30.「チェックメイト」


※眼球舐めあり



「……なんだ」


オレの隣でまどろんでいた筈の七夜が此方を凝っと見ているのに気がつき、持っていた本から視線を移した。
日が溜まっている所為で温かく、静かなこの森でこうして巨木に背を預けながら本を読むのはオレの日課で、何時しかオレの傍に 来るようになった餓鬼はただひたすらに傍に居るだけで今の所、害にはなっていない。
……だからこそこうして隣に居る事を許しているのだ。
しかしながらこうもじっくりと見られると落ち着かない。


「……おい」

「……静かに」


互いに見詰め合う事に痺れを切らし、声を掛けると真面目な顔をした餓鬼がそう言ってオレの方に手を伸ばしてくる。
その手を振り払うのは簡単に出来るが、餓鬼が何を考えているのかが気になってしまって 開いた唇を閉じると餓鬼が伸ばした手を此方の頬に当てた。
少しひんやりとしたその手が頬を摩っていく感覚に不思議な心持を覚えながらも視線を 餓鬼から逸らさないでいると不意に動いた餓鬼が此方の髪で隠れていない方の目尻に口付けてくる。
内心、想像もしていなかった出来事に驚きはしたがまだ振り払うまでには至らないと 放置してみると、其処を一度舌で舐め上げた餓鬼が顔を離した。
ゾロリとした感触の舌先が眼球の上を這うのは些か気分が悪かったが、其れでもオレが瞳を閉じる事は無かった。
そんなオレに逆に餓鬼が困惑したかのように小さく囁く。


「目、閉じないのか?」

「……お前が何をするのか分からなかったからな」

「……いやいや……、……本当に、アンタって面白い男だな」


オレの答えに笑いながらそう囁いた餓鬼が離れようとするのを腕を掴んで止める。
驚いたようにオレに視線を向け直した餓鬼を見詰めながらも持っていた本を閉じ、纏っていた藍色の着物の懐に仕舞いこんだ。
栞も何も挟んでいないものだから、何処まで読んだかの判断をするのが難しくなってしまった が今は書籍に並ぶ文章よりも目の前で動いている難解な生物の方が余程興味深かった。


「なんだよ」

「……オレはお前の行動の意味が全く理解出来ないのだがな」

「別に分からなくったって構わないさ。理解して貰うつもりも無いし」

「其れではオレが困る」


此方の行動に首を傾げながらそう呟いた餓鬼に極々自然な問いを投げ掛けたつもりだった のだが、餓鬼は肩を竦めて誤魔化そうとしてくる。
そんな餓鬼の言葉に微かな苛立ちを覚えながらも言葉を返すと、至近距離に居る七夜が 一度オレから視線を外したかと思うと再び此方に視線を向け直した。
そしてゆるりとオレに掴まれていない方の手で此方の前髪を掃ったかと思うとその奥に隠された傷口に触れる。
あの男に付けられたこの傷をあの男の息子がこうして愛でるように摩るのは可笑しな ものだと思っていると、其処に爪を立てられ微かな痛みが走った。


「……アンタに残されたのはもう左目だけだ。残念ながら、な」

「……」

「でももしも俺がこっちを潰したら」


そう言いながらオレの左目に顔を寄せた餓鬼がその目尻に口付ける。
乾いた柔い粘膜が撫でるように触れるのを感じ取っていると、そのまま餓鬼が酷く小さな声で呟いた。


「……其れこそアンタの視界は完全に失われる」

「……」

「そうしたら最後にアンタの脳裏に残るのは死ぬまで俺だろ?」


オレを見詰めながら無邪気に笑った餓鬼に動揺を隠せないまま、視線を絡ませる。
何時も何を考えているのか分からない餓鬼が眩しく見える程の笑みを見せた事、 独占欲を滲ませた台詞を吐いた事、そのどちらも予想外だった。
そして何よりも予想外だったのは餓鬼のその笑みと言葉にこの動きの鈍い胸が脈を増した事だ。


「軋間……?」


オレは己の心の赴くままに餓鬼の首元に手を伸ばし、何時も身に纏っている衣服越しに感じる細い首元に指を這わせる。
そうして疑いの眼差しを向けている餓鬼の首を緩やかに絞めるとそのまま息を詰めた餓鬼の唇に自身の唇を合わせた。
狭く熱い口腔に舌を入れ込むのと同時に指先に入れていた力を抜くと、餓鬼の頭に 手を動かしその細い髪に指を絡ませ、深く口付ける。
誰かと接吻をするのは初めてだったがオレの舌を誘導するように餓鬼の舌が此方に絡んで 妙に生々しい水音が周囲に響くのが聞こえた。
互いに瞳を閉じる事をしないまま、口付けているこの光景はもしも傍から見たならば一種異様だろう。
オレがそんな事を考えているとまるで苛立ちを伝えるかのように髪に触れている方の 腕に爪を立てた餓鬼に内心笑ってしまった。
そうしてそっと顔を離すと間に透明な糸が掛かり、微かにぼんやりとした瞳をした餓鬼が挑発的に濡れた唇を舐めてから囁く。


「……っは……」

「……」

「……へたくそ」

「……相変わらず随分と生意気な餓鬼だな、お前は」


厳しさを滲ませながらそう言ったオレに笑った餓鬼の髪を撫でてやると、目を細めた餓鬼が言葉を紡いだ。


「それにしてもいきなり接吻なんてアンタも意外と情熱的なんだな」

「……」

「其れで、一体今のはどういう意図があるのか説明して貰おうじゃないか」


軽い口調ながらも何処か不安げな雰囲気を纏わせた餓鬼に愛らしさを覚えたが、素直に言ってやるつもりは毛頭無かった。
オレはくしゃりと餓鬼の髪を掻き混ぜるように撫でると、その髪から手を離し体を動かして青い空に視線を向ける。
驚く程に澄んだ青い世界に、凪ぐように吹く風、其れによって揺れ動く木々の葉が 立てる音に心地良さを感じながらオレは隣に居る餓鬼の手に手を触れさせ絡ませた。


「……何……」

「……」

「……答える気は無いって訳だな……ったく……」


拗ねたようにそう囁いた餓鬼がオレの肩に頭を寄せ、此方の手を掴む指先に力を込めてくる。
オレはその伝わる熱を心地良く思いながら、懐に手を挿し入れ書籍を取り出そうと 思ったが、やはり今はこの空間に浸ろうと懐に入れていた手を戻した。
そして普段は呼ぶ事の少ない餓鬼の名を不意に呼ぶ。


「七夜」


オレの声に視線を向けた餓鬼に顔を寄せ、その唇に軽く口付ける。
そうして顔を離すと、先ほどよりも驚いた表情を見せた餓鬼が仄かにその頬を赤らめるのが分かった。


「……アンタは相変わらず意地の悪い男だ」


敢えて餓鬼の顔を覗き込むようにすると、視線を逸らしながらそう言った餓鬼が小さく舌打ちを したのが聞こえ、オレは堪え切れずに小さく噴き出してしまった。



-FIN-






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