Hello, My Sweet Home.1



――――1


 自分の目を共有したドローンを操作し、薄いグリーンがかっている見慣れた視界の中で空から周囲を見回す。
 こちらの手に持ったコントローラーの指示に従って滑らかに動く"ハック"と名付けたドローンは、今日の試合前のメンテナンスでも完璧なパフォーマンスを見せていたので特に操作上の問題は無いだろう。
 【ゲーム】の前には必ずドローンの調整を行うのだが、それは俺にとって一日のルーティンの一つとなっている。【ゲーム】に勝つ為のゲン担ぎとでもいうのだろうか。
 いつも通り丁寧にメンテナンスをしておいた自分の相棒とも呼べるハックを飛ばして、ハモンド研究所の横にある山から湧き出ている滝の水をまるで2本の橋のように下に流す為に造られた高台にある建物の2階から見える一番近い巨大な3枚のバナーの前まで移動する。
 そうしてドローンを操作している時だけしか見る事が出来ない黒い背景に映った周囲に居る敵部隊の数を確認すると、そこには"0"という数字が書かれていた。

 『周囲に敵部隊はいない』

 つい先ほど初動が被ってしまったタービンの中で敵部隊と戦闘になったので、その音を聞きつけて他の部隊が来ているかもしれないと思っていたのだが、それは杞憂だったらしい。
 ひとまず物資も一通り揃っているし、まだリングの中に居るのでそこまで焦る必要も無いだろう。
 そのまま持っていたコントローラーを操作して、バナーから離れると自分たちが居る建物にドローン越しの視線を向けた。
 すると、自分が立っている建物の上で丁度ビーコンを使用して次のリングを確認してくれていたらしいパスファインダーの姿が見えて、そっと笑みを浮かべてからドローンとの視界共有を解除してドローンを回収する。
 パスファインダーも俺もどちらもビーコンを利用する事が出来るが、パスファインダーが次のリング位置を調査してくれた方が彼のジップラインが速く使用できるようになるので、今回の俺は索敵が主な仕事になりそうだった。
 そうしていつもの視界に戻った俺の足元にはまるで供えるかのように、シールドバッテリーとアルティメット促進剤が置いてあり、少し驚きつつも声をあげる。

 「助かる。ウィッ……」

 そこまで言いかけて自分の口を慌てて噤むと、俺の目の前に立っていたナタリーは不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
 そうして、少しだけ考えるような素振りを見せていたかと思うと、まるで鈴を転がすような可愛らしい声をあげて笑う。
 気が付かれていないといいのだが、きっとこれはバレてしまっているだろうと、恥ずかしい気持ちを押し隠して彼女を見返した。

 「ふふっ、私の真似っこをしているのかと思ったわ!」

 「すまない……ありがとう、ナタリー」

 改めて彼女の名を呼んで感謝の意を述べる。
 どういたしまして、と言ったナタリーは変わらずその唇に笑みを浮かべたまま言葉を続けた。

 「ミラージュと貴方はよく一緒の部隊になるから間違えちゃったのね! 私もよく間違えてレイスの名前を呼んでしまう事があるの、だから気にしないで」

 「……あぁ……」

 上手く誤魔化せるかと思ったが、やはり全てお見通しだったようでナタリーはクスクスと笑っていたが、ふとその唇に指を当てたかと思うと眉を寄せて心配そうな表情になる。
 そんな彼女の横に建物の屋上に登っていたパスファインダーも合流し、彼女はパスファインダーに一度視線を向けてからまたこちらに目を向けて呟いた。

 「それにしても、ミラージュは大丈夫なのかしら。1週間くらいはお休みって話だったものね」

 それを聞いていたパスファインダーは、胸部のモニターに悲しそうな顔文字を浮かべながら自然と会話に混ざってくる。

 「エリオットの腕の怪我の話かい? 彼は相当苦痛を感じていたみたいだったからね。きっとまだ痛いんじゃないかな」

 「あら、パスファインダーはミラージュが怪我をした瞬間を知っているの?」

 ナタリーがそうパスファインダーに問いかけると、両手の関節部分にある油圧式ポンプに指令を伝達し、それによって曲げられた腕を上下に動かしながら説明をするようにパスファインダーは発声した。

 「あの時は丁度僕とエリオットの前に急にグレネードが飛んできたんだ! それで二人して吹き飛ばされてしまったんだけど、彼は近くの鉄骨に体を思い切りぶつけていたよ」

 「まぁ、それは……とっても痛そうね」

 「本当ならジャンプキットが衝撃を吸収してくれる筈なんだけど、当たり所が悪かったみたい。腕に何ヶ所かヒビが入ってしまったって言っていたから」

 パスファインダーがする説明に、まるで自分がぶつけたかのように腕に手を当てたナタリーが眉を顰める。
 俺はそんなやり取りを聞きながら、ミラージュ本人に聞いた話を思い出していた。
 確かに当たり所も悪かったらしいのだが、ジャンプキットの動作が途中で可笑しいような気がしていたにも関わらず、確認を怠ってしまったのだと言っていた。
 腕にギプスを嵌めて笑いながら『やっちまった』と言った男に、安堵と共に怒りを覚えて皆が居ない場所でかなり叱り付けてしまったのは約3日前の出来事だった。
 まだ腕のヒビ程度で済んだからいいものの、当たり所が悪かったら死んでしまっていたかもしれないのだ。

 「骨にヒビっていうと、ご飯を食べるのも大変そうね……彼っていつも自分で作った料理の話をしているでしょう」

 「うーん。どうなんだろうね? ミラージュはパラダイスラウンジにも顔を出していないから僕にも分からないや」

 俺はその会話を黙って耳に入れつつ、確かにそうだろうなと思う。
 D.O.C.ドローンと同じ原理で人体の回復力を大幅に高める金属製ギプスをする事で、ヒビが入っている程度なら1週間から2週間程度ですぐに良くなる筈だ。
 しかしミラージュが怪我をしたのは利き腕の方なので、何かと困っているだろう。
 それを分かっているからこそ、毎日朝と夜に連絡を入れているのだが、ミラージュはくだらない話を返してくるばかりで『別に大丈夫だから』の一点張りだった。
 そんなにこちらが頼りないのだろうか、と思うがその疑問を投げかけるのは自分の心が僅かに痛んで出来ない。
 それとも俺が男に対して本気で怒った事を気にしているのかもしれないが、流石にそれに関して俺は悪くないと思う。

 「クリプト? 大丈夫?」

 「ん、あぁ……大丈夫だ」

 「貴方とミラージュは仲良しだものね。心配になるのも分かるわ。……せっかくだしお見舞いにでも行ってあげたらいいのに」

 「僕もミラージュと仲良しだよ! ナット、僕もお見舞いに行ってあげた方がいいかなぁ?」

 「そうね、でも貴方はお店を任されているって言っていなかったかしら」

 いつもなら仲良くなど無いと否定するのだが、そういう気にもなれずに黙り込む。
 しかし丁度パスファインダーがそう言ったのでナタリーは俺が黙り込んだのを気にする事無くパスファインダーと会話を続けていた。
 お見舞い、という名目なら男の家に行っても別に問題無いのではないだろうか。
 そもそも他の【レジェンド】達には秘密ではあるが、俺とミラージュは少し前から恋仲となっており、怪我をした恋人を心配して自宅に行くのは別に変な話ではない筈だ。
 アイツが妙に俺に恰好をつけたがっているのは分かっていたが、奴のマヌケな姿などもう見慣れている。
 ここまで来たら今更恰好つけたところで無意味なのだから諦めるのはアイツの方だ、と俺は【ゲーム】の後にミラージュの自宅に行くことを今後の予定として決定していた。

 □ □ □

 ナタリーとパスファインダーと組んだ部隊は今回は4位という結果で終わった。
 途中までは悪くなかったのだが、有利な位置にある建物が殆ど敵部隊に取られてしまっていて、ナタリーのフェンスを上手く活用出来なかったのが痛かった。これは次回に生かすべき反省点だろう。
 負けてしまったもののお互いに笑顔で健闘を讃えつつ彼女達と別れた俺は、さっさと身支度を整えてから【APEX】のサポートを行う施設を離れていた。

 そうして、周囲が暗くなり始める中、予定どおりにとりあえず簡単に作れる物を、と材料を適当に近くのストアで買い込んでから奴が住んでいるアパートメントの部屋のドア前に佇み一度深呼吸をする。
 本当は連絡をしてから行こうかとも思ったのだが、どうせのらりくらりと躱されるのがオチだと敢えて連絡をしないままドアのチャイムを鳴らした。
 …………約2分ほど待っただろうか。
 ドタバタと扉越しにでも聞こえるくらいの音を響かせてドアを開いた男は、いつものセットした髪型とは違いぼさぼさの髪に、着やすさを重視しているのかダボついたオーバーサイズの柄Tシャツに黒のハーフパンツを着ている。
 そうしてその右手には相変わらず首から吊るすように三角巾にくるまれた金属製のギプスが取り付けられていた。

 「クリプちゃん! 来るなら言ってくれたらいいのに……」

 「何度も聞いたのにお前がはぐらかすからだろう」

 「いや、まぁ、そうなんだけど。でも俺的には今家の中がもうハチャメチャのごっちゃごちゃって感じでよ」

 「……片手が使えないなら、そうなるのは当たり前だろうが」

 どうにも煮え切らない様子のミラージュを無視してドアをくぐる。
 この部屋の家主である男が綺麗好きな事もあって、この部屋では玄関で靴を脱ぐのをルールとしているのでいつもどおりさっさと靴を脱いで中に上がり込む。
 そんな俺を止める事は無かったが、困ったような顔をしたミラージュが俺の後ろをついてくるのを感じ取りながら廊下を歩み、ダイニングに向かうと確かにいつも整えてある男の部屋にしては乱雑な状態になっていた。
 例えば、畳み切れずにソファーの上に置きっぱなしの洋服であったり、同じように床に散らばった洗濯物であったり、レトルト食品の空き箱と洗うのが面倒だったのかローテーブルの上にそのままになっている食器類などだ。
 こういう物をこの男が残しておく事は珍しい。
 そんなこちらの考えを見通したのか、ミラージュはまるで叱られた子供のように呟いた。

 「やっぱり片手だと色々面倒になってなぁ。鎮痛剤も飲んでるが痛いっちゃ痛いしよ。……別に1週間程度なら何とかなるかなって思ってたんだ、痛みには強い方だし」

 「……だったらなんでもっと早く言わないんだ」

 思わず視線を向けると、申し訳無さそうな顔をしたミラージュが立っていて、厳しくなりかけた目を少しだけ和らげる。
 俺はコイツを責めに来たわけでは無い。
 ただ、こうして大変ならば俺に言ってくれても良かったのに、と思っただけだった。
 そんな俺の顔を見ていたミラージュはシュンとした犬のように眉を下げている。

 「お前、今【ゲーム】以外にも仕事抱えてるって言ってたろ? 忙しそうだったしさ、そもそも俺がちゃんとジャンプキットの不備を確認していればこんな事にならなかったから」

 ミラージュが言うとおり、【ゲーム】以外にもシステムセキュリティに関する案件を何個か依頼されているが、そこまで急ぎの物でも無かったし、納期を延ばしてくれと言えば多少は待って貰える。
 俺はゆっくりとミラージュに近づくと、厚い胸板に指先を突き付けてそこを軽く押す。
 その程度の力ではビクともしないが、こっちを見た男の目は相変わらずしょぼくれていた。
 はぁ、とため息を吐いてから俺は自分自身の胸の内を明かす。

 「もっと俺を頼れよ。俺とお前は一応、付き合ってるんだろう? ……お前が大変ならいくらでも手伝ってやるから」

 「……呆れて怒ってるのかと思ってたんだ。お前はいつだって準備を怠らないだろ? だから俺がちゃんとしてなかったのを怒ったんだって思って」

 こちらの言葉にそう返してきた男に、3日前に怒った時は正直動揺していたのもあって語気が強くなってしまったのを思い出す。
 そういうつもりで怒鳴りつけたワケじゃないのだと、微かに笑ってから囁いた。

 「確かに怒ってはいたが、そういう意味で言ったんじゃない。……お前にこの先何かあったら嫌だったから言ったんだ。お前に怪我をして欲しくないから」

 「クリプちゃん……」

 「……まぁ、俺もあの時は強く言い過ぎたな。悪かった」

 不意に目の前に居たミラージュがギプスをしていない方の手でこちらを抱きしめてくる。
 そのまま甘えるようにこちらの額にキスをしたミラージュは、しょぼくれた顔をもう明るい笑顔に変えていた。
 やはりこの男は悲しそうな顔をしているよりも笑っている方が見慣れている。

 「……俺もごめんな。クリプちゃんが来てくれて凄い嬉しいぜ。ずっと会いたかったんだ。……いつも通りカッコイイところを見せたかったんだが、髪もこんなだしよぉ」

 「別にお前がマヌケな姿をさらしているのはもう何度も見ているんだから、今更カッコつけてどうするんだ」

 「そんなこと無いだろ?! まぁ、【ゲーム】の時はお前に助けられる事も多いが、髪型はバッチリな筈だぜ?」

 「髪型だけキメてたって仕方ないだろう」

 ぐぅ、とこちらの言葉に不満げな呻き声を出したミラージュはすぐにまた笑みを浮かべる。
 俺が怒っていないということが分かって嬉しかったのだろう。
 この男は普段は必要以上に話をするくせに、自分の弱みや辛い時と思った時にはその饒舌な口を閉じてしまう。
 俺もそれに関しては似たような所があるので、全面的に責められる立場ではなかったが、それでもこんな時くらいは甘えてくれたっていい。
 それにいつも甲斐甲斐しく世話を焼くのが好きな男を逆に世話してやるというのも悪くはない話だった。
 こちらを抱き締めているミラージュの背をビニール袋を持っていない方の手で一度軽く叩いてから離れる。

 「さて、……とりあえず夕飯は食べたのか?」

 「いや、まだだ。丁度食べようか迷ってたところだった」

 「じゃあ作ってやるからキッチン借りるぞ。それから洗濯物があるならまとめておいてくれ。洗って干すところまでやれば取り込むくらいは出来るだろう?」

 俺の言葉に、目を見開いたミラージュは驚いたような様子を隠さずに声をあげる。

 「え! クリプちゃん、料理出来るのか?」

 「先に言っておくが期待はするなよ。料理は苦手だし、家事も普通程度だ。お前みたいに凝った美味い物は作れない」

 「いやいやいや! それでも、はぁー、そっか。お前が俺に料理を作ってくれるのか。えー、嬉しいなぁ!」

 「……そんなにか?」

 こちらの言葉にとても嬉しそうな声をあげ、口許を押さえた男はニヤニヤと隠しきれない笑みを浮かべている。
 本当に大した物は作れないし、店を経営している相手に出せるかというと正直恥ずかしいレベルだ。
 しかしそれでもここまで喜ばれるのは悪い気はしない。
 これなら準備をしてきて良かったと、俺は手元のビニール袋に意識を向ける。

 「そりゃあ可愛い恋人の手料理を喜ばない男なんていないだろ。俺はお前にご飯作ってやるのも大好きだけど、作って貰えるならそれだって最高さ」

 「……もう、分かった分かった。良いから洗濯物集めろ」

 「はぁーい」

 まるで子供のような返事をしたミラージュに苦笑しながら、俺は背負っていたドローンやラップトップの入ったリュックをソファーに置きつつ、その前にあるローテーブルに置かれたカトラリー類を集めてゴミも回収する。
 そうしてそれらを持ったまま滅多に立つことのないキッチンに向かった。
 自宅のキッチンよりもさらに機能性を重視している使い込まれたビルドキッチンに立つと、妙に緊張してしまいそうになる。
 …………アイツに飯を作ってやるだけなのだから、そこまで気負う必要も無い筈だ。
 手に持ったゴミをゴミ箱に入れてから、カトラリー類を流しに入れるとそこには洗うのが面倒だったのかマグカップ類も少し溜まっていた。
 確かに片手で洗い物をするのは相当難儀だろう。
 ビニール袋をキッチン台に置いてから先に溜まっていた汚れ物を全部手早く洗い、ついでに手も洗う。
 今日のメニューは昔、ミスティックによく作って貰った野菜とベーコンのポトフだ。
 材料を切って煮込むだけで出来る上に、とりあえずそこまで大きな失敗もしないだろう。
 俺はそこだけは変わらずに綺麗に保たれているキッチン台に目を向ける。
 そうして包丁立てに何本も入れてあるおそらくプロ仕様であろうキッチリと研がれた包丁を見つけると、唯一しでかしそうな失敗を考えないようにしながらビニール袋から材料を取り出して調理を始めた。

 □ □ □

 「ありがとな。めちゃめちゃ美味しかったぜ」

 「なら良かった」

 途中何度かキッチンに様子を見に来たミラージュがこちらの包丁さばきにハラハラしているのを、『気が散る』と追い出して作ったポトフと、既に作って冷蔵保存してあったアボカドのディップとガーリックペーストを塗り付けトースターで焼いたパンはあっという間に皿の上から消えていった。
 自分的には可もなく不可も無くといった評価だったのだが、ひたすらに美味い美味いと言いながら食べてくれるミラージュを見ていると、まるで自分が料理上手になったような気がしてくる。
 そうして俺が来た事で片付ける気力を得たらしい男が回した洗濯機の音が耳に微かに届くのを聞きながら、目の前の皿を洗おうとソファーから立ち上がった。

 「本当に悪いな。作って貰った上に片付けまでして貰ってよ」

 「言っただろう、気にする事は無い。そもそもお前にいつも料理を作って貰っているのはこちらの方だからな」

 そう言ってからテーブルの上の皿とカトラリーをさっと持ち上げると、先ほどまで悪戦苦闘していたキッチンに戻って洗い物をする。
 ミラージュに料理を作って貰った後はこちらが洗い物をすると自然と流れで決まっていたから、洗い物をする方が手慣れていた。
 全ての食器を洗い終えて水切りカゴに乗せると、不意に男がこちらに近づいてきた気配がして振り返る。
 すると、ミラージュはそのままこちらの肩に顎を乗せたかと思うと、そこに顔を擦りつけてきた。

 「なんだ、いつも以上に甘えん坊だな。小僧」

 「……んー……そうかもな」

 フ、と笑ってミラージュの頭に手を乗せて撫でながらからかう。
 いつもならもっと長ったらしく返ってくる答えが案外シンプルだったので、本当に今日の男は子供のようだった。
 大怪我をした上に、一人でずっと痛みに堪えていたのが辛かったのかもしれない。
 くしゃくしゃと髪を撫でながら俺はそんなミラージュをもう少し甘やかしてやりたくなって、小さく呟いた。

 「ディナーの後は、バスタイムか。……髪も洗いにくかっただろう? 折角だし洗ってやるよ」

 「え?! それって一緒に入るって事か?」

 「一緒に入ったら濡れるしサポートもしてやれないから、洗ってやるだけだ」

 途端に肩から顔を上げて嬉しそうな笑みをした男の期待をへし折る。
 それに一緒にシャワーを浴びたらどうせそういう雰囲気になるのは分かっていた。
 俺は顔を上げたミラージュの目を見据えながらさらに言葉を続ける。

 「ちなみに、お前が治るまでセックスはお預けだ。ウィット」

 「マ、マジか……それは流石に難しくないか。俺は身体なんか洗って貰ったら勃っちまいそうなんだが……」

 「最初から俺に1週間会わないつもりだったんなら問題は無い筈だが? 自分で処理でもするといい」

 「……クリプちゃん、もしかして相当怒ってるな……?」

 そんな事を恐る恐る言ったミラージュに、さぁ? と首を傾げて答えを濁すと、そのままバスルームに男を連行する。
 怒っているかいないかで答えるなら、怒っている方に軍配が上がる。
 男が俺に格好つけたがったように、俺は俺で男に対して出来るだけ優しくしてやりたかった。
 そもそも1週間こちらに会わないでやり過ごそうとしていたコイツに、それくらいの罰を与えてやってもいい筈だ。

 「クリプちゃんが洗ってくれるのはそりゃあもう嬉しいし、最高だけどよ。って、待て待て! 分かった、自分で脱ぐ!」

 そのまま廊下を進み、ベッドルーム横にあるドアを開けて、ライトを灯したバスルームの中にある洗面台の前までミラージュを連れて行った俺はその服に手をかけようとするが、それは左手を動かしたミラージュによって阻止される。
 それなら三角巾だけは取ってやろうと結び目に手を伸ばすと、ミラージュがそっと顔を寄せてキスをしてくる。
 どうやらセックスをしないと言ったのが相当効いているらしかった。
 許しを請うようなその唇を食むキスに軽く噛んで抵抗してやると、こちらの意志が固い事を理解したらしい男は諦めたように唇を離して緩慢な動きで服を脱いでいく。

 「これは……なんか恥ずかしいな」

 「何を照れている。自分の肉体に自信があるとかなんとか普段から言っているクセに」

 「んん、でも俺だけ裸ってなんか……なぁ?」

 途中で脱ぎにくそうにしているのを手伝ってやりながら、一糸纏わぬ姿になったミラージュはその浅黒い張りのある皮膚と体毛に覆われた均整の取れた男らしい肉体をさらけ出しており、俺は見慣れているとはいえ鍛え抜かれたその体に思わず視線を奪われる。
 金属製のギプスは治るまですぐに外せない代わりに、防水加工が施されているのでそのままシャワーを浴びても問題は無い。
 しかしまだ痛むのか腕を極力動かさないようにしている男に声をかけた。

 「先に入って体を濡らしておけ。このままじゃ風邪をひく」

 流石にこちらもそれをずっと見ているのは目に毒だと、先に男をバスタブに押し込んで床が濡れないように設置されたシャワーカーテンを引いてから、自分の着ているワイシャツの袖を捲る。
 その間にシャワーを浴び始めたのかすぐ隣で水音が響き始め、薄いカーテン越しにミラージュの影が見えた。
 こういう状況になるのは何度かあったが、自分は脱がないというのは初めての経験で面白い。

 「カーテン一回開けるぞ」

 「……おう」

 声をかけてからシャワーカーテンを開けると、全身を湯で濡らしたミラージュがその体に雫を纏わせ立っている。
 ポタポタと髪から落ちる雫が男の頬とヒゲを濡らし、黙っていれば端正な顔がより際立っていた。
 直接的に目に訴えかけてくるような光景に一瞬、許してやろうかという気分に陥るが、すぐにそれを切り替えてバスタブ脇に置かれたラック内のシャンプーを掌に出す。
 そうして視線だけで比較的深めに造られたバスタブの縁に座る様に促すと大人しくそこに座ったミラージュの髪に甘ったるい匂いのするシャンプーをつけて洗っていく。
 まるで巨大な犬を洗っているかのような感覚になりながら、出来るだけ指先で刺激を与えつつ洗ってやると気持ちがいいのかミラージュは小さく吐息を洩らした。
 俺よりも余程綺麗好きでシャワーにかける時間が長い男にしてみれば、なかなか自分の思ったとおりに洗えなかったのはかなりのストレスだっただろう。

 「痒いところはないか?」

 「大丈夫だ、ありがとな」

 「じゃあ流すぞ」

 そう言ってバスタブに腰掛けたままの男が体を少し前に倒したので、上からシャワーをかけていってやる。
 バスタブ内に落ちていく泡を含んだ湯が排水溝に流れるのを見ながら、今度はシャンプーの隣に置いてあるトリートメントをつけてやった。
 そこまで長髪でもないのにトリートメントかと思うのだが、コイツはいつもこのトリートメントをつけないと髪が爆発すると言っているので、相当大事なのだろう。
 万年、全身をボディソープでしか洗わない俺からすれば、つける物が多くて忙しそうだなと感じてしまう。

 「先に身体も洗うか」

 「あぁ、そうだな……」

 雫の滴る前髪を軽く掻き上げた男がこちらに振り向く前に、そう言って壁に取り付けられたフックに掛けられているボディータオルを取るとトリートメントのボトルの横にあるボディーソープを塗りつけて泡立てる。
 そうしてミラージュの広い背にボディータオルを乗せると力加減を調整しながらそこを洗っていく。
 背筋と、肩甲骨の間にある背骨の流れを通り、引き締まった腰まで洗うと立ち上がるのを促すようにそこを軽く叩く。
 戸惑うようにしていた男がバスタブの縁から立ち上がったので、今度はさらにその下に続く臀部から太もも、そうしてふくらはぎまで手を伸ばして入念に洗ってやるとずっとこちらに首を回して見ていたらしいミラージュが情けない声で呟いた。

 「……やっぱり、ダメ?」

 俺はそんな男に持っていたボディータオルを手渡すと、薄く笑う。

 「前は自分で洗えるだろう。それから、10分待ってやるから後は自分で頑張るんだな」

 その言葉を聞きながらボディータオルを受け取ったミラージュの前で無慈悲にシャワーカーテンを閉めてから、手についた泡を洗面台で流した俺は鼻歌まじりにバスルームから退散した。

 □ □ □

 隣に座ってテレビを見ているミラージュの横で持ち込んだラップトップを叩きながら、ふと時間を確認する。時刻は22時近い。
 あの後10分経ってバスルームに戻った俺を不満げな顔で見てきた男の身体を拭いてやり、髪を乾かしてやった後、ソファーに座っている間に男が片手で淹れてくれたコーヒーを飲みながら仕事をしていたらあっという間にそんな時間になってしまっていた。
 明日も午後一でまた【ゲーム】が開催されるのでそろそろ帰らないとまずいだろう。
 俺はひたすら構築していたプログラミングのキリの良い所まで打ち終えると、ラップトップの蓋を閉める。
 そうしてそんな俺に視線を向けたミラージュに向かって、静かに呟いた。

 「そろそろ帰ろうかと思う」

 えっ? という返事と共に途端に寂しそうな顔をした男が俺を見てくるのが視界に広がり、困惑と嬉しさを感じながらさらに言葉を続けた。

 「俺が居たらお前は何かと気を遣うだろう? 明日もまた【ゲーム】が終われば来るつもりだしな」

 「……ん、……そっか。そうだよな……明日もお前は試合あるしな……」

 みるみるうちに萎れた花のようになってしまったミラージュに、俺は思わず吐息を洩らす。
 本当にこの男はよくしゃべるクセに甘えるのが上手いのか下手なのかよく分からない。
 こんなに露骨に寂しそうな顔をされたら、このままそれを振り払って帰るこちらが極悪非道な人間にでもなってしまうかのようではないか。

 「……お前が良い子でいられるなら、このままお前の手が治るまでしばらくこの家に居ても良いが」

 こちらの出した提案に、またパッと顔色を明るく変えたミラージュは頷きながらこちらに答えを返してくる。

 「そりゃあ、もちろん! 良い子にするさ。ぜん……なんだったか? ともかく、頑張るぜ。しかし、それだとクリプちゃんが大変になっちまうかな……無理させてないか?」

 「別に無理はしていない。逆に往復する方が面倒だし、長くても1週間程度だろう? そのくらいなら何も問題はないさ」

 ミラージュの自宅に度々、泊まる事はあったので何日か過ごせるくらいの洋服は置いてある。
 【ゲーム】の時の戦闘服は施設の更衣室内に替えもあるし、施設にいるサポートマーヴィンに洗濯を依頼すれば次の日の【ゲーム】に間に合うようにやっておいて貰える。
 だから【ゲーム】に参加する事に関しては何ら問題は無かった。
 【ゲーム】以外の仕事もこのラップトップがあればなんとかなるし、足りないものがあれば適宜購入すればいい。
 それに帰ると言ったものの、こんな状態の男を一人で残すのも内心、心配していたのだった。

 「おぉ、そっか。じゃあ、甘えちゃおうかな……何せ今の俺は甘えん坊の小僧だからよ。いっぱい甘やかしてくれよ、おっさん」

 「ついに認めるのか? ……仕方がない奴だな。いいだろう。ほら、抱っこしてやるよ」

 そう言いながら俺の方に体を寄せたミラージュがこちらの腰に左手を回す。
 俺はクスクスと笑いながら、洗ったばかりで柔らかな質感を持つ甘い香りのする髪に顔を寄せて抱きしめ返した。
 そうして金属製のギプスに手を這わせてそこもついでに軽い手付きで撫でてやる。

 「……腕、早く治るといいな」

 「本当だよ。可愛い恋人を思いっきりハグ出来ないのがこんなにつらいなんて思わなかったぜ」

 男がそのままこちらの頬にしてくる軽く触れるようなキスを受け入れながら、髪を撫で梳かしつつ刈り上がった後頭部に指を這わせた。

 「まぁ、脚じゃなくてまだ幸いだったんじゃないか。自由に動けない方がきっと辛いだろうさ」

 「んー……そうだな。どっちにしたってすぐに治してパーフェクトミラージュ様に戻るからよ。もうちょっとだけ待っててくれよな、クリプちゃん」

 ミラージュのその言葉に、治ってしまえばこうしてこの家で男と一緒に居られる時間が少なくなってしまうのだろうか、とふとした疑問が浮かんだ。
 しかしそれは考えるべき事柄では無いだろうと、俺は自分の中にその思いを押し込める。
 恋人同士であるのは変わらないのだし、怪我が少しでも長引くように願うのは絶対に間違っている。

 「あぁ。そうなるのを願うさ。お前の体力ならすぐに骨もくっつきそうだしな」

 だからこそ、笑いながら静かにそう囁き返し、ミラージュの後頭部に這わせていた手を動かして顔を上げさせると、その厚い唇に触れるだけのキスを落としたのだった。






戻る