ラトナラジュ



 ふぅー、と軽く吐息を吹き掛けて塗り終えたマニキュアの様子を確認する。
 真っ赤に彩られた指先は完璧と言っていいくらいに美しく、一部の凹凸もない滑らかさを形成していた。
 本当はお気に入りのネイルサロンがあるのだけれど、シーズン中な事もあり、連日と言っていい程に【ゲーム】が開催されているせいで落ち着いてサロンに行くことも出来なかった。
 それ以前に、近頃は自宅兼アジトの一つにしている部屋に帰る事もままならず、こうしてドロップシップに備え付けられた自室として使える狭苦しい場所に缶詰め状態だ。
 ある程度は質の高い調度品を運び込んでいるとはいえ、やはり自室の快適さには勝てない。

 (シーズンが終わったら、絶対にエステとヘアサロン予約して……それから新しいコスメと服も買いに行かないと。このままじゃストレス溜まって死んじゃうわ)

 脳内でそう文句を言いながらも、反対側の手にも吐息を吹き掛ける。
 やはりそちらも利き手側の割には綺麗に仕上がっており、自分の器用さを自慢したくなるくらいだ。

 (まぁでも、慣れるものよね)

 戦闘の激しさを考えるとマニキュアよりも勿論ジェルの方がいいのだけれど、逆に好きな色に毎日塗り替える事が出来るのはいいのかも、とポジティブに頭を切り替える。
 美しい女はいつでもポジティブで、指先まで抜かり無いものだ。
 例えそれがどんな環境だったとしても言い訳をするのは好きじゃない。

 そんな事を考えていると、不意にネイル瓶の横に置いておいた仕事用の通信端末に連絡が入る。
 ディスプレイに表示された通信相手の名前はもはや見慣れたライフラインの名前だった。私は乾いたばかりのネイルの先でスクリーンのボタンをタッチする。
 ついでに電話を当てるのが面倒で、スピーカーにするとキャイキャイという可愛らしい声が背後で響いている中でライフラインの声が聞こえてきた。

 『もしもし、ローバ?』

 「何よ、同じシップに乗ってるのにわざわざ電話なんて……」

 『昼寝してるかなと思ったのよ。今、暇?』

 「暇って言えば暇だけど……」

 そんなやり取りの背後で、ワットソンとレイスの声が聞こえた。

 『ハイ! ローバ、起きてるのね』

 『ナタリー。やってる最中に動かないで』

 『あ、ごめんなさいレネイ』

 一体女性3人で集まって何をしているのかと思っていると、そんな私の疑問を感じ取ったのかライフラインが言葉を紡いだ。

 『この間の手紙見た?』

 「手紙?」

 『ほら、何を考えてるんだか分からないけど、APEXゲームのスポンサー数社が共同で開催するパーティーの招待状よ』

 あぁ、そんなのあったわね……と答えながらネイルを塗っていた豪奢なデスクの上に投げ置かれていた招待状をつまみ上げた。
 シンプルな白封筒に金文字でレジェンド名が書かれ、赤いシーリングで封をされていた余りにも時代にそぐわない招待状。
 逆にそのレトロさはパーティー全てに手が込んでいる事の現れだろう。
 しかし、別に中身自体は特段可笑しな事は書かれていなかったと思ったのだが、見落としていただろうか。

 『今回はスポンサー側の好意で格式高いホテルを貸し切ってやるなんて書いてあるでしょ。……私からしたらそのお金を別の所に使いなさいよって感じなんだけど……』

 「それがどうかしたの?」

 ブツクサと文句を言うライフラインの言葉を半ば遮るように疑問をぶつけると、ライフラインは話を戻した。

 『私は正直、嫌でもパーティー慣れはしてる。そんで後ろの2人が頼って来たんだけど、たいした準備期間も無いでしょ?そもそも近頃はずっと船の上だし』

 『……レネイ、もう出来た?』

 『やっぱり貴女の髪、短いから編み込みは無理よ』

 ライフラインの背後でまたそんな声が聞こえる。ようやく3人が集まって何をやっているのかが見えてきた。
 確かにパーティーの開催日は、シーズン終了2日後くらいで買い物すらもゆっくり行けそうに無い日程だった筈だ。
 普段から着飾り慣れている私からしたら、新しいドレスを買う口実になる程度にしか考えていなかったのだが、パーティーメイクなどを1から覚えるには時間が足りないだろう。

 「手伝えって?」

 『私も元々ヘアセットもメイクもそんなにしないし、道具自体あんまり持ってないのよ。ローバ、貴女なら教えてあげられるでしょ?』

 その話を聞きながら、自分の部屋に備え付けたドレッサーに目をやる。
 簡素なベッド脇に取り付けたそのドレッサーには自宅ほどではないが、ある程度のメイク道具は揃っている。
 それに女性が美しくなるために努力する姿は案外好きなのだ。

 「いいわよ。3人まとめていらっしゃい」

 『サンキュー! じゃあそっちの部屋に行くわね』

 『merci!』

 『助かるわ』

 代わる代わるそう言った3人に苦笑しながら通信を切る。
 誰かに頼られる事も、感謝される事もこの【ゲーム】に参加するまでほとんど無かった。
 誰かと組んで仕事をするなんて事もほぼほぼ無かったし、私自身が誰かを頼る気なんてさらさらなかったから。
 今だって、完全に全員を信用しているわけでは無かったけれど、一度みんなを騙すような事をした私を彼女たちは受け入れてくれている。
 ならば、ある程度の奉仕は必要だろう。
 そんな風に考えながら、デスクに置いてあるネイル瓶を拾い上げて椅子から立ち上がり、すぐにやって来るであろう客人をもてなす為に準備を始めた。


□ □ □


 「ん、貴女はやっぱり紫が似合うわね。でもやり過ぎると濃くなるから気をつけて」

 「ええ」

 そう言いながら目元にブラシで丁寧にグラデーションをつけていく。
 しかし人にメイクをされ慣れていないせいか戸惑い気味に目を伏せているレイスをその隣でニコニコしながらメイクの終わったワットソンが見つめていた。
 そのままケースに入ったブラックのアイライナーを取り、ほんの少しだけ目尻側を跳ねさせ書き込む。
 彼女はクールなイメージだから、メイクを多少強い印象にしても素敵だろう。

 「いいわよ、目を開けてみて」

 「素敵よ、レネイ!」

 「……ありがとう」

 「元々の睫毛が長いからそこまであげなくても良いかもしれないけど、パーティーメイクですものね」

 今度はビューラーを手に取ると、ササッとレイスの睫毛を上向きにする。
 アジア系特有なのか、実年齢を感じさせない顔立ちは羨ましさもあるくらいだ。

 「良い感じ。……私ならここにしっかりカラーマスカラでも乗せるけど、貴女はあまり派手過ぎない方が良いんでしょう?」

 「あんまり目立ち過ぎるのは……」

 「オーケー。そしたら黒マスカラの上から軽くシルバーのラメにしましょ」

 言った通りにマスカラを塗りつけていると、不意に廊下に繋がる金属製のドアが開く。
 すると、人数分のカップとソーサー、ティーポットにミルクポットとシュガーケースなど紅茶セット一式とスコーンなどの茶菓子を大きな盆に乗せたライフラインが帰ってきた。

 「ごめんごめん、シルバに見つかって軽く話してたら遅くなっちゃったわ」

 「紅茶嬉しいわ、ライフライン!ありがとう! 重かったでしょ?」

 そう言いながら椅子から立ち上がったワットソンが、ライフラインの持っている盆からカップやミルクポットなどを取るとデスクに並べた。
 ふんわりとした柔らかな紅茶の匂いと、温めてくれたのかスコーンの香り、そこに化粧品の甘い香りが混ざっていかにも【女子会】という雰囲気が増す。

 「ワットソンはもうメイクして貰ったんだね、可愛いじゃないか」

 「ふふ! ローバはやっぱりメイク上手だから、素敵にして貰えたわ」

 「レイスももう少しで終わり?」

 「ええ」

 マスカラが終わり、今度はブラシでチークを入れながらレイスの代わりに私が答える。
 そうしてそのままリップに取りかかろうかと迷ったが、どうせ紅茶を飲むなら終わってからで良いだろう。

 「リップは後で入れるわ。せっかくのお茶が冷めちゃうものね」

 「ありがとう、ローバ、ライフライン」

 「レイスも良いじゃないか!可愛いよ」

 ライフラインのその言葉に微かに照れているのか、鼻先を指でソロリと掻いたレイスはワットソンがポットから淹れてくれた紅茶の入ったカップを受け取った。
 同じようにこちらに手渡されたカップを受け取り匂いを嗅ぐと、アールグレイのふわりとした香りが鼻をくすぐってくるのを感じる。

 「あんまり良い茶葉じゃないけど、まぁまぁ美味しいやつなの。スコーンなら、紅茶のがあうでしょ?」

 私のその姿を見ながら椅子に座ったライフラインがミルクと砂糖を紅茶に入れながらカップに口をつけた。

 「こうして女子だけでお茶を飲むって、なんだかとっても素敵よね」

 そんな事を良いながら、ラスベリージャムをつけたスコーンを頬張っているワットソンの横でレイスも紅茶のカップに口をつけている。
 アールグレイならストレートでもミルクティーでもどちらの飲み方でも好きなのだけど、今日ストレートな気分だったのでそのまま紅茶を口に運ぶと乾いた喉が潤っていくのを感じた。
 そんな中、ライフラインが楽しげな笑みを浮かべながら話し始める。

 「ワットソンとレイスは当日大丈夫そう?手順覚えられた?」

 「ええ!ちゃんとブルー系のカラーをブラシ2〜3回分取って、そこから手の甲で少し馴染ませた後に全て均一になるようにグラデーションをすればいいのよね?0.5程度の誤差はあっても良いんでしょう?」

 「……そうね。貴女はそういう風に覚えた方が分かりやすいかも」

 「私も何となくは分かったわ」

 「道具は今日使ったやつを貸してあげる。ただ、レイスとワットソンに使ったメイクパレットが同じやつだから一人にしか貸せないけど……」

 「それは問題ないわ!多分当日はレネイと一緒に行くと思うから。良いわよね、レネイ」

 スコーンを食べ終えたワットソンがその言葉に問題ないという風にそう言うと、レイスはコクリと頷いてスコーンに手を伸ばした。
 そんな中、私はこの場に居ない他の女子の事を思い出していた。

「そういえば、バンガロールとランパートはどうするのかしら」

 正直、この3人よりもあの2人の方が余程マズイのでは無いかと思える。特に軍曹は本当に根っからの軍人気質というイメージが強い。
 …………それだけでは無いのは、もう分かっているのだけど。

 「ランパートはそもそも行かないとか言ってたわね。……まぁ、必要ならレイスとワットソンにお願いすれば良いでしょ」

 「彼女、そういうの嫌がるんじゃないかしら。分からないけど」

 ツンとした風にそう言ったワットソンに少し驚くが、あの自由奔放なランパートとこれまたお嬢様気質なワットソンでは馬が合わないのも納得がいった。
 しかし間に挟まれているレイスはそんなに気にしていないのか、手に持ったスコーンを頬張っている。

 「バンガロールは大丈夫じゃない?彼女しっかりしているし」

 「……そう、よね」

 ラインラインはそう言うと、そのままカップに口をつける。
 確かにバンガロールは私が手伝わなくてもきっと問題ないだろう。そもそも彼女の正装は軍服なのだから、それを着ていけば別に間違いではない。
 その後、全く違う話題をワットソンが話し出したのだが正直私はどこか上の空で3人の話を聞き流していた。


□ □ □


 カツカツというヒールの音を響かせながらドロップシップ内をゆっくりと歩く。
 さして広くもない廊下には誰もおらず、目的地に辿りつくのはあっという間だった。
 そうして一枚の扉の前に立つと、そこに書かれた文字を確認する。
 【トレーニングルーム】と質素なプレートに刻まれたその部屋の前で、私は珍しく躊躇っていた。

 ドロップシップの端の方に作られたその部屋は、【ゲーム】に参加して肉体を酷使する事が当たり前な【レジェンド】にとっては必要不可欠な部屋であるためか、その辺の一流ジムと同程度の設備が整っている。
 私も気が向いた時はトレーニングに来るくらいで、そこまで活用出来ているかは微妙だがなんだかんだで使用はしていた。
 だから、夕食後に毎日彼女がこの部屋でトレーニングに励んでいる事も知っている。
 けれどこの部屋に入ってどうしようというのだろう。
 自分自身の行動が理解しがたかったが、とにかく私は軍曹ともっと親密になる方法をずっと考えていたのは確かだった。

 扉を開けるかどうかを迷っていると不意に内側から扉が開き、思わず一歩後ろに下がる。
 しかし扉から出てきたのは私が想像していた人物よりも遥かに大きな人物で、顔を上に向けると扉の前に立っていた私に同じように驚いたのかまん丸の目をしたジブラルタルがこちらを見ていた。

「よぉブラザー、扉の前に居るなんて思わなかったから驚いちまったぜ」

 丁度トレーニングを終えたばかりなのか、首からフェイスタオルを掛けてネイビーのTシャツと動きやすそうなカラフルなハーフパンツを履いているジブラルタルはすぐさま太陽のような笑顔を浮かべながらそう声をかけてくる。
 彼の片手には空になったプラスチック製のドリンクボトルが握られており、そのボトルには【APEX】と【ジブラルタル】のロゴが刻まれていた。
 どうやらファン向けに作成されたグッズを日常使いしているらしい、と別に知らなくても良い情報を知ってしまった。

 「トレーニングに来たのか?……と思ったが、その靴じゃ違うな」

 「ええ、まぁ……」

 「誰か探しているとかか?」

 こちらの姿をさっと見回したジブラルタルは明らかにトレーニング目的では無い恰好をしているのに気が付いたらしく、自分で言ったセリフを自分で否定した。
 そうして投げかけられた疑問に返す答えに困っていると、何となく察したのか私の肩に軽く手を置いてまるで悪戯っ子のようにニヤリと笑う。

 「アニータならまだ中でトレーニング中だ。何か言いたい事があるならサッサと言った方が良いぜ」

 「……素敵なアドバイスをどうも」

 そうして私の肩から手を外したジブラルタルは横を通り過ぎ、後ろ手で手を振って去っていく。
 そんな彼に毒気を抜かれ、肩を竦めてそう呟きつつトレーニングルームの扉をくぐった。
 ――――別になにかやましい気持ちがあるわけじゃない。
 そう自分に言い聞かせながら中に入るとジブラルタルが言っていた通り、黒いタンクトップにカーキのジョガーパンツを履いたバンガロールがベンチプレスに横たわりトレーニングに励んでいた。
 私の存在に気が付いたのか、上げていたバーベルをバーベル受けに戻すと横たわったままこちらに視線を向けてくる。

 「この時間に来るなんて珍しいわね」

 「んー、まぁね」

 「……どうかした?トレーニングに来たわけじゃないんでしょ」

 ジブラルタルと同じように私の足元に視線を向けたバンガロールがそう話しかけてくる。
 こんな事なら私もトレーニングウェアに着替えてくればよかったと後悔するが、ベンチプレスの近くに設置してあるエアロバイクに軽やかに横座りすると、三つ編みに編み込んだ髪の片方を手持ち無沙汰に弄る。
 とりあえず間を持たせる為に、余裕のあるフリをするのは得意だった。

 「見学よ、見学。軍曹さんの強さの秘密を探りにきたの」

 「ッフ……なにそれ」

 「私の事は気にしないでトレーニングに励んで頂戴」

 「貴女がそう言うなら気にしないけど」

 そう言ったバンガロールは中断していたトレーニングを再開する。
 女性が持ち上げるのはかなりキツイ重量のウェイトを軽々と持ち上げるバンガロールの引き締まった両腕を見ながら、その頬に伝う汗に気が付かれない程度に視線を向ける。
 あの悪魔から私を守ろうとしてくれた、そんな強くも気高い姿は私の所有欲をひどく刺激する物だった。
 最初は正直嫌な女だと思っていたし、バンガロールだって私の事をそう感じていただろう。
 けれど体を張って誰かに守られるという経験は、私にとっては特別な想いがある。愛する両親がそうしてくれたように。

 「やっぱり、そうやって見られると落ち着かない」

 暫くトレーニングを続けていたバンガロールは、苦笑しながらバーベルを置くと横たわっていたベンチに私に向き直るように座り直した。
 熱いのか、ベンチプレスの下に置いてあったドリンクボトルを手に取るとドリンクを飲んだバンガロールがボトルを片手に持ったままこちらを見上げてくる。
 流石にジブラルタルとは違って彼女のドリンクボトルはシンプルなステンレス製の物のようだ。
 そんな事を考えていると、ライトに照らし出された意志の強さを宿したブラウンアイがこちらの意図を探るように向けられているのを自覚しながら、ほんの僅かに視線を逸らした。

「……またアイツに何かされたの?」

「!……違うわ、そうじゃないのよ」

「てっきりその相談をしにきたのかと思った」

 少し張りつめた雰囲気だったバンガロールの空気が和らぐのを感じる。
 確かにあんな事があってからわざわざ二人きりで話をしに来るなんて、そう捉えられても可笑しくはない。
 この和んだ雰囲気の中でうまい具合に話を切り出そうと、急いで口を開く。

 「ほら、この間送られてきた招待状見た?」

 「招待状?……ああ、愉快そうなパーティーのやつ?」

 「そう。それで、貴女はどうするのかなと思って」

 「どうって?」

 皮肉めいたセリフでパーティーを揶揄したバンガロールにそう問いかけると、私の質問の意図が理解出来ていないのか首を傾げている。
 確かに私の言い方が良くなったかもしれないと顎に手を当てて、バンガロールを見つめる。

 「出席はするんでしょう?」

 「まぁ、初期から【ゲーム】には参加しているし、何かと顔を売っておいて損は無いからね」

 変なおべっかを言うのは苦手だからしないけど、と言ったバンガロールに内心ガッツポーズをする。
 ここまでいけば後はうまい具合に話を持っていけそうだ。
 私にとって女性と親睦を深めるにはメイクやファッションを使うのが一番うまくいく方法なのは、今までの経験上よく分かっている。

 「良かったら私がスタイリングしましょうか」

 「え?」

 「貴女って素敵なのにあんまりメイクもしないでしょう?勿体ないなと思ってたのよ」

 そっと笑ってそう言うと、驚いたような表情をしているバンガロールがすぐにその表情を変えて考え込んでいるのが分かった。
 そんなに考えさせるような事を言っただろうかと思っていると、困ったように笑ったバンガロールが静かに呟く。

 「……気持ちはありがたいけど、必要無いわ」

 返されたセリフが一瞬頭の中に入ってこない。私の中で断られるという選択肢が無かったからだろう。
 気持ちが近くなったような気がしていたのは私だけだったのかもしれない。
 喉奥が微かに震えるのを感じながらも、触れていた三つ編みの先端を後ろに流すと座っていたエアロバイクから降りる。

「……そうよね、余計な事言ったわ。無かった事にして頂戴」

 動揺を悟られないように、静かに笑ってそう言うと何か言いたげな顔をしたバンガロールがこちらを見ていた。
 けれど私は彼女の視線から今度こそ逃れるようにそそくさとトレーニングルームを出ていく。
 別にやましい気持ちがあったわけじゃない、そう思っていた癖に断られるなんて思ってもいなかった自分に嫌気がさす。
 シクシクと胸の奥が痛むような感覚はあまりにも久しぶり過ぎて、どう対処していいか分からなくなる。
 けれど、緩く噛み締めた唇が痛む感覚だけはハッキリとしていた。
 これじゃあまるで失恋してしまったようだ、と自分で考えて落ち込む自分にまた面倒くささを感じる。
 そんな気持ち全てを押し潰すように床をヒールで踏みしめながら来た時の倍の速度で部屋へと戻る道を歩んだ。


□ □ □


 ホテルのラウンジにある柔らかな布張りのソファーに腰掛け、手に持っている小さなハンドバッグに入れていた通信端末を覗き込んで時間を確認する。
 どうせ同じ会場に入るのだからと思っていたのだが、ライフライン達から一緒に入口で待ち合わせて会場入りしないかという連絡が来ていたので『了解』と返事をしたのが今朝の事だった。
 待ち合わせの時間よりも少し早く着いてしまったのでライフライン達からはまだ連絡が来ておらず、磨き上げられたガラスに映った自分の姿を確認する。

 真っ赤なシルクの生地に黒のレース素材を使用し、裾にはスパンコールをちりばめたデコルテとバックが大きく開いており、そうして腿までスリットの入ったベアショルダーのロングドレスは自分の体にピッタリとフィットしている。
 このお気に入りのショップでは何着もオーダーメイドで頼んでいるものだから私のサイズや好みを熟知しているのだ。
 どうせ買う時間もあまり取れないからと、シーズン中に店長に連絡を取った所、快くオーダーを引き受けてくれたのはありがたかった。

 そして普段は三つ編みに編み込んでいる髪も全ておろし、ランダムに巻いてスタイリングをして貰ったからか【ゲーム】の時とは雰囲気が違う自分が映っていた。
 赤いドレスに合わせて身に付けた大粒のルビーとダイアモンドをちりばめたコレクションの一つである最高級のネックレスに爪先で触れながら、近くを通り掛かる男たちの視線が浴びせられるのを無視する。
 そんじょそこらの男たちに視線を向けられるのはとっくに慣れ切っていた。

 逆に早く着いてしまった事を連絡した方が良いかともう一度端末をハンドバッグから取り出すと、バックの底に入れておいた新品のリップが目に映り込んでくる。
 結局あの後バンガロールが何かと声をかけてはくれたが、どうしても私が素直になれなくて彼女につれない態度を取ってしまった。
 それのお詫びに彼女に似合いそうなリップを購入したものの、今日だって上手く話せるかどうか微妙な所だ。
 小さなため息を吐きながら手に持った通信端末でライフラインに短い連絡だけ入れると、もう一度バッグに端末をしまい込んだ。

 (どうしてこんなに意地っ張りになっちゃったのかしら)

 そういえばレイスとワットソンは可愛いドレスを買えたのかな、なんて事をぼんやりと考えていると一台の送迎車がホテルの前に到着したのが見えた。
 もしかしてあの3人かも、と視線をガラス越しに向けると、すらりとした長身の女性が車から降りてくる。
 こんなにスタイルの良い女性なんてそうそう居るモノじゃない。思わず目を奪われるのを感じながら、離れた場所に居るその相手を観察する。

(?……なんか見たことある気がするのよね)

 裾の広がった黒いパンツドレスを着こなしたその女性がホテルの自動ドアを通り抜け、真っ直ぐに座っているこちらに近づいてきて初めてその女性がバンガロールである事にようやく気が付いた。

 「ローバ、どうしたのこんな所に一人で居るなんて」

 開いた口が塞がらないとはまさにこの事だと自分でも思うくらいに間抜けな表情をしているのだろうと思う。
 しかしそんな事が気にならないくらいに私の目の前に立つバンガロールは【完璧】だった。
 胸元がクロスしているパンツドレスに似合うオレンジカラー中心のメイクと、顔周りを彩るようにつけられた大振りの金のシンプルなイヤリングに揃いのバングル。
 手元に持った黒のクラッチバックに、差し色なのか足元は初めて履いている所を見たオレンジ色のヒールパンプスを履いており、いつもより少しだけ高めのヒールを履いている私よりも大きいだろう。
 正直、街中で歩いていたらプロのモデルだと言われたって信じるくらいにキマっている彼女は私の表情に気が付いたのか、ふ、と満足そうに笑った。

 「そんなに見つめられたら穴が開きそう」

 「…………貴女だって分からなかったわ」

 「私も最初座ってるのが貴女って分からなかったわよ。……髪おろしてるのも似合うのね。可愛いわ」

 さらりと言ってのけられた言葉に頬が熱くなるのを感じる。
 こんなのは反則だろう、戦闘のプロフェッショナルがオシャレをすればモデル級だなんて聞いてない。
 私が返す言葉を探している内に、嬉しそうな顔をしたバンガロールが言葉を続ける。

 「それにしてもこんなに驚いて貰えるなら久々にメイクした甲斐があったわ」

 「なんで黙ってたの、目が飛び出すかと思ったじゃない」

 「黙っていたわけじゃないわ。ただ、貴女が私の事をメイクのメの字も知らないと思ってそうだったから驚かせようと思って」

 ニヤリと戦闘時によく見せる不敵な笑みを口端に乗せたバンガロールに、胸が確かに高鳴った。
 この軍曹さんは私よりもずっと上手で、次から次へと新しい驚きをもたらしてくれる。
 自分の所有欲が刺激される相手は久々の事で、名のある女盗賊としての腕が試されている気さえしてくる。
 勝ち負けなんてモノは無いけれど、恋の駆け引きは得意な方だからこのままやられっぱなしは性に合わない。

 私は自分のハンドバックから新品のリップを取り出すと、ゆっくりと立ち上がり近くに居るバンガロールに顔を近づける。
 そのままクラッチバッグを持っていない方の手を両手で包んでその掌に持っていたリップを渡す。
 そして、片手をあげると驚いているバンガロールの頬を柔らかくつつく。

 「……今の貴女のリップも良く似合ってるけど、これ、あげるわ。冷たくしちゃったお詫びよ」

 香水は振っていないのか、いつも通りほんのりと硝煙の香りがする彼女に私のとっておきの香水の匂いが纏うのを感じながら至近距離でそっと笑いかける。
 目を細めたバンガロールに満足して、静かに離れると吐息を洩らしたバンガロールは掌に渡されたリップに視線を向けた。

 「わざわざ買ってきてくれたの?」

 「私の良く使ってる所の新作だから被ってないと思うわ」

 「そうね。持ってないやつだわ。ありがとう」

 「どういたしまして」

 そんなやり取りをしていると、私のハンドバッグから小さな電子音が聞こえる。
 中にある通信端末を取り出すとライフライン達からの連絡が入っていた。
 もうすぐ着くというその連絡に返事を返していると、目の前のバンガロールが首を傾げたので説明をする。

 「ライフライン達と待ち合わせしてたのよ。もうすぐ彼女達も来るって」

 「あぁ、そうだったの。どうせ会場で会うでしょうに」

 「そうなんだけどね。貴女も一緒に待つ?」

 「私は先に行くわ。……これもつけ直さないとね」

 「もうつけるの?」

 「貴女からのプレゼントだから、すぐ試したいの」

 手に持っていたリップを大切そうにクラッチバッグにしまい込んだバンガロールはそう言って手を振ると颯爽と歩き出してしまう。
 彼女のすらりとした背中を見ながら、私は先ほどまで座っていたソファに深く腰掛けるとそのまま顎に手を近づけて長く深い息を吐く。
 彼女の立ち去る間際に見せた嬉しそうな笑顔は今までに見たどの宝石よりも煌めいてみえた。
 気が付かない内に随分と自分も重症化してしまっていたらしい。

 (こんな気持ちになるなんて本当に久しぶりだわ)

 勝手ににやける口元を抑えながら、ライフライン達が来るまでにこの感情をどうにか収めなければと3人がやって来るであろうホテルの入口に視線を向けた。

-FIN-






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