Good bye, My Little Heart.
――――1
気が付いたのは本当にただの偶然だった。
それは今まで自分が他者に追われながら生きてきたからだろう。
その上で、そこら辺の道を行く人々よりも常に周囲を警戒しながら生活をしている。
だから、暮らしているアパートメントの周辺に居る時。日によってまちまちではあったが、確かにそのタイミングで何者かに、俺は見張られていた。
初めは【レジェンド】を追いかけるゴシップ誌のパパラッチかと思ったが、そういうワケでも無いらしい。
もしもそういう奴らが付近をうろつけば、確実に俺は察する自信があるからだ。
ああいう手合いの人間は隠れるのが上手いとはいえ、どうしたって一瞬のシャッターチャンスの為にこちらに顔を出さなければならない瞬間が存在する。
それに、ミラージュと同じアパートメントに越した事が世間に知られたからといって、同じ部屋である事を言わなければ、ただの偶然だと言い訳もつく。
少しばかり無理があるかもしれないが、このアパートメントは【ゲーム】の際に使用される施設からも近い上に、設備や立地も良い。
また、そんな内容を記事にした時点で俺がその記事を書いた記者を突き止め、ネット上から記事自体を"ちょっとした手違い"で削除させてしまうなんて造作も無い事だった。
【レジェンド】である【クリプト】は、常に品行方正でくだらないゴシップやスキャンダルなどが存在しない。そういう風に演出している。
そもそもの大前提として、血気盛んで賭け事が好きな自由奔放さが売りのソラスの住人達にとっては、【レジェンド】が誰と住んでいるかという情報よりも、【ゲーム】でどれだけ活躍出来るかという情報の方が売れるというのは、この星で記者を目指す人間の大半が理解している事柄だった。
だからこそ、こちらをおそらく見張っているであろう相手への不審感が募っていくのは仕方の無い事だった。
鋭い視線、激しい殺意すら感じるその視線の先には誰も居ない。
いや、見えないのであれば、その相手がどこに居るかというのも厳密にはわからない。
しかも決まって共に暮らしているミラージュと部屋に戻る時や、アパートメントから出てくる際にその視線を感じる。
ともかく不気味ではあったが、ただ自分の気のせいだと言われてしまえばそれで終わる。
"奴ら"のせいで気を張っている時間が長い自分が勝手に作り出した妄想だと思えば、納得も出来る話だったからだ。
なによりも共に暮らしているミラージュに不安を抱かせたくなかった。
この幸せな生活を壊したくない。だからきっとただの気にしすぎだろう。
そう、思っていた。
『クリプト、お前の秘密を知っている。バラされたくなければ今すぐここから消えろ』
昨夜、ポストに投函されていたあの紙を見るまでは。
筆跡で追跡されないようになのか、敢えて全ての文字が定規でも当てたように直線的に書かれたその文章はA4サイズの白い紙の大半を埋める程の巨大な字であり、異様さはすぐに分かった。
しかし"奴ら"にしては驚くほどに原始的なやり方であり、もしも"奴ら"だとしたら、わざわざこんな回りくどい警告をしてくる筈が無かった。
殺したい相手にこんな風に先に脅しかける殺しのプロなど居ない。
それをすれば相手に無駄な警戒心を与え、ミッションの成功率が下がるからだ。
何よりも文面を見る限りでは俺を殺そうというよりも存在を嫌がっている内容で、余計に"奴ら"とは何の関係も無い物にしか思えない。
では、あれは一体なんなのだろう。
「クリプちゃん、どうかしたか?」
俺が座ったままぼんやりとしているのを不思議に思ったのか、ダイニングに併設されたビルドインキッチンで作っていた朝食を持ってきてくれたミラージュが問いかけてくる。
本来ならこの話をすべきなのかもしれない。けれど相手が名指ししてきたのは俺だけだ。
"奴ら"以外の相手に恨みを買うような行動は極力しないように優等生を演じながら生活をこなしているつもりではあったが、それだってどこで何の恨みを買うかなど誰にもわからない。
人は案外簡単に他人へ憎しみや嫌悪の矛先を向けるからだ。
…………つまり、なんの関係も無いだろうコイツを巻き込むわけにはいかない。
「……いや、なんでもない」
「そうか? もしかしてまだ寝惚けてんのかと思ったぜ」
カラカラと笑ったミラージュは、ダイニングテーブルに次々と料理をサーブしていく。
今朝の朝食はベビーリーフの上に乗せられたクルミとカボチャのサラダと昨日の夕食の残りであるチキンのソテー、そうしてミラージュが気に入っているブーランジェリーで購入してあったトースターで温めなおされた大きなクロワッサンと、食べやすいようにカットされたオレンジが3切れ。
それらが白いワンプレートに綺麗に盛り付けられ、その横には湯気の立ったコーヒーカップ。
もうこの男と暮らし始めてだいぶ経つが、ミラージュという男は本当に料理に関してはあまり手を抜かない人間だった。
一人で暮らしていた時の自分の朝食など、コーヒー1杯か、良くてオートミールを食べるくらいだったというのに、今ではすっかりこのくらいの朝食が当たり前になってしまっている。
食事という物にそこまで思い入れもなかった筈なのに、ミラージュが作る料理の美味さを知ってしまった後は自分自身でも舌が肥えていくのが分かってしまうくらいだった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
サーブし終えて、自分の座るチェアの向かい側に置かれた同型のチェアに座ったミラージュにそう言う。
そうして二人でカトラリーを手に取ると、穏やかないつもの朝食の時間が始まった。
カチャカチャという皿とフォークの当たる音を聞きながら、何重にも生地が重ねられたバターの風味が強いクロワッサンを齧る。
「今日はトリオだったよな? 明日がデュオだっけ?」
「明日はデュオの後にトリオ戦もあった筈だ。朝と夕方でな」
「1日2試合は結構キツいよなぁ。あぁ、でも明後日がやっとオフだから、ちょっとくらい無理しても平気だろって感じか」
ふむ、とそう自分で発した言葉に納得した様子のミラージュはコーヒーカップを手に取るとそこに入ったコーヒーを飲む。
【ゲーム】が行われるのは基本的に一日1回から2回程度だ。
それは【レジェンド】達の怪我の治療や体力管理の名目上、そう決められている。
また、一部の人々の間では【ゲーム】の結果を予想する賭けが行われており、行われた試合内容が納得のいくものでないと運営側に見当違いのクレームをつける輩も数多くいるのだ。
そういった面倒事を運営側も都度対応しているらしいが、【レジェンド】達などよりも余程、生死に関わるような奴らからすれば、クレームのひとつもつけないと気が済まないらしい。
俺からしてみれば、他人の勝負に自分の人生の行く先や生死に関わる程の大金を賭けるなど、気が触れたバカの所業としか思えない。
そんな風に思いながらカボチャのサラダを口にいれると目の前のミラージュが顔をあげる。
「じゃあ今日は軽くパラダイスラウンジに顔出してくるな。明日は【ゲーム】の後に店に立つのはキツそうだし、明後日は……なぁ?」
「……了解」
ミラージュの瞳に混ざる熱っぽい視線の意味を理解して、両方の意味での了承の意を伝える。
オフになる度に、飽きてしまうんじゃないのかと思うくらいに触れあうのは、もう暗黙の決め事として互いに納得していた。
別にオフじゃなくともする事はしているのだが、次の日の心配をしなくて良いというのは互いの箍を外すには充分な理由になる。
頭の中に甦りそうになる前回のオフの際にあった甘い触れ合いの記憶を追い払って、小さく切られたチキンを口に運ぶ。
昨日食べたのと味がそのままかと思いきや、少しだけ味を付け足したのか僅かに変えてあり、そのひと手間が男の料理に対してのまめまめしさを物語っていた。
「夕飯までに帰ってこられないと思うから、ちゃんと先に食べておけよ。ゼリーだけとかじゃダメだぞ。ちゃんと分かってるよな?」
「ガキ扱いをするな。飯くらい自分で何とか出来る」
「そう言って俺が居ない時はロクなもん食ってないの知ってるんだからな! ミラージュ探偵の目はごまかせないぞ」
「……たまにはジャンクな物が食いたくなるんだ」
「ジャンクな物が美味いのは知ってるが、放っておくとお前の場合はそれだけで一日済ませるからダメなんだよ。だいたいジャンク品ってのはたまに食べるから美味いのであって常に食べるもんじゃないの! それくらいは知ってるよなー? おっさーん」
「分かってる」
まるで親のような事を言う、と思ったがそれを口に出すのは止めておいた。
こちらがその後、黙りこんだのを拗ねていると捉えたのか、オレンジの皮を指先で剥いたミラージュは果汁を溢さないようにその果実を口に入れて飲み込むと、さらに言葉を続ける。
「夕飯、作っておいてやろうか? 材料まだ余ってるから今から簡単なやつは作れるだろうし」
「だから良いって。……もう、お前は心配し過ぎなんだよ。俺のが年上なんだぞ、小僧」
「それだけ昔のお前の食生活の乱れがおかしかったって話だ。そのうちこ、……こつ……骨が弱くなって【ゲーム】で高い所から飛び降りた途端に折れるんじゃないかって思うくらいだったからな」
「……俺は誰かさんと違って、ジャンプキットの点検はしっかりとするタイプなんでな。そんな心配は無用だ」
「それを今持ち出すのは無しだろ……」
皮肉めいた笑みと共にそう言うと、参ったなという顔をしたミラージュが囁く。
俺とミラージュがこうして同居するようになったそもそものきっかけは、ミラージュがジャンプキットの点検を怠って腕を怪我した事から始まっている。
もうだいぶ前の話ではあるが、その話を持ち出されるのはミラージュとしては痛い所を突かれたような気になるらしい。
俺としては当初そんなつもりが無かったとはいえ、あの事故が無ければこうしてミラージュと一緒に住んでいたかも怪しい事を考えると、悪い思い出では無いのだが。
そんな事を思い返しながら自分自身もオレンジの皮を剥いてささっとその鼻に抜ける爽やかな匂いと味を堪能する。
そうしてオレンジの皮以外すっかり無くなった皿を見ながら、コーヒーカップに口をつけた。
「明日もあるからなるべく早めには帰るつもりだけど、遅くなりそうなら連絡する。もし眠かったら先に寝ててくれ」
「あぁ。お言葉に甘えてそうさせて貰うよ」
「『早く帰ってきてね、ダーリン』って言ってくれないのな。俺は出来るならお前と一緒に寝たいんだぞ、スイートダーリン?」
「……セキュリティの認証を解消しとくか」
ボソリと呟いた言葉に、ひでぇな!? とわざとらしく声をあげたミラージュに片眉をあげてみせる。
寂しくないかと言われれば、まぁ、寂しい。
でも、別に子供でも無いのだし、隣にミラージュが居ないからといって眠れないというワケでもない。
それに、今日、この男の帰宅が遅いという事はあの謎の手紙に関して一人でゆっくりと調べる事が出来る。
この問題は自分自身で内密に処理しなければならない。
しかし、流石に少しは素直になってやるか、とチェアから立ち上がりそれぞれが食べ終えたプレートを重ねながらミラージュの顔を見遣って呟いた。
「本当にあまりにも遅く帰ってくるなら、店を出る前に連絡しろよ。下の駐車場くらいまでなら迎えに行ってやるから」
「クリプちゃんは本当に素直じゃねぇんだから、ったくよぉ」
「……さぁ、もう時間が迫ってるんだから早く支度しろ」
言外に極力お前が帰ってくるまで起きて待っている、と伝えてやる。
途端にニコニコと笑みを浮かべながらそう言ったミラージュから視線を外すと、いつもどおり洗い物をする為にキッチンへと向かった。
別に、遅くなった男が一人で部屋に帰る際に何かあったりしたらこちらの夢見が悪いからであって、出来るだけ早く会いたいからだとかそういうワケではない。
それに脅迫文の対象が俺であったとしても、ミラージュに何かが起こらないという確証もなかった。
だが、ミラージュと俺は【ゲーム】で使用するサポート用の施設までは車で移動するし、ミラージュの第一の職場であるパラダイスラウンジへも車で行き来している。
ミラージュには伝えていないが、ミラージュの持つ通信デバイスには簡易的なGPSが取り付けてあり、万が一の時はそれを作動させれば位置を把握する事が出来るようになっている。
こそこそと自宅のポストにあんな古典的な脅迫文を入れるような人間が、パラダイスラウンジという衆人環視の場所で何かを起こすとは考えにくかった。
だからもし何かを仕掛けてくるのなら、このアパートメント周辺だろうと冷静に分析をする。
昨日の夜に帰宅した際に手紙を見つけた時はかなり動揺してしまった自分が居たが、この生活を守る為だと思えば妙に頭が冷静さを保とうと稼働する。
問題はこの自宅が謎の人物にバレている事だけだが、アパートメントのオートロックのかけられた自動ドア内にまで入り込む事は難しいだろう。
もしも仮にそこを突破したとしても、この部屋にはいくつものセキュリティ装置が取り付けてあり、それを潜り抜ける事は不可能だ。
そう自分自身に言い聞かせながら皿を洗っていく。とにかく普通に生活をしなければ、相手の思うつぼだろう。
訪れて欲しくなかった『万が一』の為に、ミラージュの通信デバイスのGPSは夜の間だけ作動させておく事を決めた俺は、皿を洗い終えると【ゲーム】に行く為の支度をし始めた。
□ □ □
今回の部隊メンバーはヴァルキリーとランパートという昔からの顔馴染みコンビと一緒の部隊だった。
いつもならすぐに戦いたがるランパートをヴァルキリーが上手い事制御してくれた事もあり、着々と順位を伸ばしていったが、最後の最後、リングの収束と前方の敵部隊との合間に挟まれてしまい一気にダウンして終了してしまった。
だが、3位という悪くない結果で終わったのでまずまずといった所だろう。
悔しそうにしているランパートとヴァルキリーとドロップシップ内で健闘を讃え合った後、輸送されて施設に戻ってきた時には、先に帰還していたミラージュはシャワーを浴びて着替えも済ませて施設の廊下で俺を待っていた。
「お疲れさん。惜しかったなー、あの場所が取られてると流石に厳しいよな」
「あぁ。でも善戦した方だろう。物資もあまり潤沢じゃなかったしな」
「……確かに、お前にしてはルート選択がいつもと違ったような気がしたが……」
そう言われて内心、良く見ているなと驚く。
正直なところ、途中であの手紙の内容が頭を過ぎって少し上の空になってしまっていたのは否定できない。
リング位置の確認を怠るなどという初歩的なミスはしていないが、本来なら避けて通るだろう道を通ってしまったせいで不必要に戦闘をしてしまい物資を減らしてしまった。
だが、それには同じ部隊であるヴァルキリーもランパートも一切気がついてはいないだろう。
こんな些細な違いに気が付くのは、俺の戦闘パターンやルート選択を熟知しているコイツにしか、分からない筈だ。
そうしてそれを中継カメラ越しに見ているだけで理解した男に、誤魔化すように微笑む。
「敵の位置を読み間違えたんだ。……そういう日もある」
「そういう日も、あるか。……まぁ、そうだな、お前だって読み間違える時もあるよな」
「とりあえずシャワーを浴びてくる。お前は先に出るか? 料理の仕込みもしないといけないなら、もう行かないとなんだろう」
そう問いかけ、ミラージュからの答えを聞く前に、廊下の先にある談話室からパスファインダーが顔だけを出したかと思うとミラージュを呼ぶ音声がした。
恐らくパラダイスラウンジに向かうのであれば、一緒に戻ろうという誘いなのだろう。
俺とミラージュが恋人だという事は他の【レジェンド】達には絶対に知られないようにしようと取り決めていたので、俺はミラージュにそっと目配せをする。
それだけでこちらの言いたい事が理解できたらしいミラージュが名残惜しそうな瞳をしながらも、パスファインダーの居る方向へと進む後ろ姿を見送る。
あまり二人きりで話し込むと、何かあったのかと疑われてしまう。
そうして今の俺は話せば話す程にボロが出てしまいそうで、パスファインダーに少しだけ感謝していた。
いくら気にしていないフリをしていても、自宅がバレており、なおかつ名指しの悪意を向けられるのはやはり気分が悪い。
早く決着をつけるべきだな、と俺は急いでシャワーを浴びて帰宅しようと談話室とは反対の場所にあるシャワールームへと足を動かし向かおうとする。
「クリプト」
だが、背後から呼びかけられた声に思わず振り向くと、談話室の少し手前で振り返って真っすぐな瞳でこちらを見ているミラージュと視線が絡んだ。
何かを言いたげな顔をしているミラージュは、そのまま少しだけ声のトーンを落として言葉をかけてくる。
「……お前、なんかあるなら言えよ?」
「何もないさ。さぁ、早く行けよ。パスファインダーが待ってる。……あまり話していると気がつかれるぞ」
どうにも納得していない様子のミラージュから視線を動かして敢えて前を向く。
付き合いが長くなってもなお、本当にこの男は鈍感なのか気敏いのか判断がつかなかった。
最初はキングスキャニオンのリパルサータワーを破壊した相手だと気が付きもしないで俺に先輩面で関わってきたかと思えば、近頃はこんな風に少しの変化でさえも読み取られてしまう。
それだけ俺と男との付き合いが深まったという事なのだろうが、それにしたって察しが良すぎる。
それとも、俺が感情を隠すのが下手になってしまったのかもしれない。
どちらにしても嬉しい気持ちと知られるわけにはいかないという複雑な感情を抑え付けながら、今度こそシャワーを浴びる為にシャワールームへと向かった。
足早に歩いたお陰ですぐにたどり着いたシャワールームのドアを開けて中に入り込むと、他のメンバーはもうとっくにシャワーを浴びて帰ったのか誰も居なかった。
脱衣所で素早く泥に塗れた戦闘服を脱ぎ、設置してある棚の上に無造作に置くと、共用棚に置きっぱなしにしてある自分用の石鹸ケースを手に取り、さらに奥にあるシャワーブースに向かう。
そのまま一番手前のシャワーブースに入り込むと、蛇口を捻って温い湯が全身に降りかかる感覚に身を委ねた。
先ほどの何かを言いたげなミラージュの顔と、手紙の内容が頭に浮かんでは消えていく。
アイツを信用していないワケではない。
本当なら全て話して一緒に犯人を探すなり、大して役には立たないだろうが警察に相談するなりすればいい。
けれどそれをしないのはひとえに俺自身が弱いからだった。
もしもあの手紙の主の知っている"秘密"が俺の過去の話であったら?
自分の秘密は殊更に厳重にしまいこんであるから、赤の他人に知られる可能性はほぼ0%に近い筈だ。
でも、それは絶対ではない。
そうして秘密を公表するなんて言われて、この生活が崩れる……それだけならまだ良い。
正直、この生活がずっと続くなんて夢を見ていられる程に俺は楽天的ではない。
それよりももっと恐ろしいのは、俺のせいでミラージュが、アイツが死んでしまうかもしれないことだ。
そうして、今は愛しげに俺に向けられている瞳が俺を蔑んだ目で見てくるかもしれない。
その二つはどちらもあり得る話で、どちらも俺の足をすくませた。
好きであるからこそ、言えない。
愛しているからこそ、伝えるのが恐ろしくて堪らない。
どうしようもない気分を吐き出すように深い溜め息を洩らす。
いつかこういう日が来ると思っていたから、イメージトレーニングはしていた筈だったのに、想像していたよりもこの生活が大切になってしまっていた。
離れたくない、と心から思ってしまっている。
俺はそんな複雑な感情と共に温い湯で石鹸を泡立て、汚れを落とすために手早く全身を洗い始めた。
□ □ □
そのまま施設にて身支度を整え、談話室で軽く皆と会話をしてから真っ直ぐに自宅に戻った俺は今日は感じなかった視線に安堵する。
窓の外はもう夕方を過ぎて夜に近い。【ゲーム】がある日はなんだかんだと慌ただしく、時間が経つのが早かった。
ミラージュが居ないので一段と自宅全体が静かな事もあって、俺は小腹を満たすために仕事部屋に隠しておいたカップ麺を片手にモニター前に座って調理済みのそれを箸で啜る。
隠れてカップ麺を啜るなんて、おそらく後で何か小言を言われるかもしれないが、たまにはこういう物を食べたくなるのは仕方がないだろう。
それに一人で摂る食事など、何を食べたとしても同じだった。
そうして不作法なのを承知でカップ麺を食べながら片手でパソコンのキーボードを叩き、アパートメントの監視カメラの映像を保存しているデータベースにハッキングを仕掛ける。
あんな風に簡易的な工作をした幼稚な手紙を直接入れてくる相手なら、きっとその姿がカメラに映っているだろう。
すぐにデータベースにアクセスして開くことの出来た玄関ロビーの映像を巻き戻し、昨日の夜に進めていく。
ポストを逐一チェックしているワケではないが、かといってそこまで前に入れられた物ではないだろうと推理していたからだ。
先に自分が帰ることが多いとはいえ、ミラージュの方がポストを確認する回数は多い。
そして巻き戻した映像には、一人の女が映っていた。
厳密に言えば、映り込んでいる、というのだろうか。
誰も居ないように見えるエントランスと外を遮断しているガラス張りの自動ドアが突如開いたかと思うと、まるで幽霊のように片手を前に突き出したままいきなり現れた女の髪は赤みがかったロングヘアーで、その顔は長い前髪によって見えない。
全身黒ずくめな服装と、それと同じく黒い巨大なザックを背負ったその女は片手を下ろし、真っすぐにこの部屋のポストに近付いたかと思うと、ポケットから手紙を取り出し押し込むようにそれをポストに入れると再びエントランスと外界の境目である自動ドアから出ていく。
しかしアパートメントの外観を映す防犯カメラにはその女の姿は映っておらず、煙のように消えてしまっていた。
その数分後、昨夜の自分がカメラに映り、ロックを解除してポストの中身を確認し、硬直している姿が映った所で映像を停止させる。
不気味なその映像に、思わず持っていた箸が止まってしまっていたのに気が付き、箸の先端を一旦カップ麺の中に入れる。
嫌に心臓が早鐘を打つのは、けして彼女を思い出したからではないと、自分にどうにか言い聞かせるがうまくいかない。
赤髪のロングヘアーなんて、世の中にはごまんといる。
そして、それ以上に恐ろしいのは相手が幽霊だろうがなんだろうが姿を隠す事が出来るという事だった。
つまり、相手が見えないままでどこに居るのか分からないというのは、もしも背後にピッタリと張りつかれていても、気が付けないという事だろう。
その事実に気が付いた時、背中にドッと冷たい汗が流れる。
この部屋は入る際に自動で簡易スキャンがかかるようになっているから問題は無い筈だ。
――――だが、それ以外の場所ではどうだろうか?
考えずとも答えは出る話だった。
「……ッ!」
不意にデスクの上に置いた通信デバイスが発した振動で思わず身体がビクつく。
しかしデバイスの画面に出た通信相手の名前はミラージュで、鼓動が落ち着いていくのが分かった。
通話では無く、メッセージだったらしいその内容を確認する為に画面のロックを解除する。
『やっぱり今日は早く帰る事にするわ。何か欲しいもんあるか?』
いつも通りの文面と、こちらを気遣う内容にどうにか平静を装って返事を打ち込んでいく。
通話では無くてメッセージで良かった。もしも今、通話をしていたら声が震えてしまっていたかもしれない。
『了解。特に欲しい物は無い。気をつけて帰って来いよ』
そのメッセージを送信した後に、ミラージュの通信デバイスのGPSをオンにする。
言っていた通りにパラダイスラウンジに居るらしいミラージュの位置情報を確認して、ホッとため息を吐く。
それと同時にまた先ほどの映像の女が頭の中に過ぎり、あの女に背後から襲われるミラージュを想像してしまって体が震えた。
指先が震えるのを押さえ込みながら慌てて追加でメッセージを送信する。
『駐車場についたら連絡をくれ。迎えに行く』
既にこちらに返事を打ち込んでいたらしいミラージュからすぐさま返事が戻って来る。
『まだそんなに遅くないのにお出迎えしてくれるのか?』
『あぁ、そういう気分なんだ。嫌だったか』
『嫌ではないけどさ。とりあえず車乗るからまた後で連絡する』
ポンポンと軽快なやり取りの後に、ミラージュからの返信が止まる。
そうしてその言葉通りにミラージュの位置情報が移動を始めた。
本当はこうやってミラージュを監視するような行動はしたくなかったのに、どうしたってこんな事になってしまえば心配で仕方が無い。
どうしたらいい、どうしたら違和感を抱かせずに立ち回れる?
グルグルと回る思考をどうにか立て直そうと試みるが上手くいかない。
ミラージュを危険に晒したくないのに、俺と一緒に住んでいる間に危険じゃない状況なんて一片たりとも存在しないではないか。
こんな事なら何かしらの理由をつけて一緒に住むのを止めようと言えばいいのだろう。
けれど、それは余りにも身勝手過ぎると自分の中でストップがかかる。
何よりも、もうミラージュが隣に居ない生活が考えられないのだ。
朝も昼も夜も、共に居て笑い合ったり喧嘩したり、そんな幸せな空間を知ってしまったのにそれをここで失うのは怖い。
結局何一つ上手く考えがまとまらないまま、ミラージュの位置情報がアパートメントに一直線に向かってくるのを眺めるしか出来なかった。
□ □ □
どろりとした水あめのような黒い色をした物体が足元にまとわりつく。
この場所は見知った場所だと俺を逃がさないように足を止めてくるそれを無視して周囲を見回す。
ここは自分が【クリプト】ではなくパク・テジュンとして生きていた頃に住んでいたアパートメントだった。
気が付けば自分の姿もあの頃の自分に戻っており、首元に枷のようにつけた金属デバイスも【レジェンド】になる為にと必死に鍛えた筈のよれたワイシャツの下にある肉体も一介のエンジニアらしい身体に戻っている。
複数のライトに照らし出された4つのモニターの置かれたデスクの上には、その他にチカチカと点滅する状態表示ランプが表面に刻まれたデバイス類と、捨てるのが面倒でテイクアウトしたコーヒーのカップがいくつも横倒しになっていた。
さらに視線を動かすと、作成したばかりだったハックの初期型とコントローラー、自分で一から描いたロゴマークのイラストが残っているボードもある。
ネッシーの小さなぬいぐるみに、洗うのが嫌で放置していたボウルと箸もあの日のまま。
そうしてその中でもひと際目立つ位置にある"家族"の写真。
掛けていたブルーライトカットも出来る眼鏡の向こうに映る、ほのかにオレンジ色を帯びた見慣れた光景に目が眩む。
「テジュン」
忘れられるワケなんてない、その声に身が竦んだ。
本当なら夢の中だとしてもその声を聞けるなら嬉しい筈なのに、窓に取り付けられたブラインドの隙間から射し込む光が背後に黒い影を落とす。
「ねぇ、……私の事を忘れちゃったの」
ヒヤリと首元にナイフを突き付けられているような殺気に、喉が勝手に鳴った。
すぐ後ろに彼女が居るのに、足元を縫い止める黒い物体のせいでそれを確認する事すら出来ない。
「私達、ずっと"家族"だってそう言ったじゃない。それなのに……」
違う、違う、違う。彼女はこんな事を言ったりなどしない。
これはただの夢で、俺の妄想に過ぎない。
それなのに耳に注ぎ込まれる言葉がまるでねばついたタールのように耳に押し入ってくる。
「……貴方は他に"家族"を作ろうとするのね。私なんかもういらないの?」
その言葉にミラージュの姿が脳裏に浮かび上がって、閉じた瞼の裏に映る影に苦しむ。
どちらかを選ぶなんて俺には出来ない、だって俺にとってはどっちも同じくらい大切なんだ。
こんなにも辛い選択肢をいつかは一つ選ばないといけないのは分かっているのに、それでもまだ俺は、選ぶ事なんて出来ない。
グルグルと視界が回る。ドロついた足元の物体が離れたかと思うと、その影が次第に形作るのはあの映像に映った女だった。
前髪のせいで顔は見えないままだが、俺とその女の前に何故かこちらに向かい合った状態のミラージュの姿が現れる。
そうしてその女の手には鋭く光るナイフが握り込まれていた。
「や、……やめろ!! 止めてくれ、頼む……頼むから……!!」
狂乱めいた懇願も聞き入れられずに、そのナイフが鈍い音を立ててミラージュの背中から腹までを貫く。
あの長さのナイフではこんな風に人体を貫通する事など出来ない。
だから冷静になれ、ただの夢だ。タチの悪い酷い夢なんだ。
そう思っているのに、ごぶりと音を立ててミラージュの唇から赤い鮮血がこぼれ落ち、整えられたヒゲを濡らしていく。
『……お前のせいだ』
彼女に似た女がそう言ってから、ミラージュの腹からナイフを引き抜き、まるで糸の切れた人形のようにミラージュがその場に倒れ込む。
俺の全てを奪うのは止めてくれ。もう俺から奪えるものなんて何もない筈だ。
また視界がグルグルと動き、悪夢の幕は下りる。
「っはぁ、はっ……は……」
のっそりと起き上がった体は重怠く、汗を掻いていて気持ちが悪い。
こんな悪夢を見るなんて久々で、最悪の気分だった。
隣を見れば先ほど夢の中でナイフを突き立てられていたミラージュが静かな寝息を洩らして眠っていた。
生きている、それは当たり前の筈なのに重く靄のようにかかる胸の苦しさが少しだけ緩和する。
「……お願いだから……」
どうかこの小さくて温かい生活を汚さないで欲しい。
いつかは終わってしまうのなんて分かっているから、それでも微かな希望にすがりたくて、そう囁く。
けれどそんな囁きはまだ暗さしか無い室内に溶けていく。
夜に混ざった願いは他の誰にも届かない。
はぁ、とため息を吐いてから隣に居るミラージュの肩から外れかけた布団をかけてやってから、水でも飲もうとベッドから音を立てないように静かに立ち上がった。
冷房によって適度に冷やされたフローリングは汗を掻いた素足に吸い付くようにその温度を伝えてくる。
真っすぐにキッチンに向かおうかと思ったが、ふと外が見たくなってベッド脇の窓に近付くとそこにかかっているカーテンをほんの少しだけ捲った。
高い位置に存在するこの部屋から見える遠くの方のビルや住宅街の小さな明かり。
その一つ一つに人が息をしていて、俺達も同じように微かな光のひとつに過ぎない。
なのにどうして安穏に過ごせないのだろう。願うのはただ、それだけなのに。
ガラスに映った自分の顔が情けなく歪んでいるのに気が付いて、俺はそんな自分の顔を覆い隠すようにカーテンを閉める。
そうして今度こそキッチンに行こうと極力気配を消してベッドルームのドアまで向かった。
戻る