白くけぶる視界の中、ヒューズはこの場所に来てから5本目のリトルシガーに火を点す。
フリントホイールが擦られ、シュボという着火音を立てた鈍色の古代遺物めいたジッポーは火を点けるという役割を終えると、キン、という硬質な音と共にその蓋を閉められヒューズの掌の中に収まった。
年代物のジッポーは随分と使い込まれてはいるものの、そのぶん、手入れが施されている為に吸い付くように掌によく馴染む。
そんな気に入りのジッポーを掌で揉み込むようにしながら、【APEX】をサポートする為の施設の端の方に小さく取られたスペースに建てられた喫煙所の中で、唇から二酸化炭素とタールの混ざった吐息を洩らしたヒューズは自身のシガーを持つ義手に赤褐色の隻眼を向けた。
今日は一段と焦らすような痛みだ、と持っていたジッポーをボトムスのポケットにしまい込んだヒューズは知らず知らずのうちに舌を打つ。
そうして持っていたシガーを唇に挟み込むと、左手で右肩を労るように擦ってその痛みを散らそうと試みるが、余り効果は期待出来そうにない。
ヒューズはジワリと浮かぶ額の汗を誤魔化すように唇にあるシガーを今度は左手で取り、焼け切れた紙が作り出していく灰を喫煙所の灰皿に落とした。
激しい痛みというよりも、体内でじくじくと血液を巡るような疼痛は逆に神経を磨耗させる。
「……くそ……」
苛立ちをぶつけるようにそう一人囁いたヒューズは、またそのシガーを口元へと運ぶ。
このハイテクノロジー時代に紙製のシガーという極めてローテクノロジーな物質など好んで喫う者は少ない。
しかし、ヒューズにとって生まれ育った星であるサルボでは、時にはそんなシガーが金品の代わりに受け渡される事など多々あった。
荒廃による暴力と領地争い、そうしてそれ以外に大した娯楽も無かった無法の地では、逆にそんなレトロなシガーを嗜むのも数少ない娯楽の一つであったからだ。
勿論、そんな空間で長く暮らしていたヒューズにとってはシガーやマリファナ、そうしてニトログリセリンの甘い匂いなどは子供の頃から違和感すら覚える事のない馴染みのあるモノであった。
ヒューズにしてみれば、大した高揚感も得られない粗悪なドラッグなどよりも、アリーナでの決闘や爆弾を自分の計算通りに寸分の狂いも無く爆発させる事の方が余程依存性の高い娯楽であった為にそこまでそんな物にハマり込む事もなかった。
だが、シガーだけはどうしても喫いたくなる時がある。それは不意に訪れる幻肢痛を収める為だった。
これまでの戦闘や決闘でヒューズの全身にはそれこそ数えきれない程の古傷が残されており、それらの傷に関してヒューズは基本的に全て親愛をもっている。
ボーンケージにて無敗を誇り、【サルボの王者】とまで呼ばれたヒューズにとっては、身体に刻まれた傷の多くは自分が強者である事を自覚させてくれるものだったからだ。
だが、元親友であるマギーに持っていかれた右腕だけは、忘れた頃に嫌になる程の痛みを叫び出す。
過去との決別の証といえば聞こえはいいが、幼少の頃から互いを支え合い、一番の相棒であった彼女との別れを決定的な物としてしまったからだろう。
これで良かったんだ、と自分を納得させるようにいつもそう思い続けながらも、失われてしまった友情と思い出がそれらをけして忘れないでくれという主張をするように、存在しない右腕を痛ませるのだ。
そんな時、ヒューズは自分自身を宥める為にシガーを喫ってはその痛みを和らげようと試みる。
ひとたび【ゲーム】が始まってしまえば、試合への興奮や銃火器から発せられる硝煙の匂い、そうして勝つ事への欲求でそんな痛みなどは感じている暇など無くなる。
だから今日も早く【ゲーム】が始まるのを待っているのだが、開始時刻までまだ一時間ほどかかりそうだった。
ヒューズはどうにか痛みの引いてきた右腕を見ながら、もうフィルター付近まで喫いきったシガーを灰皿に押し当ててもう1本シガーをケースから取り出す。
葉と紙の燃える濁ったような匂いは戦いの匂いに似ている。そうして肺奥を満たす苦い煙は口の中に入り込む血液と泥の味に良く似ていた。
戦いの最中だけは、余計な事を何も考えないでいられるようにこの肉体は出来ている。
ひたすら人と殴り合い殺し合って、人生の殆どを傭兵として生きてきたヒューズはそんな自分の単純明快な肉体を気に入っていた。
再び掌の中に持ったジッポーでシガーに火をつけると、今度は先ほどまでのシガーよりゆったりと煙をくゆらせる。
本来ならこんなに短期的に連続でシガーを喫う事は少ない。
それはシガー自体が希少品であるのもあったが、そういう嗜み方はあまり好みでは無かったからだ。
しかし、この時ばかりはヒューズのそんな美学も一時的に取り下げられる。
(……こんなの知られたらまた叱られそうだ)
ふと、そんな事を考えてヒューズの口端に笑みがのぼる。
するとガラスで出来た自動ドアの向こう側から見知った人物が真っすぐに喫煙所にやってくるのが見えて、ヒューズは思わずその人影に目を向けた。
まさに自分を叱り付ける事が出来る唯一の人物がこちらに向かってきていたからだ。
そんなヒューズの視線をガラス越しに受け止めたらしいブラッドハウンドは、そのままドアのボタンを押して喫煙所の中に足を踏み入れる。
「ウォルター、やはりここに居たのか」
ガスマスク越しのくぐもった声でブラッドハウンドはそう言うと、喫煙所の奥の方に居たヒューズにゆったりと歩いて近づく。
その足運びは無駄が無く、戦場を駆け巡る事に慣れた洗練された戦士である事が良く分かる。
排気が間に合わずに視界がうっすらと白くなる程の煙と、ヒューズの前に置かれた吸い殻の数をちらりと見たブラッドハウンドは不服そうな音色を隠す事無く声を上げた。
「そろそろミーティングの時間だ。……それから、お前がこういう物を嗜むのは自由だが余り喫い過ぎるなと忠告した筈だが」
ブラッドハウンドの顔面を覆うガスマスクと、その上に被せられた帽子の脇についた装飾がユラユラと揺れ動いてはシャラリと涼しげな音を立てる。
ヒューズにとって一番大切な存在であるブラッドハウンドの言葉は、けして嫌味などでは無くヒューズの体を心配しているからこそ出てくる言葉なのはよく分かっていた。
唇に挟んでいたシガーを指先で挟んで、口腔に溜まった煙をブラッドハウンドに当てないように横に吐き出したヒューズは目の前の恋人に肩を竦めてから笑いかける。
「呼びに来てくれてありがとな。ブラハ。それから、その忠告は良く理解してるさ……俺もバカじゃない。体に悪いモノくらい知ってる」
「……とてもそうは思えないが。既に全身に匂いが染み付いている」
匂いのスペルを敢えて変えて言う特有の話し方に安心感を覚えながら、苛立ちを隠さないでそう囁くブラッドハウンドの前で手に持ったシガーを揺らしたヒューズはまた唇にそれを挟み込む。
「無性に口寂しくなっちまう時があるんだ。さっきつけたばかりで勿体ないし、もうこの1本で終わりにするから許してくれ」
そう言ってフィルターを吸い込むヒューズの前で徐にガスマスクの口を覆う部分を片手で外したブラッドハウンドは、ヒューズの唇から不意にシガーを指で攫い取るとガスマスクの下に隠れていた張りのある唇にそのシガーを銜え込んだ。
余りにも流れるようなその動作に呆気に取られたヒューズが止める間も無く、ふぅ、と上空に白い煙を吐き出したブラッドハウンドはそのまま短くなりつつあるシガーを灰皿に押し付ける。
そのまま何事も無かったかのようにヒューズに視線を向けたブラッドハウンドは、これで満足だろうと言わんばかりに肩を竦めた。
「勿体ないなどと言うから、私が終わらせてやったぞウォルター」
「ハ……」
ニヤリとした笑みを浮かべたのを隠さないままのブラッドハウンドに、思わずヒューズの唇から吐息交じりの笑みがこぼれ落ちた。
コイツはいつも真面目で主神への信仰心に篤く、戦闘では無類の強さを誇る勇敢な戦士だ。
そのクセ、急に突拍子もない子供のような姿を見せたり、信仰心の篤さ故に、心が深く傷つき脆くなったりもする。
ある意味で二面性のあるその姿は、いつだってヒューズにとっては尊敬に値する人物であるのと同時に、愛らしさから強く抱きしめてやりたくなるのだ。
ゴーグル越しでその鳶色の瞳は今は見る事は叶わないが、きっと唇に浮かんでいる悪戯っ子のような笑みと同じく目を細めて笑っているのだろう。
それならばこちらはこちらで少しばかり意地悪をしてやろうと、掌のジッポーをボトムスのポケットにしまい込んだヒューズはブラッドハウンドの肩に手を回して笑いながら囁く。
「……ブラハ。お前、今のは間接キスだけどそれは良いのか?」
「……そんなつもりではない」
途端にスイ、と顔を横に向けたブラッドハウンドの頬はほんのりと赤みがさしており、今までそういう事に関心の無かったブラッドハウンドはこういう話題を出されるとすぐに照れてしまう。
自分からやったクセに、とヒューズは思うものの、余りこういう話題でブラッドハウンドを弄ると怒らせてしまうのは分かっているので肩に回した手に軽く力を籠めた。
「俺としては間接キスするより、ちゃんとキスする方がいいんだけどなぁ」
その指先の思惑に気が付いたのか、ヒューズの方に顔を向けたブラッドハウンドにヒューズが囁くと、一度思案するように顔を空に向けたブラッドハウンドは手袋をしたままの手で肩に触れている指先に手を重ねた。
「キチンと私の忠告をこれから守れるのなら、……構わない」
「……1日2本までってやつか」
「そうだ。本当は止めて欲しいと思っているのだがな」
「……うーん」
ブラッドハウンドから提示された交換条件に、丁寧に手入れを施された口ひげを撫でるように手を添わせたヒューズは悩む。
確かにこの場でキスをしたいというのはある。そもそもブラッドハウンドはこういう行為を余りしたがらないからだった。
したがらないというのも嫌だというよりは、恐らく自身の信仰心からきているものだろうと分かっているヒューズにとって、無理強いをさせる気は全くない。
それはブラッドハウンドという人間が自分自身にとって好ましい存在であるからこそ、本人の嫌がるような事はしたくなかったからだ。
そうして元々、サルボで強者として君臨していたヒューズを求める者は男女関係なく多く、今となってはそういう行為に関して慣れと飽きもあった。
行為云々よりもただ自分の隣でブラッドハウンドという美しい人間がその心を傷つける事無く楽しく過ごせればいい。
過去のマギーとの関係のように、次第にお互いを傷つけあって傍に居られなくなる事だけは絶対に嫌だった。
性別などの括りに囚われる事なく、ただこの【ゲーム】の中だけではない【人生】という長い戦いをブラッドハウンドと生き抜いていく事が出来るのなら、それ以外には必要としていない。
ただ、自分の幻肢痛の抑制になるシガーを止められるのは苦しい。
そう思っていると不意にブラッドハウンドが囁くように声をあげた。
「そんなに口寂しいと思うのなら……私を呼べは良いだろう」
「えッ」
そんな言葉に思わず声を上げたヒューズをゴーグル越しの目で見つめたブラッドハウンドはさらに言葉を紡ぐ。
「……私ではお前の力になれないか?」
続け様のその言葉はヒューズにとってはいきなり投下された爆弾と同じくらいの威力を発揮した。
こんな殺し文句を言われて、頷かない男は居ないだろう。
焦る思いを抑えつけるようにしながらヒューズは肩に触れていた手を動かして、ブラッドハウンドの薄い唇に軽くキスを落とす。
これまでのヒューズの経験からすれば、幼子のお遊びのようなキスではあったが、目の前のブラッドハウンドの柔らかな唇は今までに見たことが無いくらいに魅力的なものに思えてならなかった。
「ウォルター、……私はまだ答えを聞いていないのだが」
「お前とのキスより魅力的な物なんて無いさ。勿論、お前自身もな、ブラハ」
「……全く……回答する前に報酬を奪ってからそれを言うのは狡いのではないか?」
キスの後に顔を離したヒューズに向かって、外していたガスマスクを戻したブラッドハウンドは拗ねたようにそう囁きを返す。
確かに報酬を得てからそんな甘い言葉で絆すのは、狡いと言われても仕方がないだろう。
しかし欲しいと思った物はついつい手が出てしまう性分なのだと含み笑いをしながらヒューズはそれに答えを返した。
「生憎、生まれた時から躾のなってないクソガキだからよ。目の前に美味そうな菓子をぶら下げられるとすぐに噛みついちまうんだ……可愛いだろ?」
「……ならば私がキチンと躾してやろう。なに、案ずる事はない。獣の調教は得意分野だ」
しれっと返された冗談の応酬に、結局お互いに笑ってしまう。
これだからこの狩人様は面白くて堪らないのだ。
「さぁ、もうそろそろ行かないと。皆を待たせてしまっている」
「そいつはまずいな」
そう言われて、ブラッドハウンドが自分を迎えにきてくれた事を思い出したヒューズは、急いでドアのボタンを押し、外に出ていくブラッドハウンドを追いかける。
そうしてもうカケラの痛みもない右腕に気がついて、やはり自分の単純明快な身体は悪くないとひっそり一人笑った。
-FIN-
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