The Melody of Liars.3




――――戸惑いのノクターン


 クリプトとミラージュがあんな風になってしまってから、2週間。
 ミラージュが懸念していたのが嘘のようにクリプトとミラージュは『今までどおり』を貫いていた。
 その代わりに、あの日以降は二人きりで呑むという事は無くなり、クリプトは仕事以外でミラージュに親しげな様子を見せるのが少なくなった。
 ミラージュにしても気まずいのは当たり前の話であったし、仕事はキチンとこなしているので、それに対して何かを言うつもりもなかった。

 それは互いに良い歳をした"大人"であったのと同時に、丁度新しく加入した【レジェンド】であるローバが持ち出した"取引"のせいで、そちらの方に意識を取られているのもある。
 美しい外見に騙されそうになるが、ローバという女性はかなりしたたかで、ミラージュの一番の秘密である母親の事を持ち出した。
 正直、それを全員の前で全てではないが話したローバは恐らく【レジェンド】全員の弱みを握っている。
 結局のところ、一番触れられたくない弱みをローバが握っているとしたなら、【レジェンド】達が彼女の言うアーティファクトの回収を手伝わざるおえないのは明白だった。
 そして、ローバがそのアーティファクトを回収するにあたって彼女の怨敵であるレヴナントにはその秘密を絶対に洩らさないように、との約束を交わしたのはつい昨夜の話だ。

 ミラージュが初対面で嫌な雰囲気を持っていると感じていたレヴナントは想像していた以上に相当な事をやらかしてきた殺人ロボットであり、ローバはそんなレヴナントに実の両親を殺されてしまったのだという。
 ローバが【レジェンド】達の何人かにその話をした時、それを伝え聞いたミラージュは確かにレヴナントというロボットに対して嫌悪の念を抱いた。
 そうしてミラージュ以上に嫌悪を露わにしているのが、レイス・ライフライン・クリプトの三名で、ミラージュはクリプトがそこまでレヴナントに対してむき出しの嫌悪を露わにしている事に内心驚きの念を覚えていた。
 確かにレヴナントは非人道的で、許される事のない罪を犯した恐ろしい人造人間だ。
 しかし、クリプトがここまであのロボットに怒りを示すのは、ただの正義感からだけでは無いような気がしていた。
 言うなれば、ローバと自分を重ね合わせているようにも感じられる。
 大切な"家族"を無慈悲に殺されてしまったとでも言わんばかりのその態度は、ミラージュにとって未だに理解が及んでいないクリプトという男の一端を知る重要なピースの一つのように思えた。
 窓辺に佇み厚いガラスの向こう側をただぼんやりと見つめていたあの視線の先。そこにはもしかしたら、クリプトにとっての"家族"とも呼べる人物の影が映っていたのかもしれない。
 ミラージュはそうやってクリプトの知らない面を少しずつ理解したいと思うようになっていた。酒に溺れかけていたあの日よりも、一滴も飲んでいない今の方がそれは強く願っている。
 それほどまでにクリプトという男がミラージュの心を深く侵食しているのだと、その事実からは目を背けて。

 「わぁ、今日はミラージュとレイスと一緒の部隊なんだね! 嬉しいなぁ。よろしくね」

 ぼんやりとしていたミラージュに、パスファインダーの陽気な声がかけられてハッと顔を上げたミラージュの前でモニターにハートの目をした顔文字を浮かべたパスファインダーがピョンと小さく飛び跳ねる。
 そんな可愛らしい動作に似合わず、ガシャン、と音を立てたパスファインダーにミラージュは笑みを浮かべるとそのまま声を上げた。

 「あぁ、よろしくな。パス。……ところでレイスはどこだ? アイツ、まさか遅刻かぁ?」

 「レイスならさっき見かけたよ。多分、ワットソンの所じゃないかな、あの二人は良く話しているもんね」

 「なるほど。ま、まだ【ゲーム】開始まで全然時間もあるし、俺達の作戦なんて大体いつも通りだもんなぁ」

 施設の談話室のモニターに映し出されている今回のトリオメンバーの一人であるレイスの姿が見えない事に、ミラージュがそう言うと、パスファインダーから返事が戻ってくる。
 パスファインダーとレイスがミラージュと同じ部隊になるのはよくある事で、大概が先陣を切るレイス、中央で前後のフォローをメインで行うミラージュに、高台に上がりやすいパスファインダーが後衛というパターンが一番多い。
 三人での部隊はもう何度も経験している事もあって、ミラージュの中ではこの三人でのトリオ戦であればわざわざミーティングを行わなくてもそこまで問題は無いだろうと思うくらいに二人を信用していた。

 本日の【ゲーム】の舞台はキングスキャニオン。
 もう慣れた場所だと思っていたというのに、今ではあの大勢部隊が降下していたスカルタウンやサンダードームは無くなり、それ以外にも多くの施設が新設された惑星は複雑になりながらも様々なエリアが増えた事で色々な場所に降下しやすくなった。
 スカルタウンとサンダードームが消失してしまった点に関しては、運営側がノーコメントを貫いているが、そもそもマーシナリー・シンジケートが真実を話す事などほぼあり得ないので、誰も気にする事無く【ゲーム】に参加している。
 噂によると新【レジェンド】として【ゲーム】に参加したローバがその点にも関与しているらしいが、どちらにせよ失われた場所はもう戻る事は無い。ただ僅かばかりの感傷に浸るのみである。
 個人的にミラージュとしては殆どの部隊がスカルタウンに降下し、その中で自分も暴れまわってド派手に活躍した時の高揚感は好みの感覚ではあったものの、そうやって降下して勝てた回数などすぐに倒された回数とは比較にならない程に少ない。
 どちらにせよ、あの場所で勝てたとしてもすぐに周囲から漁夫をしてやろうと狙ってくる部隊も多いので、無くなって寂しい気持ちと安心している気持ちの半々であった。
 ミラージュとパスファインダーが話していると、談話室の入口をくぐって見慣れた白いコートを纏ったクリプトが視界の端に映る。
 誰かを探している様子のクリプトに、ミラージュは思わず声をかけていた。

 「誰を探してるんだ?」

 その声にミラージュの方向に目を向けたクリプトの顔は、特に何の表情も宿してはいない。
 そうしてぶっきらぼうにも聞こえる声音でクリプトは返事をした。

 「ワットソンを探している。昨日の件で、話をしたいと思っていたから」

 「あぁ、あのアーティファクトの組み立ての話ってやつか。ワッツなら多分レイスと一緒に彼女の控え室じゃないか? 女子会を邪魔するなよ、小僧」

 「……どうも」

 ペラペラと回るミラージュの舌に、呆れたように一言だけそう言ったクリプトはそのまま出ていってしまう。
 昨夜のローバの話では、ワットソンとクリプトは共にアーティファクトの組み立てを担当するという話になっていた。
 それの何が問題なんだとミラージュは思う。
 けれど、心の奥底がじくじくとした膿を持った傷口のように微かに痛むのを無視してパスファインダーの方にまた視線を戻した。

 「案外、アイツ、女子会とかに間違えて参加してもシレッとしてそうだよな。常にクールぶってるし」

 「? 男子が女子会に参加したらいけないの?」

 「……いや、なんでもねぇよ」

 誰とでも気兼ね無く話をするパスファインダーにする話では無かったとミラージュはその話題を打ち切った。
 元々、ワットソンとクリプトは少しずつ親密になってきているのをミラージュは知っていた。それはミラージュがクリプトの事を良く観察していたからだ。
 常に周囲に警戒を怠らないクリプトが、ほんの僅かに柔らかく笑う顔を、酔ってもいないのに向けている。
 勿論、ミラージュも何度かそれを見た事はあった。しかしそれは酒の場での話で、今はミラージュとクリプトは二人で呑むことは無い。
 夕日に照らされて、ほの赤く見えた頬が目蓋の裏に残って離れない。
 こんな風になるのなら、あの夜を巻き戻してしまいたいと思うのに、それでもきっと何度戻ったところで誘惑には抗えない筈だと考えながらミラージュは丁度あと1時間で試合が始まるというアナウンスを聞く。

 「……はぁ……」

 「どうしたの、ミラージュ? さっきからサーモグラフィの温度が上がったり下がったりで忙しいね」

 「えぇ? そうか? ……まぁ、俺は俺で色々あるって話だよ」

 「ふーん。人間って大変なんだね。あ、僕、バンガロールに試合前にちょっと来てって言われてたんだ! また後でね、ミラージュ」

 「おー。じゃあ、後でな」

 何故か慌てて談話室を出ていったパスファインダーに、やはりパスファインダーもバンガロール相手にはおっかなく思うのだろうかとミラージュは思う。
 そして一人残されたミラージュは、特に話し相手も居ない談話室で試合開始までの時間を暇をしながら過ごす羽目になったのだった。


 □ □ □


 すぐ背後で爆発し、炎の壁を発生させたテルミットグレネードの熱気がミラージュの背中を焦がしかけるのを慌てて前にある扉に駆け込む事で避ける。
 キングスキャニオンの新エリアであるキャパシターに降り立った三人はすぐさま周囲に何部隊か降りているのを把握し、どうにかチャージタワー近くの建物の一つに逃げ込んだ。
 周辺ではドタバタと戦闘音が聞こえてくるが、少し離れた場所での戦闘のようでこの建物は比較的安全だと言えた。
 しかしながら大して三人とも武器を拾えず、ミラージュはホルスターに携えた4〜8倍のスコープを取り付けたロングボウとモザンビークしか持っていない。
 しかも各々弾数も少なく、隣に居るパスファインダーはP2020二丁持ちという有り様だった。

 「……やっぱりこの辺りは凄まじい混戦具合ね」

 「悪かったって! でも、折角新しいエリアが出たなら行きたくなるモンだろぉ?」

 「ワクワクするもんね! ……でも、ここからどうしよう?」

 困ったようにそう言ったパスファインダーの隣に居るレイスの背にはハボックとR-301が背負われており、武器としては悪くない。

 「とりあえずパス、私のR-301と片方交換しましょう。それともハボックの方が良いかしら? 弾がどちらもあまり拾えなかったのだけど」

 「ありがとう、レイス! 僕はハボックもR-301もどちらも好きだからどっちでも構わないよ」

 「じゃあ301を渡すわね」

 そう言ってパスファインダーにR301を手渡したレイスは、逆にP2020を受け取る。
 さらにごそごそと身の回りを漁っていたパスファインダーは、なけなしのエネルギーアモを背に取り付けたバックパックの中から取り出すと、レイスに渡した。

 「はい! エネルギーアモが入っていたからあげる。降りた場所のアイテムを手当たり次第に拾ったから他にも色々持ってるよ」

 その他にヘビーアモと、そうしてスカルピアサーを取り出したパスファインダーに、ミラージュはその機械の手からそれらを貰う事にする。
 代わりに自分のポケットに入っていた僅かばかりのライトアモを受け渡すと、パスファインダーの胸部モニターが笑顔の顔文字を表示していた。

 「ありがとう。助かるぜ」

 「どうしたしまして」

 カシャ、という軽い音と共にロングボウにスカルピアサーを素早く取り付けたミラージュがそう言うと、パスファインダーは嬉しそうに声を上げた。
 物資としては正直、良くは無かったが、それでもとりあえずみんな全く戦えないというワケでもない。
 それに近くにチャージタワーがあるので、うまくレイスとパスファインダーのアルティメットを使えば戦闘に巻き込まれてもどうにかこの場から脱出出来るだろう。

 「私のアルティメットで研究所側に抜けるのはどうかしら。研究所は降りていた部隊が居たから、危ないかもしれないけれど、中に入れればポータルで移動出来る」

 「キャパシター裏のジャンプタワーでリグか沼沢も悪くないかもな。ただ戦闘してる奴らが居るから壁際をさっさと抜けないといけないが」

 「僕のアルティメットでこの建物のもう一個先の建物からなら一気に上の建物にジップを張ってケージ方面も行けるよ!」

 三人の意見をすぐさま出し合ってどうするべきなのかを考える。
 こういう時にバラバラの意見だったとしても、提案があるだけで十分に選択肢が増えるのは逆に良い事だと理解しているので、特に三人は揉めたりはしなかった。
 そうしてレイスがミラージュの持つロングボウに視線を向けると、そこに取り付けられているスコープを確認する。

 「とりあえず私とパスでチャージタワーを使用するから、ミラージュは建物上から索敵をお願い。もしも敵影が見えたらそちら方面には行かなくて済むわ」

 「了解。万が一見つかったら撃っちまうかもしれないが、それは構わないな?」

 「……いいけど、キチンと当てなさいよ」

 そう言ってドアから出たパスファインダーとレイスに倣うようにミラージュもまた、建物を出て屋根にのぼると建物上に置かれたコンテナに身を隠しながら周囲をスコープ越しに確認する。
 相変わらずブロークンリレーに近いキャパシターの建物では戦闘が続いており、そちらに漁夫に行くのも悪くはないかもしれないとミラージュは思いつつ、今度は研究所側のチャージタワーの向こう、ケージに近い方面に目を向ける。
 段々とチャージタワーの電流が強まり、バチバチという音が巻き起こるのを耳に入れながら、ミラージュは見たくない光景をスコープ越しに捉えてしまっていた。
 ジップラインで上段にのぼれる所に一番近い場所にある建物の強化ガラス越しに、ワットソンとクリプトがローバの出したブラックマーケットを使用しながら互いに顔を見合わせていて、そんなクリプトの口元は確かに、微笑んでいた。

 ガァン! と骨にまで響きそうな程の鉄の撃ちだされる激しい音と共に、発射された弾丸は丁度クリプトとワットソンの間にあるブラックマーケットの辺りにぶつかったが、強化ガラスに当たったので中に居たクリプト達は自分たちが狙われている事には気が付いたが、誰も傷付きはしなかった。

 「ちょっと! 誰か居たの?」

 勝手に引き金を引いた指先が信じられず、ミラージュはゆるゆるとスコープから目を離す。
 そんなミラージュにレイスが慌てたように声をかけてくるのを聞き流しながら、ミラージュは建物の屋根から降りつつ報告を行う。

 「リレー側の奴らはまだ戦ってる。ケージ方面の建物で、ローバ達の部隊がブラックマーケットで物資を漁ってるからジップは止めた方がいいかもな」

 「それはいいけど、貴方、どこを撃ったのよ」

 「建物内のブラックマーケットをその、……なんだ……見間違えたんだよ……。研究所側もアイツらが出てくると鉢合わせる」

 「じゃあ、ミラージュが言っていたキャパシターのジャンプタワーを使おう!」

 パスファインダーの言葉に三人は頷き、行動を開始する。クリプト達が屋根上から撃たれたのが分からなかったとしても、リレー側の勝利部隊がこちらにやってくる可能性は十分にあったからだった。
 最初に激戦区に降りる部隊など、大体が戦うのに飢えている奴らばかりだからだ。
 先を走るレイスの背を追いかけるようにキャパシターの反りたつ壁の横を障害物を避けながら、ジャンプタワーにたどり着いたミラージュは、スルスルと昇る自らの目が映し出す景色ではない先ほどの光景を思い返していた。
 知らない。わからない、わからないフリをしてしまいたい。
 風を切り、先に飛び立ったレイスが向かった沼沢の方面に飛び立てば鬱蒼と繁った木々の合間に点在する建築物が見えてくる。

 (……こんな事にすら、嫉妬するなんて……)

 全身をくるむ浮遊感、その感覚の中で飛距離を伸ばしてギリギリ届く遠い建物のドアの前に降り立ったミラージュは、もう自らの感情が自分でも隠せない事を理解してしまった。
 あの弾丸はミラージュの心だった。こちらから視線を離したクリプトに対して、どうかこちらを見てくれという祈りにも似た一発。
 戦う事だけでしかミラージュはクリプトと関われないのだとしたなら、それでも構わない。
 そう思っていたのに、あの柔い笑みがもう二度と見られないのかもしれないという事実に震えた。
 友情というには生臭い。そんなのはあの日からそうだった。
 欲しいと願った時点で、ミラージュはクリプトの事が好きになっていたのだ。

 「……はぁー……」

 ついに自覚してしまった恋心と、燻る苦い嫉妬心にため息を吐いたミラージュは、とりあえず今は【ゲーム】に集中するべきだと意識を集中させる事に尽力する。
 ここで集中力を切らすのは仲間であるパスファインダーとレイスに申し訳が立たない。
 そう考え、胸を締め付けるような感情を奥底に沈みこませたミラージュは未だに漁られていない建物のアイテムを集める為に素早く足を動かし始めた。


 □ □ □
 

 【ゲーム】の合間にローバがやろうといったアーティファクト回収作業は、進んではいるものの、進めば進む程に【レジェンド】達の間の溝を深めていった。
 ワットソンがケージでプラウラーに襲われ負傷し、それに対して人を人とも思っていないようなコースティックがローバに怒り心頭で掴みかかったのだ。
 そこまでして集めるべきものなのかと問うレイスに、ローバは当たり前だと返し、それが余計に周囲を苛立たせる。この女に弱味を握られていないのなら、と皆思っていたのだろう。

 ワットソンの怪我は幸いにもライフラインの高度な医療技術によって完治するとはいえ、それでも仲間の一人がやられたとすればそれぞれ思うことはある。
 その上、あの恐ろしい人造兵器であるレヴナントがワットソンの眠っている病室に現れ、奴はアーティファクトの回収作業を【レジェンド】達が行っているという事を何故か知っていた。
 『連中を簡単に信じてはいけないぞ』『お前たちのいがみ合いが愛らしい』とくぐもった声で酷く愉快そうにそう言ったレヴナントは、ポータルから現れたバンガロール、ジブラルタル、ブラッドハウンドに銃を向けられ退散したものの、その後の空気は酷く重苦しく、じわじわと【レジェンド】達の疑惑を膨らませる。
 ――――【レジェンド】達の中に内通者が存在するという疑惑。

 あの日以来、【レジェンド】達は今まで以上に必要最低限の会話しか行わなくなった。
 それもこれもローバが持ち込んだ取引のせいではあったが、乗りかけた船から今更降りる事も叶わずに、皆それぞれが隠しきれぬ疑惑を周囲に振りまきながらも、それでも【ゲーム】は開催され続ける。
 ミラージュはミラージュで、そんなピリついた空気感が酷く苦手なのもあって、普段以上におちゃらけた雰囲気を醸し出していた。
 言わなくとも良い冗談を言っては、たまにレイスに叱られたりもしたが、逆にワットソンと友人であるレイスがミラージュのそんな変わらぬ姿に何となしに安堵しているのを、ミラージュ本人は知らなかった。

 そして、ワットソンと仲が良くなっていたクリプトもどこか辛そうな顔をしているのに気がついていたミラージュは、珍しくクリプトに割り振られているシップの部屋に向かうとそのドアを叩いた。
 今日も今日とて【ゲーム】は通常どおりに開催される予定で、ワットソンだけは治療の為に参加しないものの、それ以外のメンバーは【ゲーム】に参加する予定になっている。
 まだ開始時刻までは少しばかり余裕があるのもあって、ミラージュはどうしてもクリプトの様子を確認したくなってしまったのだった。
 何度か叩いて反応が無いので、もしかして居ないのかと思ったミラージュが、鈍色に光る金属製のドアに向かって内部に聞こえるくらいの声量で呼びかける。

 「おーい、居ないのかよ」

 その呼びかけに反応するようにドアのロックが解除され、居るんじゃねぇか、というミラージュのボヤキが唇から漏れた。
 そしてドアを開けて中に入り込むと、デスクに置かれたラップトップを叩いていたらしいクリプトが座っていたオフィスチェアを半分だけ回してミラージュを見つめる。
 一重の目の下には僅かにクマが出来ており、顔色も少し悪い。
 おそらくワットソンが怪我をしたことで、自分がより一層このアーティファクトの謎を調べなければと躍起になっているのだろう。

 「……何の用だ? 次の【ゲーム】では別部隊だろう」

 疲労の滲んだ声を聞きながら、ミラージュはどういう反応を返すのが正解なのかを迷う。
 けれどこんなところでクリプトの心労を深めるつもりは無いと、言いたいことを一気に話していく。

 「あー、その、なんだ。お前とワッツが仲良かっただろ? そんでレイスも最近調子が……アイツはまぁ、いつもそうだが、ぼうっとしてたりピリピリしてたりするんだよ。そんで、お前もこういう時は結構気にしそうなタイプに思えてな」

 「つまり、ちゃんと寝れてるのか? 目の下のクマがいつも以上に出てるじゃないか。飯は? 食ってないならなんか作ってやるよ。コーヒー……は、あんまり良くないな。ココアとかホットミルクとか、そういうのも作ってやれるし……。んん、そうだな……あー、……あんまり、根詰めすぎんなよ。小僧」

 まくし立てられた言葉に呆然としているクリプトは、少し考え込んだかと思うとゆっくりと唇を開いた。

 「……食事はさっき軽く摂った。コーヒーは……それもさっき入れたばかりなんだ。睡眠時間に関しては、確かに言われたように少し短かったのは否定出来ないな。……出来るだけ善処しよう」

 お前には関係ないと切り捨てられると思っていたミラージュは、クリプトが一つずつ返事をしてくれたのを驚嘆の眼差しで見つめていた。
 そしてクリプトがコーヒーを淹れたばかりだというのは本当の事らしく、デスクの上に置かれた可愛らしいネッシーの柄が書かれたマグカップの中にはなみなみと黒い液体が満ちている。
 クリプトのデスクにはさらに小さなネッシーのぬいぐるみがちょこんと置かれており、案外可愛い物が好きなのかもしれないとミラージュは思った。

 「……そうか。それなら、いいんだ。お前がダメになったら、誰があの良くわからないアーティファクトのふ、……ふ? 復元をしたらいいのか分からないしな。ワッツもライフラインがちゃんと診てくれてるし、俺も、あの不気味な別次元には慣れてきてプラウラーなんか何体も倒してる! だから、きっとすぐにこんな面倒な仕事は終わるさ。そうじゃないと、お前とのキル数勝負も中々再開出来ないしよ」

 「……まだ俺が勝ち越して終わっているんだったか。確かに、お前が焦る気持ちも分からなくは無いぞ。俺には勝者の余裕があるからな」

 ふふん、と笑ったクリプトに、いつもどおりの調子が戻ってきたなとミラージュも思わず笑ってしまう。
 クリプトとミラージュのキル数勝負は以前よりも回数は少なくなったものの、時たま行われていた。
 しかし、アーティファクトの回収が始まってからは自然とお互いに忙しくてそんな話にならなかったのだ。

 「言ったな? お前、俺が勝ち越しした時に煽られるの覚悟しておけよ」

 直接目を見て、クリプトと他愛の無い会話を交わしている間、ミラージュの体温は緩やかに上がっていく。
 自覚してしまえばこうして会話をするだけでも心拍数が高まってしまうのは仕方のない事だろう。
 けれどそれを表に全て出してしまう程にミラージュもウブでは無い。
 またあの日のように性急に事を進めてしまえば、今度こそこうして友人のような関係にすら戻れなくなってしまうかもしれない。それだけはミラージュの中で一番避けたい未来だった。

 酒の勢いであんな事をしてしまった、その事実は変わる事が無い。そうしてミラージュがクリプトに対して恋心を抱いてしまっている事も。
 逆に自覚してしまったからこそ、これまで以上にクリプトとの関わり合い方を慎重に進めたいと考えていた。
 それは、目の前の男が異常とも呼べるくらいに警戒心が強いのもあったが、ミラージュもまた、真剣になればなる程に臆病さが発揮されてしまう。
 真面目に誰かを愛するという事が何よりも難しいのをミラージュは知っていた。
 これまで何人かのガールフレンドが居たには居たが、けしてミラージュは一途だったかと言われるとそうでは無かったからだ。
 今はもうフリンジワールドに行ってしまって会えない彼女たちに寂しさを覚えるが、かといってそれはもう過ぎ去った昔の話だ。

 「まぁ、そんだけ元気ならまだ大丈夫だな。ちゃんと飯食えよ? ゼリーやらサプリやらだけじゃなくてよぉ」

 「……分かったよ。口喧しいおっさん」

 「ったく、これだから生意気な小僧は……っと、そろそろ行かねぇと今日はブラッドハウンドとバンガロールと一緒だからな」

 ちゃんとミーティングに参加しないと怖いんだ、とおどけてみせたミラージュにクリプトが呆れたような顔をしてみせる。
 考えてみれば、コイツもそちら側の人間だったとミラージュが思っているとデスクに置かれたコーヒーの入ったマグを手に取ったクリプトが顰めていた眉をほんの僅かに緩めてからコーヒーに口をつけた。

 「お前こそ人に何か言っている場合じゃないじゃないか」

 「そんな事言いながらさりげなくカフェイン取ってんじゃねぇよ、カフェイン中毒者め。俺はちゃーんと忠告したからな、今日は帰ったらいい子でねんねしろよ」

 「分かった分かった。……何度も言わなくてもガキじゃないんだから理解出来る。さぁ、さっさと戻れ」

 シッシッとまるで犬でも追い払うかのような手付きでミラージュに手を振ったクリプトに、ミラージュは苦笑を浮かべる。
 本当に理解できているかどうかは明日の顔色を見れば分かってしまう。もしもこれでそんなに変わっていなかったら、ガキだと言ってやれば良い。

 「へいへい、じゃーな」

 そんな事を考えたミラージュはクリプトに背を向けて入ってきたドアのノブに手を掛けて廊下へと戻ろうとする。
 しかし、ミラージュの黄色い戦闘服を纏った背中にポツリと小さな声がかけられた。

 「……ウィット、……その、……気を遣わせたな」

 その詫びるような色を帯びた声に、ミラージュは敢えて振り向く事無く片手をあげると、今度こそドアをくぐってバンガロール達の元に向かったのだった。






 「あー。つまり、ローバにお前の聞いた話を突きつけるってワケか?」

 バンガロールとブラッドハウンドが待つバンガロールのシップの個室にたどり着いたミラージュは、そこで今までの結果報告を改めて聞かされていた。
 バンガロールという有能な指揮官の元、確かに【レジェンド】達はアーティファクト回収作業をつつがなく進めていた筈だった。
 しかし、バンガロールはただ人の良いように使われるのを良しとしない人間であり、ワットソンが怪我をしてしまったあの日、ローバの秘密を探る為にオクタンをスパイとして送り込み、ハモンド社のヨウコという女からローバの重大な秘密を聞き出していた。
 そのヨウコという女いわく、ローバはハモンド社と取引をしており、アーティファクトと引き換えにソースコードという情報を得ようとしている。
 "お宝"とローバは誤魔化していたが、結局のところ【レジェンド】達はローバの求めているソースコードの為にハモンドの探し求めている謎の部品を見つける使いっ走りをさせられているだけだったのだ。
 だが、オクタンとヨウコが話を進めている途中でワットソンが襲われてしまい、しっかりとした確証を得られないままヨウコとのデートは終了してしまった。
 あのローバの事だから、明確な証拠を突きつけない限りはただの憶測に過ぎないと言われてしまうのが関の山だろう。
 ミラージュの考えている事が分かったのか、バンガロールは渋い顔をして頷いた。

 「どうにか証拠を集めてきてってオクタンに頼んだけれど、あの衝動的な男がどこまで我慢できるか……」

 「……それならば他の者に頼んだらどうだ?」

 黙って聞いていたブラッドハウンドがガスマスク越しのくぐもった声でそう言うのを、ミラージュはもっともだと思っていた。
 オクタビオ・シルバという男の事を深く知っているかと言われれば、ミラージュにも自信があるワケでは無かったが、少なくともライフラインと共にパラダイスラウンジに初めて訪れたその時から、無鉄砲なアドレナリン中毒患者なのだけは理解していた。
 しかしブラッドハウンドの提案にバンガロールは首を横に振ると、疲れたようにため息を洩らす。
 ミッション中にワットソンがやられ、その上、スパイの可能性も考えなければならないというのは指揮官に任命されたバンガロールにしてみればやはり肩に重しとして圧し掛かってくるのだろう。

 「ヨウコとかいう女とどこでどう知り合ったか私達は知らない。それに、そちらをメインで動けば動く程、ローバに気取られる確率はあがるわ」

 「……少なくとも、お前は私とこの男を信用に足る相手だと思っている、と考えて差し支えないという事か?」

 ブラッドハウンドのその言葉に片眉を上げたバンガロールが、ジトリとした眼差しでゴーグル越しのブラッドハウンドを睨み付ける。
 だがそれに特に何の反応も返さないブラッドハウンドに、バンガロールは再度ため息を吐き出したかと思うと、片手を緩く振った。

 「別に信用も何も、この中にスパイが居たとしても、この話題を聞かれて困るのはローバだけよ。もしもローバがスパイを使っているとしたら、それこそ私は指揮官なんてとっくに解任させられてるわ」

 「……そうか。私としてもローバ・アンドラーデのいうアーティファクトの回収作業を早く終えてしまいたいし、彼女が何故、ここまでそれにこだわるのかも気にはなる」

 バンガロールとブラッドハウンドは互いにスパイではないという確信を得ているらしかった。
 それはこの二人は戦闘という死地に何度も趣き、その中で生き延び続け、軍律や戒律という楔で自らを常に縛り上げているからだろう。
 二人のやり取りを見ながら、まるで蚊帳の外に置かれたままのミラージュはポツリと呟いた。

 「俺は……、俺だってさっさとこの意味が分からない仕事を終わらせて、【ゲーム】だけに集中出来るようになりたいぜ。みんな、いつも以上にギスギスしてるしよぉ」

 「まぁ、貴方はそう言うだろうと思ってたわよ」

 ふ、と笑ってそう言ったバンガロールと共にミラージュに顔を向けたブラッドハウンドに釈然としない感情を抱きながらも、一先ず自分も疑われてはいないようだとミラージュは安心する。
 なんだかんだと言いながらも、【レジェンド】達は何度も命のやり取りを重ねてきた間柄で、唯一の"家族"と呼べる母親の記憶も危ういミラージュにとって今は一番【レジェンド】達との関係性が深い。
 全員、一癖も二癖もあるようなメンバーではあったが、少なくともミラージュにしてみれば出来る限り穏便な関係のままでいたいと願うのは当然の事だった。
 どうせ殺し合う仲なのだとしても、明日には同じ敵を撃つ味方になるかもしれない。
 【レジェンド】達が参加している【ゲーム】というモノはそういう歪さを含んだモノだった。

 「とにかく、オクタンにソースコードの件は聞き出して貰うとして、【ゲーム】は【ゲーム】で勝ちに行きましょう。私達の本分はそっちなんだから」

 そう言ったバンガロールの目には既に強い闘志が滲んでおり、ミラージュもまた、その闘志に染められるように今日の【ゲーム】の作戦について話し出したバンガロールの声に耳を傾けたのだった。


 □ □ □


 【レジェンド】達の中心でローバが握った拳をブルブルと震わせながら、うつむいている。
 そこにはライフライン、ジブラルタルの姿はなく、二人はレイスのポータルを使用して別次元に行ってしまった。
 ライフラインは一人、別次元にアーティファクトの回収に行ってしまったオクタンの為に、ヨウコと取引をしてローバとハモンド社とのミーティングの書き起こしをバンガロールのサインと引き換えに手に入れたらしい。
 自分の企みを全てバラされた上に、コースティックにソースコードの詳細な情報を解説されたローバは真っ青な顔をしている。

 ソースコード……つまりレヴナントの生体組織は通常のシミュラクラムのそれとは異なり、ユニット外部に存在している為、その外部に存在するソースコードを破壊すればレヴナントを完全に抹殺する事が出来る。
 両親をレヴナントに殺されたローバにとっては、そのソースコードは何よりも喉から手が出る程に欲しいモノだった。
 しかしそれを【レジェンド】達の前で言われるという事は、存在するスパイからレヴナントにその情報が伝わり、すなわちローバの死を意味している。

 そして、バンガロールの雇い主であるIMCと関連している企業ではあるものの、ハモンド社は良い噂を聞かない企業であり、そんな企業が個人と取引をしてまで欲しているこのアーティファクトを完成させた場合のリスクは計り知れない。
 皆が口々にもう回収作業を止めるべきだという中で、レイスだけは回収作業を続けるべきだと訴えた。
 それはリスクが高い代物であればあるほどに、今、【レジェンド】達で回収をしなければ世界の危機を加速させる可能性があるからだ、と。
 それぞれが思考している間、告発されたローバがさらに言葉を続ける前に、ポータルからライフライン、ジブラルタル、そして血まみれのオクタンが独特の転送音と共に戻ってきたのが分かって、一同はそちらの方に意識を向けた。
 オクタンの義足は両方とも失われ、その上で大量に出血している。
 懸命なライフラインの声かけとジブラルタルの背で苦しげな吐息を洩らしているオクタンを見ながら、ミラージュはとにかく清潔な水を持ってこなければとバーカウンターの裏に置いてあるミネラルウォーターのボトル数本と比較的綺麗なタオルを掴むとライフラインに手渡した。

 「ほら、これ使え!」

 「ありがと」

 そう言って水のボトルとタオルを受け取ったライフラインの前に、ジブラルタルの背に乗っていたオクタンが横たえられる。
 比較的広いテーブルとはいえ、本来ならば人ひとりが横たわって収まるようなサイズのテーブルではない。
 けれど下肢を失ったオクタンはすっかり小さくなってしまったからか、テーブルの上で痛みを堪えるように血塗れになった衣服の胸元を掴んでいた。
 一体どの程度あの別次元に居たのかは分からないが、少なくともライフラインが手紙を見つけたのはワットソンの額の上だった事を考えると、一晩近くは経っているだろう。
 いくつもの裂傷と、砂埃に汚れた体がその行動の無謀さを物語っていた。

 「しっかりしな、オー! 私があんな事を言ったから、アンタをこんな目に合わせた……だからこそ、私はアンタを絶対に助けないといけない」

 「……は、……は……そう、かもな……姉貴のせいさ……ハハハ……」

 「! そうやって笑えるなら、まだ大丈夫だね。痛むかもしれないけどしっかりするんだよ!!」

 ミネラルウォーターのボトルの蓋をねじ開けながら、傷口の砂を落とすために水をかけ、タオルでその水分を拭き取りながらライフラインは泣き出しそうな声音でそう話しかけている。
 そんなライフラインに向かって、マスク越しにくぐもった笑い声をあげたオクタンの身体に当てられた白かった筈のタオルはあっという間に真っ赤に染まっていく。
 そうしてすっかり水と血で重くなったタオルをオクタンの身体から外し、今度はライフラインの横でふわふわと浮かぶD.O.Cドローンから伸びる体力回復用のコードをオクタンの身体に数本繋げながら、背負っていた医療用のバックから消毒剤の染み込んだガーゼと液体の入ったシリンジ、そして針と糸を取り出したライフラインは、手早く腹部や腿にある裂傷の具合を診ていくと、そこを消毒用のガーゼで拭き取った後に素早くシリンジで麻酔を打ちこんでいく。
 途端に笑っていたオクタンの声がくぐもった悲鳴じみた声に変わり、これから行われるであろう縫合作業を見ていられなくてミラージュは視線を逸らした。
 自分が縫われるワケではないし、自分自身ももう何度も怪我をしてはこういう治療は受けてきている。
 それでも流石に目の前で行われる肉と皮が閉じられる作業をマジマジと見ていられる程、ミラージュは強くない。
 そして逸らした視線の先には、強い眼差しでバンガロールを睨んでいるローバと、それを同じくらい厳しい視線で見つめ返しているバンガロールの姿があった。

 「お見事ね。スパイは悪魔にすべてを伝えるでしょう。狙いが気づかれたら、私は八つ裂きにされるでしょうね」

 震える声でそういうローバとは違い、バンガロールは酷く冷静だった。

 「じゃあ、逃げるべきね。早い方がいい」

 「……私はどこにもいかないわ。アイツが死ぬまでは」

 そんなバンガロールに向かって気丈にもそう言ったローバを見て、さらにバンガロールは言葉を続ける。

 「好きになさい。貴方はもう葬り去られたの」

 カツン、と軍靴の踵を鳴らしてローバの前を去ったバンガロールがライフラインの処置を受けて悲鳴を押さえているオクタンの傍に寄るのを見ながら、ミラージュもまたローバから目線を逸らした。今のローバに近づく事は誰にも出来ないだろう。
 そしてぐるりと視線を動かすと、ミラージュと同じようにローバとバンガロールのやり取りを見ていたらしいクリプトが目に入った。
 白いコートで顔が隠れているのもあって、傍目では何を考えているのか分かりにくい。ミラージュは周囲の混乱と動揺の中で、さりげなくクリプトの近くへと寄った。
 クリプトはミラージュの気配を感じ取ったのか、壁に寄り掛かったままの姿勢を崩さないまま静かに呟く。

 「良いのか、向こうについていなくて」

 「俺が居たって、今は何の役にもたたねぇよ……治療に関してはアジェイに任せるのが一番だからな。必要な物があればアイツら勝手に裏から持ってくだろ」

 「……そうか」

 そこまで会話が続くが、その後は互いに沈黙が落ちる。
 一度唇を湿らせるように舌で舐めてから、ミラージュはいつも以上に慎重に言葉を選びながら本題を話し出した。

 「なぁ。その……やっぱりそんなに危険なモノなのか? あれ」

 「分からない。俺はあくまでワットソンの補助に徹しているだけだからな。けれど、……レチナールアレイが持ち込まれた時点で、何らかの頭部なのは確定していた」

 「……でもさ、あの変な頭? を作った所であれだけで動くわけじゃないだろ? 動力源はあるのかよ」

 「いいや。あれはあくまでも……コースティックが言っていただろう。人造人間の頭部パーツには記憶、感情、人格を司る「源流」……すなわち人間の脳組織だな。それが組み込まれている」

 考え込むようにそう言ったクリプトが、ミラージュに視線を向ける。

 「だからあれを肉体ユニットに装着し、動力を流し込んで起動させたとしたら、レヴナントと同じく人造兵器となった"何者"かが目覚めるのかもしれない」

 「おおぅ……そりゃ、やばいな。とにかくやばい……レヴナント一人にだって手を焼いてるのに」

 困ったように眉を下げたミラージュの前で、組んでいた腕の片方を動かして顎に取り付けられた金属デバイスに手を当てたクリプトは、そっと目を細めた。
 そんな話はミラージュに言われずとも、とっくに到達しているのだろう、とミラージュはクリプトの顔を見ながら思う。
 正直な事を言えば、ミラージュはもうこんな危険な可能性のある物に振り回されるのはごめんだった。
 その上、もしも危険な代物なのだとしたら、それを組み立てているワットソンやクリプトに何か被害や追及の手がかかるかもしれない。

 ミラージュもエンジニアとして研鑽を重ねているからこそ、一度壊れたデバイスを修理するというのは、どれほどデバイスの内部構成を正しく理解出来ているかどうかにかかっているのだというのは分かっていた。
 つまり、ハモンド社がローバと取引してでも欲しがっているアーティファクトの内部構成をクリプトが知れば知る程、そしてそれが危険なモノであればある程に何か起きた時の責任を負わされる可能性がある。
 さらにはその情報を知っている事を疎ましく思われれば、【レジェンド】達の中でも一番に二人が狙われる可能性は高くなる。

 「だが、あれが逆にレヴナントとは全く違う個体で、暴走するアイツを抑制する為のシミュラクラムの可能性もある」

 「……それは……お前にしては随分、ら……ら……、お気楽な考え方だな」

 「そうかもしれない。……でも、ワットソンも……オクタンも、コイツのせいで傷ついた」

 敢えて瞬きをゆっくりとしたクリプトの瞳が、テーブルの上に置かれた組み立て途中のアーティファクトに向けられた後、縫合が終わったのか、今は腹を包帯で巻かれているオクタンに向けられた。
 その瞳の動きを察して、ミラージュは言葉の続きを待つようにただ黙る。
 確かにアーティファクトのせいで命は助かったとはいえ、二人も犠牲者が出ている。ここで止めてしまえば、二人の努力が無駄になってしまうのは確かだった。
 やはりこの男はこういう男なのだと、ミラージュはその横顔を見ながら改めて思う。
 レイスがハモンドの行う企みの可能性について話をした時、クリプトが一度眉を顰めたのをミラージュは見逃さなかった。
 やはり仲間思いで正義感の強い所があるのだ。クリプトという名前の通り、この不思議な男には。

 「だから、俺は俺の出来る事をするさ。……それが良い結果になるか、悪い結果になるかは分からないが、少なくともハモンドの弱みは握れる」

 ミラージュの懸念などお見通しだと言わんばかりに薄く笑ったクリプトに、ミラージュも微かに笑みを浮かべた。
 危険な橋を渡っているのは何もクリプトやワットソンだけではない。
 レヴナントかハモンドか、どちらに転んでもローバとの"取引"を受け入れた時点で【レジェンド】達は運命共同体だった。
 顔にかかる前髪を掃ったミラージュは、出来るだけカラリとした口調を心がける。

 「まぁ、この俺様が居る限り残りのアーティファクトだかなんだかはサッサと回収出来るって前も言ったろ? ……言ったよな?」

 「……本当に、お前はうるさい奴だ。最初はあの別次元にあんなに怯えていたクセに」

 「なに言ってんだ、俺は全然怯えてなんか無いぞ! 最初っからな。あんなのは……子供だましの、……なんだ、……良い例えが思いつかないが……」

 クリプトがバカにしたような表情を浮かべたタイミングで、不意にミラージュの背中に声がかかる。

 「ねぇ、ミラージュ」

 「ん? なんだぁ? って……もう恐ろしい手術は終わったのか」

 ミラージュが振り向いた先には、やり遂げた後のすっきりとした顔のライフラインが立っており、オクタンの血とはいえ血まみれのその姿はおどろおどろしい。
 そんな姿を見て一歩下がったミラージュにライフラインは不満そうに肩を竦めたかと思うと、同じく血に汚れたジブラルタルと自分を握り込んだ拳の親指だけを立てて、そこで指さしてから呟いた。

 「私達、こんなだからさ、一回シャワー浴びて着替えてくるわ。それまでアイツの事、ここに置いておいて欲しいんだけど」

 「そりゃあ構わないぜ。ただ、あんな硬いテーブルの上で良いのか?」

 「良いのよ。どうせ暫くは動かせないし、麻酔が効きにくい体質だから今は動かすと痛いだろうしね。諸々が落ち着いたら回収した義足もくっつけないと」

 テーブルの上でぐったりとしている様子のオクタンに、ミラージュは心の中でお疲れ様だなと呟く。
 【ゲーム】の最中だけではなく、常に興奮剤の過剰投与をしているオクタンに医療用の麻酔をいくらかけても効きが悪いのは当然の話だった。
 いくら怪我によって脳内麻薬が出ているとはいえ、大した効果も無い麻酔のみで相当な数を縫ったのだから、恐ろしい程の激痛だったのは想像しなくとも分かる。
 それでもライフラインの縫合が非常に丁寧で迅速なのは世話になった事のある【レジェンド】は皆、理解しているので、恐らくあれだけ縫ったとしてもそこまで傷跡は残らないだろう。

 「じゃあ、よろしくね」

 「了解」

 本来、彼女が参加している組織が組織である事もあり、この程度の怪我人には慣れているのか、血に濡れた青い医療用手袋を裏返しながら外したライフラインはそれをオクタンの横に置かれた自身の医療用バックパックに放り込むと、ヒラヒラと手を振ってジブラルタルと一緒に店を後にする。
 ミラージュとクリプトが話をしている合間に、バンガロールが解散の合図でも出したのか店内にいる【レジェンド】達の数は少なくなっていた。
 心配そうにオクタンの周辺を取り囲んでいるのはワットソンとレイス、そしてパスファインダー。残りのメンバーはもう店からいなくなってしまっていた。

 「俺も今日はもう帰宅する事にする」

 「……そうか。お前もあんまり、……いや、もう分かってるか」

 ライフラインとのやり取りを聞いていたクリプトがポツリとそう囁くのに、ミラージュはどこか寂しい気持ちを覚えて、必死にそれを掻き消す。
 この店でアーティファクトの修復をしているのだから、どうせ明日にはまた会えるというのに、随分と自分は重症らしい。
 ミラージュはそんな事を考えながら、前よりは目の下のクマの薄くなっているクリプトに向かって言いかけたセリフを言うのを止めた。
 あの日から、無理していそうな時に声をかけるようにしていたのもあって、クリプトは流石にキチンと睡眠時間を取るように心がけているようだったからだ。
 食事に関しても、この店で夜作業をする場合はミラージュが栄養面を考えた食事を出しているのもあって、きっと今までよりも良い食事をしている筈だった。

 「……それじゃ」

 「ん。じゃあな」

 白いコートをなびかせてミラージュの横から居なくなったクリプトは、レイスやワットソン達に挨拶をしてから店のドアを開けて出ていく。
 その後ろ姿をミラージュは自然と目で追ってしまうのを自覚して、慌てて視線を前に戻すと、まだ店に残っているメンバーの為に何か食事でも作ってやろうとカウンター裏のキッチンに向かったのだった。


 □ □ □


 「よぉ、イアコム、イディオコムじゃなくて、パス、もっぺん名前を言ってくれ」

 ポータルの先にある自身のバーに戻ったミラージュは、自分の手に持ったアーティファクトを他の【レジェンド】達に説明しようと名称を出そうとした所で、あまり聞き慣れない言葉だったので忘れてしまっていた。
 その為、別次元から戻る際の浮遊感が収まるのを待ってから隣にいるパスファインダーに正しい名称をもう一度確認しようと声をかける。

 「IDCOMSフレームだよ! 僕にもある、会話をサポートしてくれているパーツさ」

 ミラージュの言葉に、滑らかに発声したパスファインダーはその胸部モニターに笑顔の顔文字を浮かべながら、ミラージュ、そしてレイスと共にカシャン、という軽い金属の音を響かせながらパラダイスラウンジの床にふわりと着地を決めた。
 ワラワラと集まってくるプラウラーを次々と倒し、上手く連携を決めて誰も怪我をする事なくパーツを回収する事が出来た三人は、その時、自分たち以外の【レジェンド】の空気が重苦しくなっているのにようやく気がつき、黙り込む。
 どうやら自分たちがアーティファクトを回収しに行っている間に何かがあったらしい。
 自然と目配せをしたミラージュとレイス、そしてクエスチョンマークを胸部モニターに浮かべたパスファインダーはきょろきょろを周囲を見回していた。
 そうしてその重い雰囲気の中心には、何故か顔を俯かせたクリプトが居て、ミラージュは思わず冗談めいた口調で声を発していた。

 「デカいひと口が欲しいのはどいつだ? っておい、みんなエラく深刻な顔してるな。……何があった?」

 ミラージュの言葉に一番に口を開いたのはバンガロールだった。

 「ちょうど、クリプトがレヴナントのスパイをしてた理由を語るところよ」

 バンガロールの強い口調で言われた言葉に、ミラージュはクリプトに視線を向けると、丁度ミラージュを見返したクリプトと目が合う。
 ――――その黒い瞳は、必死で救いを求めるような、そんな目をしていた。

 コイツらは一体、何を言っているんだ? 唇から勝手に弾けるように出るのを抑えきれずにミラージュは笑い出す。
 クリプトがスパイだというのなら、他の誰にだってその可能性は存在する。
 もしもこの男がスパイだというのなら、周りは少なくともクリプトの本質をまるで見ていない奴らばかりだという事になる。
 常に人をくったような態度を取る生意気な小僧ではあるが、他人を裏切ったりするような悪人ではない。
 何よりも、敵として対峙した時の笑みも、やられた仲間を思いやる心も、そうしてあの夕暮れの中で見た蕩けるような瞳も、それら全てをミラージュは知ってしまった。
 だからこそ、クリプトがレヴナントのスパイだなんて話は到底、信じられるモノでは無い。

 「コイツが!? よりによって殺人ロボットのスパイだと!? おいおい、勘弁してくれよ」

 手に持ったIDCOMフレームをテーブルに置いたミラージュは両手を広げると、わざとらしく【レジェンド】全員に伝えるように笑いを含ませた大声を出す。
 この場の濁りきった空気を換えなければならない、そう直感でミラージュは察していたからだった。
 そうしてミラージュが真っすぐにクリプトの目を見返すと、ほんの僅か、クリプトの目が滲んでいるように見える。
 ここでコイツの味方が他に居ないとしても、俺は、俺だけはコイツを信じなければならない。

 「クリプトをかばうの? 嫌ってると思っていたけど」

 そう考えているミラージュに向かって、バンガロールが呆れたような声音で呟いた。それと同時に他の【レジェンド】達もクリプトを見ていた目線をミラージュに向ける。
 疑惑と、焦燥、そうして困惑、それらが混ざった視線を受けてもなお、ミラージュは唇に乗せたままの笑みを壊す事はしない。
 人に注目されるのは慣れている。ミラージュは誰よりもそれを望んでいるからだった。
 けれどこの注目のされ方はあまりいい気分はしないな、と内心感じながらも、クリプトに向けられる冷たい視線が少しでもこちらに向くのならとミラージュはさらに言葉を返す。

 「嫌ってるって誰を? この兄ちゃんか? それともロボットか? そうだな、どっちかっていえば、ロボットの方が嫌いだ。……ハナの差でな」

 肩を竦めたミラージュはクリプトを一瞥してから再びバンガロールに目を向ける。
 その間も黙ったままのクリプトは、ミラージュと視線が合った時、確かにその眼に微かな希望を宿していた。
 このまま上手い具合に冗談めかして話を続ければ、皆もそれがどれほど馬鹿げた話なのかを理解するだろう。
 ミラージュはそんな思いを籠めながらさらに周囲に視線を走らせた。
 相変わらずパラダイスラウンジには軽快なBGMが流れており、それが余計にこの状況の歪さを際立たせていた。

 「やったね!」

 そんなミラージュの冗談に胸部モニターを何故か笑顔の顔文字に変えながら両手を握ってガッツポーズをキメたパスファインダーに思わず笑みが零れる。
 サイコパスな部分もあるこのロボットは少なくとも正直で、あの殺人ロボットであるレヴナントとは違う。
 ミラージュは隣に居るパスファインダーの胸部モニターを手の甲でコツ、と叩きながらさらに言葉を続ける。

 「お前じゃねぇよ。もう一体の方だ。クリプトは悪の親玉って柄じゃねぇ。ただのありがちな20代のウザってぇ……」

 「31だ」

 今までずっと黙っていたクリプトが不意にそう囁く声が聞こえてミラージュは目を見開き、クリプトの方に視線を走らせた。
 そこには微かに申し訳無さそうな、それでいてシレッとした顔をしたクリプトが立っており、ミラージュは慌てて口に出した言葉を訂正する。

 「ありがちな30代のウザってぇ……っておい! お前、俺よりも1コ上なのか? それで「おっさん」呼ばわりしてたのか!?」

 しかし自分でそう口に出してから、今までずっと勘違いしていた事に気が付かされたミラージュは寝耳に水の状態でクリプトにそう叫んだ。
 まさか20代前半の小僧だと思っていた男が、30代でしかも自分の1つ上だとは聞いていない。
 騙されたとも思うが、考えてみればミラージュはクリプトの実年齢を聞いた事が無かった上に、自分からクリプトのプロフィールを見に行く事をしなかったのだからそれで騙されたというのもおかしな話なのだろう。
 今は無きアジア圏のルーツを持った人々が年若く見えるのは、旅人の多いソラスでバーをやっているミラージュにしては当然理解している事柄ではあったものの、それでもクリプトは若く見える。
 何よりもミラージュの事を「おっさん」だなんだと宣っていたこの男がミラージュの実年齢を知らない筈が無いのだ。
 分かっていてそう言っていたというのなら、相当に性質が悪い。
 ミラージュはさらにクリプトに向かって文句の一つでも言ってやろうとするが、その前に震える声でワットソンが話し出す方が先だった。

 「重要なのはそこじゃないでしょう」

 微かに緩んでいた空気が再び引き締まる気配がする。
 ここでおちゃらけた雰囲気を出すのはマズイと、ミラージュは両手で自身の身体を抱きしめているワットソンになるべく威圧しないように微笑みながら声をかけた。

 「だな。忘れてくれ。スパイだって話だったな」

 ワットソンの隣にはいつの間にかレイスが控えており、辛そうにしている様子のワットソンの背を撫で擦っている。
 ミラージュとレイス、そうしてパスファインダーが居ない間に相当恐ろしい目にあったらしいワットソンは、可哀想な程に怯えきっていた。

 「滅茶苦茶だ、奴に協力する理由がどこにある? 何の得になるんだ?」

 ワットソンに向かって必死にそう言うクリプトはやはり嘘をついているようには見えない。
 それにクリプトのいう通り、レヴナントに対してあれ程の嫌悪感を抱いていたクリプトが協力する理由もない筈だった。
 だが、そんなクリプトの言葉を遮るように薄緑のゴーグル越しにでも分かる程、冷たい瞳をしたコースティックが囁く。

 「シンジケートだ」

 途端にミラージュにでも分かるくらいにクリプトの顔色が変わった。
 このメンバーの中で唯一、クリプトだけはこの【ゲーム】に参加する理由が分からなかった。
 品行方正、真面目で優秀なハッカー。監視活動の達人とも称されるクリプトは、それこそ命を賭けてまでこの【ゲーム】に参加する意味がない筈だ。
 それは以前からミラージュも考えていた事だ。
 もしもコースティックの言う通り、クリプトが【ゲーム】に参加する理由が主催であるマーシナリー・シンジケートに関連するとしたら?
 一同の視線を浴びたコースティックは、ガスマスク越しにどこか獲物を追い詰めた時のような歓喜を滲ませながらさらに囁く。
 まるでコースティックが使用する毒ガスのようにその低い声は周囲を取り巻き、場を支配する。

 「お前には組織の壊滅を狙う個人的な理由がある。レヴナントはかつての主人に復讐を望んでいる。二人が手を組むには、これ以上ない程の理由だろう」

 「お前が策を練り、奴が手を下す。力を合わせれば、マーシナリー・シンジケートを屈服させられるだろう」

 「目的を果たすためには、アーティファクトが必要だ。お前はあれをハモンドに譲らずに、アーティファクトの力を奪うつもりだった。これですべて説明がつく」

 場が静まり返り、誰も物音一つ立てなかった。
 ミラージュもまた、息をするのですら忘れてしまいそうな程の圧迫感と、クリプトがレヴナントのスパイをしている筈が無くとも、マーシナリー・シンジケートへの恨みを持っているという点に関しては納得してしまっていた。
 コースティックが何をどこまで知っているのかは分からないが、確かにクリプトが【ゲーム】に参加する理由としては筋が通っている。
 一秒が一時間にすら感じられそうな空間の中で、クリプトのいつもより掠れた声が小さく響く。

 「違う。お前だ」

 「なんだと?」

 「今のは、前々から用意していた御託だろう。スパイはお前だ」

 クリプトの反論に、コースティックの地を這うような声が応戦する。これでは堂々巡りで、どうしようも無い。
 少なくともこの場でスパイが誰なのかを断定しようとするのは難しいだろう。
 ミラージュとしては、今はまだ全員が混乱しきっているだけなのだとそう感じていた。
 慌てて結論を出そうとしてはいけないのだと、そそっかしい所のあるミラージュにいつも母が言っていた事を思い出す。
 クリプトの炎を灯したような強い瞳にため息を吐いたコースティックは、見下げ果てたと言わんばかりに首を軽く振った。

 「貴様との論戦に、準備など必要ない。誤魔化そうとするその努力には感心するが、今更そんな悪あがきをしても遅すぎる。私には動機も、貴様を陥れる理由もない」

 コースティックのその一言に、クリプトの体が揺れる。
 今にもコースティックに掴みかからんとしそうなクリプトを止めるようにミラージュは慌ててクリプトの前に立つと、どもらないように細心の注意を払いながら声を上げた。

 「で、みんなスパイにどう対処するつもりだ? 俺にも考えはあるが、どうせならカボチャでも食いながら話さねぇか?」

 そう言って背後に居るクリプトから湧き上がる怒りを背に受けながら、ミラージュは笑ってそう呟く。
 連日のアーティファクトの回収や、【ゲーム】の疲れ、そうしてここには居ないであろうレヴナントに対する恐怖心が皆を可笑しくさせているのだ。
 だから、まずは十分に休息を摂ってから改めて話をすればいい。だがしかし、ミラージュのそんな提案に今までずっと黙っていたローバが悲痛な面持ちで囁く。
 余り睡眠が取れていないのか、いつもなら輝きを宿したローバの瞳は濁っており、目元には化粧でも隠し切れない程のクマがべったりと張り付いていた。

 「出来る事はないわ。レヴナントはすべてを知っていて、私を狙っている。何をしてもそれは変わらないわ」

 そこからローバとバンガロールが言い争う声を聞きながら、ミラージュはそっと後ろを見遣ると拳を震わせ立っているクリプトが視界に入る。
 そのままゆっくりと振り向いたミラージュは、他のメンバーがローバとバンガロールのやり取りに気を取られている隙に、クリプトにしか聞こえない程度の音量で囁いた。

 「クリプト」

 顔を上げたクリプトの目は仄暗く、何も信じられないという表情をしている。
 ミラージュはそんなクリプトに言い含めるように出来るだけ穏やかな口調を心がけながらゆっくりと唇を動かす。
 この男が傷つく姿をもうこれ以上見たくない。だから、今の自分に出来る事をしてやりたかった。

 「……お前、店残れよ。それか解散した後にまた戻って来い」

 「……なんで……」

 「このまま一人で帰ったって、どうせ煮詰まって可笑しくなるだけだろ。……いいな? 約束したからな」

 ミラージュを見つめ返したクリプトはグッと堪えるようにその唇を真一文字に結ぶ。
 だが、念押しするミラージュの言葉に微かに頷いたクリプトはいつもよりも小さく見えた。
 そのミラージュとクリプトのやり取りの合間にローバとバンガロールの言い合いは激しさを増し、ローバが手に持ったブレスレットを窓の外に放り投げると眩い光の筋だけを残して彼女は消えてしまった。
 黙ってその姿を見送ったバンガロールの背中は傍から見ていても動揺しているのが丸わかりで、いつも冷静沈着なバンガロールにしては珍しい。
 他のメンバーもローバが消えた先に視線を送っており、ミラージュはこのまま時間が過ぎるのを待つのは柄ではないと両手を軽く叩く。

 「さてと。じゃあぼちぼちカボチャを取ってこようかな? どうだ?」

 パン、と乾いた音と共に静まり返っていた店内が止まっていた時間を取り戻したかのように動き出した。
 バンガロールはミラージュを一瞥すると、小さくため息を吐き、ジブラルタルは何故かコースティックに厳しい視線を向けている。
 オクタンとライフラインは互いに目を見合わせて、ワケが分からないといったように肩を竦め、その横に立っているブラッドハウンドはマスクのせいで何を考えているのかは分からない。
 パスファインダーは胸部モニターに悲しげな顔文字を表示させて心なしか俯いており、ワットソンに付き添うように立っているレイスは相変わらずその背を擦っていた。
 そうしてワットソンはコースティックとクリプトの両方にその青い瞳を向けた後、ゆるゆるとその体を抱いていた手を解いてバーのドアへと足を向ける。
 そんなワットソンの前にミラージュの横を抜けて立ち塞がったクリプトは、誰が見ても辛そうに顔を顰めていた。

 「ワットソン、いや、ナタリー……頼む、俺はけして……」

 「お前は自分の知性を過信していたようだな。彼女はお前の罠になどかかりはしない」

 「『俺の』罠だと?」

 クリプトから敢えて視線を逸らしたワットソンに、縋るような声を上げたクリプトを嘲笑う色を宿した声音でコースティックが吐き捨てると、途端にクリプトの声に苛立ちが混ざる。
 これではまたこの二人の口論が白熱するばかりで、なんの解決にもなりはしない。
 ミラージュが慌てて仲裁に入ろうとする前に、朗々とした声で今までずっと黙っていたジブラルタルが声をあげた。

 「ブラザー、ここは話し合いでいこうぜ」

 「喧嘩はなしだ」

 その意見に賛成だとミラージュが頷きつつそう言うと、不意に青白い顔をしたワットソンが静かに囁く。
 誰よりも小さくか細い声だというのに、皆がその声を聞こうとしているからか、誰一人としてそれを邪魔する人物はいなかった。

 「……裏切り者が誰だって構わないわ。今はただ、静かな所に行きたい……」

 「連れて行ってあげる。ナタリー」

 「ありがとう、レイス」

 ワットソンを庇うようにレイスが優しくそう声をかけ、肩を抱く。ワットソンに関してはレイスに任せるのが一番いいだろう。彼女たちは【レジェンド】達の中でも特に親しくしている。
 けれどクリプトはそれでもなお、焦りを滲ませた声で呟いた。

 「レイス、頼む……」

 信じてくれ、とその目は訴えているのが傍目からでも分かる。
 クリプトのそんな祈りを込めた視線を受け止めたレイスは、白く輝く瞳を覆い隠すようにゆっくりと瞬きをしたかと思うと、クリプトを見返した。
 ミラージュ、パスファインダーと一緒にパラダイスラウンジに居なかったレイスにしてみれば、ミラージュと同様、クリプトがスパイであるとは思っていないのだろう。
 だが、今のレイスにしてみれば優先すべきなのはワットソンの方である筈だ。
 ミラージュがそう思うのは当たっていたようで、レイスは横に居るワットソン、そうしてクリプト両名に向かって諭すように言葉を発する。

 「いずれキッチリ話し合いましょう、約束する。でも今は、休ませてあげて」

 レイスのその声にクリプトは唇を噛み締め、そっと二人の前から動く。
 ワットソンに向けられた縋るような目線にきっと彼女は気が付いているのだろうが、それでもワットソンは最後までクリプトを見遣る事無くレイスと共に店を後にした。
 その二人の背中を見送った【レジェンド】達は、それぞれが言葉を交わす事も無いまま、同じように次々と店から出て行き、最後に残ったのはミラージュただ一人になってしまった。
 どうしたものかとミラージュは考えるが、とにかく今は出来る事をしようと急にガランとして寂しさの残る店内のキッチンへと向かう事にしたのだった。






 カボチャとベーコン、そしてふんわりとしたチーズの香りがオーブンから発せられ、その香しい匂いが店内に漂い始めた頃、パラダイスラウンジの閉じられていたドアが開く。
 カウンター越しのキッチンに立っていたミラージュが視線を向けた先には陰鬱な顔をしたクリプトが立っていた。
 約束だと言ったのを忘れていなかったのか、約30分程してからこの場に再び現れたクリプトはドアの前でただどうすればいいのかを迷っているようだった。

 「いつまで突っ立ってんだ? 早く座れよ、"おっさん"」

 敢えてそう挑発的に発言したミラージュにムッとした表情を見せたクリプトはドアの前から動くと、いつもの定位置であるカウンター席へと座り込む。
 ライトに照らし出されたクリプトの顔色はけして良いとはいえず、そわそわと落ち着きがない。
 恐らくこんな場所で油を売るくらいならば今すぐにでも帰宅してドローンの解析を行いたいと考えているのだろう。
 それでもミラージュがクリプトをこの店に呼んだのは、このままこの男が独り潰れていくのを放置するワケにはいかなかったからだ。

 「どこ行ってたんだ? 流石に家には帰ってないだろ?」

 コトリと水の入ったグラスをクリプトの前に置いたミラージュをクリプトが疲れたような顔で見返す。30分程度では自宅に帰っていたワケではないのだろう。
 ミラージュの問いかけにそのグラスを手にとって中の水を唇に流し込んだクリプトは、ポツリポツリと声をあげる。
 店内にかかるBGMのボリュームは皆が帰った後に少し音量を下げており、既に閉めきってあったブラインドの外は暗い。

 「……歩いていた。脳内で検証も兼ねて」

 「そうか。何か分かったのか?」

 フルフルと首を横に振ったクリプトは、その眉根を指先でもみこむように触れる。
 相当に思考回数を重ねたらしいが、結果はよろしくなかったのだろう。ミラージュがそれを問う前にクリプトはその眉根を揉む手を離した。

 「何度思い出しても48時間以内にドローンに触れた奴は俺以外に居ない。ハックの状態は今朝のメンテナンス時には変わり無かった」

 ミラージュはその場に居なかったので知らなかったが、クリプトがドローンについて言及するという事はワットソンを襲ったのはクリプトの相棒として常に彼の傍らにあるドローンだったのだろう。
 そうだとしたなら、周りがクリプトを疑うのも分からなくはなかった。
 そしてミラージュがその場に居なかった事すら忘れてしまっているらしいクリプトは、やはり相当に参っているらしい。

 「……今は分からないが、簡易的なチェックだけして、主電源は落としてある……」

 背中に手を伸ばしたクリプトは、相棒であるドローンをカウンターの上に置くと一際小さな声で囁いた。
 だから、何もしない筈だ、と。そう言外に言っている事に気が付いたミラージュは、微かに笑った。
 笑っていられるような状況ではないのは分かっているのに、それでもこのタイミングですらもこちらを気遣う素振りをクリプトが見せたからだった。

 「さっきも言ったが、俺はお前を最初から疑ってねぇよ。そのドローンは分からないが、少なくとも俺の方がワッツよりパワーもある。心配なんざしなくていい」

 「…………どうして俺を庇った」

 うっすらと笑ったミラージュに目を向けたクリプトは、戸惑うのを隠すこと無くそう囁く。
 ソロリとクリプトが伸ばした指先がドローンの白く滑らかな表面を撫でるのを見ながら、ミラージュは自分の中にある感情がどうにも言語化するのが難しい事に気が付いていた。
 友情とも、かといって恋をしている相手に向ける庇護欲とも、なんとも言い難い。
 ただ、クリプトという一人の人間を好ましく思っているのだけは確かで、ミラージュが今まで見てきたクリプトという人間は疑う余地の無い相手だったからだ。
 けれどここで答えなければクリプトは困惑したままなのだろうとミラージュは重たい唇を開く。

 「……そう言われてもな。俺にもよくわかんねぇよ。でも、さっき言った事が全部だ。お前は、いけすかないウザってぇ男だが、少なくとも人を裏切るような奴には思えねぇ。……あの殺人ロボットに手を貸すような相手にもな。……もしこれでお前がスパイなら、俺は自分のふ、ふし……見る目の無さを笑うだけさ」

 「……俺はしていない。そんな事をする程、愚かじゃない」

 ミラージュの目をまっすぐに見据えてそう言ったクリプトに、ミラージュもまたしっかりとその目を見返す。
 カウンター越しに絡む視線をそのままに、ミラージュは逆にクリプトに聞きたかった問いを投げ掛けていた。

 「……なぁ、お前がシンジケートに恨みがあるってのは本当なんだろ」

 ミラージュの問いに、息を詰めたクリプトはミラージュから視線を反らす。それは何よりもその問いの答えだった。
 いつも自信たっぷりな風体のクリプトは、珍しく酷く言いにくそうに言葉を選んでいる。
 それだけクリプトにとって、この【ゲーム】に参加した理由というのは言いにくいものなのだろう。

 「……それについては……否定はしない。確かに俺がこの【ゲーム】に来た理由の一つだ。だが、それ以上の話については……他人に言うつもりは無い」

 「あー、うん。……言いたくねぇなら良いんだ。俺はお前が嫌なら、そこに関して無理矢理深入りするつもりはねぇよ。確認しただけだ。深くとらえなくていい」

 今はまだな、と内心でミラージュは付け加える。
 慎重に事を運ぶと決めた以上、クリプトが隠している秘密にこれ以上踏み込むのは得策ではないのはクリプトの顔色を見れば分かる。
 ミラージュ自身だって、どうして【ゲーム】に参加しているのかを一々周囲に口外したいと思っていないし、それ以外にも隠しておきたい秘密の一つや二つなど誰しもあるものだ。
 そうしてこの場で最も大切な事は、この話題ではない。
 一度空気を換える為にわざとらしく咳払いをしたミラージュは、さらに言葉を紡ぐ。

 「それよりも、だ。お前の言う事が本当なら、ドローンの調子がおかしくなったのはどうしてなんだ?」

 「……それはこれから解析をしてみない事には分からない。だが、レヴナントが動いていて、なおかつコースティックが関わっているとしたなら、不可能ではない筈だ」

 「やっぱりお前はアイツが怪しいって思っているんだな」

 アイツ、というのが誰を示すのか一々言わなくとも理解しているらしいクリプトは苦い顔をしてドローンを撫でていた指先を離した。

 「あの男が何を考えているのか、俺には理解が出来ない。けれど一つだけ知っているのは、奴が天才であるという事だ……ムカつくがな」

 「でもコースティックはあくまでも研究者で、プログラマーじゃないだろ? お前のセキュリティシステムをかいくぐったってのか?」

 コースティックの情報をミラージュも多く知っているワケでは無かったが、それでもコースティックがハインリッヒ・ハモンド科学優秀賞という研究者ならば誰もが知る賞を受賞している程の科学者である事は、【レジェンド】達は皆が知っていた。
 そうして【ゲーム】でコースティックが使用する農薬の成分を基にして制作されているNOXガスの脅威も身を持って知っている。

 「奴が一人なら、難しいかもしれない。けれど、自らの肉体すら機械化している300歳越えの化け物に、ドローンシステムの根幹であるプログラムをある程度共有したとしたら……」

 「内部に侵入なんてのは簡単に出来るって事か……」

 チッと舌打ちをしたクリプトは、自身の相棒であるドローンに目を向ける。
 その目にはやはり先ほどコースティックを睨み付けていた時と同じ激しい怒りの炎が燃え盛っていた。
 もしもミラージュが自身のホログラム装置に細工を施され、スパイであると仕立て上げられたならば、きっと同じ顔をしていたに違いないだろう。
 【レジェンド】達が使うデバイスは本人たちにとっては【ゲーム】内での生命線であり、自らの技術や努力の結晶だった。
 それをわざわざ改変し、他人を襲うモノにされるのがどれほどの屈辱を与えるのかなど同じエンジニアとして考えずとも理解出来る。

 「でも、それを証明する手立てがないだろ。レヴナントが侵入した形跡が残っていたとしても、アイツには無問題だろうし」

 「……それはやってみない事には分からない。ドローンの根幹プログラムには幾重ものセキュリティパスがかけてあったんだ。もしそこにハッキングしたのなら、何らかの痕跡が残っているかもしれない」

 痕跡が残っているのなら、それはクリプトがいち早く気が付いたのではないのか、という言葉をミラージュは口に出しかけて止めた。
 そんな事はクリプトも重々承知しているのだろう。
 あの状況になる前にクリプトは一度ドローンのメンテナンスをしており、その際に気が付かなかった時点で、コースティックが痕跡を残さずにドローンのシステムの覗き見を完了させていたとしたならば、奴の方が上手だったという事になる。
 つまり、クリプトがいくら主張した所で、疑惑が晴れる可能性は低い。
 コースティック自身が自白でもしてくれるのならば、クリプトの冤罪を証明する事が出来るだろうが、あの狡猾な男が簡単に口を割るとは思えなかった。
 想像以上にクリプトの置かれた立場が苦しいのを認識し、ミラージュは思わず黙り込んだままクリプトを見つめる。
 俯き、伏し目がちになっているクリプトの顔を隠すように切り揃えられた前髪が額を隠す。
 何を言ってやるのが正解なのかをミラージュが頭の中で考えている間に、キッチンにあるオーブンが設定された時間が終了したブザーを控えめに鳴らした。

 「……腹、減ってねぇか? どうせお前、今日一日ロクなもん食ってないんだろ」

 努めて明るくそう言ったミラージュは、クリプトから視線を逸らすとブザーを鳴らしたオーブンに近づき、その扉を開く。
 中には茶色の耐熱皿に入った二つ分のカボチャとベーコンのグラタンが焦げ目の合間から、ぐつぐつと表面に穴を開けながら蒸気を噴出していた。
 オーブン庫内の黒い天板をミトンで引き出したミラージュは、グラタン皿の一つをそのままクリプトの前に置くと、ミトンを外してからキッチンに置かれたステンレス製のフォークも一緒にその皿の横に置いてやる。
 それをただ黙って見ていたクリプトは呆れたように囁いた。

 「本当に皆で仲良くカボチャを食べるつもりだったのか」

 「うるせぇよ。丁度カボチャを消費しないといけなかったんだ。……まぁでも、結局二人分だけしか作ってないから、他の奴らには内緒な。ミラージュ様特製グラタンはそれこそアウトランズで一番に美味いから、抜け駆けしたのが知られたら嫉妬されちまうからな」

 「……自分で言ってて恥ずかしくならないのか? お前は」

 パチリとウインクをしたミラージュに、深い吐息を洩らしながらもフォークを手に取ったクリプトは、サクサクとしたパン粉の乗せられたグラタンにそれを差し込む。
 ベーコンの他に玉ねぎとナツメグ、そしてローズマリーを混ぜ込んだそのグラタンは微かにスパイシーな匂いがしており、湯気の立ち上るそれをゆっくりと口元に運んだクリプトは何度か冷ますように息を吹きかけた後にそれを唇の中に収めた。

 「……美味い……」

 そうしてそう言ったクリプトの瞳から一筋、透明な雫がこぼれ落ちる。
 しかし、クリプト自身も何故自分が涙を零しているのか脳が追いついていないのか、慌てたように手で目尻を拭うが後から滲みだす雫を止める事が出来ないらしい。
 とうとう持っていたフォークを置いたクリプトが両手で顔を隠すように覆ったのを見て、ミラージュはこの場にそぐわないと思いながらも、そんな姿を"美しい"と感じていた。

 「……隣、座ってもいいか」

 ミラージュがそう囁くと顔を覆ったままのクリプトが肩を震わせ、小さく頷く。
 今日は最初からエプロンをしていなかったミラージュは、カウンターを抜けてクリプトの隣の席を引き出すと、そこに腰を下ろした。
 ズ、と鼻をすする微かな音が耳に押し入ってくるのを聞きながら、ミラージュはそろりと白い上着を纏った背中に手を這わせてそこをぎこちない手付きで叩く。
 かつて自分が辛い日々に、母や今は居ない数少なかった友人がミラージュを慰める時、こうしてくれたのを思い出しながら。

 「俺のグラタンがそんなにうまかったのか? クリプちゃんは。まったく、しょうがねぇなぁ……食いたかったらいくらでも作ってやるよ」

 笑いながらそう言ったミラージュにクリプトが答える事は無かったが、次第に落ち着きを取り戻し始めたのか、スンスンという呼吸音が小さくなる。
 本当は出来る事ならば、衣服越しにでも分かる程の細い体を強く抱きしめてやりたかった。
 お前を愛しているのだと、その耳元で甘く囁いて、自分だけはお前の味方だからと言ってやりたかった。
 けれど、この状況だからこそ、ミラージュはただその背を撫でるように擦ってやる。
 味方であるという気持ちに変わりはなくとも、この警戒心の強い男が唯一、自分にだけ見せてくれたであろう最も脆く弱い部分を今は誰からも守ってやりたかったからだった。
 それは、ミラージュ自身からも。

 「ほら、早く食わないと冷めちまうぞ。……って俺のもか……アッツ!」

 ミラージュがクリプトの背を撫でていた手を離して椅子から立ち上がり、カウンターに置かれた自分用のグラタンを身を乗り出して取ろうとするが、ミトンを外してしまっていたせいでまだ熱さの残るグラタン皿に触れた途端に熱さで身をビクつかせた。
 ガタン、と椅子が揺れ動くが倒れるまではいかず、安堵の吐息を洩らす。

 「……ふはっ……」

 「あ! お前、今笑ったろ!? なんて奴だ」

 そのまま熱さを緩和させるように耳たぶに触れたミラージュに、隣に座るクリプトが笑ったのを見て、ミラージュもまた笑みを浮かべながらそう声を張り上げる。
 クリプトの目元の縁は赤みを帯びてはいるものの、もうその目には涙は滲んでいなかった。
 これからしばらくはクリプトにとって辛い日々が続くのだろう。表立って毛嫌いされるなんて事は無くとも、先ほどミラージュも受けたあの眼差しを毎日受けるというのは拷問に等しい。
 けれど、隣に居るクリプトの黒い虹彩には不屈の精神が宿っている。どれだけの責め苦を受けてもけして折れる事の無いであろう、強く気高い魂。
 それを体現したかのような瞳の中心に、ミラージュは自分の姿だけが映っている事に歓喜していた。
 この瞳の中に居られる時間が長ければ長い程、まるで自分自身がクリプトにとってかけがえのない存在で居るという証明になっているような感覚。

 ミラージュは今度はもう少し慎重にグラタン皿とフォークを取ると、自身の前にそれを置く。
 そうして隣で再びフォークを手に取ったクリプトが細く伸びるチーズの糸を絡めとりながら、口腔内にそれを運ぶのを横目で眺めた。
 ――――もしもこの面倒なもめ事に決着がついたなら、その時はきっと。
 ホクホクとしたオレンジ色のカボチャをフォークで突き刺し、それを口元に運び入れる。

 「やっぱり、俺は天才だな」

 絶妙なバランスの取れた味付けにそう囁くミラージュの声は、カウンターに並ぶ二つの背中を通り過ぎ、穏やかな空気へと混ざって消えた。






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