死が二人を別つまで




 カタカタ、カタカタと車輪の回る微かな音が響くのを聞きながら、まだ明け方近いソラスの小道を行く。
 周囲を砂漠という悪条件で囲まれているのもあってか、常にこの星は暑さを宿している。
 しかし朝や晩であれば話は別で、今のミラージュにとっては人の少ない早朝の散歩が何よりも大切な時間だった。
 それは、きっと自分の前に居るクリプトにとってもそうだろうと声をかける。

 「今日も相変わらず良い天気だよなぁ。それにしたって昨日の変な通り雨には参っちまったが……洗濯物が全部パァだったんだぜ? 俺の時間を返してくれよって話だ」

 そう言ったミラージュは、自身の着ている薄手のTシャツの裾をはためかせる風を送ってくる空に恨みがましい目で一瞥してからまた前を見る。
 しかしクリプトからの答えは返ってくる事は無かった。でもそれに関してミラージュは今さら気にしたりなどしない。
 それはもう当たり前の事だと認識されていたからだった。

 そうしていつもの散歩ルートを歩むミラージュの前に、これまた見慣れた小さな公園が現れる。
 子供が遊ぶ為の小さな遊具がいくつかあるばかりの公園で、その遊具も大して手入れをされていないのか金属の上には錆が浮いている。
 ミラージュの目的はもちろん、そんなお子さま向けの遊具たちでは無かった。
 その小さな公園の中に建てられた、なぜかそれだけは丁寧な造りをした背の高い時計台があり、その時計台を見ることが出来るベンチがミラージュのお気に入りの場所であったからだ。
 公園に入り込み、お気に入りのベンチに近づくと周辺の住宅街のどこかで朝食を作り始めたのか微かに風に乗って美味しそうな匂いが漂ってくる。
 その匂いに鼻をひくつかせたミラージュは笑いながら囁いた。

 「またどっかでソーセージ焼いてるな。こうも毎日で飽きないのかね? まぁ、俺も今日はホットドッグにしたから人の事言えねぇが。……クリプちゃん、ホットドッグ好きだもんな? 今日はちょっと味を変えてみたんだ」

 そう言ってたどり着いたベンチの横に押していた車椅子を止めてから、ミラージュはベンチの端に座る。
 そうしてクリプトの座る車椅子の後ろにかけていた鞄の中をゴソゴソと漁り、ホットドッグとマグボトルに入れたコーヒーを取り出したミラージュは、遠くまで澄みわたるような空に視線を向けた。

 「今日はどうしようか。……せっかくだし、見て見ぬふりをしてた風呂掃除でもするか……でも、めんどくせぇなぁ」

 ミラージュは面倒くささを表すように指先で頭を掻きながら、今日の予定を思案しつついつものようにそれらを口に出していく。
 その間も、隣のクリプトは一言も発する事無くただ黙って前を見ていた。
 開かれた黒い瞳はその虹彩に何も映してはおらず、感情を失ってしまっているかのようにただ、世界に目を向けている。
 そうして感情と同じように、車椅子の上から薄手のブランケットをかけられたクリプトの肘と膝から下にあった筈の四肢は一つ残らず失われていた。
 もはや自分で動く事も話す事も無くなったクリプトに視線を向け直したミラージュは、返答が戻ってこない事を気にするでもなくにこやかに笑いかける。

 「そういえば、明日もまた晴れなんだってよ。ソラスが晴れじゃ無い方が珍しいが、雨はお互い嫌いだもんな」

 そのままラップにくるんだ作ったばかりのホットドッグの包装を指先で剥がしたミラージュは、まだほのかに温かさの残るそれを口に含む。
 しっとりとしたパンに挟まれた焼いたばかりのソーセージと、カレースパイスの味が染みたキャベツに隠し味に少しだけマヨネーズを足したそのホットドッグは相変わらず美味い。
 やはり俺は天才だ、と内心思いながら、隣に居るクリプトを見つめた。
 …………そんな天才でも、この男を完璧に救う事は出来なかったのだが。

 不意に、過去の記憶が嫌になるほど奔流する。
 共に住んでいたクリプトが、ある晩、急に連絡を途絶えさせたのは今から1年ほど前。
 そこからミラージュはそれこそ自らの全てをかけてクリプトを探しだした。
 それは急に居なくなった恋人からの不可解なメッセージが通信デバイスに一つだけ届いていたからだった。
 どう考えても、"奴ら"の襲撃を受けたのだと思われるその暗号めいたメッセージに、ミラージュはそれこそ血を吐くような思いで毎日毎日彼を探した。
 使える手は何でも使ったし、他のレジェンド達の力を最大限に活用させて貰ってクリプトを1週間後、ようやく町外れの廃工場の中で見つけた時、クリプトは前腕と下腿部を刃物による物なのか乱雑な切り口で捥がれ、自白剤というには粗悪なドラッグを大量に服用させられたのか虚ろな目をして打ち捨てられていた。
 このままどこか遠くの地に埋めるまでしようと思っていたのだろうが、存外早い救助の手が伸びている事に気が付いたらしい"奴ら"はそこまで処理しきれなかったのだろう。

 他のレジェンド達が恐怖やあまりのおぞましさに悲鳴や慟哭の声をあげている最中、ミラージュは、クリプトの黒い瞳を真っ直ぐに見つめてから、様々な体液にまみれた身体を強く強く抱き締めていた。
 涙であるとか、悲鳴であるとか、そういう物を出す前にただこの男が受けた仕打ちを恨み、そうしてこれほどまでにクリプトを虐げた相手を確実に同じ目に合わせてから殺す事だけを考えていた。

 だが、相手も殺しのプロであり、その後どれだけ調査をしても決定的な足取りは掴めず、結局ミラージュとクリプトはほぼ同じタイミングで【レジェンド】という職業から足を洗った。
 パラダイスラウンジにしても、優秀なスタッフにほぼ全てを任せ、一応、オーナーとして在籍しているだけで今は殆ど関わっていない。
 そんな事よりも今は、この男を世話する事で自分の人生は保たれているからだった。

 途端に先ほどまで美味く感じていたホットドッグが冷めた塊に思えて口に入れていた分を飲み込むと、残った分をラップにくるんで元に戻す。
 そうしてマグボトルの蓋を開けて中に入っているほろ苦いコーヒーを喉奥に流し込む。
 カレーの風味とコーヒーの混ざったその味はまるで吐瀉物のように口の中でグルグルと反発しあい、その不愉快な感覚を無理矢理飲み下した。

 今日は嫌に昔を思い出す。
 最悪な一日の始まりだ、と思いながら横を見るとそこには相変わらず黙ったまま前を見ているクリプトが居て安心する。
 何も言ってくれずとも、側に居てくれるだけでいい。
 ミラージュはしばしその公園のベンチでいつものようにクリプトと一緒に過ごした後、街の喧騒が増えてきたのを嫌って来た時と同じ道を辿り自宅に戻る事にした。

 □ □ □

 「あー……疲れたなぁ」

 ミラージュが一人で色々と動いている間、牛革張りのソファーに置かれたクリプトの横にそうわざとらしく声をあげて座ったミラージュは今日のやるべき事をほぼ終えたからか、身体にのし掛かる疲労感を緩和するように目元を指で揉む。
 例えば、部屋や風呂の掃除であるとか、洗濯であるとか、それからクリプトをこんな風にした奴らの情報を集めるだとかそんな事だ。
 表の情報屋だけでは埒が明かないと、大金を払って裏方面に強いそれ専門の情報屋や探偵に調べて貰っているが、今日もあまり芳しい調査結果は聞けなかった。

 情報屋の中にはミラージュが調べて欲しい相手が強大であるが故に『復讐は何も産まない』などとくだらない戯れ言を宣う相手も居るには居たが、そういう相手の眉間にミラージュがウィングマンの銃口を突き付け耳障りな口を閉じさせたのは何度もあった。
 ミラージュが欲しいのはただ一つの情報だけで、それ以外の言葉などは欲していなかったからだ。
 そもそも、ミラージュが知っているクリプトは『復讐』の為に生きていた男であり、ミラージュが同じ目にあったとしたら、きっとクリプトも同じように行動をして、ミラージュの仇を取るだろう事は分かっていたからだった。
 情報屋として食っていくのなら、出来るのか出来ないのか、ただそれだけの返答をすればいい。
 こちらはそれこそ楽しい世間話をしにバーに呑みに来た客ではないのだから。

 そんなやり取りを数人として、その中でも何人か信用度の高い相手との取引を続けているのもあって、断片的ではあるが情報は集まってきている。
 しかしミラージュが探っている事を向こうも気が付いているだろうから、隠蔽工作の為にミラージュ自身がいつか消されてもおかしくはなかった。

 それならそれでいい。
 どうせ死ぬなら一人か二人くらいは巻き添えにして死んでやる。
 そう考えているミラージュは、クリプトが見つかったあの日から常に一見なんの変哲もない黒いチョーカーの中に、生命反応が失われた際に確実に周囲5メートル程の範囲を爆破させる事の出来る小型の爆弾を取り付けていた。
 ミラージュが【ゲーム】の時から同じスカーフを身に着けているのは周知の事実なので、私服の際に首元にずっと同じ物をつけていても怪しまれる事は無いだろう。
 そういう判断で首に取り付ける事にしたそのチョーカーは、細身のデザインでよく肌に馴染んだ。

 遠くから狙撃される可能性もあるにはあったが、その際は信頼している【レジェンド】達、数人に連絡がいくようになっているし、クリプトにこんな仕打ちをした相手が情報を握っている可能性のある相手であり【レジェンド】として有名なミラージュを白昼堂々、殺すとは思えなかった。
 それをすれば首から上が爆破されたミラージュの死体がその場に残ることになる。
 爆死による死体は後処理が他の死因より難しい。周囲に破片や血痕が飛び散るのもあるし、何よりも派手だ。
 それにどれだけ気をつけていても、音だけは隠す事が出来ない。
 そうして人の耳は普段聞き慣れない音ほど良く覚えている。
 だからこちらを殺るならきっとクリプトの時と同じように、秘密裏に事を運ぶのだろう。
 死体が見つからなければ、人が一人や二人死んだ所で『何も無かった』のと同義だからだ。

 そうして何故、そんなチョーカー型の小型爆弾などという危険極まりないテクノロジーがミラージュの手元にあるのかというと、クリプトのデスクを漁っていた時にたまたま見つけ出したからだった。
 いつか自分が使うかもしれないと思って制作されたそれをミラージュが使う事になるとはきっと隣のクリプトも思っていなかったに違いない。

 そんな事をずっと続けていた一年という月日はミラージュにとってはとても苦しく、そうしてあっという間に過ぎ去る短い日々に感じられた。
 それなのにクリプトの件で奔走していた間に、母は完全にミラージュの事を思い出せないようになっていた。
 記憶障害の病魔に冒された人間にとっては、健康な人々と違って一年は十年ほどの経過になるのだろう。
 クリプトの事で痛む頭を抱えながらも久々に病室に行ったミラージュを出迎えた母は、もうろくな会話も出来ない程にボンヤリとしており、ミラージュが病室に入ってきた事さえも気が付いていないようだった。
 まるで今のクリプトと同じように。

 隣に居るクリプトに醒めた視線を向けたミラージュは、もう何度考えたのかわからない思考を繰り返す。
 感情を忘れ、動くことの出来ない身体を抱えて、それでも生きていく意味はあるのだろうか。
 ただ、規則正しく生命活動を行うだけの生物は果たしてあの男であり、人間と呼べるのか。
 分からなかった。嘔吐し、血が出る程に全身をかきむしって爪が痛んでしまっても、その答えは見つからない。
 どうせ"奴ら"に見つかって死ぬなら、俺が死ぬ前にコイツを殺して俺もその隣で死ぬ方が余程、幸せなんじゃないのだろうか。

 その細い首に手をかけてしまうのは余りにも容易くて、ミラージュは震える手を伸ばしかける。
 殺ってしまえ、こんな姿のコイツを見続けるのが辛いのなら。
 そんな自分の中で自分と同じ声音で囁く声が聞こえる。
 悪魔の囁きだ、とミラージュはとっくに理解していた。
 俺の『復讐』を邪魔しようとしてくる、絶対的な正論を吐く地獄からやってきた悪魔。

 細い首を絞めて楽にしてしまってから、自分も同じように銃で頭を撃ち抜いて死ぬのがきっと一番楽になれる。
 けして途中で指の力を抜いてはいけない。しくじるなよ、殺るなら痛みは与えずに一発で。
 …………さぁ、これでやっと二人一緒になれるんだから。

 「ッ……うるせぇなぁ!!!」

 誰もいない空に向かって怒鳴り付けたミラージュは、伸ばしかけた手をソファーの前に置かれたローテーブルに思い切り何度も何度も叩きつける。
 木と拳が打ち鳴らす硬質な音色と、その度にミラージュの右手は浅黒い肌でも分かる程の内出血と打撲痕を残していく。
 じわじわと広がっていく痺れと共に自身の手がどす黒く変色していくのを見ながら、ミラージュはいつもの調子でクリプトに声をかけた。

 「あぁ、ごめんな、クリプちゃん……ビックリさせちまったよな。いきなり怒鳴るなんてとっても優しい俺らしくも無いって、そう言いたいんだろう? 分かってるさ、もちろん、お前に怒鳴ったんじゃないから安心してくれよ。大丈夫、ちょっとだけ、ちょっとだけ……疲れてただけなんだ」

 横に居るクリプトに優しく言ったミラージュはすぐに笑みを取り戻す。
 そう、昨日は洗濯物がダメになってしまったし、夜は上手く寝付けなかった。
 だから俺はこんなに疲れていて、それでもって馬鹿みたいな考えに囚われそうになった。
 ただ、それだけの話なのだとミラージュは嫌に動きを速めた心臓の音を聞きながらそう思う。
 それでもクリプトは何も言わなかった。ミラージュの存在すら認識していない。
 これは時折起こる出来事で、ミラージュ自身ももうその衝動には慣れきっていた。

 「はぁ、……ハハ……なぁ、クリプト、今日は昼飯、何食べたい? ポークチョップは流石に時間がかかって面倒だから、楽な……なんだろうなぁ……うーん、……あぁ、そうだ、タコライスやパスタなんか良いかもなぁ。そうしようか」

 頭の中で色々なメニューが回っては消えていく。ミラージュはその瞬間が好きだった。
 クリプトが好きなメニューを作ってやろうと考えを及ばせている時は、他に何か無駄な事を思う暇が無くなるからだ。
 余計な事を考えるのが自分の良いところでもあり、悪いところだ。
 ミラージュはそんな事を思いながら、窓から射し込む光に照らし出されたクリプトの横顔を見つめる。
 キラキラと柔らかく光るその姿は美しく、例え言葉を発さなくともミラージュの心を優しく受け止めてくれるのだ。

 「んー、じゃあ作ってくるからよ。大人しく待っといてな、クリプちゃん」

 今日のランチはタコライスにしよう。
 そう決めたミラージュは、隣に居るクリプトに声をかけてダイニングに併設されたビルドインキッチンに向かった。

 □ □ □

 ミラージュが静かにクリプトに向かって会話をしながら、日の落ちかけた窓の外を眺めていると不意に自宅のチャイムを鳴らす音が部屋に響く。
 ビクリと震えた身体を自分で嘲笑ったミラージュは、ゆっくりと立ち上がるとドア前を映すカメラの映像を投影しているモニターに佇む人影を確認した。
 そこには【レジェンド】の一人であり、自分の友人でもあるレイスが立っており、ミラージュは自身の履いているデニムのベルトに取り付けたバックサイドホルスターに携行しているウィングマンにかけていた手を外す。
 彼女がこの家に訪ねてくるのはいつぶりだったろうか。
 確か3ヶ月以上は経っていたような気がする。
 ミラージュはモニターに映るレイスに向かって会話ボタンを押してから声をかけた。

 「よぉ、久しぶりだなぁ! 今開けるから待っててくれ」

 その声を聞いたらしいレイスはモニターの中でただ黙って頷いた。
 ミラージュはそのままレイスの居る玄関ドアの前に廊下を進んで向かうと、ドアのロックを解除する。
 するとそこには【ゲーム】での戦闘服とは異なり、黒いトップスとスキニーデニムというシンプルな格好をしたレイスが佇んでいた。
 久々に会うクリプト以外の【レジェンド】に、ミラージュは歓迎の意を示そうと声を上げる。

 「どうしたんだよ、急にさ。とりあえず入れよ! ……ちなみに……」

 誰かにつけられたりしてないよな? と小さく問いかけた言葉にレイスは黙ったまま、また頷く。
 並行世界に居る別の自分の声を聞く事が出来る彼女を尾行出来る人間など居ないのは分かっていたが、一応ミラージュは確認の為に聞いただけだった。
 彼女もまた、その立場から付け狙われる事は多い。
 ミラージュはレイスをドアの中に迎え入れると、そのまま廊下を進んでまたダイニングへと戻る。
 玄関先で靴を脱いだレイスはそんなミラージュの後ろをまだ黙ったままついてくるだけだった。

 「あー、コーヒーでいいか? それとも、紅茶?」

 「……お構い無く。少し話をしに来ただけだから」

 「そう言うなって、クリプちゃん以外に話し相手が居なくて……ってまぁアイツはあんなに皮肉屋だったクセに話すのが苦手になっちまって、話し相手って感じでもないな。ともかくせっかくだしお茶でも飲んでけよ」

 レイスの方に振り返ったミラージュのそんな冗談めかした言葉に眉をしかめたレイスは、じゃあ、コーヒーを、と言ったのでミラージュは先にソファーの近くにダイニングテーブルの横に置いてあるチェアを持っていき、レイスに座るように促す。
 どうせ話をするのなら三人で顔を付き合わせて話をした方が良いだろう。
 ミラージュはそう思ってレイスにそこの場所を勧め、彼女はそのチェアに黙って腰掛けたのだった。

 ミラージュはそのままキッチンに向かうと、自分用とレイス用に手早くコーヒーを作る。
 確かレイスはブラックで飲めた筈だと湯気の立っているマグカップをキッチンから持ち運び、ソファー前に置かれたローテーブルの上でレイスの手が届く範囲に片方のマグカップを置いてやる。
 そうやってマグカップを置いたミラージュの拳に残る激しい内出血に気が付いたらしいレイスは、そっと目を細めたものの何も言う事は無かった。

 「熱いから気を付けろよ」

 「……ありがとう」

 「お前からありがとうって言われると、そんなに経ってないのに【ゲーム】の時を思い出すな。懐かしいぜ」

 そう言って笑ったミラージュは自らも持っていたマグカップに口をつける。
 ミラージュが【APEX】を引退してからもう10ヶ月程経つ。
 余りにも急な【レジェンド】二人の連続した引退に様々な憶測や噂が飛び交っていたのは知っていたが、そんな民衆も新たに魅力的な【レジェンド】達が現れればすぐにそちらの話題に移っていき、引退した【レジェンド】達の話題など口にのぼる事も少なくなる。
 人の記憶など曖昧で全く信用のならない物だとミラージュは良く知っていた。
 そんな笑みを浮かべたミラージュに、レイスは言葉を選ぶようにしながら話し出す。

 「貴方が居なくなって、みんな寂しがってるわよ。特に、パスファインダーなんて常に貴方の心配をしてる」

 「おぉ、そうか。……確かにパラダイスラウンジにも近頃は顔を出してないからなぁ。全然パスとも会えてないし、たまには会いにいってやらないとな」

 そうしてさらにミラージュは言葉を続ける。

 「それにしても、お前も凄いじゃないか。ちょっと前の試合で途中から一人だったのに、キルリーダーからのクレーバーでチャンピオン! あれは、あっ……あ? ……とにかく見てて最高だったぜ」

 「……たまたまよ。条件が良かっただけ」

 「お前はすぐそうやってカッコつけるんだから。なぁ、クリプト、お前もそう思うよなぁ」

 この間のレイスは本当にモニター越しに見ていても素晴らしい動きをしていた。
 そんな話を隣に居るクリプトに投げ掛けた途端、レイスの目が強く閉じられる。
 そうして、何かを覚悟したかのように目を開いたレイスは女性にしては低くも艶のある声でゆっくりと名を呼ぶ。

 「……クリプト……」

 「あぁ、クリプちゃんもそう思ってるに違いない。あの日は二人で一緒に見てたんだ」

 「……ねぇ、ミラージュ」

 ふふ、と笑うミラージュに、今度はミラージュの名を呼んだレイスは仄白い瞳でミラージュの目を見据える。
 その目には深い悲しみと、憐れみの情が混ざったような光が灯っていた。

 「…………貴方、もう戻ってはこられないの?」

 「……戻るって……【APEX】にか? それは無理だろ。俺には他にも色々やらなきゃいけない事があるんだよ。コイツの世話もしてやらないとだし」

 「違うわ。貴方も本当は分かっているんでしょう? ……エリオット」

 【ミラージュ】とは呼ばず、ミラージュのファーストネームを囁いたレイスは迷うような素振りを見せたものの、そのまま一言ずつゆったりとした口調で言い含めるように言葉を紡ぐ。

 「……あの日、私達は彼を……クリプトを見つけた。それは確かだし、貴方も居たわよね」

 「でも、クリプトはあの時にはもう手遅れだった。失血のショックと……使用された自白剤の影響もあって、彼はもう、事切れていた」

 「葬儀の後、貴方は途中で意識を失った。……そうしてそれから貴方は【APEX】を引退し、あの日の彼を模したそのホログラムと暮らすようになった」

 ぐ、とそこで一度強く目を閉じたレイスはソファーに置かれたホロ装置から投影されたおぼろげな光を纏ったクリプトの死体の映像に目を向ける。
 ミラージュのホログラムはまるであの日のクリプトをほぼ詳細に再現しており、実際に触れなければそれがホログラムであるとは瞬時には気が付かない。
 あの日のように血液にまみれた悲惨さはなく、綺麗な白いワイシャツを纏った姿は彼があのまま死んでいなければ、恐らくあり得た光景だっただろう。
 それでも、血の気のない肌や体にライトの明かりが重なればその影はハッキリとはソファーには映らずにそれが偽物である事が分かる。
 レイスは話している間に自然と俯く顔を止める事はなく、手にもったマグカップに視線を向けたままさらに言葉を続けた。

 「ねぇ、エリオット。最初は私達も貴方の傷がそれで少しでも……ほんの僅かでも、癒えるのならそれで良いと思っていたの。でも、貴方はどんどんと窶れていって……」

 「覚えていないかもしれないけれど、貴方が自殺を図って病院に運ばれたのは少なくないわ。……その度に貴方は衰弱して、それでも、彼の名を呼ぶのよ。……『クリプト、アイツが待ってるから』って」

 もう、止めにしましょう。と言ったレイスの声は酷く震えていて苦しげだった。
 まるで酸素を忘れて深い海に沈んでしまったかのようなその声は薄暗さを残した部屋の中に沈殿していく。

 「レネイ」

 しかしそんなレイスの普段は呼ばれるのを嫌がるファーストネームを呼んだミラージュの声は氷のように冷たかった。

 「話ってのはそれだけか?」

 恐る恐る顔をあげたレイスの視線の先には、先ほどまでの貼りつけた笑顔を剥がしたミラージュがジッとレイスを見つめている。
 その顔に映る表情は、『無』そのものだった。
 悲しみや憎悪などそれらを通り越した後に残る、深い絶望を受け入れた者にしか出せない表情でレイスは背筋がゾッとする感覚を知る。
 お調子者で面倒な部分もあるが、人一倍他人との関わりを大切にしていたミラージュがこんな顔を見せるというのは一体どれほどの苦痛をその身で堪え凌いだのだろう。
 堪え凌いだというよりも、どちらかと言うと受け入れるのを拒否し続けているのかもしれない。
 どちらにしても、今のエリオット・ウィットという男が醸し出す雰囲気は、触れた相手を誰であっても容赦無く殺すだろうくらいの殺気を放っている。
 それは友人であるレイスだとしても関係無いだろう。これ以上、不必要な発言をすればミラージュに殺されかねない。
 レイスはその殺気に気圧されるように、緊張から吐き出される息を洩らした。

 「悪いが、それだけなら帰ってくれないか。……折角来て貰ったのに悪いが、これからクリプトと夕飯の時間なんだ」

 クリプトの名を出した途端、ミラージュの周辺に渦巻いていた殺気が微かに和らぐ。
 まるで本当にその場所に彼が居て、愛しい相手に向けるような視線をしているミラージュを見たレイスはこれ以上の問答はしても無意味だと悟った。
 どんどんと深い闇に落ちていく彼を救う手立てを、今の自分では持っていない。
 レイスは両手で強く持っていたマグカップをローテーブルに置くと、座っていたチェアから緩慢な動きで立ち上がる。

 「……邪魔してごめんなさい。そろそろ帰るわね」

 「あぁ。また来いよ、今度はパス達も連れてさ! 大体この時間には家に居る筈だからよ」

 「……えぇ……また、来るわね」

 そう言ったレイスと同じように立ち上がったミラージュの顔にはもう先ほどの『無』の表情はカケラも残っておらず、いつも通りの笑みを浮かべていた。
 その笑顔が逆に酷く恐ろしいモノに見えて、レイスはまるで血に飢えた巨大なプラウラーの前を何の武器も持たずにどうにか気が付かれないように祈りながら気配を殺して歩いている気分になる。
 僅かでもこの男の逆鱗に触れれば、いくら自分でもすぐに逃げる事は出来ないだろう。
 【レジェンド】として共に戦ってきたレイスにすれば、ミラージュの戦闘能力がけして低くないのは良く分かっているからだった。
 性格や慢心などから失敗をする場面が多いが、それらの要素が排除されている上に相手の自室となれば、ミラージュに自分が勝てる見込みはかなり低い。

 「でももし今度来る時は連絡くれよな。まぁ、急な訪問も悪くは無いんだが」

 「分かったわ。……次に来る際は連絡してからくるわね」

 そう言ってダイニングのドアを抜けて廊下を進み、脱いだ靴を履いたレイスはこちらを見送る為に、とドア前まで来たミラージュの細められた瞳がドアを閉める直前、冷たい視線で自分を見ていたのを理解して、足早にその場から離れていた。

 そうしてレイスが居なくなった後、一人ドアの前に佇んでいたミラージュは肩を揺らしながらダイニングへと戻る。
 そのまま先ほど座っていた場所に座り直すと、その顔にはもう笑顔は浮かんでいなかった。
 何もない天井を見据えたままの瞳はライトの光を嫌うように伏せられる。

 「なぁ、クリプちゃん。……俺たちは凄い大変な目にあったよな。……本当に嫌って程、近頃は最悪な事ばかりだ」

 「でもさ、きっと大丈夫だ。まだ俺たちはこれから幸せになれる筈だ。探せば方法はいくらだってある」

 「だから……俺の前から居なくならないでくれ……」

 自分に言い聞かせるようにミラージュの唇から呪いの言葉が吐き出されてはその耳を塞ぐ。
 ――――人間の記憶は、本当にとても曖昧で信用に値しない。
 それをミラージュはよく知っていた。そうして、曖昧であるからこそ、意図的に欺き騙す事が出来るのもまた、よく理解していた。
 人を騙すのが得意であるという事は、自分自身をも騙す事が可能であるという事で、だからこそ自分は【ミラージュ】なのだと薄く嗤う。
 そうして次に瞼を開けた時、ミラージュの目にはもう何の疑問も残ってはいなかった。

 □ □ □

 カタカタ、カタカタと車輪の回る微かな音が響くのを聞きながら、まだ明け方近いソラスの小道を行く。
 ミラージュにとってこの時間に行う散歩はとても重要な意味を持っていた。
 それは周りに人が居ない事、光の射し具合が日中よりも少ない事、そうして眠りの浅い自分を慰める為。
 小さなホロ装置しか載っていない車椅子はその軽さ故に地面を進む度にカタカタという小さな音を立て、ホログラムは真夜中よりもこの明け方の時間帯が一番、美しく鮮明に見える。
 夜中の殆どを"奴ら"への恐怖と憎悪に支配されるミラージュにとって、この僅かな時間だけは朝方の新鮮な空気を吸い込む事で心に深く立ち込めた靄が晴れるような気がするからだった。

 「今日も嫌味なくらい快晴だな。……もう少し涼しくなってもいいんだが。まぁ、それは無理な話だろうけど」

 昨日と同じ道を進み、公園にたどり着いたミラージュはまるで昨日の再現のように車椅子をベンチの横に置くと、そのベンチの端に座る。
 そうして車椅子の後ろにかけた鞄から、ラップにくるまれたマフィンとマグボトルを取り出したミラージュは呆れたように声を上げた。

 「おい、またソーセージの匂いだ! どこの家だか分からないがもう1週間以上同じメニューなんじゃないか? もはやいつまでソーセージでいくのか気になる所じゃないか?なぁ?」

 ペリぺリとラップの端を指先で捲ったミラージュは、手に持ったマフィンをゆっくりと唇に持っていくと一口齧る。
 ふわふわのスクランブルエッグとベーコン、レタスの入ったケチャップ風味のそれを食べたミラージュはその唇の端についたスクランブルエッグを指先で拭う。

 「それに引き替え俺は毎日ちゃんと美味い朝食を用意しているんだから偉いよな。褒めてくれたっていいんだぜ」

 ニヤリと笑ったミラージュはさらにマグボトルに手を伸ばすと、今日はカフェオレの入ったそのマグボトルの蓋を開けてから唇に触れさせ傾けると中に入っているカフェオレを飲み込みマフィンの食感を消し去る。
 昨日の調和の無い組み合わせよりは今日の方が良い、と思いながら隣に居るクリプトに目を向ける。

 「さぁ、今日はどうしようか。クリプト。……お前がしたい事、なんだってしてやるよ」

 そう言って優しい笑顔を浮かべたミラージュは、今日の予定を考え始める。
 たまにはパラダイスラウンジに行っても良いし、丁度、腕利きだと噂の探偵を紹介して貰ったからソイツにコンタクトを取っても良い。
 やりたい事ややらなければならない事はまだまだ数多く残っている。
 そんな風に思うミラージュが一人で楽しげに今日の予定をどうするかを呟いている間、隣に居るクリプトは黒く濁った瞳のまま、前を見据えてけして動く事は無かった。

-FIN-







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