The Melody of Liars.2




――――駆け引きのスケルッツォ


 耳に響くけたたましい目覚まし時計の音に、伏せていた瞼を開けたミラージュはベッドの上でその身体を動かす。
 掛けられている薄手のブランケットが白い波紋を寄せる中、寝惚け眼を時計に向けたミラージュは、その上にあるボタンに手を伸ばしてアラームを停止させた。
 比較的寝起きは良い方であるミラージュにしてみれば一度時計を止めてしまえば目は覚めるものの、そこから支度をするまでが長い。
 それが分かっているからこそ、今日の【ゲーム】の開始時刻である2時間前にアラームを設定しておいたのだった。
 時間を守るのが苦手なのは子供の頃からだったが、流石に30歳にもなって仕事に遅れるのがマズイのはミラージュにもよく分かっている。
 しかも【ゲーム】はアウトランズ中に中継される大規模な大会である為、遅刻などすれば明日のニュースの恰好の餌食になる。
 そんな事を考えながらも未だにベッドの中でぼんやりとしているミラージュはカーテン越しに射し込む光の量から、今日もソラスの空は快晴であるのが分かって吐息を洩らした。
 そもそもソラスで天気が崩れる事は殆ど無い。朝と晩は冷え込むものの、昼間は常に乾燥して暑さばかりが目立つ星だ。

 「はー……ぁっと……今日も良い天気だな」

 自分に掛け声をかけるようにそう呟いたミラージュは、起き上がる前に掛け声をかけるなんておじさん臭かったかもしれないと一人眉を顰めた。
 しかしすぐにその眉を解くとハーフパンツだけを身に着けた体をベッドから立ち上がらせ、寝室の窓を塞いでいるカーテンに手を伸ばす。
 シャ、と軽い音を立てて開かれたその窓の先には、予想していたとおりに既に日差しの強いソラスの空が広がっていた。

 今日もまた【ゲーム】が開催される予定で、マップは降り慣れた筈のワールズエッジ。
 だが、レヴナントというどうにも不気味なロボットが新しく【レジェンド】に加入したのとほぼ同時期に、燃料庫というエリアが跡形も無く破壊され、ハーベスタ―という新たな建築物が増設された。
 その建築物の役割はいまいちレジェンド達にも知らされてはいなかったが、元々ワールズエッジのある惑星タロス出身のブラッドハウンドがハモンド社に対して抗議をしていたのだけは印象的であった。

 あのハモンド社がやる事なのだからロクな話ではないと皆分かってはいるものの、地中からあれだけのマグマを吹き上がらせてまで何かを採掘するというのは恐らく余程金儲けになるに違いない。
 今や【レジェンド】達も個別に何万人ものファンがついているであろう有名人ではあったが、所詮は一個人。
 惑星中に権力を揮う大企業相手に何を言った所で、意見をもみ消されるか、本当に消されるかのどちらかに過ぎないのもまた、皆理解していた。

 ミラージュは窓の外を眺めながら一度大きく伸びをすると、眠気覚ましにいつものコーヒーを入れようとベッドルームのドアをくぐって廊下を通りキッチンへと向かう。
 パタパタと履いたスリッパの底がフローリングの床を叩くのを聞きながら、ダイニングキッチンへのドアを開いたミラージュは慣れた様子でキッチンへと向かい、普段通りにコーヒーを入れ始めた。

 このアパートメントは【ゲーム】で集まる施設からもパラダイスラウンジからも程近く、セキュリティもそこそこ。
 初めは移動するのが面倒でパラダイスラウンジの裏にある一室で暮らしていたミラージュではあったが、【レジェンド】としての知名度があがるのと同時にプライバシーやセキュリティに気を遣うようになった。
 それから単純に【ゲーム】が忙しくなってきた影響で、パラダイスラウンジを経営していくにあたってスタッフを雇う事にしたのも大きい。
 いくら気さくなオーナーだからといって、四六時中店に居られるのはスタッフも面倒だろうし、ミラージュとしてもこうして上半身裸でウロウロしている所をスタッフに見られるのは恥ずかしい。
 その為に急ぎ借りたアパートメントではあったが、広さも立地も充分とミラージュ自身も気に入っていた。

 ケトルの中で沸いた湯でハンドドリップしたコーヒーの入ったマグカップを手に取ったミラージュは、そのまま冷蔵庫のドアを開けると中身をざっと確認する。
 男の一人暮らしにしては買い込まれた食材の並んだ大きめの冷蔵庫の中から、何個かの食材に目をつけたミラージュは、ぼんやりと今日の朝食のメニューを考えていた。

 (卵がやばいからエッグベネディクトで良いか。ついでに夕飯も……フリッタータでも作れば消費出来るだろ)

 そう考えてから冷蔵庫のドアを再び閉め、キッチンから離れたミラージュはテレビの前に置かれたソファーの前に移動すると、テレビとソファーの間に置かれたローテーブル上のリモコンを手に取りスイッチをつけた。
 途端に流れ出す軽快なアナウンサーの声が伝える本日のニュースを聞き流していく。
 カジノであった乱闘事件、バーでの窃盗及び殺人未遂、ガントレットの修復作業のタイミングに、アナウンサーの友人の子供が最近生まれた話。
 どれもこれもソラスではまぁまぁよくある事だと思いながらも、温かなコーヒーの入ったマグカップに口をつける。

 バーでの窃盗と殺人未遂事件に関しては、パラダイスラウンジも狙われる可能性が高いものの、【レジェンド】の経営する店に手を付けようとする輩はそこまで多くは無い。
 それに元々パラダイスラウンジはウィット家が代々経営してきた店であり、あの店を好きで居てくれる血の気の盛んな常連も多い事から、何かあればすぐにミラージュが手を下さずとも"勝手"に事件が解決しているなんていうのはよくある話だった。
 そんなニュースが終わり、テレビの画面では本日の天気の話題が映る。
 気象予報士が伝える天気予報ではソラスは相変わらずの晴天であるとの話だったが、別の星であるタロスでは急な突風と大雨に注意という予報が出ていた。
 今日の【ゲーム】は大丈夫なのだろうか? とミラージュは思いながらもまだ連絡などが来ていない事から、今の所は決行する予定なのだろう。
 ボンヤリと考えていると、あっという間に30分経過している事に気が付いたミラージュは慌ててソファーから立ち上がる。
 これからシャワーを浴びて朝食を作るとしたならば、早く行動しないと間に合わない。

 「やべぇ! これで遅れたらクリプトに何言われるか分かんねぇぞ」

 自然と出てきたクリプトの名前に、ミラージュ自身もそんな自分にはもう慣れていた。
 クリプトが【ゲーム】に参戦して既に5ヶ月が経ち、その間にミラージュとクリプトがキル数勝負をしたのは数え切れないくらいになっている。
 圧倒的な差は無く、現在はクリプトの方が二戦程勝ち越してはいるものの、それでもこの間まではミラージュの方が勝ち越していた。
 敵味方関係なく初めはミラージュから提案していたキル数勝負も、気が付けばクリプトの方から持ちかけられるのも多い。
 そうして毎日のように戦いを繰り返す度に、ミラージュはクリプトという人間の片鱗がほんの僅かではあるが分かってきていた。

 ソファーから立ち上がったミラージュはマグカップをローテーブルに置いたままシャワーをするためにバスルームへと向かう。
 そこまで広くはないアパートメントでは足早にバスルームに向かえば30秒もかからない。
 バスルームの簡素なドアを開けて閉めたミラージュは、履いていたハーフパンツと下着を洗面台の前に置いてあるカゴに放り込むと、冷えたバスタブに足先を入れる。
 シャワーカーテンを引いて外に湯が漏れないのを確認した後に蛇口を捻ると、適度に熱された湯がミラージュの身体を包んでいく。

 クリプトという男は、ミラージュにとっては今までに出会った事のない人間だった。
 年下のクセに妙に達観しているところがあるかと思えば、時折見せる子供っぽく負けず嫌いな一面もある。
 常に準備を怠らないと自分で言うクセに、シップに置かれたクリプト専用のスペースはお世辞にも綺麗とは言えず、摂っている食事も口に入れば何でもいいとでも考えているのか、ジャンクフードであったりサプリメントであったりと適当だ。
 【ゲーム】ではミラージュの戦い方とは正反対で、勝利する為には最後まで戦闘をしなくとも気にもしない。
 そういう勝ち方はミラージュには考えられない方法だった。
 
 ミラージュは自分の事を【レジェンド】というエンターテイナーだと考えている。
 自分の持つホログラムを駆使して、敵だけでは無く中継カメラ越しの観客をも魅了し、騙し、そうしてその上で派手に勝利する。
 目立つ事は心地良い酩酊感をミラージュに与え、そして見てくれているのかすら危うい母に向かって存在をアピールする。
 自分は今ここで、生きているのだと全身でアピールをする。それが何よりも必要だったからだ。

 ミラージュは流れるように髪を洗い、今度は全身を泡立てたボディタオルで擦っていく。
 どうせ【ゲーム】で汚れてしまうのは分かっていても、ミラージュは朝と晩にシャワーを浴びるのが習慣となっていた。
 甘い匂いを漂わせる泡の中で、ミラージュは脳裏に浮かんでは消えるクリプトの姿を思い返す。

 (アイツは違う。……いつだって何かから逃げてる、それがなんなのかは知らねぇが)

 クリプトとミラージュの違いは数えきれない程にあるが、ミラージュにとって一番不可解なのはその点だった。
 目立つのを恐れているクセに【レジェンド】になったクリプトは、どうしてわざわざこんな【ゲーム】に参加しているのか。
 オクタンのように生粋の戦闘狂というワケでも無く、レイスやパスファインダーのように自分のルーツを探しているワケでも無い。
 ライフラインやジブラルタルのように何かを守るために参加しているのでも無いのだろう。
 ミラージュやバンガロールのように名誉や金を目的としているようにも思えず、ワットソンのようにこの【ゲーム】の関係者という人物でも無い。
 ブラッドハウンドやコースティックの目的はミラージュには良く理解出来なかったが、あの二人もまだ【ゲーム】に参加する理由は察せる。
 ――――では、クリプトはどうだろう。

 元々、レジェンド同士で仲良くしようという状況にはあまりならない。
 けれどミラージュは出来る限り色々な人物と交流を深めようと考える方だからか、比較的他のレジェンド達とは会話をする機会が多い。
 新しく来たレヴナントに関してだけは、あまり良い気配を感じなかったのもあって近づいてはいないものの、恐らく他のメンバーよりは会話をしている方だろう。
 クリプトとだって最初の頃からは考えられない程に会話を交わしているし、パラダイスラウンジでみんなと一緒に呑む時もある。
 そんな中でもクリプトは他のメンバーとは一線を引いていた。

 皮肉げな笑みを浮かべてミラージュを見つめる時も、キル数勝負で勝った時も、負けて悔しがる姿もミラージュは知っているのに。
 珍しく酒を呑んで酔った時の甘えたような声や、ダメージを負って苦しげな声を上げる顔も、全部、知っているのに。
 それなのにミラージュはクリプトの心の奥が分からなかった。徐々に垣間見えるクリプトの本質がミラージュの心を揺さぶる。
 話しているとムカつく奴だと思うのに、血と硝煙の匂いの中で背中を預けて戦うのは誰よりも息が合う。
 何よりもふと見せる寂しげな顔を見ると、その背を叩いて慰めてやりたくなるのだ。
 クリプトがミラージュの事をどう思っているかは定かではないが、ミラージュにしてみれば非常に不本意ながらも友情に近い感情をクリプトに対して抱いていたのだった。

 「……あー……」

 知らぬ間に止まっていた手に気が付いて声を上げたミラージュは、自分の感情を誤魔化すようにシャワーで泡を流す。
 間延びした声が唇から洩れ出るのを放置して、ミラージュは全ての泡を流し終えると、出していた湯を止める為に蛇口を捻る。
 ぽたぽたと前髪から垂れる雫を嫌がるように前髪を掻き上げたミラージュはシャワーカーテンを開けると、バスマットの敷かれた床に足を乗せた。
 そうしてタオルを置いている棚からバスタオルを取り出すと、全身の水気をふき取り洗面台の鏡を見遣る。
 いつも整えている筈のヒゲが伸びてきているものの、普段と同じようにイケメンだとミラージュは一人そう思う。
 顔や身体についた無数の古傷も、今まで必死に戦ってきた証なのだとそんな自分の肉体を誇りに思っていた。
 こんなにボロボロになって、それでも戦う理由がミラージュにはある。
 きっとそれはクリプトだって同じで、これから先、クリプトのあの細くもしなやかさを宿した体には少しずつ傷が残っていくのだろう。
 …………でも、叶うのならばクリプトに残る傷跡は自分がつけた傷が一番に残って欲しい。
 そこまで考えて仄暗い目をしている鏡の中の同じ顔をした人物に気が付いたミラージュは、首を振る事でそこから意識を散らした。

 「おいおい、そんな趣味なんかねぇっての! 勘弁してくれよ……今日の俺はちょっとばかり……寝惚けてるみたいだ」

 軽い口調でそう言ったミラージュは自慢のヒゲを整える為に洗面台に置かれた髭剃りを取ると、もうあと1時間程度しか時間が無い事を確認して慌ててそれを肌に当てた。


 □ □ □


 ソラスの施設から無事に出発したシップはタロスに到着した時点で気象予報士が言っていた予報が当たり、タロスの【ゲーム】用の施設についた時には外に出るのすら躊躇う程の突風と大雨になっていた。
 一時的な天候の崩れという予報もあったからか、【ゲーム】開始はこの天候の落ち着いた時点で開催される予定に変更となり、ミラージュを含めた【レジェンド】達はそれぞれ施設の好きな場所で待機する事となったのだった。
 待機すると言っても、そこまで行ける場所も無いからか大抵の【レジェンド】達は談話室に居るか、シップに宛がわれた自分のスペースに居るのが殆どであったが、ミラージュは談話室のソファーに居る事を選んでいた。
 談話室にはミラージュの他に、コースティックとレヴナント以外のメンバーが集まっており、そこにはクリプトの姿もある。
 窓辺に一人佇み雨の叩きつけるガラス越しに遠くを見つめているクリプトは嫌味な程に様になっているが、それ以上にその横顔がミラージュには酷く苦しげなモノに見えて仕方が無かった。

 今日はワールズエッジでの【ゲーム】ではあるが、5日前まで行われていたキングスキャニオンでの【ゲーム】の後から、明らかにクリプトの様子はおかしかった。
 ミラージュと同じ部隊だったクリプトは、ケージ周辺にてアイテムを各自離れて収集していた所まではいつもと何も変わりがなかったように思う。
 だが、その後のクリプトは余りにも普段とは異なっており、ミラージュはそんなクリプトをからかう事すら出来なかったのだ。
 青ざめた顔をしたクリプトはそわそわと落ち着かず、敵に撃たれてダメージを負っているにも関わらず回復を怠ったり、得意のドローン操作すらおぼつかなかった。
 かと思えば、時折何かを必死に探しているように忙しなくドローンを操作しては、敵も居ないというのに砲台エリアなどをドローンの視点のままで移動し続けていた。
 そして最後には砲台の傍にあるハッチの中にいつの間にか一人で潜り込んでいたらしいクリプトは、そのままリングに飲まれてダウンしてしまったのだ。

 慌ててジップを下ってミラージュが助け起こしに行った時には、クリプトは攻撃も受けていないというのに今にも泣き出してしまいそうな、そんな顔をしていた。
 そんなクリプトの初めて見る憔悴しきった姿に、ミラージュもまた、自分自身でも驚くほどに混乱してしまっていた。
 傲慢で不遜、そんな雰囲気を醸し出しているクリプトの見せた初めての表情。
 蘇生用のシリンジを胸元に打ち込めば、ビクリと体を震わせたクリプトは差し出されたミラージュの手を弱弱しく握り込んだ。
 ミラージュはその弱く握られた手を逆に強く握り返して、クリプトを支えるように助け起こしたのだった。
 そんなクリプトとミラージュと同じ部隊だったレイスはクリプトが可笑しい事にミラージュ同様に気が付いていたらしいが、彼女が心配そうにシールドセルや医療キットを手渡したりする度に、クリプトはどこか上の空で『ありがとう』と言うばかりで結局その日の【ゲーム】は散々な結果で終わった。

 そうして5日が経ったにも関わらず、クリプトはまだ何か問題を抱えたままなのか、ぼんやりとしている事が増えた。
 流石に【ゲーム】内での失敗などはもう殆ど無いとはいえ、顔色の悪さは変わらない。
 クリプトがどんな問題を抱えていようとも、ミラージュには何の関係も無い。そんな事実は分かりきっている。
 だから一々気にするなと頭の中で自分に言い聞かせるが、それでもミラージュはクリプトの姿を自然と目で追ってしまうのだ。
 そして視線の先に居るクリプトはガラスの向こうのここではない場所に意識を飛ばしている。それをミラージュが知る事は恐らく無い。

 「おーい、ミラージュ! お前、暇してるなら付き合えよ」

 自然と目でなぞるようにクリプトを見ていたミラージュに不意にカラリとしたオクタンの声がかけられ、ミラージュの肩が揺れる。
 ミラージュの視線の先に居た相手だとは気が付いていないのか、さらにオクタンは窓際に居るクリプトにも声をかけた。

 「そこでたそがれてるクリプトも!」

 オクタンのその声に窓の外に向けていた目を戻したクリプトが、オクタンの声に微かに首を傾げる。
 そんなオクタンの手にはトランプが握られており、いつまで待機していれば良いのかわからない状況でオクタンが大人しくしていられないのは当然の話だとミラージュは納得する。
 そうしてオクタンの背後にはパスファインダーがその胸部モニターに笑顔のマークを映しており、トランプに参加するメンバーの一人なのが見て取れた。

 「……俺は別に構わねぇぜ。この雨がいつまで続くかわかんねぇしな。トランプは得意だし」

 「お! 言ったな? そしたら賭けでもするか? 一位が最下位に何でも一つ、言う事を聞かせるってやつさ」

 「うわぁ、それって楽しそうだね! 表情を読み取るためにサーモグラフィ機能を使うのはルール違反にならない?」

 それは流石にダメだろ! とカラカラと笑ったオクタンとパスファインダーがミラージュに近付いてくる。
 それと同時にミラージュは窓際に居るクリプトに視線を向けると、同じようにミラージュを見ているクリプトと目があった。
 パチリ、と絡む視線はすぐに逸らされクリプトの黒い瞳はオクタンへと向かう。
 別にこちらを見ていたからといって、互いに目を逸らす必要など無い筈なのに、とミラージュはクリプトと絡んだ視線に妙に胸が高鳴るのを感じていた。

 「…………いいだろう。どうせまだ止みそうにないしな」

 「オーケー、じゃあここで良いよな? お前もこっち来いよ」

 そう言ってミラージュの座っていたソファーに腰を下ろしたオクタンの向かい側にあるソファーにパスファインダーも腰を下ろし、パスファインダーが懐っこくその手を振って自身の座っているソファーの隣を叩く。
 パスファインダーの動きに黙ってこちらに歩んできたクリプトは、丁度ミラージュの真向かいの席に腰を下ろすと、今度はミラージュを見る事は無かった。

 「それで? 何をやるんだ。ポーカーか?」

 「んー……それでもいいが、ポーカーはいつもやってるからなぁ」

 案外賭けが好きらしいクリプトがそう言うと、ケースからトランプを取り出して、慣れた手付きでカードを縦横無尽にシャッフルしながらオクタンが悩むようにそう呟く。
 このメンバーとでは無いが、しょっちゅうカジノやらに行っているらしいオクタンにしてみれば、確かにポーカーなど慣れ切っているのだろう。
 オクタンがカジノで使用する一時間あたりの予算を聞いた時、ミラージュは『シルバ製薬御曹司』という肩書の恐ろしさを垣間見たものだ。
 しかしオクタンはその強運と様々なギャンブルに精通している事もあって、どれだけ金をつぎ込んでもほぼ100%プラスで終了出来るとつまらなそうに言っていたのもまた、薬物中毒のイカれた男のように見えて、その実キレる頭脳を持っているオクタンらしい。

 「んじゃあ、簡単に出来るしダウトはどうだ? パスファインダーには難しいかもだが……」

 そんな二人のやり取りを聞きながら、ミラージュはそう提案する。
 パスファインダーには難しいと言ったのが不思議だったのか、その胸部モニターにクエスチョンマークを浮かべたパスファインダーは、少し考えた後にそのモニターを笑顔の顔文字に変化させてから声を発した。

 「僕が嘘をつけないって事を言いたいんだね? 大丈夫! 感情表現モニターを隠せば僕だって……たぶん、出来る筈だよ!」

 途中で言葉が小さくなったパスファインダーにミラージュはそっと笑う。
 この笑顔のロボットは正直、所々サイコパスな一面を持っているものの、悪意があるワケでは無い。
 全ては本心であり、まるで小さな子供のような部分がそういった残虐性をより強く見せているだけなのだろう。
 ミラージュにしてみれば、後から来たパスファインダーと同じロボットであるレヴナントと比べ、パスファインダーの方が信頼に値するロボットである事は間違いなかった。

 ミラージュとパスファインダーのそんなやり取りの間に、オクタンがシャッフルしていたトランプを手早くそれぞれの前に配っていく。
 幼少の頃に余り親しい友人と呼べる相手がいなかったミラージュにしてみれば、こうしてテーブルを囲んで友人と呼べる相手とトランプに興じるなど昔では考えられない話だった。
 そうして向かいに座っているクリプトがテーブルに置かれた自身の手札を確認している姿を見ながら、ミラージュも前に配られた手札を手に取ると確認する。
 ダウトは手札も大切だが、何よりもどれだけ堂々とハッタリをかませるかの方が重要だ。

 「順番はどうする? 俺からで良いか?」

 そう言いながらもう既にカードを一枚手に持っているオクタンにミラージュは苦笑する。この男に一番という順番以外が存在するのだろうか。
 ミラージュは手だけでどうぞ、という動きをするとオクタンが一枚のカードをテーブルの中央に出す。

 「エース」

 初めの一枚は勿論、そう言って出すのが当たり前だ。
 なので気にせずにパスファインダーがカードを出し、その後にクリプト、そうしてミラージュもまたその重ねられたカードの上にカードを裏返しで乗せた。
 一巡目は特に問題無く進んでいく。そうして二巡目もまた、みな動きは無い。
 溜まっていく中央のカードにミラージュはどうしたモノかと持っている手札に目を向ける。
 このあたりでそろそろいらないカードを処理しておきたい、とミラージュはクラブの3のカードを手に取ると、手札の上に重ねた。

 「エイト」

 「……ダウトだ」

 「は……」

 ミラージュが出したカードを置くや否やクリプトがそう囁く。
 まさかのその発言に目の前のクリプトに目を向けたミラージュは、薄く笑っているクリプトと目があった。
 絶対にそのカードが嘘である事を見抜いているらしいクリプトの視線に、ミラージュは思わず不満げな声をあげる。

 「良いのか? 本当に」

 「あぁ。早く捲れよおっさん」

 自然と洩れる舌打ちに、ミラージュが置いたカードを裏返すと、それ見たことかとクリプトが鼻を鳴らした。
 今まで置かれていたカードを全てかき集めるとそれを手札に加えたミラージュを見て、オクタンが楽しげな声を上げ、パスファインダーもずっとバツマークを浮かべていた胸部モニターに笑顔の顔文字を浮かべている。
 これで一気に手札が増えてしまったと手の中にあるカードを整理しながら、ミラージュは思わずクリプトに囁いていた。

 「なんで分かるんだ……」

 「お前は顔に出やすいんだよ」

 得意げにそう言われ、ミラージュは自身のヒゲの生えた頬に片手で触れる。そんなに顔に出やすいタイプではないと自分では思っているのだが、そう言われると不安になってくる。
 人を騙す事を得意としているミラージュにしてみれば、顔で考えている事がバレると言われるのは死活問題だ。
 しかし、次のターンは負けないと手の中にあるカードを確認しながら手札から一枚中央に置く。
 施設の窓を叩く雨足は未だに激しさを残しており、男四人の闘いはまだまだ続くのだった。


 □ □ □


 水気を含んでぬかるむ足元に気を付けながら、ミラージュはワールズエッジの展望エリアの土を踏みしめ走る。
 カードをしていてあっという間に過ぎ去った1時間後、ようやく弱まった雨風に本来予定されていたトリオ戦では無くデュオ戦が決行される事になったというアナウンスが施設内に流れた。
 流石にずっとダウトをしているのも飽きるとその後はポーカーや他のルールで対戦していた四人だったが、結果的には一位クリプト、二位オクタン、三位パスファインダーに、四位ミラージュという結果で終わった。
 悔しそうな三人に向かって、満足げな顔をしたクリプトは特に最下位であったミラージュに薄く笑ったかと思うと、バカにするようにまた鼻を鳴らした。
 ゲーム全体を通してミラージュばかりを狙ってきていたクリプトにいつか泣かせると決意しながらも、今回の勝利者はクリプトである事は変わらない。
 一体どんな無理難題を言われるのやらと思いながらも、先を走るクリプトの白い背中をミラージュは目で追いかける。
 結局何をやらせるのかを決める前に、試合開始のアナウンスが鳴ってしまったのでクリプトの命令を聞く前に四人は慌ててドロップシップの搭乗口に向かったのだった。

 (……ここからフラグメント方面に向かいたいが……)

 そんな事を思い返しながら、ミラージュは一人そう脳内で呟く。
 シップ内で割り振られたデュオのメンバーで久しぶりにクリプトと一緒となったミラージュは、ジャンプマスターとして展望に降り立った。
 いつもならもっと激戦区に近い場所に降りるのがミラージュの好みではあるのだが、トランプで負けている手前、ここでクリプトの怒りを少しでも買うのはマズイと思ったからだ。

 どうしたものかと思っていると、やはりクリプトは展望から精錬所方面に向かって走っていくので、普段は意見を言う唇を押し止めてミラージュもまた、そちらの方面へと足を動かす。
 なだらかな山道を下っていくと、列車が使われていた時に使用されていた駅の一つであった精錬所の特徴的な三つの建物が迫ってくる。
 しかし既に何パーティーかが降りていたようで遠くからでも激しい銃撃戦の音が聞こえてくるのが分かった。
 展望でゆっくりと物資を漁ることが出来たミラージュとクリプトにしてみれば、このまま漁夫をしにいくのが一番良いと互いに顔を見合わせてさらに走る速度を速める。
 そうして丸く作られた建物の内部で戦っているのを把握した二人は、敢えて大きな建物の壁をよじ登ると一度建物の二階に入り、すぐにクリプトがドローンを展開させた。
 ちょうど中ではどちらの部隊も一人ずつダウンしているらしく、エリアに居る全員にアナウンスされた。突っ込むなら今が好機だろう。

 そうして、フワリと飛んだドローンがまだ内部で戦っている敵部隊の影をミラージュの脳に映したのと同時に、眩い閃光がドローンから発され、バチバチと電子音が鳴り響く。
 背中のホルスターにあるフラットラインを手にしていたミラージュはEMPが発動する前にドアから抜けて建物の傾斜を走り、全身を痺れさせている相手に建物の入口から射撃を行った。

 「おっしゃ、一人ダウン!」

 削れたアーマーだったのもあり、ろくに撃ち合う間も無く倒れたライフラインの姿を確認してから、今度はそのライフラインと撃ち合っていたバンガロールが撒いたスモークでミラージュは視界を塞がれた。
 上手いことドローンから見えない範囲に駆け足を使って素早く逃げたバンガロールは、デジタルスコープのついているらしいR-99でミラージュを一方的に撃ち抜いてくる。
 このままではやられる、とミラージュが覚悟した瞬間、バンガロールの居るだろう方向に向かってミラージュの背後からフラグが投げ込まれたかと思うと、ミラージュと入れ替わるようにクリプトが前に駆けた。
 次第に煙が晴れていく視界の中で、射線を切ったミラージュはすぐにバックパックから取り出したシールドセルを使用しながら、クリプトがバンガロールと戦っている銃声を聞く。
 相手はあの歴戦の猛者であるバンガロールだ。いくらクリプトの射撃の腕前が良いとしても、軍人相手には敵わないだろう。

 ミラージュはシールドを一つ回復し終えたのを確認し、慌てて外に出て手に持ったフラットラインでクリプトと撃ち合っているバンガロールにクリプトの背後から同時に弾を浴びせた。
 ドサリと倒れたバンガロールに、ここでやりあっていた部隊がどちらとも全滅したのを確認し、ミラージュは吐息を洩らす。
 同じくゆっくりと息を吐いたクリプトは、ミラージュと同じように全身が受けた銃弾によって傷付いていた。
 やはりIMCの軍人として鍛え抜いてきたであろうバンガロールは強い。二人がかりで狙ったというのにもう少しで倒されるところだった。
 ライフラインもいつもならかなりの強敵であるが、彼女はシールドを削られた上で奇襲が成功したので早めに倒すことが出来た。
 ミラージュはそんな事を考えながら、バックパックの中に入っているフェニックスキットを起動させて回復を行う。

 「危ない所だった……やっぱりバンガロールは強いな。……ちょっぴりだけど、負けるかと思ったぜ」

 ミラージュは考えていた事を隣で同じくフェニックスキットを使用して回復をしているクリプトに向かって囁くと、何故かミラージュを見ないままクリプトは呟きを返した。

 「確かにな。……でも安心しろよ。背中は俺に任せろ、ウィット」

 不意に呼ばれたファミリーネームに、ミラージュは思わずクリプトを凝視してしまう。
 こんな命からがら助け合って、そうして回復し合っている時に、今まで呼んだ事のない名前を呼ぶこの男は何を考えているのか。
 しかも、背中は任せろ? そんな風に言われれば、クリプトにとって自分がまるで特別な存在にでもなれたかのようなそんな気分に陥ってしまう。
 ミラージュは混乱する頭の中で、必死に言葉を考え出すと、いつもより早口でクリプトに向かって囁き返していた。

 「あ、あぁ。そうかよ。そしたら、……そしたら俺は、お前を絶対死なせないように頑張らなくっちゃな! お前はなんだかんだで俺より後輩だし、ドローンは強いがその間はむ、む……とにかく、ちゃんと見ててやらないと危なっかしい所があるから!」

 「うるさい。……もう分かったからさっさと漁って次に行くぞ」

 ぴしゃりとそう言ったクリプトの表情はコートの襟によってうまく見えない。
 そうしてミラージュから離れたクリプトはミラージュが倒したライフラインのデスボックスの方に行ってしまう。
 ミラージュはミラージュで、バンガロールと同じ部隊だったらしいオクタンのデスボックスの傍に向かうとそこを漁りながら先ほどのやり取りを脳内で繰り返していた。
 ウィット、と言ったクリプトの声は最初に会った時の冷たさよりかは随分と柔らかく、ミラージュの鼓膜を揺らす。
 逆にクリプトの名を呼んでやろうかと思っていたが、考えてみればミラージュはクリプトの本名を聞いた事が無かった。

 (……調べれば分かるんだったかな。あぁ、でもそれをするとコイツのプロフィールのアクセス回数が増える)

 帰ったらクリプトのデータを確認してみようと今日の予定にそれを付け加えかけたのを斜線で取り消した。
 確かにコイツは俺にとって友人めいたモノになりかけている。が、それはそれだとミラージュは思う。
 たった一回のアクセス回数でもクリプトに負ける可能性を高めるのは嫌だった。
 ここまで気になるのなら、本人に聞けば良いのかもしれないが、もしも公表しているのに知らなかったというのは傷付けてしまうかもしれない。

 そんな思考の狭間、無意識にデスボックス内のシールドセルやバッテリーを自身のバックパックに詰め込みながら、何故かオクタンのデスボックスにアルティメット促進剤が入っている事に気が付き、笑う。
 オクタンのアルティメットは使用出来るまでにほぼ時間がかからない。そしてオクタンとバンガロールは普段そこまで話をしない割には、時折話すと冗談を言い合ったりもしている。
 だからこれはきっとバンガロールに『持っていろ』とバックパックに放り込まれたのだろう。
 ミラージュはデスボックスからアルティメット促進剤を手に取ると、ライフラインの仲間であったらしいジブラルタルのデスボックスを漁っているクリプトに少し悩んでから声をかけた。

 「おーい、……クリプちゃん。あ、クリプちゃんって呼んでいいか?」

 「……はぁ?」

 「そんな怖い顔すんなよなぁ。それより、ほら、促進剤。さっき使ったばっかりだからこれ使えよ」

 悩んだ結果、クリプト、と呼ばずにクリプちゃんと呼びかけるとデスボックスから目を離したクリプトが眉を顰めてミラージュを睨み付けた。
 他の奴らがけして呼ばないような名前で呼んでやりたい、とミラージュが思っているのが伝わっているのかは定かではないが、ミラージュの手の中にある促進剤に目を向けたクリプトは顰めていた眉を少しだけ戻してそれを手に取る。
 そのまま促進剤を起動させたクリプトを見ながら、ミラージュはせっかくここまで物資も揃っているのだからと先ほど言えなかった言葉を発していた。

 「……なぁ」

 「なんだよ」

 「折角これだけ物資あるし、フラグメント辺りに行かないか? ……もっと戦いたい気分なんだよ」

 その言葉に促進剤を使い切ったクリプトが唇の端に笑みを乗せたのを見て、ミラージュはこれはもしかしたら面倒な事を言ったかもしれないと今さらながら後悔をする。
 だがしかし、もう遅いとミラージュを見返したクリプトの瞳にはイタズラめいた光が宿っていた。

 「いいだろう。だが、先ほどの"命令"もまだ済んでいないのは分かっているんだよな?」

 「えぇっと、いや、お前が嫌なら全然俺は大丈夫だ。ほら、端を通った方が勝てるもんな、やっぱりさっきのは無しで……」

 「そう言うなよ、ウィット。……俺も今日は戦いたい気分なんだ。それにわざわざお前がそう言うって事は、絶対にチャンピオンを取るって事だろう?」

 フフ、と笑ったクリプトの口から再び出た『ウィット』という呼び方にミラージュの胸がざわつく。
 どう考えてもクリプトはミラージュをからかって楽しんでいる。分かっているのに笑いながらそう囁かれると、どうしたら良いのか分からなくなってしまうのだ。
 無表情で生意気で、そうして陰険なハッカー小僧だと思っていたのに、こうやって少しずつ少しずつ見える一面が増える度にミラージュの心を掻き乱していく。
 そんなミラージュの葛藤など知らずにクリプトはその笑みを乗せたままの唇を動かした。

 「もしもチャンピオンを取れなかった時は、分かっているよな?」

 「ど、うするつもりだよ……」

 「さぁ? そうだなぁ……お前の恥ずかしい秘密でも話して貰おうか。それとも……」

 「分かった、そのもしもの話は止めよう。逆にチャンピオン取ったらどうするんだよ。どうせ俺は"命令"されるんだろ?」

 ミラージュの言葉に微かにキョトンとした顔をしたクリプトは、悩むように顎に手を当てて左上に視線を向ける。
 チャンピオンを取ろうが取るまいが、ミラージュにしてみればクリプトに何かをさせられるのに変わりはない。
 もしもチャンピオンを勝ち取ったとしたら、その命令が少しはマシにならないと頑張る気が起きないのは仕方が無いだろう。

 「それは……勝ってから考える」

 「なんだよそれ。まぁいいか。今日は絶対チャンピオン取るからな! 俺は」

 強い口調で意気込むセリフを発したミラージュの横を肩を竦めたクリプトが通り抜け、まずはエピセンター方面に向かう為に精錬所の横にあるジャンプタワーへと駆けて行く。
 そんな背中を追いかけるようにミラージュもまた、走り出した。

 「おーい、待てってクリプちゃん!」

 そうしてクリプトを自分しかそう呼ばないであろうニックネームで呼びかける声が二人の他には誰も居ない場所に響くのを、ミラージュは一人こそばゆい気持ちになりながら聞いていたのだった。


 □ □ □


 夕暮れ間際のオレンジ色をした光がブラインド越しに射し込む中、店内に流れる音楽を普段より少しだけテンポを落とした曲に変えたミラージュは、黒いVネックシャツの上にかけている仕事用エプロンのリボンがほどけかけているのに気がつきそこを結び直す。
 自分の城とも呼べるパラダイスラウンジに【ゲーム】の後で戻ったミラージュは、カウンターに座っているただ一人の客であるクリプトに視線を向けた。
 精錬所での戦いが終わってフラグメントに移動した後も互いのコンビネーションは抜群で、浮かれた気分のままミラージュとクリプトの部隊はお互いに6キルずつ取って危なげなくチャンピオンに君臨した。
 そうして、施設に輸送されるドロップシップの中で傷付いた身体をミラージュの肩に軽く凭れさせたクリプトは、『今日はこのままお前の店で呑もう』と"命令"してきたのだった。
 ミラージュとしては願ったり叶ったりだと思えたが、今日のクリプトはかなり機嫌がいいのかどうにもいつもより甘えてくる。
 その証拠に、貸し切りにしてスタッフやMRVN達を急遽休みにした店内で、白いワイシャツの上に羽織っていたネイビーのカーディガンを脱いで椅子にかけたクリプトの目は柔らかくミラージュが作ったカクテルを見つめていた。

 「……最後の2部隊の時、お前のフォロー悪くなかったぞ。ミラージュ」

 そう囁きながらミラージュの作った四杯目のカクテルであるスクリュードライバーに口をつけたクリプトに目を合わせたミラージュは何と言うべきなのかを迷う。
 今日のラストバトル、デコイで敵を撹乱しながら射線が通る位置を探っていたミラージュは、木々の葉の隙間からドローン操作中のクリプトが狙われているのを理解し、その体を隠すように自分の傍にある岩陰に引っ張った。
 乱雑な手付きではあったものの、咄嗟にミラージュがカバーしたお陰でクリプトは狙われていたチャージライフルのビームを受けてダウンせずに済み、そこからEMPを使用して詰めたので相手を一気に倒す事が出来たのだ。
 クリプトがミラージュの背中を守ると言ったのと同じく、ミラージュも宣言通りにクリプトを死なせないように尽力しなければと考えていたからこそ出来た動きだった。
 だから確かに褒められてもいいとは思う。しかし、ミラージュにしてみれば今日はもうとっくにキャパオーバー気味であった。
 それは今までに呼ばれなかった名を呼ばれ、そうして自ら自分の店で呑みたいとクリプトが言ってきた、それらがこの一日で一気に押し寄せてきたからだ。
 その上で酔いが回り始めたのか、いつもなら冷たさしか無いように見える黒い瞳にとろついた目で褒められるなんて経験が無いのでどうしたら良いのか分からなくなる。

 「ん、おぅ……そうか? まぁ、俺様はいつだって良い動きをしてる筈だからな。今日は特に冴えてた……ってそういう話さ」

 カウンターからは見えない位置にあるキッチン台の上に置かれた飲みかけのウィスキーのハーフロックの入ったグラスを唇に押し当てながらミラージュが囁きを返す。
 うまく平静を装えているだろうか、と喉を通るウィスキーの熱さが食道を通って胃に落ちる感覚を享受する。
 掠れる声だけは誤魔化しが利かずに空気を震わせるが、酔っているクリプトにはその違いが伝わる事は無かった。

 「それよりか、お前、今日は随分とペースが速いな? 潰れるなよ」

 「……お前がそれを言うのか?」

 クスクスと笑って手に持ったグラスに口をつけたクリプトが上目遣いでミラージュを見つめる。
 見透かすようなその瞳に、ドクリと心臓が一際大きな脈を打ったのを認識しながらも、ミラージュは再び自身のグラスに口をつけて琥珀色のそれを飲み下す。
 確かにクリプトの言う通りだと、先ほどから敢えて飲みやすいが度数の高いカクテルを少しだけアルコールの量を増やして作ってはせっせとクリプトにサーブしていたミラージュは、ほのかに赤みを帯びたクリプトの頬から視線を逸らした。
 ミラージュはクリプトの酔っている表情が好きだった。
 普段は血の気の薄い頬にさす赤みも、黒く鋭い瞳が僅かに丸みを帯びるのも、呼気にまざる酒気を吐き出す唇もこの場でしか見る事が叶わないからだ。
 それでも、もしもミラージュがそのような意図で酒を提供しているのを気がついていたとして、それらを安々と飲み干しては次の一杯を頼んだのはクリプトの方だ。
 再び顔を上げたミラージュの前でグラスを傾けたクリプトは、それをカウンターに置くとまるで告解でもするかのように呟いた。

 「いや、……俺が言えた話じゃないな。……今日は少しだけ気分が良いんだ。珍しく、な」

 「……そりゃあ良い事じゃないか。……あぁ、良い事だ。お前はいっつも、い、いっ……? 爆弾みたいに張りつめてるだろ? 触れば切れるナイフかってくらいさ」

 「なんだよ、バカにしてるのか?」

 笑いながら言われたミラージュのセリフに、眉を顰めたクリプトがいつもの冷たさを宿したのを見てミラージュは慌てて弁解を試みる。

 「違う違う。まぁ、お前が被害妄想甚だしいのはいつもの事だけど、そこはお前、否定するなよ? ……そうじゃなくて、……ここで呑んでる時くらいはそういう風にしてるのが年相応で良いって話だよ」

 「……年相応、ね」

 「そうだよ。お前、年齢の割に可愛げが足りねぇんだ。こっちと8歳も違うんだから少しは年上を敬えよな」

 何故か含み笑いをしたクリプトに、キッチンに置いたグラスでまたもや唇を湿らせたミラージュはドキリとする。
 ここで自分と飲んでいる時くらいは素直になってくれても良いのだと、言うつもりの無かった意図の言葉が出てしまっていたからだった。
 しかしそんな意図を覆い隠すようにさらに言葉を続けると、クリプトがカクテルに口をつけてそれを一気に喉に流し込んだ。
 コースターの上に、トン、と置かれたアイスだけの入ったグラスがその周りについた水滴で夕暮れの淡い光を反射する。
 いままでこんな風にクリプトが出した酒をすぐさま煽るなど無かった。ちびちびと酔わないように呑むのがコイツの飲み方なのだとミラージュも思っていた。
 さらに目元に帯びた赤みが増したように見えるクリプトが、ミラージュを見つめる。他に誰も居ない店内でカウンター越しに絡み合う二つの双眸。
 まるで今、この瞬間だけ、時間が止まってしまったかのようだった。
 琥珀のようなヘーゼルの瞳と、黒曜石のような黒い瞳。それらは相手の一挙手一投足を観察し、相手の感情を探る。
 まるで【ゲーム】の時に敵として出会って、相手をどう倒してやろうかと考えている時のような、そんな心地の良い緊張感。

 「……用を足してくる。……それから、違うやつをくれよ。マスター?」

 そんな雰囲気を先に緩めたのはクリプトの方だった。
 高さのあるカウンターの椅子から猫のようにスルリと下りたクリプトが、少しだけおぼつかない足取りでトイレに向かったのを見届けたミラージュは、先ほど流れた緊張感から解放され吐息を洩らした。
 あの駆け引きのような甘い探り合いは何度か経験した事がある。けれど、相手は同じ【ゲーム】の同僚とも呼べるクリプトで、アイツと自分は良きライバルなのだ。
 分かってはいる。分かっているのに、先ほどまでミラージュを見つめていた熱っぽい瞳と、その頬を撫でていた夕日の色が瞼の裏に残る。
 金属デバイスの取り付けられた頬は指先で触れたならきっと熱いくらいなのだろう。瑞々しい唇は柔らかく、その奥にある舌はオレンジの酸味がする筈だ。
 黒い髪に触れたいと願うのは友情と呼ぶには余りにも俗っぽく、生臭い。
 どうか勘違いなのだと言ってくれ! と自分の中の心に呼びかけるが、返ってくる答えは無いままにミラージュは一人頭を抱えた。
 次第に薄暗さを宿し始めた室内で、トイレから戻ってきたクリプトが見えてミラージュは頭に触れていた手を離す。
 再び椅子に座り直したクリプトの前に置かれた空のグラスを下げるのを忘れていたと手を伸ばすと、ほんの僅かだがクリプトの身体がビクリと揺れた。
 …………あぁ、だから、そういう反応をされるとどうしたら良いのか分からなくなる。

 「……リクエストは? 無いのか」

 「無い。またお前のオススメで良い」

 その反応に気がつかないフリをして、下げたグラスをキッチンの流し台に入れるとクリプトに向かって声をかけたミラージュは、そう返ってきて何を出すべきなのかを悩む。
 そうして背後の酒瓶が並んだ棚に目を移すと、棚からウォッカとカルーアの瓶を取り出し、そのままグラスを冷やす用の冷蔵庫からロックグラスも取り出す。
 ロックアイスを入れ込んだグラスにコーヒー風味のカルーアと無色のウォッカを入れてステアした上に、食材用の冷蔵庫から生クリームを注ぎ入れる。
 黒と白のコントラストがグラスの中で映えるカクテルの名はホワイト・ルシアン。
 ミラージュは出来上がったその美しい二層が崩れないようにクリプトの前にそっとカクテルを置いた。
 クリプトがミラージュの思考を読んでいるとしたなら、このカクテルを出した意味も分かるかもしれない。
 けれど、もしもそれが分かった所で選ぶのはクリプトの方だとミラージュは半ば自棄になりながら、クリプトの動向を見守る。
 スクリュードライバーにホワイト・ルシアン。甘さのせいで含んでいるアルコール度数の分かりにくいそれらは確実に酔いを促進させる。

 「……頂こう」

 そう言ってグラスを取ったクリプトの唇に白い生クリームが付着し、赤い舌先がそれを舐めあげたのをミラージュは見逃さなかった。
 ダメだダメだと思っているのに、じわじわと脳内を揺さぶる感覚を押し流すように薄まっていた自身のグラスの中に残っていたウィスキーを飲み干し、再びロックアイスを放り込んだグラスにウィスキーを注ぎ入れる。
 カランと音を立てたグラスに注がれた琥珀色が、確かに残っている理性を削り取って、本能をあらわにする。
 どちらが先に薄くなった理性を破るのかの勝負になっている、そう思ったミラージュは、それならきっと俺の方が有利だと内心笑った。
 何故ならここは自分の店で、目の前の男はこちらの出した酒をただ飲むしかないのだから。

 「……なぁ」

 「なんだよ。まだ残ってるだろ、酒は……」

 「違う。……隣、来ないのか」

 ほら、それ見たことかとミラージュはクリプトのねだるような声に笑みを浮かべた。
 自分もこんな酒量では酔わない筈なのに、いつもより回りが早いのを自覚しながら、ミラージュはかけていたエプロンのリボンを解くとぐちゃりとまとめたそれをキッチンの隅に置く。
 これでもう仕事モードは終了。これからは自分の店であってもプライべートだと自分に言い聞かせるようにグラスを掴んだミラージュはカウンターを出て、クリプトの隣の席に乗り上げる。
 隣に座ったせいでクリプトから匂い立つような熱気を身に浴びたミラージュは、勝手に鳴る喉を押さえ付けるようにグラスの中身をまた口元に運んだ。

 「今日の試合、勝てて良かったよな」

 「そうだな。……こんな事をお前と話す日がくるとは思ってもいなかった」

 「そりゃあ俺のセリフだ! いきなり出会い頭に人の腕を捻りやがって! それから、あの時もだ……ほら、物資が無かった時に俺が開けたサプライボックスの中身を目の前で取っていきやがった」

 「あの時と言われても、心当たりが多すぎていつの話だか分からないな」

 カウンターに並んだ背中が二つ、クツクツと笑っては揺れる。
 飲み始めた時の夕暮れの光はすっかりと消え失せ、店内に取り付けられたライトだけがまるでスポットライトのように二人を照らし出す。

 「でもさぁ、お前、……注射器分けてくれただろ、あの時。それから、ほら……俺がやられそうになった時に俺を庇ったりとか。あの後に嫌味を言われたが」

 「だから、"あの時"の心当たりが多すぎて……」

 「……お前、本当は案外、良い奴なのかもな」

 ミラージュがそう囁き、クリプトに視線を向けた時、白と黒のコントラストが混ざって乳白色になったグラスを口にしていたクリプトもまた、ミラージュを見つめ返していた。
 またあの緊張感の再演だとミラージュは溶け始めた脳内でそう考える。
 けれど"良い奴"だと言ったミラージュの言葉にクリプトが苦しげな表情を滲ませたのを酔った視界の中でもミラージュは見逃さなかった。
 反射的にそのデバイスの取り付けられた目元に手を伸ばし、親指の腹でそこを擦る。
 ハ、と酒気の帯びた吐息がクリプトの唇から吐き出されて、太い眉の下、期待と驚きの色を宿した黒い虹彩がミラージュを映す。
 嫌なら嫌だと言ってくれたらいい。今日はチャンピオンを取って、そうして上質な酒を飲んで、二人してしこたま酔っているだけなんだと、そう、笑ってくれたなら。

 「ウ、ィット」

 何度かあやす手付きで赤くなった目元を親指でなぞるミラージュの名を呼んだクリプトを引き寄せるように、目元を撫でていた手を耳にずらし、顔を近づける。
 最初はただ触れ合うだけのキス、乾いた唇を湿らせる為に舌先で舐めあげればうっすらと開かれた口腔内にミラージュの熱がねじ込まれる。
 アルコールを多量に含んだ舌は熱くて、ミラージュは何故か普段冷たい表情をしているクリプトのそんな熱さに泣きそうになった。
 怯えているのか縮こまる舌を吸い出してはジュルジュルと啜り上げ、想像していたオレンジでは無くコーヒーの風味がする口腔内を味わう。
 ほろ苦い筈なのに、時折クリプトから洩れ出る鼻にかかった声が耳に響くからか、飲み下した唾液はとても甘く感じられた。
 ガタンと激しいキスのせいで座っていた椅子が音を立て、途端に唇を離したクリプトが所在なさげに目を右往左往させたかと思うと、座っていた椅子から降りる。

 「あ……その、なんだ……とりあえず、……帰る……」

 「え、おい、待てって!」

 急なその変化にミラージュもまた椅子から降りると、背を向けたクリプトの手首を握り込んだ。
 今度は捻り上げられなかったミラージュの手に伝わる微かな震えに、キスをされたのがやはり嫌だったのかと塞ぎ込みそうになるミラージュの耳にクリプトの小さな声が届く。

 「こんなの……ダメだ……」

 「……クリプト……」

 自分に言い聞かせるような声に思わずその背中を抱きしめると、ミラージュより線の細い体が暴れた後に段々と収まっていく。
 本当はダメだとミラージュ自身も分かっているのに、こんな機会は二度とないのかもしれないと思えばクリプトに触れたくて仕方が無くなっていた。
 この男が好きなのかと言えば、正直、素直にまだ認められるほどミラージュは確信を得れていなかった。
 自分の感情を常に笑顔と冗談で覆ってきたミラージュには、何が本当で何が正解なのかと迷うクセがあったからだ。
 けれど、それでも今はこの腕の中の存在を逃がしたくない。

 「……クリプト、……なぁ、……ダメなのかよ……」

 「……俺は、……俺は、……良い奴なんかじゃない」

 「……知ってる」

 「……じゃあ、恋愛ってのは、先に好きになった方が負けなんだってのは……知ってるか? ウィット」

 クリプトのその言葉に息が詰まる。ここから先に進みたいのなら、それを覚悟の上で手を出せという事だろう。
 常にキル数で勝負をしてきた二人にとって、勝ち負けという単語は強力だった。
 たった一夜の過ちになるか、それともその後も尾を引くのかは分からない。
 それでも構わないとミラージュの中の本能が囁く声を聞いた。

 「…………お前がそれを望むなら、俺たちはそういう世界で生きてるって事にしてやる」

 「……ッ……」

 そう言って背後から抱きすくめたクリプトのワイシャツのボタンを一つずつ外していくミラージュの手は微かに震えていた。
 全てが終わった後に戻りたいと思うのかもしれない。友情というには無理がある一線をこれから飛び越えようとしている。
 けれどワイシャツの中に潜り込ませた掌に伝わる滑らかな肌は、そんなミラージュの迷いを溶かしていく。
 フラフラと前に進ませるように押した体が、店の中にある高さのあるテーブルに辿り着くと、そこに手をついたクリプトの金属製デバイスの取り付けられたうなじにかけられたネックレスが互いにぶつかり合ってシャラリと音を立てた。
 細い腰を両手で掴んで、そこからさらに手を滑らせてはしなやかな筋肉のついた腹筋を指で辿る。
 やはり想像していたとおりにミラージュとはまた違った質感を持つ筋肉のついた肉体は、同じ男だというのにミラージュの下腹部を刺激した。
 デニムから抜き取ったワイシャツをめくり上げると、ぽこぽこと浮かび上がる胸椎と肩甲骨がなだらかな隆起を形作り、ほんのりと赤く染まった肌の中で上下する。
 今は見えないがきっと金属デバイスを外した中の耳も同じように染まっているのだろう。

 「……顔、見たい……」

 クリプトの背骨を辿るようにキスを落としながら、ミラージュが甘えるように囁く声をクリプトは黙殺する。
 それに納得できないミラージュがさらに声を上げた。

 「……キス出来ないだろ、このままじゃ」

 「……顔を合わせるなら……これ以上はしない」

 厚みのある唇が背中に押し当てられる度に、ひくりと震える身体同様に揺れる声でクリプトがそう言うのにミラージュはため息を吐く。
 あくまでもそういうスタンスを崩したく無いのだろう。
 先ほど口付けた唇の感覚を思い出しながら、ミラージュはそろりと手を動かしてクリプトのベルトのバックルに指をかける。
 カチャカチャと鳴る音が耳に迫ってくるのに追い立てられるように外したバックルの下にあるボタンを外し、ジッパーを下ろす。
 奥に潜む下着に触れさせた指先に伝わる湿り気に、ゾクリとした痺れがミラージュの背を這った。
 普段は性の匂いなど微塵も感じさせる事のない清廉さの塊のような男が、ミラージュの下で確かな情欲を覚えている。

 「……ん、……っ……」

 「は、……は、……ちゃんと勃ってるのが笑えるな……ッ……」

 「お前、だって……」

 布の上から撫で上げれば、鼻にかかった声がクリプトの唇から発せられる。男同士だというのに、そんな性別など関係が無いくらいに互いに興奮していた。
 気持ちの良いチャンピオンを取って、酒の勢いでこうして触れ合っているのだと自分へ言い聞かせようと発したミラージュの言葉は、ぐりぐりと押し付けられたクリプトの衣服越しの臀部で止められる。
 チクショウ、顔が見たい。煽るように俺に腰を擦り付ける男の眉根の寄った顔は、きっと薄く笑っているのだろう。
 その生意気な唇を塞いで、涙に濡れる虹彩を自分だけで満たしたくて堪らない。
 けれど、それをするならばミラージュは負けを認めた事になる。それと同時にこの強情な男は本当にこの先をしないで帰ってしまうのだろう。
 たった半年にも満たない月日ではあったが、ミラージュはクリプトが一度言った事を中々曲げない意志の強さを持っている事を理解出来ていた。
 下着の中に手を差し込み、ぬるついた先走りの蜜を零すクリプトのペニスに触れたミラージュは、そのままズルリと下着と一緒にボトムスを脱がせていく。
 足元に溜まったボトムスの中から現れた日に焼けていないミラージュより細い下肢が、仄暗い照明の中でボンヤリと発光しているように見える。
 戦闘服では太ももに巻かれたベルトの下に履いている黒いボトムスの内側にこんな艶めかしい肉体が隠されているなど、誰が分かるだろう。

 「ぁ、……」

 「寒いか? 暖房入れようか」

 「平気、だ……それより、その……」

 最後まで全部するつもりか? と戸惑うように囁いてから振り向いたクリプトの目がフワフワとした色を宿している。
 男同士でこういった行為をした事が無いミラージュにしてみれば、どうするのが正しいのかを知らなかった。
 挿れる場所は分かっていても、そんな情報も知識も無い人間がむやみやたらに出来るモノなのだろうか。
 悩んだ結果、自身の白いスキニーを留めるベルトのバックルを外したミラージュは下着をずらして既に熱を帯びた赤黒いペニスを取り出すと、それを見て怯えた表情になったクリプトを安心させるように後ろから頭を撫でてやる。

 「いや、しねぇよ。……でも、擦るくらいならいいだろ?」

 「……ん……」

 「足、締められるか?」

 自らのペニスをクリプトの腿に寄せたミラージュがそう言うと素直に細い両腿に挟み込まれ、クリプトのペニスと密着する。
 想像以上にここまではこちらのペースで進んでいる事に、もしかしたらクリプトはこういう行為に慣れていないのかもしれないと考えたミラージュの額に一筋、歓喜の汗が落ちた。
 何でもかんでも知っているような顔をしてミラージュに言ってくる男が、何も分からないような顔をして自分の下に居る。こんなモノ、興奮しないワケが無い。
 顔を前に向けてしまったクリプトの表情は再び分からなくなってしまったが、ピタリと触れ合わせた熱は変わらずにその存在を主張している。
 ミラージュは両手でその細い腰を掴むと、腰を緩やかに振ってその熱を高めていく。

 「……あ、っ……う……」

 「っは、……ぁ……」

 ぐちゅぐちゅと鳴り響く粘着質な音が、音量を下げたBGMに取って代わってミラージュの脳を揺らす。
 腰を掴んでいる手を動かして引き締まった張りのある臀部を掴めば、テーブルについていたクリプトの手がブルブルと震えてついにテーブルに突っ伏した。
 左の上腕で声を出さないように顔を押さえ、木製テーブルに縋りつくように右手でそこに爪を立てているクリプトの金属デバイスがキラキラとライトの光で輝きを放つ。
 挿れたい、と無意識に臀部を掴んでいた手でその双丘を割り開くようにすれば、まだ誰にも汚されていないのか淡いピンク色をしたアヌスがヒクリと震えていた。

 「っぁ、おい、……そ、んな……ところ……見るなって……!」

 「……わかってる……ッ……」

 自分の秘所を視線だけで犯されているのに気が付いたらしいクリプトが批難の声を上げる。
 この男の腹の奥まで貫いて、暴いたならばどんな風に鳴くのだろう。
 欲のせいでうすぼやけた視界の中、ミラージュは自分の中に存在していないと思っていた凶暴性がクリプトのせいで目覚めていくのを感じながら、開いていた臀部から手を離してまた腰を掴み直す。
 繋がりたい。クリプトという男の表層に被せられた性質を一皮むいた先にある本質が一体どんなモノなのかを知ってしまいたい。
 何も知らない。クリプトが何を目的に【ゲーム】に参加したのか。遠くを見ている時に考えている先に居る人物も。
 ミラージュには知り得ない情報が、この肉体には溢れそうな程に詰まっていて、そんな秘密を抱えている男がミラージュに体を差し出している。
 それもこれも酒のせいだと言い訳をして、腰を掴んでいる手の片方を前に宛がって重ね合わせたペニスを扱けば、途端にクリプトの立てられた爪でカリカリとテーブルを引っ掻く音がした。

 「ん、っぅ……うぅー……」

 「クリプト、……クリプトッ……」

 「……ぁ、ッう……っく……!」

 引いていた腰を入ってもいない中に押し付けるような動きに変えると、どぷりとミラージュの手を濡らす精液の独特な匂いがして、脊髄を吐精の心地良さが駆けのぼった。
 掌で受け止めきれなかった精液が磨いた床に落ちるのと同時に、カクカクと震えたクリプトの脚から力が抜けて、そこに挟んでいたペニスを外すとぬるりとした体液が細い脚に透明な糸をかける。
 くったりとテーブルに上半身をつけているクリプトの姿が達したばかりだというのに余りにも目に毒で、慌ててカウンターの方にティッシュの入ったボックスを取りに向かう。
 自分の店であるパラダイスラウンジでクリプトとこんな事をする羽目になるなんてと、ミラージュは掌とペニスをふき取りつつクリプトの方へと向かうと、まだ酔いが回っているのかぼんやりとしているクリプトにティッシュを手渡してやる。
 のろのろと緩慢な動きで足やペニスをふき取り、足首に纏わりつくボトムスを履いたクリプトはミラージュに視線を向けると、また何かを言いたげに唇を閉じたり開いたりしていたが結局、何も言う事は無かった。
 ミラージュもまだ脳内にアルコールがこびりついているが、それでもいつもはよく回る口が動かない理由にはならない。
 互いの沈黙を破ったのは、またもやクリプトの方が先だった。

 「……酔ってたんだ、俺も、お前も」

 ミラージュから視線を外したクリプトの目元はやはり赤い。けれど、今はそこに触れるのは違っているような気がして、ミラージュは沈黙で返す。

 「酔った勢いで、……そういう事になった。でも、俺達は忘れる、明日からは今までどおり。……それで良いな?」

 先ほどの事をもう既に後悔しているのか、早口でそう言ったクリプトの目は暗い。
 念押しするようにそう言われたミラージュは、まだ熱っぽさの残る体を押さえ込むように額に手を当てる。
 シトリと湿り気を帯びたそこは酒だけではない汗でぬるついていた。
 返すべき答えが見つからずに黙っていると、座っていた椅子にかけていたカーディガンと荷物を取ったクリプトがそれらを羽織ってミラージュを見つめる。

 「金を払わないと……」

 「いや、良いよ。……今日は俺の奢りだ」

 「……そうか……」

 まだふらついている足元を必死で立て直そうと健気に動かすクリプトに、思わず手を差し伸べそうになるミラージュの手を要らないと目線だけで止めたクリプトは、そのままミラージュの前を横切ってドアまで行くと体当たりでもするかのように外へと出て行ってしまった。
 一人残されたミラージュは、まるで今の出来事が夢だったのでは無いのかと思うがカウンターに残った二つ分のグラスを見て夢では無かったのだと実感する。
 本当にこの店でクリプトと体を繋げるまではいかずとも、わき上がる欲情のまま触れ合ってしまった。
 脳裏に残るキスをした時の潤んだ瞳も、掌に吸い付くような肌の質感も、思い出せば思い出すほどにアルコールなどよりもよっぽどミラージュの心臓を速めた。
 いつもは皮肉しか言わないというのにねっとりと絡みついた舌先は甘くて、見事な蹴り技を繰り出す脚はあんなにも煽情的なのを知ってしまった。

 「『今までどおり』、ね……そんなん出来るのか……?」

 自分にも、そしてクリプトにも問いかけるようにそう言ったミラージュの言葉は、無人の店内にぽつりと漂うだけ。
 とりあえずグラスを片付けて、床もまたモップをかけないと、と気だるい体に鞭打つようにミラージュはゆっくりと動き出したのだった。






戻る