25.「名前を教えて」




薄靄の中に何かがぼんやりと見えた。
何処か見知ったような、其れでいて酷く憎らしく感じるその気配に重たい体を動かし其方に近づこうと試みる。
体が上手く動かない事に歯噛みしながらもどうにか薄靄を掻き分けて進むと人間の後姿が見えた。
黒い飾りのついた白いコートを纏った広い背中にどうしようも無い既視感を 覚えながら俺は一歩ずつ男に向かって重い足を近づけていく。
そうして触れられる位に男に近寄ると、カラカラに乾いた唇を一度舌で湿らせてから掠れた音で声を掛ける。


「お前は……紅赤朱、か」


俺のそんな声がまるで聞こえていないのか男は何の反応も返さないまま何も無い正面を見詰めているようだった。
その後姿に次第に殺意が込み上げてくる。
心の奥底から湧き上がってくるかのようなその殺意を抑えないままに俺は纏っていた 赤い着物の袂から刃物を取り出す。
かちりと白銀の刃を黒い鞘から押し出すと、其れを逆手に持ち目の前に翳した。
嫌な光を湛えた刃が男の背に映り、影を落とす。
この男を今すぐに解体して、白いコートに赤い血飛沫を美しい花のように散らしてやりたい。
そうして男の首を掻き切って、その生命を俺の手で終わらせてしまいたかった。
きっと首元から滴る血はどんな美酒よりも芳醇な香りを纏って俺を酔わせるだろう。
―――其れを今、この手でするしか無い。
湧き上がるこの衝動を抑えないまま、一歩足を踏み出す。


「……名は」


しかし俺が切りかかるよりも先に、前を向いたままの男が低い声で囁くのが耳に響いて 思わず足を止めた。
何の色も宿していないその声に何故か動揺してしまう。
今まで俺は男に獣としてしか認識されていないと思っていたというのに、どうして不意に俺の名を聞くのだろうか。
俺は言葉を上手く発する事が出来ないまま、翳していた刃物を少しだけ下げる。
こんな事で俺の持っている殺意が消える筈が無いのに、そう思いながらも腕がいう事を利かなかった。
其れほどまでに男の声が心地良く耳に響いたのだ。
まるで鎖に縛られたように動かない俺に再び男が声をかけてくる。


「……お前の名は何と言う」


その問いに答えるべきか、答えざるべきか。
混乱する頭を必死に回転させようとしながら、完全に力を失った腕がだらりと垂れ、持っていた刃物が掌から滑り落ちる。
音を立てないまま落ちたその刃に視線を向けると男のコートの裾が翻るのが見えた。
男の素足に纏った薄い布製の防具に付いている金具がキラリと光るのを確認し、俺はゆっくりと顔を上げる。
そうして上げた視線の先には長い癖のある黒髪の隙間から黒曜石のような鋭い隻眼が此方を窺っているのが分かった。
その瞳に爆ぜるような殺意を感じる筈なのに、何処か此方を気遣っている男の視線にどうしたら良いのか分からなくなってしまう。
こんな事は絶対に可笑しいと思いながらも、俺は口の中まで乾いていく感覚に焦りを覚えた。
もしも俺が『七夜黄理の息子』だと分かったならば、きっとこの男もこんな態度には出ない筈だ。
だからこそ男の問いに答えるべきだと分かっているのに、上手く舌が回らない。
そんな俺に向かって不意に男が腕を伸ばしてくるのが見えて思わず体を引く。
そのまま意識が緩やかに靄に隠されていく気がして、必死に保とうとするが上手くいかない。
俺は片手で顔を押さえ、その隙間から男に視線を向ける。
次第に潰えていく意識の中、俺を見ている男の瞳を脳に刻んでいた。



□ □ □



ゆっくりと瞳をあけると白く高い空が見える。
そうして体を上げると自分が何時ものように白い雪原の中心に置かれた柔らかなベッドに横たわっている事に気が付いた。
そんな俺にチラチラと降り掛かる雪は手に触れる前に消え失せていく。
此処は彼女の心象世界で、全ては幻に過ぎない。
勿論、この中で息を殺して彼女を守っている俺もまた、同じように繋ぎとめられた幻想の番犬だ。
悪夢から生み出され、夢魔に愛された俺があんな夢を見るなんて思ってもいなかった。
……軽く頭が痛んで吐き気がする。
性能が落ちるのは問題だと思いながらも、頭を押さえながら瞳を閉じると瞼の裏に男の強い光を点した瞳を思い出す。
全てを射抜いて燃やし尽くすかのようなあの瞳が此方の脳を掻き乱していく。
苛立ちと共に湧き上がるこの思いは一体何と呼べば良いのか分からない。
だが、分からないならば分からないままで良い。
そう結論付けた俺は徐々に無くなっていく痛みに堪えながら瞳を開ける。
そうして顔を上げると真っ白な空から小さな雪の粒が此方に向かって健気に降ってくるのが見えた。
寒い訳では無いが、吐息を洩らすと微かに白く濁って昇っていく。
その吐息を目で追うと、そのまま白い世界に溶けて消えてしまった。
何時か俺も同じように靄となって骨すら残らずに消えていくのだろう。
ただ、もしも其の日が来るとしたら、俺はあの男の腕の中で果てたいと不意に強く思った。
あの強い瞳で射抜かれたらこの幻の一欠けだけでも残って、確かに俺という存在が此処に居たのだという証明になる。
其れこそ絶対に消えない傷跡のように、男の中に残れるならば、漸く生きていると胸を張って言い切れる。
だから自らの矜持と誇りと生命をかけて、俺はあの男に傷を遺してやりたかった。
黒く癖のある長髪に隠された親父がつけた傷跡と同じように、俺もまた、『七夜志貴』を男が忘れられない程の傷をつけてみたい。


(……此れは独占欲に近いな)


そうして、まるで恋を覚えたばかりの生娘のようだ。
そんな風に脳内でそう続けた俺は思わず苦笑してしまう。
幾らなんでも刃物を振りかざし、殺したいと願う相手に向けた感情にそのような感想を抱くのは間違いだろう。
人ではない俺が何かに恋焦がれるなんてある筈が無いのだから。
それでも俺が見た夢は少なからず意味のある事だったと思っている。
夢で名乗りが出来なくても、次回、本当に対峙した時はきっと迷い無く言えるだろう。
其れによって男が俺を認識するのなら、其の位の行動は簡単に出来る。


(どうせなら早くその日が来れば良いのに)


先ほどの不機嫌さももはや消え失せ、ゆるりと白いベッドの隣に置いてある靴を履いてから立ち上がる。
そうしてポケットに忍ばせた刃物を衣服越しに撫でると自然と浮かぶ笑みもそのままに、今日も獲物を探しに街に出る為、白い雪原を踏みしめながら出口へと向かった。



-FIN-






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