22.「後少し。手を伸ばして」




じっとりとした汗が背筋を伝う。
これだから夏は嫌いなのだと妙に気だるい身体を持て余しながら俺はひたすら畳の冷たさを少しでも吸い取ってやろうと仰向けに横たわっていた。
目を閉じれば森の中に居る蝉の合唱が耳に忍び込んでくる所為で眠れもしない。
俺は仕方なく目を開け、傍に居る男に視線を向ける。
冬だろうが夏だろうが、基本的に余り表情の変わらない男は何時ものようにその視線を書籍に向けては時折手で頁を捲くっていた。
そんな男の顔を隠す長髪は微かに揺れ動きながらも、当然の如く其処にある。
それは至極当たり前の事実で、近頃気にした事も無かった。
だが冷静になって思えばこの猛暑の中、影になっているとはいえ十分に暑い室内でその長い髪は見ているだけで暑苦しい。


(……というか、単純に暑くないのか……?)


俺は向けていた視線を天井に向け直してから自分の短髪に指を入れ、掻き上げる。
微かに汗ばんだ頭皮に苛立ちを感じながらも、ふ、とため息を吐くと男の視線が 此方に向けられている事に気がつき、其方に視線を戻した。


「……」

「なんだよ、……」

「いや……随分暑そうだな……」

「……んー……まぁ、な」

「確かあの箪笥に昔貰った団扇が入っていた筈だ……良かったら使うと良い」

「……団扇ねぇ……多少はマシになるか」


随分と素朴な響きだと感じながらも、この森の中ではそんな道具の方が文明の利器よりも余程役に立つ。
俺は横たわっていた身体を両肘を立てて支えると、そのまま上半身を起こした。
途端に変わる視界と共に男が再び書籍に視線を戻したのが分かったが、俺は其れを気にする事無く今度は膝を着いて立ち上がる。
足の裏に畳の独特な感触を覚えながらもこのけして広いとはいえない庵にある箪笥の前に歩み寄ると、引き出しを開け男の言っていた物を探し始めた。
きちんと整頓されている為に直ぐに目的の物を探り当てる事が出来たが、ふと引き出しの隅に何かが大事そうに置いてあるのに気がついて其れを取り出す。
するりと手の中で動く其れは朱色の細いリボンで、一体どうしてこんな物が此処に仕舞い込まれているのか疑問に思い、俺は背後に振り返って相変わらず書籍を読んでいる男に声を掛けていた。


「なぁ、此れ、どうしたんだ?」

「……ん?……嗚呼、それか。……忘れたのか?」

「え?……なんだったっけか」


俺はそのリボンを目の前に翳しながら、もう片方の手に持った団扇をゆるゆると動かし自身に風を送る。
大した風量では無かったが、やはり無いよりはマシだ。
しかしこのリボンに覚えが無い。
男に視線を向け、降参を示すように肩を竦めると男が僅かに寂しげな表情をしてから、再び書籍に視線を戻し、小さく囁いた。


「別に大した物では無い。……忘れたならば、気にするな」

「そんな風に言われると余計に気になるんだが……」


そんな珍しい男の反応に俺はそっと畳を踏みしめながら男の隣に座り込み、ぱたぱたと団扇で扇ぎながら 掌に乗せたリボンを見詰める。
隣でそ知らぬ顔をしている男は、此方を意識しているのか先ほどから頁を捲くる手が止まってしまっていた。
俺は男の肩に頭を預けながら視線を向け、薄く笑いながら言葉を紡ぐ。


「……」

「なぁ、思い出す手掛かりくらいくれたって良いだろう?……此れは俺がお前にあげた物で良いんだよな?」

「…………嗚呼」

「……んー……」

「……今日のように暑い日にお前が俺に渡してきた」


その男の言葉にふと忘れてしまっていた記憶が蘇る。
確か大分昔の夏、今日のように暑さに苛立った俺がまだ付き合いもしていなかった男に冗談めかして渡した物だ。
しかしその時の男は俺にかなり素っ気無く、其れを渡した時も煩わしそうな顔をしていたというのに。
………まさか、こんな風に至極大事そうに取っているなんて思いもしなかった。
俺は自然と考え込んでいる内に扇ぐ手が止まっている事に気がついたが、それ以上に頬に集まる熱に気を取られてしまう。


「思い出した……『その髪、暑っ苦しいから結んでみたらどうだ』って言ったんだ」

「……」

「でもアンタ、あの時さっさと機嫌悪そうに受け取ってから服に仕舞い込んじまったんだよな」

「……」

「しかし……持っててくれたんだな、俺も忘れてたよ」


そう言いながら掌にあるリボンを見詰めていると、書籍を閉じて横に置いた男は俺の掌の乗っていたリボンを指先で摘み上げ、その広い掌に置く。
男には少し可愛らしくも見えるそのリボンを二人黙って見詰めていると、男が囁いた。


「……お前が初めてオレに渡した物だ」

「……」

「……『失くすな』と言われたのも覚えている」

「そっか」


少しだけ拗ねたような声音の男に視線を向けると、男が敢えて此方から視線を逸らしているのが分かった。
けして他の人間には見せないであろうその横顔を見ていると俺も思わず口元に笑みが浮かんでしまう。


「……忘れててごめんな、軋間」

「別に気にしていない」


俺の言葉に慌てたように此方に視線を向けた男の掌からリボンを拾い上げると、片手に持っていた団扇を置いてから男の後ろに回りこみ、その髪に手を伸ばす。
何の抵抗も無く、触れられた男の髪の感触に俺はふと、あの時の感情を思い出していた。
あの日、男にリボンを渡した俺はその髪に触れてみたいと手を伸ばしていた。
だが其れを届かせる前に自ら握りこみ、此方に怪訝そうに振り向いた男に曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかったのだ。
きっと俺に触れられるなんて男が嫌がるだろうとそう思っていたから。
しかし今ならば幾ら触れても嫌がられる事も、抵抗される事も無い。
そんな風に思いながら、片手で男の髪を纏めると、もう片方の手に持ったリボンで男の髪を纏める。
男の髪に赤い蝶が止まったかのようになったのを確認してから再び男の隣に座り、団扇を持ち直してからその肩に頭を寄せると黙り込んでいた男が言葉を紡ぐ。


「お前は何時まで経っても相変わらずだな」

「……似合ってるぜ、それ」

「……」

「……っくく……」


眉を顰めた男にそう囁くとまた黙り込んでしまった男が後ろから此方の腰に手を回し、より此方を引き寄せて くるものだから思わず笑ってしまう。
俺は片手に持った団扇をまたゆるりゆるりと動かしながら、結局先ほどよりも熱くなった身体と羞恥を感じている らしい男に笑うしか出来なかった。



-FIN-






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