29.「今日という日を忘れない」




俺がこの男に会いに来るようになってからもう大分経つ。
どうして俺がわざわざこんな森の奥に住んでいる男の元にやってきているかというと、初めは殺意からだった。
しかし男と対峙し、その強い光を点す瞳を見てしまってからは殺意と同じくらいに男に対しての興味が湧き上がってしまったのだ。
そして俺を殺す事も出来た筈なのに其れをしなかった男はこうして無防備にも隣に俺を置くことを許している。
一体この男が何を考え、俺を黙って隣に座らせるのか。
其れは今でも分からないがこうして温かな日差しの中、ひたすら静かな空間で本を読み耽る男の隣でうたた寝をするのは思った以上に心地が良く、しばしばこの空間に居る事が可笑しいという事実を失念してしまう程だった。


「……七夜」


ふと隣に居る男が俺の名を呼んだ為に、ぼんやりとしていた意識が現実に引き戻される。
何時もなら俺に声を掛けてくる事が滅多に無い為に急に声を掛けられると動揺してしまうのだ。
だがそんな動揺を為るべく出さないようにしながら隣に居る男に視線を向ける。
てっきり何時ものように書籍を読み込んでいるのかと思っていたのだが、もうその手には書籍が持たれておらず、何処か真剣な眼差しをした男が此方を見詰めてきていた。
男の黒曜石のような瞳に射られるのは未だに慣れていない。
俺はその瞳に良く似合う藍色の着物を着た男と視線を絡ませながら、ゆっくりと唇を開いた。


「珍しいな……アンタが俺の名を呼ぶなんてさ」

「……そうか?」

「そうだよ」
「……」

「……なんだ、言いたい事があるならハッキリ言えよ」


凝っと此方を見ながらそう囁いた男は何故かそわそわとしているものだからムズ痒さを覚えてしまう。
堪らず俺は男にそう声を掛けると、此方に向き直った男がその独特の低い声で囁いた。


「……ならば言うが……、」

「……勿体つけずにさっさと言えよ」

「オレはお前の事を好いている」

「?…………それは、ありがとな」

「……」


勿体ぶった言い方をした割には良く分からない事を言った男に思わず首を傾げてからそう感謝の言葉を述べる。
男が俺を好いてくれているのならば、其れは其れで不可思議な事ではあるが悪い気はしない。
しかし男は俺の反応が気に食わなかったらしく、その眉根に皺を寄せて此方を見詰めてくる。
そうして、珍しく何かを言いよどんでいるようだった。
そんな男の表情を黙って見詰めていると、不意に此方に伏目がちの視線を向けた男がその太い腕を此方に伸ばしてくる。


「……オレが伝えたい事と、異なる伝わり方をしたようだな」

「……何……」

「先ほどの言葉には、……恋情の意味が含まれている」

「…………は……」


俺の頬に手を当てた男がするりとその乾いた大きな掌で其処を撫でながら呟いた台詞に思わず体が固まる。
そして一瞬で染まる顔を見られたくなくて、慌てて顔を背けた。
心臓が驚くくらい大きく音を立てているのが男に伝わってしまいそうで嫌に成る。
ただの友情だとか、情が移っただけであるとかその程度の意味合いだと思っていたというのにまさか其方の意味だったとは。
俺の葛藤を理解したのか、頬に当てていた手を離した男が小さくため息を吐くのが分かった。
まさか冗談だったのかと顔をあげると、複雑そうな顔をした男が此方を見詰めているのが見える。
―――もしも冗談だったのならば此方も相応の対処の仕方をしてやる。
そう考えた俺は敢えて冷静な顔を作ってから挑発的に男を見上げ、囁く。


「……本当に俺の事が好きなら接吻の一つでもしてみろよ」

「……」

「なんて、……こんな事を言われるから笑えない冗談は……」

「……良いのか」

「……え……?」


自分の台詞に馬鹿馬鹿しさを感じながら肩を竦めると、俺を遮るように真面目な顔で言葉を紡いだ男が再び此方の頬を撫でる。
まさかのその反応に驚いていると男の親指が此方の唇の上を這った。
己よりも高い体温に触れられているのはどうしてこうも分かりやすいのだろう。
そんな見当外れな事を頭の片隅で考えながら、此方にそっと近づいてくる男を見ていられなくて思わず強く目を瞑る。
そして此方の唇に男の吐息が掛かる程の距離になってから、不意に男が離れたのを感じた。
其処で漸く閉じていた瞳を開けると此方から視線を逸らした男が再び小さなため息を吐く。
男のそのような態度に怒鳴りつけてやろうと唇を開くが、その前に男が頬に当てた手を動かし此方の髪を撫でるのが先だった。


「……そうして怯える程嫌ならば、そんな事を言わないほうが身の為だぞ」

「……」

「急にすまなかったな、……今日はもう帰った方が良い」


寂しげな顔をして笑った男に此れは冗談でも何でも無く、男の本心なのだという事を漸く悟る。
本当に男は俺を好いているのだろう。
そうしてきっと今まで抱いた事の無い思いを必死に此方にぶつけてきたのだろうと考えた所で、俺の頭を撫でている男の手を自身の片手で奪い取るように握った。
驚いた様子の男を無視してその大きな手を掴み、男の隻眼を凝っと見据える。
そのまま自分でも上ずっていると分かっていながらも、男に向かって声を掛けた。


「馬鹿か、アンタ」

「……」

「俺が良いって言ってんだ……怯える?笑わせるなよ」

「……七夜?」

「アンタに俺が怯える訳無いだろ、……アンタを相手に出来るのはこの俺くらいだ……分かってんのか……!」


最後は半ば叫ぶようになった俺を見詰めていた男は、何時ものように静かに、だが喜びを滲ませた笑みを浮かべる。
此れでは俺の方が勢い余って告白したようでは無いか、とふと我に返り耳まで熱くなるのを感じて俯く。
すると此方が握っていない方の手で此方の顎を上げさせた男が先ほどと同じように此方にそっと近づいてくるのが見えた。
自然と下りる瞼もそのままに、男の薄い粘膜が戸惑いを含ませつつも此方の唇に触れるのを感じる。
激しい接吻でも無いのに、妙に動悸が激しくなり体温が上がった。
そしてゆっくりと男が離れていくのと同時に目を開け男の手を離すと、男が優しく抱きしめてくる。


「……そうだな、オレにはお前しか居ない」


此方を傷つけないように柔らかく抱きしめられながら、そう幸せそうに耳元で囁かれ、ゾクリとした感覚が背中を走る。
殺意でも憎しみでも無い、ただ単純に男を愛らしいと思った。
こんな感覚が自分にもあるのかと感心しながらもその広い背中におずおずと手を回す。
着物に纏わされた白檀と男の嗜む煙管の香りが近くで薫る。
堪らず男の胸元に一層顔を摺り寄せ、男の衣服を握りこんだ。
可笑しいと思いながらももう俺にはこの甘くも心地良い空間をきっと手放す事は出来ないだろう。
そして男もまた、其れを望んでいるのならば応えるしか選択肢は残されていない。


(しかし……俺も随分と甘くなったな……男に絆されたか……?)


そんな事を考え、自然と唇に浮かぶ笑みを男が悟ったのか此方の髪に口付けられる。
その感覚に顔を上げると再び唇に口付けられ、脳内が一段と男に満たされていく。
何時も男と共に居ると自分が腑抜けになっていく気がしてならないというのに、此れではもう体も頭も全て溶けてしまうかもしれない。


「七夜」

「……なんだよ」

「お前が好きだ。……こうして傍に居られる事を嬉しく思う」

「……ッ……」


温かな日差しに照らし出された男が俺にしか見せないであろう笑みでそんな事を言うものだから遂に恥ずかしくなって男の胸元に再び顔を埋める。
何時もは無表情で回りくどい言い方ばかりする癖に、どうしてこんな事に関しては真っ直ぐな物言いを嬉しそうにするのだろう。
此れでは俺の心臓が持たない所かいっそ死んでしまうかもしれない。


「どうした?」

「……なんでもない……」

「……そうか」


微かに笑った男が俺の背を撫でながらそう囁き、此方の髪に顔を埋めてくる。
着物越しに感じる男の高い体温と微かだが何時もより早い心拍が伝わってきて何も言えなくなってしまう。


(……全く、今日は何て日だ)


まさか男がこんな感情を持っている上に、不意にこんな事を言ってくるとは思ってもいなかった。
其の上、こんなにも俺がその言動に動揺してしまうなんて。
男の着物を握りこみながらとりあえずは熱くなった頬が納まるまでは今暫く隠していようと男の胸元に顔を再び摺り寄せた。



-FIN-








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