27.「ひとりは淋しすぎる」




小さな灯りだけがぼんやりと点る薄暗い闇の中、両腕を戒める黒く重い枷を見詰める。
この身体を僅かに動かす度、薄汚れた衣服は同じように所々汚れ、変色している畳の上を蛇のように這い、漆喰の壁に異形を作り出していた。
もしもこの枷を外そうと心から思えばきっと何の苦も無く外せるのだろう。
だが其れをするなと言いつけられた己はただその言葉を忠実に守っていた。
意識を持ち始めた頃には既にこの薄暗く濁った牢に閉じ込められていたオレにとってこの世界が全てだった。
そうして己は他者と異なる力を持っている『化物』なのだと言われ、怪異は封じなければならないという言葉だけを聞かされながらも何故か此処に存在していた。
たまに両の耳に入り込む数多の雑言も、ただそういうモノなのだと受け入れていた。
……そもそもそれらの言葉が何の意味を持っているのかすら明確には理解出来ていない。
オレはそっと目を伏せ何時ものようにざらついた壁に背を預ける。
すると壁越しに何かが流れ落ちるような音が聞こえた。
けしてその音は大きいわけでは無いだろうが、この静かな空間には良く響くのだ。
そうしてその音がする時はこの牢もより一層湿り気を帯びた匂いが満ちる。
そんな何時もとは異なる音が聞こえる時や、名も知らぬ人間が目に良く分からない色を宿しながら日々決まった時刻に飯を運んでくる時だけがこの空間に訪れる唯一の変化だった。
何も変わらないこの世界で、オレもまた変わらずに此処に存在し続けるのだろう。
そうして其れが何処まで続くのかも分からない。だが其れで良かった。
このまま何も感じない幻の如く、己は存在していく。
初めからその様な方法しか、この両の腕は知らないのだから。



□ □ □



「……ッ……」


頭に鈍い痛みを感じ、目を覚ます。
温かい布団から身体を起こすと隣に居る筈の七夜の姿が見当たらなかった。
オレは手を伸ばし、掌で七夜が眠っていた所に触れる。
冷たくなっている其処に何故か頭の痛みが激しさを増した気がした。
そっと掛け布団を退けてから立ち上がり、冷えた畳を踏みしめる。
どうやら庵の外で雨が降っているようだ。
しかもまだ朝と言うには大分早いらしく、部屋の中は暗い。
ざぁざぁと嫌な記憶を掻き立てるその音を聞きながら恐らく七夜が居るであろう囲炉裏のある部屋へと続く襖を開けた。


「あれ?……起きたのか」


予想した通り、燭台の仄灯りの中、火を点した囲炉裏の傍らに座り込んでいる七夜を見つける。
オレと同様に此方を見ながら声を掛けてきた七夜の声に答える事はせず、その隣に座ると手を伸ばし七夜を抱きしめていた。
そんなオレの行動に一瞬驚いたように息を詰めた七夜は直ぐにその身より力を抜き、此方に凭れ掛かって来る。
其れだけで頭を占めていた痛みが徐々に引き始めるのを感じていると、オレの腕の中に居る七夜が戸惑うように声を掛けてきた。


「……どうしたんだ」

「……」

「悪い夢でも見たのか?」


その揶揄するような色を宿した問いに答えを返さないオレの頬に手を当てた七夜が労わるような手付きで摩ってくるのを感じながら、痛まぬ程度に腕に力を込める。
するとオレの顔に掛かった前髪を掃ってから七夜が顔を近づけてくるので黙って其れを受け入れた。
柔らかな羽毛を当てるようなその感覚に心地よさを感じる。
そのまま顔を離した七夜が見詰めてくるのを感じながら、その色素の薄い瞳を見つめ返す。


「七夜」

「……んー……?」

「……七夜」


七夜に触れられている所から温かな何かが流れ込むような気がして、オレはその首元に顔を寄せながら七夜の名を呼ぶ。
そんな様子のオレに薄く笑った七夜は此方の背中に両腕を回し、宥めるように其処を摩った。
衣服越しに伝わるその手付きに合わせる様に呼吸をしていると小さく七夜が囁く。


「……さては本当に怖い夢でも見たんだな」

「……」

「大丈夫だよ、軋間、……ちゃんと此処に居るから……」


背中に回した腕の片方を離した七夜がオレの腕の片方を取り、指を絡ませる。
重ねた掌から伝わる脈動に自分は生きているのだという事を実感した。
モノでも無く、何も感じない虚無でもない。
例え周囲と異なる『化物』の血が流れていたとしても、今、確かに此処で息をしている。
そうしてもうこの両手にあの枷は嵌められていないのだ。
―――其れに気がついた時、もう頭に響く痛みはほぼ無くなっていた。


「……そうだな……此処に居る……オレもお前も」

「……もう大丈夫か?」

「嗚呼……すまない、面倒を掛けた」

「全然構わないさ。……何時もアンタに甘えてばかりだからな……寧ろもっと甘えても良いんだぞ?」

「そうか?」

「ああ、……アンタが甘えてくるの、俺は好きだから」

「……」


くすくすと愉しげに笑った七夜はそう言いながらその頭を首元に摺り寄せ、絡めた指先に力を込めてくる。
そういえば、とオレはそんな七夜に問いかけてみた。


「……寝ないのか、七夜。まだ朝にもなっていないが」

「そうだな……アンタと話してる間に眠気もちょっとは戻ってきたし、そろそろ布団に戻るとするかね」

「……」

「でも……アンタは眠れるのか?」


顔を上げ、試すような視線で此方を見ながらそう呟いた七夜にオレはどのように答えようかと刹那、逡巡する。
そうしてオレは七夜と繋いだ手を持ち上げ、その手の甲にそっと口付けた。
七夜の手の甲に浮かぶ筋が微かに動くのを感じてから唇を離し、言葉を紡ぐ。


「……もう少しだけ、……共に起きていてくれるか、七夜」

「……勿論、お付き合いさせて頂きますよ」


オレのそんな言葉に嬉しそうに目を細めながら微笑んだ七夜はそう言って此方に口付けてきた。
そんな七夜の戯れに応えるように七夜を抱いていた手をその柔らかな髪に挿し入れ、其処を撫で梳かす。
先ほど一人で居るときはあんなにも大きく聞こえていた雨音も今はまるで気にならなかった。



-FIN-






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