬼の所為か。
此方に気がつかれないように殺気を押し殺しながらにじり寄って来る餓鬼 の気配を心地良く思いながら紫煙を吐き出した。
そのまま背中に重みを感じたかと思うと、肩に顔を摺り寄せてきた餓鬼が その片手に持った抜き身の刃を此方の首元に押し当ててくる。
荒い吐息が耳に忍び込んでくるのを聞きながら、オレは手に持った煙管 を再び唇に押し当て、煙を吸い込む。
其れを目で追ってから視線を前に向けると地面に随分と不恰好な影が伸びているのが 見えた。


「……軋……間……」


微かな声でオレの名を呼んだ餓鬼の刃物を持った手が震えている事に気がつき ながらも其れを無視して煙を吐き出す。
もう燃え尽きかけている火種を地面に落としてから煙管入れに仕舞いこみ、 漸く餓鬼の声に言葉を返した。


「どうした」


しかし黙り込んでしまった餓鬼は何も言わないまま刃物を持っていない 方の手でオレの海松茶色の着物を握りこんでくる。
こんな風に餓鬼がその身に宿した衝動を抑えようと必死になるのは良くある 事で、オレはそんな餓鬼の姿に愛らしさと共に哀れみを覚えてしまうのだ。
きっと餓鬼が何よりも恐れているのはオレを殺す事ではなく、餓鬼の 衝動に動揺し、オレが餓鬼から離れていく事だろう。
だから初めて餓鬼の衝動の発露を見てから、ただの一度たりともオレは餓鬼 に不快感を示したりする事は無くただの日常として其れを受け入れていた。
オレが時折、無性に餓鬼を燃やし尽くしてしまいたいと願うのと同じように餓鬼も オレを殺したいと願うのはもはや生理現象に近く、其れで餓鬼を責めるのは お門違いだと理解しているからだ。
何よりも必死にオレの首元を掻き切ろうとする手を抑える餓鬼は深くオレを 慕っているのだと分かっているからこそ、責める気など微塵も起きなかった。
次第に夕暮れから夜に変わっていく森を見ながらオレは更に出来るだけ 優しく聞こえるように言葉を紡ぐ。


「……辛いか」

「嫌に……っ……疼くんだ……、……アンタの背中は……」

「……そうか」

「……もう、ちょっとで……治まる、から……もう少し……」

「七夜」

「!」


そう言いながらオレの肩に顔を押し付けた餓鬼の手に手を伸ばし、其処を掴むと体を動かして背後に居た紅鳶色の着物を着た餓鬼を抱きこめる。
そのままもう片方の手も掴んで餓鬼の体を捕まえるとその唇に顔を寄せ、舌を這わせた。
驚いたのか目を見開いた餓鬼に気が付かない振りをして、狭い口腔を普段よりも少しだけ乱暴に舐る。
抵抗するかのように動かされた手を木張りの床に縫い止めると鼻に掛かった声で餓鬼が喘ぐのが聞こえた。


「……ん、……っ……」

「……」

「……ッは……」


微かに色の滲んだ瞳で此方をボンヤリと見上げてきた餓鬼に視線を合わせ その瞳に映った自分の姿を見る。
もう消えかけているが赤い光に照らし出されたオレの姿は何処か禍々しく、 此れならば餓鬼が殺意に焦がされるのも分からなくは無いと納得してしまう。
―――だからといって殺されるつもりは毛頭無いが。
未だに蕩けた瞳をしている餓鬼の両手を拘束していたのを離してやると 其処で漸く目を何度か瞬かせた餓鬼が小さくため息を吐いてから其の手に 持っていた刃の刃先を仕舞いこみ床に置く。
オレはそのまま此方にその両手でしがみ付く様にしてきた餓鬼を抱き寄せた。


「どうだ、少しは落ち着いたか」

「……お前……いきなり……」

「……思ったのだがな」

「なんだよ」

「殺戮衝動は別の欲で掻き消せるのではないか?」

「……そんなの……考えてみた事も無い」

「ならばもう一度試してみるか」


ふ、と笑ってもう一度軽く口付けると既にその目に僅かに残っていた 殺意を失わせた餓鬼が呆れたようにため息を吐く。
そうして此方に顔を寄せた餓鬼がまるで猫のようにオレの唇を舐め上げた かと思うとその行為とは異なり子供っぽい笑みを浮かべた。


「今のアンタとの口付けは苦いから嫌だ」

「そうか……其れは残念だ」

「……なんだよ、……其処で引くのか?」


敢えて餓鬼の言葉に素直に頷いてそう答えると、此方の首に腕を回して きた餓鬼が寂しげに肩を竦める。
随分と態とらしいと思いながらもその柔らかな髪に片手を這わせると 指先で撫で梳かした。
さらりと掌の中で動くその髪はオレの剛毛と違い、何時触れても心地が 良い。
そんな事を考えながら髪を撫でていると此方の胸元に顔を寄せた餓鬼が くぐもった声で囁いた。


「……夕暮れは嫌いだ。……嫌に胸が騒ぐ」

「……」

「……『逢魔が時』っていうのはよく言ったものだと思うよ」


何処か皮肉めいた言い方をした餓鬼の心中を理解してオレはその背に 触れていた手をゆるりと動かし、薄い背をあやすように撫でる。
餓鬼が夕闇の中に見るのは恐らく鬼であるオレの姿だけではなく、己の心の 中に潜む魔も含んでいるのだろう。


「七夜」

「んー……?」

「お前はオレにとっての『魔』にはならない」

「……」

「……オレにはお前の全てが恋しく思える」

「は……」

「そういう点では……お前の『魔』に魅せられているのかもしれないがな」


くすりと笑いながらそう餓鬼の耳元で囁くと、体を震わせた餓鬼が 聞こえない位の声音で馬鹿か、と言うのが聞こえる。
もう先ほどまでの赤い光は消え、次第に薄暗さを増していく世界でオレは 餓鬼の背を撫でながら少し声量をあげて言葉を紡いだ。


「もうそろそろ外は冷える、中に戻るぞ」

「……そうだな」


オレの言葉にそう答えながら顔を上げた餓鬼の頬はほんのりと赤く染まっている。
其れに満足感を覚えながらそっと立ち上がると、座り込んだままの餓鬼に 向かって手を差し伸べた。
餓鬼はオレの手を見てから床に置かれた刃物に視線を向ける。
そうしてその刃物を手に取った餓鬼が其れを袂に仕舞いこむと、戸惑うように 此方に手を指し伸ばしてくるのを捕まえ引き上げた。
自然と繋がった手に篭められた力は此方の中に温かく染み渡る。
こうしてオレの手を餓鬼が戸惑う事無く掴んでくるようになったのは 随分と長い時間が掛かった。
同じようにオレがこの手を誰かに差し伸べる事が出来るようになったのも、 時間が掛かった。
そして此れから先、オレは餓鬼の傍に居続け、互いに手を取り合い生きていくのだろう。
例えその途中で互いの中に潜む闇がその身を現したとしても、オレは餓鬼を支えていく 決意が出来ている。
オレはそんな事を思いながら、餓鬼の手を引いて薄暗くなった森に背を向け部屋へと戻る 為に閉じられていた障子戸に手を掛け其処を開く。
そのまま背後の闇から守るように餓鬼と共に闇の入り込まない静かな室内へと戻った。



-FIN-






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