この世界は巨大な棺桶だ。
誰も彼もそれに気が付かず、怠惰に生きてはその呼吸を無駄にする。
そうして私自身もまた、醜い現世という棺桶の中で、残り僅かな生にしがみつこうともがく哀れな人間の一人だった。
まだ自らの行いたい研究も書きたい論文も全て終わってなどいない。
良い人生だったと言えるような道も辿っていないこの身体は、こちらの意志など関係なくその寿命を縮めていく。
どれだけ高度な治療を行ったとしても、病魔を見つけた時にはすでに手遅れで、掠れた喉と弱った肺は嫌が応にもくぐもった咳を発する。
"末永く健康に生きる"というそのたった一つの願いでさえも、私のこの肉体には酷く難しい事柄になっていた。
きっと私の今までの過去を知る者が居たとしたら、これは神の断罪だと思われるのだろう。
けれど、自分の行いや性格を今更どうこう思うつもりも、改善する気持ちも毛頭なかった。
"他人"という被験者が私にどのような感情を向けていたとしても、それはこちらにはまるで関係がない事だったからだ。
清潔に整えられた自宅のベッドの上で、肺奥からこみ上げる咳にその思考は中断させられる。
今日は本来【APEX】のシーズン中で、私もいつも通りその【実験】に参加する予定だった。
しかし、朝の投薬を終えてからも激しい咳が止まらず、肉体が異常なだるさを訴えていたので急遽休みを取る事にした。
日々、命を削り取られていくような感覚は興味深さと共にジワリとした恐怖を覚える。
私の使用するNoxガスで嬲り殺される被験者はきっとこれと同じような感情を得るのかもしれない。
まぁ、私のガスはこれよりももっと呼吸器官に作用するものだから、息苦しさはこちらの方がマシかもしれないが。
そんな事を考えながらベッド脇に置かれたサイドチェスト上のテーブルランプの明かりを点けてから、そこに置かれた時計を確認する。時刻は18時53分。
丸一日ほぼベッドの上に寝ていたお陰で、だいぶ体調もマシになってきたのを理解しながらも、立ち上がるのが面倒になりそのまま横になっていた所為でだいぶ時間が経っていた。
朝から水を摂っていたくらいで食物を口に入れていないのもあり、僅かに空腹を覚えている。
何か食べられる物があっただろうかとキッチンに置かれた冷蔵庫の中身を思い出すが、元々余り食事に興味が無い事もあり、碌なモノも入っていなかった筈だ。
今から何かを購入しにいくのも面倒で、どうせならこのまま朝まで眠ってしまおうかと目を閉じかけたタイミングでマンションの呼び鈴が鳴っているのに気が付いた。
この家に誰かが来る事など実験の材料を購入し、それを配達する宅配ロボットが来る時くらいしかない。
何か頼んでいた物があっただろうかと脳内で記憶を確認しながら、綿で出来たベージュのパジャマを纏った重たい肉体をどうにか動かしてベッド脇に置いてある室内用スリッパに足を入れる。
元々部屋が汚くなるのが嫌で、このマンション内では初めから土足で入ることは無い。
ペタペタという音と共に廊下を歩んで、ダイニングに向かうと玄関を映すモニターを見る。
するとそこにはまさかの人物がどこか不安げな表情で立っており、思わず目を見開いた。
(……何故、コイツがここに居る)
その男は【実験】の時の恰好とは異なり、シンプルな白いワイシャツとデニム姿ではあったが、自らの義弟であるクリプトだった。
男の両手には何かが抱えられており、こちらがすぐに出ない事を見越しているのかジッとその場で留まっている。
流石にいつまでもそんな場所に居られても困ると私はさらに足を動かして直接、玄関まで向かうと鍵を解錠してドアを開けた。
やはりそこにはモニターに映ったままのクリプトが立っており、その目はどこか落ち着かないように動いている。
「……何の用だ。どうしてここに居る」
「俺だって来たくなかったさ。でも、ナタリーが……」
ナタリー、と下の名前で彼女の名を呼んだ男は、マズイと思ったのかその口を閉じて腕の中にあるビニール製の袋を差し出してくる。
袋の意味が分からずにさらに男とその袋を交互に見つめると、気まずそうに視線を逸らしたまま男が小さな声で呟いた。
「……お前が今日、休んだ事を気にしていた。差し入れを持っていくべきだと」
「それで貴様がわざわざ来たのか?」
「本当は二人で行こうと彼女は言っていたが、……それは、……お前が嫌がると思った」
そっと顔を上げた男の上目遣いと共に発せられた言葉に、確かにこんな寝間着のまま出迎えなければいけない状況で、この男と彼女の二人で来られたら苛立ちが倍増していただろうなと思う。
「貴様にしては妥当な判断だな」
「……さぁ、早く受け取れよ」
ガサリと音を立てて半ば押し付けるように受け渡されたそのビニール袋の中身を確認すると、栄養ドリンクとスポーツドリンク、軽く加熱をすれば食べられる食品などが何種類か入っているのが分かった。
本当に病人に対する差し入れらしい差し入れだとマジマジと袋の中身を見ていた私に、目の前の男は癖なのかデニムのポケットに手を入れつつ気まずそうに呟く。
「先ほどここから一番近いストアで買ったばかりの物だ。念のため、購入した際のレシートもいれてある。毒は入っていない」
「……別にそんな事は疑っていない。それにこの私を毒殺しようとする愚か者はそうは居ないだろう」
毒や農薬関係のプロフェッショナルである私に毒を盛るというのは容易い事ではない。
もしも本当に殺したいと願うのならば、他にいくらでも方法は存在する。わざわざ毒を選ぶなどナンセンスだ。
そんな事を思っている間に、目の前の男はそのままそっとドアから離れて帰ろうとしているのか動き出す。
私は自分でもよく分からないまま、その男に向かって声をかけていた。
「待て」
「なんだ? ……もう俺の用事は済んだ」
「コーヒーでも出してやる。上がっていけ」
こちらのそんなセリフに怪訝そうな顔をした男を黙ったまま見つめていると、困ったような表情を見せた男はこちらが押さえていた玄関ドアを代わりに片手で押さえてゆっくりと中に入り込む。
バタン、という音と共に閉められたドアの前で自分よりも遥かに華奢に見える男が、躊躇うようにしているのを無視してダイニングへと続く廊下を歩みながら背後に居る男に声をかけた。
「鍵をかけておけ。土足は厳禁だからそこで靴を脱いで入って来い」
その言葉を黙って聞いていたらしい男がドアに鍵をかけた音を聞きながら、私はどうしてこの男を招き入れたのだろうと改めて思う。
――――正直言って、私はこの男が嫌いだった。
それは天才であるミス・パケットの障害になりえるからというのもあったが、その前から私は自身の母であるミスティックがこの男を連れてきた時から奴の中にある何か言い知れぬ"強さ"のようなモノを苦手としていた。
路地裏で隠れ暮らしていたドブネズミのような人間だった癖に、絶対に闇の中から這い上がってやるという意志の強さ。
この男とほぼ同じタイミングでやってきたらしいミラという女もまた、似たような瞳をしていたが、コイツ程の感情は無かったように思う。
体内に宿る生命力とでもいうのだろうか。どれ程に強く踏みつけ、ぐちゃぐちゃにしたとしてもこの男の中の生命のともし火はきっと最後まで消えないのだろう。
そんな風にさえ感じられるこの男の意志を崩して、粉々にしてやりたかった。
男が膝をついて、絶望に侵されるその瞬間をこの目で見てやりたかった。
けれどそれは上手くいかずに、コイツは周りとの関係性を強めていき、私は自らの死をさらに強く感じる。
「……そこの椅子にでも座っていろ。すぐに戻る」
「コーヒーなら、俺が淹れようか……?」
「貴様は私の家の物の場所も分からないだろう。良いから座っていろ」
静々とまるで死刑執行を待つかのように私の後ろに付いてきた男に、ダイニングに置かれた木製テーブルの横にある椅子を指さす。
まさか本当にコーヒーを淹れられると思っていなかったらしい男はおずおずといった様子でこちらにそう伺いを立ててきたが、今日この家に来た相手にキッチンの物の場所を伝える方が余程面倒だった。
私の言葉にそれ以上の言葉を発さなかった男を置いて、ダイニングに備え付けられたビルドキッチンに立つと手に持っていたビニール袋の中身を冷蔵庫に入れてから、手早くコーヒーマシンに豆をセットしてコーヒーを抽出する。
ごぽごぽという音を立ててサーバー内に滴り落ちていく黒い液体を見ながら、いつも自分が愛用している数式の書かれたマグカップと殆ど使用される事の無い予備のマグカップを食器棚から出し、両方とも軽く水で濯いでからカップの中に出来上がったコーヒーを注いでいく。
昔のようにミルクと砂糖は必要だろうか、と内心思うが、もう男も小さな子供では無いのだからブラックで飲めるだろう。
私はキッチン台の上に置かれた二つのマグカップを持つと、指示したとおりに大人しく座っている男の向かいにある椅子に座りつつ男の前に予備の方のマグカップを差し出した。
「……ありがとう」
囁くように礼を言った男はそれでもすぐには口をつけない。
その様子に、当然だろうなと思いながら私は自らのマグカップに入ったコーヒーに口をつけた。
そうして終始落ち着かない様子の男に向かって、マグカップを一度揺らしてから声をかける。
「私が毒を仕込めるほどの時間は無かった筈だぞ。安心して飲むと良い」
「あぁ、……そう、だな……」
私の声かけにようやく動き出した男は、そう言って恐る恐るマグカップに口をつけた。
いつもよりもさらに小さく見えるその肉体に、まるで檻に容れられた実験用のマウスを思い出す。
こちらの掌で何をされるか分からずに怯えて竦み、何もできないまま屠られる小さなネズミ。
「……今日の試合はどうだったんだ」
「え、……あぁ、……今日はレイスとバンガロールとランパートの部隊がチャンピオンを獲っていたな」
「……そうか。君は?」
暫く互いに黙ったままコーヒーを啜っていたが、ついにこちらからそう問いかけると男はゆっくりと語りはじめる。
両手で包むように持ったマグカップを擦りながらも、どうにか言葉を紡ごうと懸命にしている様子は少しだけ可笑しかった。
敢えて貴様、では無く君、という呼び方をしたのも効いているのかまるで昔に戻ったかのように目を伏し目がちにしたままの男は少しだけ緊張が解けてきたらしい。
「俺? ……俺は、パスファインダーとローバと同じ部隊だった。結果は……3位だった」
「2位は誰だったんだ」
「2位はブラッドハウンドとレヴナントと、ジブラルタルだった。……互いに接戦だったが、俺達はレヴナントのトーテムでやられてしまった」
確かにあの忌まわしいロボットのアルティメットは強力な上に、面倒な能力をしている。
私のガス缶を苦手としているらしいあのロボットは逆にこちらを面倒な相手だと認識しているようだったが、それはお互い様だろう。
「……それは残念だったな」
ポツリと言った言葉に、頭を上げた目の前の男の表情が複雑そうに一瞬だけ歪む。
一体、何を考えているのだろう? そういう目をしている。
私自身、確かに自分でも可笑しな発言をしているなと理解はしているが、それでもそう思った事をただ口にしただけだった。
そんな事を考えていると、不意に肺からくぐもった咳が零れ落ち、持っていたマグカップをテーブルに置いてから口元を抑える。
途端に慌てた様子の男が素早く椅子から立ち上がったかと思うと、こちらの方に近づいてくるのが分かった。
同情など必要ない。そう思って男を見つめた私の視線を理解したのか、近づいてはきたもののすぐにこちらには触れてこない男が様子を窺っている。
しかし、ゴホゴホと身体に響くその咳はなかなか止まらずに、流石にこちらに顔を寄せた男が私の背にその片手を触れさせた。
労わるような手付きで背中を擦られ、嫌悪感と共に人肌の温かさを感じて、眉を顰める。
何故、この男は憎い筈の私にこうまで躊躇わずに触れられるのだろう。
私にはコイツの考えている事も、そうして自分自身の感情でさえもよく分からなくなっていた。
「休んだ方がいいんじゃないか? ……俺ももう帰るから……」
「……そうだな」
「寝室は、あっちか?」
ゆっくりと立ち上がった私を支えるように手を触れさせたままの男は、ベッドまでこちらを送っていくつもりらしい。
本当ならその手を振り払う事も出来た。しかし私は敢えて男に支えられるようにしながら寝室までの道のりを緩慢な動作で歩んでいく。
そうして先ほどまで眠っていた寝室に戻ると、つけっぱなしのテーブルランプと捲られたままの掛け布団がベッドを出た時のままになっていた。
まさかこの男が来ていると思わなかったのでまたすぐに戻って来るだろうと、そのままにしておいたベッドにそっと横になる事を促される。
「……薬は? もう飲んだのか?」
「朝と寝る直前に投薬している。まだ時間では無いからな……後ほど飲む」
「そうか。……マグカップだけは洗っておくから、気になるようならまた洗い直してくれ」
そう言って横になった私の上に捲れていた掛け布団をかけようと手を伸ばした男の腕を逆に掴んで、ベッドの上に引き倒す。
一瞬何が起こったのかを理解出来ていない様子の男は慌てたように暴れ出すが、その前にこちらの両腕が後ろから男の首と腹に回り、その動きを制する。
どれだけ体調が悪くても、これだけの体格差があればその程度の抵抗など無意味だ。
首に回していた腕に力を込めてその首を緩やかに締め上げると、益々暴れ出す男の金属デバイスが取り付けられた耳元に顔を寄せて静かに囁いた。
「暴れるな……、なに、お前を殺そうとしているワケではない」
「だ、ったら、一体何のつもりだ……!」
「お前が今日私の家に行くことをミス・パケットに話しているのだろう? その上でお前を私がこの場で殺すような愚策を実行すると思うか?」
こちらのその言葉に、ある程度納得したのか暴れる動きを微かに緩めた男は黙ったまま考え込んでいるようだった。
確かに、こちらの言動は男にしてみれば無意味で理解出来ない、ただただ恐怖でしかない行動だろう。
私自身もまた、同じようにそれはしっかりと理解出来ていた。
その上でこの男を捕らえたのは、やはり私が男の事を嫌っているからだろう。
奥深くまで注ぎ込む為にさらに男の耳に顔を寄せて、ゆっくりとかみ砕いて雛に餌を与えるかのように言葉を発する。
「……懐かしいとは思わないか?」
「なに……を……」
「君は昔から私を恐れ、近づく事は殆ど無かったが……」
そう言いながら腹に回していた腕を動かして、男の着ているワイシャツをデニムから引き出す。
「……初めて君が精通した日、何も分からない君は唯一の同性である私の寝室に泣きながらやってきたな」
「や……めろ……」
「母にも、ミラという女児にも相談出来ない。体が可笑しくなってしまったんだと……」
「止めろと言っている!」
掠れている声でそう叫んだ男は、暴れるのを止めて、その身を小さく震わせている。まるであの日の踏襲のようだ。
子供ながらに必死に助けを求めてきたこのガキを、私は何度か慰めてやった。
ワケも分からずにただ助けて欲しいと夜な夜なやってくる哀れな子供。
あの時は放っておくのも面倒で、仕方なく触れてやっていたのだが、いつしか自分で処理の仕方を覚えたのか部屋にやってくる事は無くなった。
もうかなり昔の事で、覚えていないかもしれないと思っていたが、この男は忘れていなかったようだ。
「テジュン、……何を恐れる? 過去のちょっとした思い出話をしているだけだろう」
敢えて男がひた隠しにし続けている本名を呼ぶ。
ついにピタリと抵抗を止めた男の顔を見る事は叶わなかったが、私はそれを気にする事無く一つ一つ丁寧にワイシャツのボタンを外していく。
そうしてそっと衣服の中に包まれていた肌を指先で撫で上げ、薄くついた腹筋を辿り、心臓の隠された胸元に指を這わせる。
冷えた指先に伝わる確かな熱と、ドクドクという鼓動の高鳴りが皮膚伝いに伝わって、嫌悪感と共に生きている生命の脈動に感動を覚えていた。
これほどまでに私の心臓はもう命の炎を燃やしてはいないだろう。
そうして、男のこれまた金属デバイスに覆われた首に顔を寄せると、施設内でシャワーを浴びた後だからか、ほのかに石鹸の香りが残っていた。
哀れな孤児だったコイツはいつしか当たり前のように他の人間と変わらない日常を送っている。
私達は立場は違えど、同じようにその背中に罪を背負い、地面を逃げ回る生き物であった筈だった。
それが今やこの男の周辺には、コイツを信頼し、その秘密を共有してもなお、傍に居てくれる人間で溢れている。
一体どこでこの男と私の人生は変わったのだろう。
"他人"などどうでもいいと思っている事に変わりは無かったが、それでもこの男が得られて私が得られなかったモノの方が遥かに多いような気がしていた。
「……アレクサンダー」
不意に私の本名を呼んだ男は、そのままこちらが胸に当てていた手に手を重ねた。不愉快な感触。
それ以上でも以下でもない筈なのに、男の指から伝わる熱は染み入るように皮膚を通し、血管へと届く。
今すぐに暴れ叫んで私を殴って逃げればいいものを、コイツはそれをしなかったばかりかこちらの名を呼んだ。
その声かけに返事をしないまま黙っていると、男は囁くように声をあげる。
「……アンタが一番恐れている事を当ててやる。死にたくないんだろう? だから、こうやって俺に当てつけのようにするんだ」
男の言葉が耳に届くのと同時に、重ねられた手の甲に緩く爪を立てられる。
当てつけ、という言葉に近からずも遠からずという印象を覚えた。
確かに自らの命がもう殆ど終わりに近い事は私自身が一番よく分かっている。
だからといって、この男に当てつけのようにこうして過去の事を持ち出しているのかといえば、それは少しだけ違った。
しかしそれを上手く言語化する事は難しい。
だが、否定をする程でも無いと私はそんな男に答えを返す。
「……そうだな。だが、お前にとっては幸福だろう? お前を陥れた相手が直接手を下さずとも勝手に死んでいくのだから」
どうせ当てつけられたとしても、もうすぐ終わる命だ。と付け加えると腕の中の男が小さく身じろぎをしてこちらに振り向こうとするのが分かり、腕の力を微かに緩める。
てっきり憎しみの表情をしていると思っていた男がこちらを見た時、その顔はどこか複雑そうな顔をしていて驚く。
哀しみと苦しさと、憎しみ……それら全てが混ざったような表情の男は黙ったままこちらに真っすぐな視線を合わせてくる。
子供の頃は私を恐れる余り、殆ど目を合わせる事が無かったその切れ長で涼しげな黒い瞳はテーブルランプの光に照らされて、少しだけ濡れて見えた。
「何故、……そんなに悲しそうな顔をする? 同情のつもりか?」
「知るかよ。……アンタが泣かないから、その分がきっと俺に回ってきているんだ。アイ シ」
そっと指先を動かして濡れた目元に親指で触れる。
ツゥと一筋だけ流れたその涙はこちらの指を濡らし、男は静かにその目を伏せた。
「……アンタが死んだって、アンタみたいに史上最悪で最低な義兄を忘れたりなんか出来るか」
「……そうか」
そのままそう言って胸元に寄ってきた男を抱きしめる。
この男にとってみれば、もう私達の母以外に家族と呼べる存在は私しかいない。
ミラという女をこの男が殺したという話になっているが、恐らく別の人物に殺されたか何かしたのだろう。その内情に関しては私にとって興味のない事柄だった。
しかし私から母への最期の挨拶を譲ってくれたこの男は、きっと私の死後も母に会う事はままならないまま生きていく筈だ。
金銭的サポートという形を取る事は出来ても、ガイアに居る母に直接会う事は難しい。
その時にこの男は本当の意味で、孤独を感じるのだろう。
私が今までずっと感じてきたのと同じように。
目元に触れていた指先を動かして、男の喉を通り脈打つ心臓の上に手を重ねる。
そうしてギシリとベッドの軋む音を立てながら、男の上に跨るように体を起こした。
不安げな目をした男は本当にあの幼少の頃のまま時が止まってしまったかのように視線をフラフラと彷徨わせ、何を言うべきなのか迷っているようだった。
もうこれ以上、無駄な言葉のやり取りは必要ない。
どうせこれはたった一夜限りの戯れに過ぎないのだから。
私は想像以上に滑らかな感触を有する肌を弄るように触れながら、男の表情を観察する。
ライトに照らされた頬は少しずつ赤みを増し、呼吸が荒くなっていく。
当然のように女とは違い膨らみを持たない胸板を擦り、そのままゆっくりと脇腹を往復するように撫でるとくすぐったいのかその身を震わせた男が片腕をあげてその顔を隠してしまった。
表情が見えないというのはつまらないと思いながらも、さらにじっくりと時間をかけてフェザータッチを重ねていく。
直接的には触れず、やわやわと撫でるその手付きにデニムの中で男のペニスが熱を帯び始めたのか窮屈そうにしているのを理解する。
「……っは……」
そしてヒクリと喉が興奮で震えたのを見てから、デニムのジッパーに手を掛けると漸く腕を僅かにずらしてこちらを見た男が熱っぽい視線をしているのに気が付き満足感を覚える。
こちらを憎いと思っている癖に、こうして私に触れられ悦ぶ肉体を持つこの男はなんてあさましいのだろう。
同じようにこの男を軽蔑し、憎いと思っている私も下腹部に溜まる淀んだ熱を感じて自嘲の笑みを洩らす。
そっと男の足からデニムと下着をはぎ取ると、恥ずかしいのか膝を閉じている男の下腹部に手を伸ばし、以前に慰めてやった時よりも成長を遂げているそこを撫でてやる。
「あ、……っぁ……」
「……お前は、ここが弱かったのだったか」
「……んっぅ!……や、……だ……」
ツツ、と指を動かして先走りで濡れる先端部分を爪先で軽く刺激すると、普段は聞かないような甘い声を洩らした男がまた腕で顔を覆ってしまった。
それを無視して今度は裏筋を通り、もう片手で閉じられた膝を開かせる。
それでも見られるのは嫌なのか膝を閉じようとしつつ、着たままのワイシャツの裾をもう片手で押さえるように引く男に、低く声をかけた。
「……そんな物では隠しきれていないぞ、テジュン。それに、私が昔言った事を忘れたのか?」
「……っ……」
「私に触れて欲しいならキチンと言いなさい。そう教えただろう」
こちらのぴしゃりとした叱責に顔を覆っていた手を動かした男は、その閉じていた膝の力を微かに抜き、しっとりと濡れた目でこちらを見つめる。
まるで本当に過去に戻ったかのようだ、と【クリプト】では無くパク・テジュンとしての顔をしているガキを見ながらそう思う。
ハクハクと数回魚のように口を開けた男は、そのまま消え入りそうな声で囁いた。
「…………お願い……します……もう、……苦しい……から……」
「まぁ良いだろう。……よく言えたな、いい子だ」
ふ、と笑って男にそう言うと一瞬屈辱的な顔をした男はすぐにまた顔を覆ってしまう。
やはり顔を見られるのは嫌らしいが、どうせすぐにそんな事を考えていられなくなる筈だ。
サイドチェストに手を伸ばして薬と共にそこに置かれた鎮静効果のある軟膏を手に取ると、そのチューブから多めにベットリとしたそれを掌に伸ばす。
白いその軟膏をそのまま男のアヌスに触れさせると、ビクリと体を震わせた男は怯えたようにこちらを見ていた。
もうお互いに子供では無いのだから、この先に何が起こるかなど分かり切っている筈だろう。
なのでその怯えた顔を和らげようとする気もないまま、その中に指を差し入れた。
久方ぶりに探った他人の内部はヒクヒクと震えており、熱さに指が溶けそうになる。
「あッ……!」
そのまま男の反応を見ながら色々な場所を押しているとある一点を掠めた途端に男の声と体が跳ねる。
所謂、前立腺と呼ばれる位置なのだろうと眉を寄せた男の反応を見ながらさらにそこを抉ると、やはり高い声を上げた男が困惑したような顔をしたまま、艶を帯びた瞳でこちらを見てくる。
自分でも未知の感覚なのだろうその快楽が恐ろしいらしい。
「……ここを触れられるのはどんな気分なんだ? 気持ちがいいのか?」
「わ、……っからな……」
「分からない? それは嘘だろう。ほら、お前の腰が揺れているのが見えるぞ」
指を中で折り曲げるように動かすと、ヒュ、と呼吸を詰めた男がその背を撓らせる。
そのままもう一本指を入れ込み中をさらに広げるようにしていくと、隠す事も難しくなってきたのか荒い息を洩らした男がメス猫のように鳴く。
雄の癖にどうやらコイツは雄を受け入れる能力が高い肉体をしているらしい。素質がある、とでもいうのだろう。
私は喉から起こりそうになる咳を押し留めながら、着ていた寝間着と下着を少しだけずらしてその奥にあるペニスを取り出す。
「ま、待って、くれ……そんな大きいの入らない……」
「……それは褒め言葉として受け取っていいのか?」
「あ! いやだ、やだぁッ……っぐぁ、あ゛……!!」
こちらのペニスを見た男がそう言ったのを含み笑いで返しながら、両手で腰を掴んで狭いそこを貫いていく。
痛みに堪える為なのかこちらの腕を掴んだ男の爪が腕に食い込む感覚をどこか心地よく感じながら、男の苦痛に悶える悲鳴のような声を聞いていた。
軟膏程度の滑りでは足りなかったのか、途中で何度か止まりながらも全てを無理矢理押し込めると、痛みからなのか男の目からはボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
…………あぁ、私から全てを奪っていったパク・テジュンという男を漸く征服し、屈服させてやった。
そんな感情が脳内を満たし、まるで【実験】で逃げようともがく相手を毒の中に押し込めて殺した時のような気分になる。
「……あ、……っ、う……ぁ……」
「っは……は……」
しかし余りにも狭すぎる内壁の締め付けに、すぐに動くのは無理だと呼吸を整えながら男を見つめていると苦痛の色を宿した目をした男がその視線を絡ませてくる。
互いにジワリと汗を掻き、額にうっすらとした雫が流れていく。
私は腰を掴んでいた手の片方を動かして、また男の脈打つ心臓の上に手を乗せる。
ドクドクと激しい脈を刻むそこはこの男の生命そのものだ。
もしも私がこの場でコイツの体をそれこそいつもの【実験】のように乱雑に扱えば、コイツは簡単に死ぬのだろう。
路地裏から救われた哀れな子供。きっとこの記憶はもうコイツの脳に残って消える事は無い。
私が死んだ後でさえも、ずっと忘れずにコイツは私に抱かれたという事実を持って生きていく。
それは何という甘美で残酷なレガシーだろう。
「……テジュン」
敢えてまた男の名を呼ぶ。ミス・パケットと私しか知らないこの男の本当の名前。
その呼びかけに顰めていた眉を少しだけ和らげた男はジッとこちらを見たかと思うと、何と返すべきなのか迷っているようだった。
なのでもう一度、私はその男の名を呼ぶ。
「テジュン、……もう私を兄とは呼んでくれないのか」
こちらの言葉に目を見開いた男は、すぐにその目を細めて自嘲するように笑った。
そうして先を望むように腕を掴んでいた手をこちらの背に回した男はその目に諦めのような色を灯して静かに囁く。
「本当に悪趣味だな……ノックス兄さんは……」
その声かけを引き金に中に埋めていたペニスを動かし、男の内部を穿つ。
優しさも慈しみも無い。ただ、私の唯一の弟である男の中をひたすらに犯すような動きに下に居る男は苦しげながらも甘い声を洩らす。
二人分の重みを受けたベッドが鳴る音と、男の声が薄暗い室内で響くのを聞きながら、私は今度は背中に立てられた爪の痛みを甘受する。
この男が私に抱かれた記憶を忘れる事が無いように、私がこの男を抱いたという事実を強く刻み付けられているようなその感覚は悪くは無かった。
どうせ死んでしまえばこの肉体は土に還り、意識は遥か彼方のどこにあるかも分からない闇に沈んでいく。
既に病魔に蝕まれている体を覆い隠すようにこの男の記憶が私を上書きするのなら、それはそれで良かった。
「ん、っぐぁ、あ゛ぁ、あ!……っぁ……あ゛……!」
「っは、……ハ、……ぐ……」
「に、さ……兄……さん……ッ……」
「……あぁ……、ここに居るぞ……テジュン……」
兄さん、とまるで探し求めるように呼びかけられた声に思わずそう返事をする。
私はそのまま男の先走りで濡れたペニスに手を掛けて、さらに奥を穿った。
もう私もそこまで長くは動けない、と一層ピストンを速めると蕩けた目をした男と視線が絡む。
「あ、……っん、ぐ……っぁあ、あ゛ぁ、あ゛ー!!」
「っぐ……ぅ……」
搾り取られるようなその締め付けと共に、男が達したのか組み敷いた体がビクビクと震え、手の中のペニスから精が洩れる。
それと同時に私は男の中に全ての精を吐き出していた。
もしも明日この男がこれで体調を崩したとしても、それは知った事では無い。
ただ、何も残らないとしても、私は私の欲をこの男の中に注ぎ込んで種を植え付けたかった。
そうして出来る事ならば自宅に帰ったコイツが一人でそれを掻き出し羞恥に震える様を、見てやりたかった。
「は……っは……はぁ……」
荒い呼吸をしている男からゆっくりと埋めていたペニスを引き抜くと、ベッドから立ち上がり少し離れた場所に置いてある丸テーブル上のティッシュペーパーを箱ごと取ると自分で使用する分を抜いてからベッドの上に居る男に放り投げる。
それを黙って受け取った男は腹に飛び散った自身の精と、内部に吐き出された精を拭いながら小さく舌打ちをしたのが聞こえた。
まさか私がそのまま中に出すとは思っていなかったらしい。
もう先ほどまでの子供らしい表情を冷静さという仮面で押し隠した男は、拭ったティッシュをゴミ箱に投げ込むと痛む体を庇うようにしながらデニムを履いて身支度を整えていく。
今夜のこの出来事は、互いに無かった事として扱われる。
それは私もこの男も一々言わなくとも理解している事柄だった。
「……帰る」
「あぁ……」
そうして一度だけ視線を交わせた男はその一言だけを残して寝室から出ていく。
男を見送る事もしないまま、サイドチェストに置かれた時計に目を向けた。時刻は21時を少し過ぎた辺り。
たった2時間程度の出来事ではあったが、きっと私たちは今日という日を忘れる事は無いだろう。
憎しみ合い、殺し合い、いがみ合ってきた私達の関係は今後もきっと変わることは無い。
それでも私は背中に残っているであろう爪痕に手を伸ばし、それがすぐに消える事の無いように願っていた。
-FIN-
戻る