Good bye, My Little Heart.2



――――2


 どうにもクリプトの様子がおかしい。
 もっとハッキリといえば、3日前の夜辺りから妙に何かに怯えているような、それでいて常に上の空のようなそんな様子だ。
 最初は俺が何かをしでかして怒らせてしまったのかと思っていたが、逆に俺に対していつも以上に優しくなっているクリプトは何かを隠している。
 それに最初に気が付いたのは、一昨日に行われた【ゲーム】の時のクリプトの動きが微かに違っていたからだ。
 いつもならしない行動……例えば、普段なら通らないであろう道を選ぶ事であったり、味方へのフォローの入り方であったり、EMPの撃つタイミングなどだ。
 そんな細かい事、と自分でも思ったが中継カメラの映す動画越しに見ていれば何となしにその疑いは次第に明確になり、俺は施設内にあるモニターを見ながら自身のざらりとしたヒゲを指先で撫で擦っていた。
 …………一体、あの男は何を隠している?

 いや、元々クリプトが何かを隠しているのは理解していたが、きっとそれ関係かそれ以外に何かトラブルがあったのだろう。
 まだ付き合いの浅かった頃にはその無表情さで感情を隠すのが上手かったクリプトも、今ではある程度の表情を顔に出すようになってきていた。
 なってきていた、というよりもそういう風になるように俺が仕向けたというのが正しいのかもしれない。

 自分の前では何も恐れなくていい、秘密を抱えていてもなお、それでもお前の全てを愛している人間が目の前に居るのだと言葉通り全身を使って表現してきたからだ。
 まるで刷り込みに近いその行為を俺は自覚と無自覚、両方でしていた。
 けれどそれはけしてクリプトの為だけにしているのでは無かった。
 他人を偽り、自分自身をも欺いて生きていく事。そうして、誰からも必要とされずに、最終的には存在すら忘れ去られてしまう事。
 それは酷く心を削り取る行為で、胸元にポッカリと穴が開いていく感覚であるのを俺自身が知っていたからだった。
 あの感覚をもう味わいたくない。ただ、俺は、クリプトという一人の人間と何の苦しみも無い場所で穏やかに暮らしていたいだけだった。

 そこから注意深く観察していくと、どうにもこのアパートメントに帰ってきた時にクリプトは必要以上に周囲を警戒しているのが分かった。
 ただ歩いているだけなのに【ゲーム】の時と同じくらいの緊迫感のある顔つきをしているクリプトは、けして俺にそういう部分を見せないようにしているのか俺の視線に気が付くといつも通りの笑みを曖昧に浮かべるだけ。
 正直に言うと、もどかしくて悔しくて堪らなかった。
 何かあるのは分かっていて、それをどうにか聞き出したくて時折確認のようにかける声かけも全て躱されてしまう。
 俺はもうこれ以上見て見ぬフリは出来ないと、まだ寝起きでぼんやりとした表情をしているテーブルの向こう側に居る愛らしい恋人に向かって声をかけた。

 「……なぁ、クリプト」

 マグカップに入った俺の淹れたコーヒーを両手で掌を温めるように掴んでいるクリプトに真っすぐな視線を向ける。
 それだけで俺がこれから何を言い出そうとしているのか分かったらしいクリプトは黒い虹彩をそっと俺から外した。
 本当はこんな風に好きな相手を問い詰めるなんて真似はしたくない。
 それによって自分が今まで我慢してきた感情が、胸元から込み上がってしまいそうになって恐ろしいからだった。
 俺は努めて冷静に、軽く笑みなんて浮かべながら目の前のクリプトに向かってさらに声を掛けた。

 「お前、何か困ってないか? 困ってる、っていうかさ。……なにかあっただろ?」

 沈黙。一切の返事も無いままに俺の発した言葉だけが朝の爽やかな空気に混ざって霧散していく。
 けれど向かい側に座っているクリプトは確かにその眉を微かに顰めたまま、マグカップを握る手に力を込めていた。
 こんな空気が俺は大嫌いだった。
 それは、親父が俺たちの住んでいる家に気まぐれに帰ってきては、偽りの家族ごっこをしようとテーブルを囲んでいた時の空気によく似ているからだった。

 気まずさと遠慮、花瓶に挿したまま水を入れ忘れてカラカラに干上がった花を見て可哀想に、と思うようなそんな感覚。
 いつもの俺ならばそんな空気の圧迫感に堪えきれずに、『なんてな、そう黙るなよ! お前がそうやって黙り込むと調子狂っちまう』という具合に笑い飛ばして場の空気を変えようとするだろう。
 だがしかし、今日は、それをする気にはなれなかった。
 まるで救いを求めるようにクリプトがゆるゆると顔をあげて俺の目を見つめる。
 俺はいつものように優しい表情を出来ているのだろうか。それとも、クリプトを責めるような、そんな目をしてしまっているのか。
 自分自身の作っている表情すらうまく判断がつかないまま、俺はさらに言葉を続けるしか出来なかった。

 「もしもお前が何か困ってるなら、力になりたいんだ」

 ぐ、と腹に力を入れてそれだけを発する。
 力になりたい、もっと俺を頼って欲しい。そうしてお前の事を苦しめている全てを俺に教えて欲しくてたまらない。
 本当はそこまで言ってしまいたかった。
 二人で居る時に何かを考えてふとした時に寂しそうな顔をするのも、クリプトの本名である筈のヒョンと呼びかけた時の切なそうな瞳を見るのも、真実を言うなら、もうたくさんだった。
 信用されていないワケじゃないと分かっているし、クリプトの性格上、俺を巻き込みたくないと思っているからこそ隠しているんだと分かっている。
 でも、こちらにしてみたら俺では役に立たないと言われているような気がして、塞がっていた筈の胸元の穴がジクジクと痛みだす。
 どうか、この必死な感情がクリプトに伝わって欲しいと俺は乾いた喉を潤すように一度テーブルの上に置いていたマグカップを手に取ると、中に入っているコーヒーに口をつけた。

 「この件に関しては……」

 沈黙に堪えきれずに音をあげたのはクリプトの方が先だった。
 しかし、発せられた声は酷く弱弱しくて、俺はマグカップの中の黒い波紋から視線を動かすと顔をあげて言葉の続きを待つ。
 ダイニングの窓の外から射し込む日の光は室内の状況とはうって変わってキラキラと輝いており、それがなんだかおかしかった。

 「俺が、どうにかする。お前は、…………お前には関係ない」

 苦しげに吐き出された言葉がまるで質量を持って自分の頭を殴りつけてくるかのようだった。
 一瞬、目の前が暗くなって、そのまま瞳の奥がチカチカと明滅する。
 その言葉だけはクリプトの口から直接聞きたくなかった。それだけは、言わないでいて欲しかった。
 ゴトリ、とわざと重い音を立ててダイニングテーブルに置いたマグカップの中の波紋に目を向けてから、奥歯を噛み締める。
 そうでもしなければ滲む視界を止める術を持たなかったからだ。

 「……関係ない、か」

 微かに震える喉を必死に動かしてどうにかそれだけを言う。
 こちらの異変に気がついたらしいクリプトが息を呑むのが聞こえたが、俺にはもう自分の心の叫びを止めるだけの理性が残されてはいなかった。

 「俺が怪我をした時、お前は俺に『もっと頼れ』って言ったよな?」

 マグカップを握る指先が籠った力によって白くなるのをどこか他人事のように思いながら、冷たく響く声を聞く。
 本当はこんな風に問い詰めたくもないし、こうしてなじるような真似だってしたくない。
 止めろという脳内に居るもう一人の自分の制止を振り切って、さらに唇からは呪いのような言葉が洩れ出ていく。
 こんなのは俺らしくないと分かっているのに、自分で自分を制御できない。

 「その言葉が俺は嬉しかったよ。……何かあってもお前が俺を助けてくれるんだって、俺にとってお前は心から背中を預けて、助け合える存在なんだって……そう思えた」

 「……ウィット……」

 「それなのにお前は『関係ない』って俺にそう、言うんだよな」

 まるで自傷行為のようにその言葉は俺の心を滅多刺しにしては、激しい傷跡を残していく。
 噴き出した血が全てを覆い隠してしまいそうで、その息苦しさに一度深く呼吸を取り入れる。
 ようやく顔を上げると青ざめた顔をしているクリプトに向かって、そうして自分自身に向かって刺したくも無いナイフをいくつも刺し込んだ。

 「…………じゃあさ、俺ってお前にとって、どういう存在なんだよ」

 「お前が俺に真実を話してくれるまで待つ度量はあるって言った。それは確かだ」

 「でも、今、目の前で苦しんでるお前を救えない上に何も話して貰えない俺は? ……黙って辛そうにしてるお前を見てろってか?」

 言うつもりのなかった言葉は一度でも決壊すれば次々にくり出されて止まらない。
 止めていた栓が抜け落ちるように自分の目元から、ボタリと涙が一滴零れ落ちた。
 こんな風に言うなんて情けないと分かっているのに、俺はその涙を抑えるように目元を軽く拭う。

 「たくさんだ。もう、たくさんだよ……お前が好きだけど、この状況は……正直に言うと俺にとっては辛すぎる」

 重い体を立ち上がらせて、テーブルの上のマグカップを持ち上げる。
 あぁ、今日はせっかくのオフで、俺たちは久々にゆっくりと出来る筈だったんだ。
 クリプトの好きだと言っていた白身魚のムニエルを作ってやろうと思って、冷蔵庫に材料も入っているし、それに合うだけのワインも買ってきていた。
 朝はきっと昨日の行為で疲れてしまって、二人していつもより遅く起きるだろうからってこの間みたいにルーフバルコニーでブランチでも良いって、そう思っていた。
 逃げていると言われればそうなんだろう。
 目の前の男の胸倉を掴んで、本当の事を言ってくれるまで揺さぶるなり、真面目な顔で話し合いを続けるなりすればいい。
 でも、今の俺にはそれが恐ろしく無理難題に思えて仕方なかった。

 「しばらく店に泊まる。……話す気になれたら連絡してくれ」

 最後通告のつもりでそう言った俺は、クリプトの顔を見るが眉を寄せて黙ったままのクリプトは、何も言ってはくれなかった。
 俺はそんなクリプトから目を逸らすと、持っていたマグカップをキッチンに持っていき手早くそれを洗う。
 どうかこの時間に俺の背中にクリプトが触れてくれないかと、そう願っていた。
 けれどそんな時間稼ぎも結局は無駄な足掻きで、俺はそのままマグカップを洗い終えると、通信デバイスと車のキーだけを持ってアパートメントを後にしていた。

 □ □ □

 「あれ? ウィット、今日は店に来ないとか言ってなかった?」

 勢いのまま開店準備中の札がかけられたパラダイスラウンジのドアを開けると、たまたまコーヒーでも飲もうとしていたのか無人の店内に居るのんびりとした様子のラムヤが不思議そうな顔をしてこちらを見てくる。
 しかし今の俺にはそれに返事をする程の余裕が残されていなかった。
 こちらの様子がおかしい事に気が付いたらしいラムヤを無視して俺は店内の一番奥にある個室のドアを開けて中に入り込んでから手荒く閉じると、近くにある赤いビロード張りのソファーに雪崩れ込むように座った。

 「くそ、……くそっ……!」

 途端に必死にせき止めていた涙が次から次へと溢れては止まらない。
 そんな涙に濡れた顔面に自分の両手を押し当てると、唇から洩れ出る叫びをその掌の中に全てしまいこんでしまおうと強く握り込んだ。
 クリプトが好きであればある程、この涙を抑えるなんてできない。
 目の奥が引き絞られ、こめかみが泣き過ぎたせいで痛む。
 それでもなお、両目からは蛇口が壊れたように涙が落ちては掌の隙間から落ちた雫がボトムスの膝を濡らしていく。
 愛しているんだ。愛しているからこそ、お前にああいう風に拒否をされたのが何よりもこの胸に穴を開ける。
 涙が落ちる合間も先ほどの青ざめた表情のクリプトが脳裏に浮かんでは消えていった。
 ぐずぐずになった目元を拭って鼻をすすりながら、久々にこんなに大泣きしたなとぼんやりと思う。

 これほどまでに泣いたのは、母さんが俺の事を忘れてしまう病に侵され、それを治す術は現代医学には存在しないと言われた時以来な気がする。
 自分には何も出来る事が無いまま、その現状を受け入れるしかないのだと突き付けられた時に、俺は自分のあまりの無力さに泣くしか出来なかった。
 兄達の居なくなったガランとした家の中で、母さんと手と手を握り合って生きてきた。
 今にも崩れてしまいそうな足元を一歩ずつ二人でつま先で探りながら、どうにか倒れてしまわないように、そう祈りながら。
 それなのに不意に繋がれていた筈の手が、握り合っていた指先が、一本ずつ離れていく感覚が恐ろしかった。
 例え物理的な距離が離れていてもずっと繋がっている。だから大丈夫なのだと思っていたのに、それは結局はこんなにも脆く儚いものなのだと思い知らされた。
 "家族"という名のついた他人になっていくのが、俺は怖かった。

 ベトベトになった掌を見遣って一人嗤う。待てるだけの度量はある? そんなのは嘘だ。
 何もかも話すのが信頼の証ではないし、恋人だからと言って相手のテリトリーに必要以上に侵入するのもマナー違反だと分かっている。
 じゃあこの胸にわだかまる想いは一体何なのだろう。アイツの全てを知りたいと泣く俺は一体何なのだろう。
 苦しい、とただそれだけの感情が胸に巻き起こる。
 
 初めてクリプトが俺の前で無防備に笑った日、俺の料理を食べてあまりの美味さに目を丸くした日、初めて体を重ねた時の俺を見つめた滲む眼球の美しさ。
 やっと手に入れたと思えた。この男が俺の傍に居てくれるその奇跡を喜んだ。
 けれど、その額縁に飾ってしまいたいくらいの奇跡はあとどのくらい持続する?
 アイツは将来、俺を置いていく事を想定してこの生活をしているのがこちらに伝わってくる。
 苦しみのひとカケラすらも残さずにしようと、俺に何も言わないのがベストなんだと思っているのが伝わってくる。

 「……ハ」

 感情の赴くままに唇にのぼる笑みを浮かべる。
 自分が本当に苦しい時、俺はそれを認めてしまうのが怖くて勝手に口元が笑ってしまう。
 なんだ、まだ笑えるじゃないか、エリオット・ウィット。笑うっていうのは最高に良い。笑えるって事はそんなに最悪な状況じゃない。そうだろう?
 そうやって無理矢理に自分自身を納得させては、胸元の穴を偽物の感情で塞ぐ。
 すっかり泣き腫らした目と、口元に浮かぶ笑みというちぐはぐな表情のまま、腹の底から持ち上がるため息をそのまま吐き出した。

 □ □ □

 自身のずきずきと痛む肉体に注射器を差し込み、削られたヘルスを回復する。
 ワールズエッジの間欠泉の建物内で睨み合いになった部隊以外には周囲に敵がいなかったらしく、ホッと吐息を洩らす。
 この場所はそこまで漁夫の来る場所ではなかったが、それでもギリギリで勝ちをもぎ取った事もあってゆっくりと回復出来るのはありがたかった。
 それは隣に居るヴァルキリーとラムヤも同じだったようで、三人とも息も絶え絶えで回復に勤しんでいる。
 ぷしゅ、と気の抜けたような音を立てた注射器をその場に投げ捨てると、隣に居たラムヤがジッとこちらを見ているのに気が付いて顔を上げた。

 「なんだよ、さっきの動きは悪くなかっただろ? お前がドンドン前に行くからフォローが大変だったぜ。それともなんだ、回復が足りないか?」

 「ちっげーよ、アホ」

 何故かイラついたようにそう言ったラムヤに首を傾げる。
 フォローが少し遅れたのに一言文句でもつけてやろうと思っているのかと考えて、先回りしてこちらの言い分を伝えたのだが違っていたようだ。
 大体、コイツはオクタンと同じくらいに戦闘狂なのだ。ガントレット出身の奴らっていうのはどうにも考えるより先に手が出る生き物に育つらしい。
 俺がワケが分からないという表情をしている間に近くにあったバンガロールのデスボックスをしゃがみ込んで漁り始めたラムヤは、その中から銃弾やシールドを補充していく。
 なんでこんな風に俺は言いっぱなしで放置されないといけない?
 そう思っているとさらにラムヤがこちらを見ないまま言葉を投げかけてくる。

 「おっさんさぁ、いつまでそうやって酷い顔してんの? さっさとアイツと仲直りしてセックスの一発でもすりゃあいいじゃん」

 「……は……」

 「あっははは!! おい、ラムヤ、それは流石に明け透け過ぎだって。真昼間で酒も飲んでないのにそのレベルの下ネタはキツイだろ。逆セクハラだぞ」

 同じように少し離れていたヴァルキリーがホライゾンのデスボックスを漁りながら、堪えられないといった様子で言葉とは反対に爆笑する。
 この若い二人のノリに着いていけずにただ茫然とするしか出来ない。
 どうしてそんな話が出てきた? そもそも俺はクリプトと付き合っているのをラムヤやパスファインダーにも言うなと強く口止めされているのだ。
 ボックス内を探り終えたのか顔を上げたラムヤは立ち上がって真っすぐに俺を見つめたかと思うと、もう一つ片隅に残っているデスボックスを指差す。
 そこには俺が背に抱えているフラットラインでキルしたクリプトのデスボックスが転がっていた。

 「なに……」

 「だーかーらー、コイツといつまでも何を仲違いしてんだって言ってんだよ。アンタがうじうじしながら店に居る時間が延びるだけでアタシの頭にもカビが生えちゃうよ」

 言葉が上手く出てこない、とはこの事だろう。基本的に口から出る言葉が止まる時は俺に限っては殆ど無い。
 それは誰とだって上手くやれると自負しているくらいに自分は話をするのが得意だからだ。
 なのに、いつからそれを知っているんだとか、なんで俺とクリプトが喧嘩しているのが分かったのか、とか聞きたい事は数多くあるのに乾いた喉からは掠れた声すら出ない。

 「バレバレなんだよ。コイツが店に来る度にイチャイチャしてるクセにバレないと思ってるのが間違ってる。アンタら二人してバカなの?」

 「……ラムヤに勘付かれるくらいって相当だなぁ。私とお姉さんくらい見せ付けてたのか? お熱い事で」

 ヴァルキリーのからかうような声に、口に含んでいるガムを膨らませたラムヤはパチンと軽快な音を立ててその球体を破裂させると、肩を竦めた。
 俺は上下がひっついてしまったんじゃないかと思うくらいの唇をどうにか開かせて言葉を発する。
 建物の外にある間欠泉から吹き上がる水しぶきの音が耳に聞こえてくるので、それだけが今【ゲーム】中である事を思い返させてくれた。

 「…………なんで、そう言う話になる」

 「なんでってアンタが店で寝泊まりするようになってもう3日目だろ? あんなにウキウキしながら帰ってたアンタがぱったり帰らなくなるなんて喧嘩したしかないじゃん」

 「へぇ、もう一緒に住んでるんだ。それにしても3日も帰らないってのは結構な大喧嘩だったのかな」

 付き合っているのがバレているどころか、一緒に暮らしているのすら気がつかれているという事実に頭がくらつく。
 けれどもう秘密にしている意味が無いのなら、隠す必要も無いだろうとため息を吐く。
 そもそも、ラムヤとパスファインダーは特に関係が深いから、いつまでも隠しておける筈が無いのは分かっていた。

 「それにそこに転がってる奴も顔色が死ぬ程悪かったし、アンタだってそんなの分かってんだろ? 許してやりゃあいいじゃん」

 ラムヤの言葉に、先ほど久々にしっかりと顔を見たクリプトの顔色の悪さを思い出す。
 そんなの言われなくたってずっと気が付いていた。
 【ゲーム】の開始前にチラリと見るクリプトの顔色は段々と悪くなるばかりで、マトモに食事を摂っているのか不安になるくらいだった。恐らくだが、ろくすっぽ食事なんて摂っていないだろう。
 いつもならどこかで俺が折れて、『こっちが悪かったよ』なんて言って絡みに行くのが常で、ここまで離れていたのは同棲を始めてから無かった。

 「……許してやりてぇよ、俺だって」

 ポツリと呟いたセリフはざぁざぁという水音に混じって聞き取りにくい。
 許してやりたい、と言ったのは一体どちらに向けたモノなのか分からなかった。
 ここまでしてもなお、何も言ってくれないクリプトへなのか、グダグダと考えては一人で苦しむ自分なのか。
 はぁー、とわざとらしいため息を吐いたラムヤが隣に居るヴァルキリーに呆れたような視線を向けた。
 そんなラムヤの視線を受け取ったヴァルキリーがカラリとした声で言う。

 「まぁよくわかんないけどさ、きっとあのお兄さんだって、アンタの事が凄い好きなんだってのは分かるよ。なぁ、ラムヤ」

 「……こないだの試合で、ウィット、アンタのキルログが流れた時のアイツの顔を見せてやりたいくらいだよ」

 そう言えば、この間のクリプトと同じ部隊だったのはラムヤとヴァルキリーだった筈だ。

 「それに、ちょっと前に酒が美味い店を知らないかって聞かれたんだ。そんなに酒好きだっけ? って聞いたら、世話になってる奴にたまにはご馳走したいんだってそう言ってたよ」

 それがミラージュだって事は流石に察せ無かったけどね、と言ったヴァルキリーの横でその肩に頭を凭れさせたラムヤが苦笑している。
 アイツはアイツなりに俺に感謝していて、大切に思ってくれていたのだと理解した瞬間、胸が詰まる思いがした。
 この二人になら、少しだけ相談してもいいだろうか。
 俺はゆっくりと自分の心のモヤを言語化しようと試みる。

 「アイツがさ、なんか辛い事があったみたいなんだよ。……でも俺には『関係ない』って切り捨てられちまった。手助けすら、いらないって」

 「これが初めてなワケじゃなくて、もうずっとそんな調子なんだ。一番大切な事を話してくれない……それがアイツにとって正しいと思ってるんだと思う」

 「……俺はそれを我慢すべきなのか? 聞かないで欲しいってのは、多分、アイツが一番求めてる事で、俺はそれで納得すべきなのかな」

 案外スルリと出た自分への枷を話すと僅かに気持ちが楽になった。
 そんな俺を見ていた二人は顔を見合わせたかと思うと、そっと笑う。

 「アンタら付き合ってんだろ? そんで、向こうには話したくない事があって、アンタはそれを聞きたいって話なんだろ?」

 「それが二人の未来に関係する事ならアンタが聞く権利はあると思う。大体、何をそんなにお互いビビってんだよ。いい年したおっさん達がごちゃごちゃとさぁ」

 「これからも続けたいって思ってんなら、どっかで本気でぶつからないとダメじゃん。アホみたいな喧嘩してる時は周りが呆れるくらい言い争いしてるクセに、なんでそういう真面目な話が出来ないワケ?」

 さっぱりとした口調でラムヤにそう言いきられて、当たり前の事実にようやく気が付けた。
 クリプトとこのままずっと傍に居たいなら、向き合って拒否されるのに怯えて逃げ腰だった自分の尻を叩いてやらないといけない。
 その結果、それでもクリプトが話したくないというのなら、俺は何度だってチャレンジすればいい。
 それに、一度この手の中に捕まえたアイツをもう離してやれるほどに優しい人間じゃない。

 しっかりと照準を頭に合わせたクレーバーのように、その心を射抜いたのは、マグレじゃないんだと自分自身が最もよく分かっているじゃないか。
 いけ好かない奴だと思っていたクリプトがどうしても気になるようになって、嫌がられているのを承知で何度も話しかけた。
 いつも食べている食事が余りにも偏っているのが分かって、お節介だと言われても何度も美味い飯を作ってやった。
 その黒い瞳が俺の行動を探っているのが伝わって、戸惑う手を引いて何度だって、好きだと囁いては抱きしめた。
 周囲はクリプトを常に用心深い男だと思っているが、俺はそんな男の外堀埋めるようにゆっくりと包囲して、そうしてあの愛しい男をやっと捕まえた。
 警戒心の強い獣のようなアイツを俺はまるで幻術をかけるのと同じように、罠にかけたのだ。

 「……これは私からのちょっとしたアドバイスだけど」

 不意にラムヤの隣に居るヴァルキリーがそう言いながら唇に人差し指を当てる。
 この場には三人しか居ないというのに、何故か小さい声になったヴァルキリーが囁くのを水音の中で聞き取る為に耳をすませた。

 「人間はさぁ、一生のうちのどこかで素直にならないといけない場面ってのがあるんだよ。それが恥ずかしくてもなんでもさ」

 「その一生で一度かもしれない瞬間で素直になれるかどうかで、きっと未来が変わるんだ」

 「もしもそこで手を離したら、もう明日は会えないかもしれないって私はそう思って生きてる。……本当に魅力的なモノっていうのは、他の人にとっても魅力的なモノだからね」

 だから、他に盗られたくないんだったら自分の気持ちに正直になった方が良いよ。
 そう言ったヴァルキリーは床に転がっているデスボックスのうちの2つに目を向けながら静かに笑った。
 これは俺にだけのアドバイスでは無いような気もするが、その笑みに頷くとヴァルキリーはどこか満足そうな顔をしている。

 「さぁ、分かったらさっさと物資漁ってチャンピオン獲って帰ろうぜ。こないだは惜しい所で負けたのが悔しかったから、今日は絶対勝ちたいんだよ」

 バシッという音と共に自分の尻にラムヤの平手が容赦なく入り、思わず飛び上がりそうになる。
 気合いを入れるにしたってコイツはいつも背中にシーラを抱えられる程の怪力のせいで、軽く小突かれただけでも結構痛いのだ。
 でも確かにそのとおりだと俺は近くに落ちているクリプトの刻印が施されたデスボックスに手をかける。
 さっきはあんなに顔色が悪かったのに、それでも食らいつくように俺と撃ち合いをした負けず嫌いの恋人。

 「はは……、本当に、……可愛い奴だよ」

 開いたそこにはクリプトが使っていたフラットラインとG7スカウトが格納されており、フラットラインの銃身には昔、俺が半ば押し付けるようにプレゼントした俺をモチーフにしたキャラクターのチャームがキラリと光っている。
 俺がよくフラットラインを好んで使うのをクリプトは知っているから、だからこそ、この武器に俺のチャームをつけてくれたのだろう。
 そうしてそのデスボックスの中からシールドと回復、そうして拡張ヘビーマガジンのレベル3を貰い、自分のフラットラインに装着する。
 カシャンと小気味よい音を響かせて装弾数の増えたフラットラインを背中のホルスターに戻すと、そっとデスボックスの刻印を指先でなぞった。
 今日は絶対にチャンピオンを勝ち取る。それはお前と本当の意味で向き合う為に必要だと思うから。
 だから、どうか俺のカッコイイところをちゃんと見ていてくれよ? という思いを込めた指先を離した。
 それと同時にリング縮小のアナウンスが流れ、しゃがんでいた体を起き上がらせると待っていてくれた二人と一緒にその場を後にした。

□ □ □

 車のキー持って、路上に停めた愛車のドアから外に出る。
 あの後、宣言通りにチャンピオンを勝ち取り三人で満面の笑顔でチャンピオンインタビューに答えた後、施設に戻ったのだがそこにはクリプトは居なかった。
 まさか俺のあの素晴らしいAIMを見ないまま帰っちまったのか、と近くに居たクリプトと同じ部隊だったバンガロールにクリプトの行方を聞くと、確かにチャンピオンが確定した瞬間までは談話室に居たけれどその後はすぐに帰ってしまったという返答がきた。
 とりあえず早く治療してさっさとシャワー浴びたら? というバンガロールの冷たい視線と声に俺は慌ててシャワーと身支度を整えてから通信デバイスでクリプト宛に久々のメッセージを送信した。

 『今日は帰るよ』

 たったそれだけの簡単なメッセージ。
 返事は来なかったが、向こう側で確認した事は表示されて安心する。
 見ていないワケじゃないならそれでいい。無視されたとしても、あの家はやっぱり二人の家なのだから。

 そうしてメッセージを送信した後に、3日間辿っていたパラダイスラウンジではなくアパートメントへと続く道に車を走らせた。
 しかし俺も俺で少し臆病な気持ちが出てしまって、真っすぐに家に帰るのも緊張してしまうからと前回のオフの時に一度行ったコーヒーショップの前に車を停めていた。
 あの時に購入した豆は2つとも香りも味も店主の言う通り抜群で、特にプサマテ産の豆に関しては値段が高いというネックはあるものの苦味と酸味のバランスが良く、クリプトは特にそれが美味いとあっという間に飲んでしまったのだ。
 だから今日はチャンピオンとそれを手土産にして帰ろうと思い付いたのだった。

 カラン、という古風なベルの音と共に開いたドアの先には相変わらずダークブラウンを基調とした店内にコーヒーに関する様々な商品がところ狭しと並べられている。
 そうして眼鏡をかけた老紳士は俺をそのかけていた眼鏡の奥から見つけると、少し驚いたような顔をしていた。
 また来ると言ってはいたものの、本当に来るとは思っていなかったのだろうか、と俺は店主の座っているパイプ椅子の正面にあるカウンター型のショーケースの前に近づく。

 「やぁ。また来たよ、ミスター」

 「……ああ」

 こちらの挨拶に何故か迷ったような顔をした店主に首を傾げる。
 何かあったのだろうかと思いながらも、とりあえずオーダーをしなければとショーケースの中のボトルに入った豆をガラス越しに指差した。

 「この間のこれ、プサマテ産のやつがめちゃめちゃ美味かったからまたコイツが欲しいんだが。今回は300gで頼むよ」

 「そりゃ良かった。……準備するから待ってくれ」

 サングラスを外して笑顔でそう言った俺に、ようやく口端に笑みを乗せた店主が手慣れた手付きで豆をパックしていくのを見ていると、不意に店主が真っすぐこちらを見つめてくる。

 「なぁ、アンタ、【ミラージュ】なんだって? 【APEX】のさ」

 「え? あぁ、そうだよ。ミスターもそういうの楽しむ口なんだな! なかなか、あれはざ……ざん……激しい【ゲーム】だってのに」

 前回の時もサングラスを外しているし、後で中継でも見て気が付いたのだろうとそう言う。
 しかし、店主の顔つきは有名人に会えて嬉しいという顔ではない。
 どちらかというとこちらを心配しているような表情で、俺は浮かべていた笑みを少し引っ込める。
 そんな俺の前にパックした豆を入れたビニール袋を渡してきた店主に、デバイスを使って金を払うとそのまま店主は深刻そうな声で話し出した。

 「なら気を付けた方がいい。俺はお前さんの事を知らなかったが、お前をあの後探しに来た女が居た」

 「……女……?」

 その言い方から、余り良いタイプの人間では無かったらしい事が窺える。
 話を聞くべきな気がして俺は相づちを打つ唇を止めた。

 「あぁ。赤い髪の女だ。あの日は途中から大雨だっただろう? 全身ずぶ濡れで、いきなりこの店に入ってきたんだ」

 「雨宿りにでも来たのかと思ったが、別にそんなのはその辺の軒先で良いだろ? だからなんなんだと思ってたら、『さっきの人はこの人でしたか?』ってデバイスの待ち受け画面を見せてきたんだ」

 「そんでそこには【APEX】の【ミラージュ】……つまりお前さんの画像が……その、なんだ……」

 かなり言いにくそうにしていた店主に、真面目な瞳を向けて頷きを返す。
 もしかしたらクリプトが秘密にしている内容に、俺はこんな場所で核心に迫っているのかもしれなかった。
 俺の真剣な表情に、店主は言うべきだと思ってくれたのか言葉を紡ぐ。

 「俺には良く分からないが、変なコラージュみたいにされてた。ともかく異様だったよ。それで俺は咄嗟に『そうかもしれないが、今日初めて来た客だから分からない。他人の空似かもしれないぞ』ってな具合で返した」

 「でも、あの幽霊みたいに不気味な女は……『私が彼を見間違える筈がない。ずっとここで待ってたのよ、やっと迎えに来てくれたんだ』って笑ってた。ファンっていうよりも、アンタを本気で恋人だとでも勘違いしてるような感じだった」

 その時の女の様子を思い出したのか、顔色を翳らせた店主は俺の様子を確認している。
 …………赤い髪をした幽霊のような女。
 直接会った記憶は無いものの、毎回の試合毎に俺に長文のファンレターを送ってくるファンの中に切り取った自身の赤い髪や爪などを同封してくる奴が一人居た。
 余りにもやり過ぎなそのファンレターの内容と送付物に、途中から俺の手に渡る前に運営側で処理して貰っていたせいですっかり忘れてしまっていたのだ。
 もしもソイツが店主の言う女と同一人物だとしたら、クリプトが何らかの嫌がらせを受けたのだとしてもおかしくは無い。

 「それからソイツはこの店に来たのか?」

 「いや、あれっきりだ。周囲をうろついてるかもしれないが、俺は基本的に店から殆ど出ないからな。居たとしても分からない」

 「……そうか。ありがとう、迷惑かけちまったな」

 「俺は別に何もされてないから問題はねぇさ。これからも応援してるぜ、ミラージュ」

 そう言ってくれた店主に、真剣な表情を解いて笑顔を向ける。
 今日はたまたまこの店に寄ったのだが、かなり重要な情報を手に入れる事が出来た。

 「ああ! 期待に応えて見せるさ、なんたって俺は最強の【レジェンド】ミラージュ様だからな!」

 俺の高らかな宣言に苦笑した店主にまた礼を言ってから店を後にする。
 そうして車に乗り込むと、ベルトを締めてエンジンをかけた。
 この件に関してクリプトに一刻も早く聞いてみる必要がある。
 もしも俺の熱狂的ファンのせいでこんな事になったのだとしたら、俺はソイツを許せる気がしなかったからだ。
 知らぬ間に噛み締めていた歯から力を抜き、とにかく帰ろうと今度こそアパートメントの方向に車を走らせた。






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