ミッドナイトシンドローム




 事の発端がどうだったか、そんな些末な事象など覚えてすらいない。
 ただ、敢えて原因を思い出すとしたならば、いつだって俺達は命のやり取りをしていて、それを【ゲーム】という娯楽として提供している。というのが最も大きな原因の一つかもしれなかった。
 古来より人という生命体は酷く残虐な部分を持つモノである。
 それは大なり小なり差はあれど、全くそのような部分を有していないという人間はイカれた存在か、はたまた突き抜けた博愛主義の権化かの二通りだろう。
 …………それを二分する事に意味があるのかは知らないが。

 とにもかくにも、【APEX】という命のやり取りを中継するという恐ろしく野蛮な【ゲーム】は、アウトランズ中でそれはそれは人気の娯楽だった。
 そんなイカれた【ゲーム】に参加する【レジェンド】という存在もまた、皆、一癖も二癖もある奴らばかり。
 自分も【レジェンド】としてこの場に居る以上、棚上げをするつもりは無かったが、それでも俺よりも先に居る【レジェンド】も、後から来た【レジェンド】も変わった者ばかりだった。
 その上で、近頃の自分自身の行動が随分とまずい事になっているのをハッキリと自覚していた。

 人間だけではないが、雄は特に命のやり取りをした後は興奮状態になりやすいのだという。
 それは死に近付いた生物が後世に遺伝子を残そうとする本能なのだろう。
 どうせ死ぬのなら、という感覚に陥ると脳が誤作動を起こしやすい。

 顔の真横を銃弾が掠める。足元で大量に煮え立つマグマを避け歩む。そうして【ゲーム】の始まる前の地上から遥か離れた空高く飛翔するドロップシップから飛び降りる瞬間。
 一般的な日常を送っていたら、ほぼあり得ないであろう体験を毎日のように繰り返す。
 そうすれば、自然と常に脳が誤作動を起こしやすくなる。人間なんて所詮は思い込みや意識の向け方でどうとでもなる生き物だ。
 無論、無理な事はある。それでも、なんとかなってしまう時も存在するのだと近頃は嫌という程に考えるようになった。

 「……っん、ぅ……」

 唇に捩じ込まれた舌先が口腔内を無遠慮にまさぐってくる。
 ガタンと背後で音を立てたロッカーの固さが衣服越しに伝わる感覚と、目の前の男の香水と混ざりあった汗の匂いが鼻をついた。
 そこまで他人の匂いになんて関心も無いというのに、この男から発せられるむせ返るようなバニラとムスクの甘い匂いは既にしっかりと慣れ親しんでしまっている。
 しかし、これ以上は好きにされるつもりは無いと、汗ばんだ身体に加えてそれを包む泥に汚れた服の気持ち悪さを伝えるように、右腕で少し強く男の腹を押す。
 その抵抗に気が付いたのか、顔を上げた男の瞳はギラギラと躾の施されていない獣のような色を宿していた。
 この男のこういう顔を見るのももう何度目だろう。薄ボンヤリとした思考の中で、そんな事を思う。

 そうして離れた唇の隙間、僅かなそこに掛かった透明な橋を舌先で巻き取った男は、そのまま自身の唇を赤い舌で濡らす。
 チロリ、とヘビのようなそれが厚みのある唇を舐めあげるのを忌々しく思いながら、俺は同じく濡れた唇を手の甲で拭った。
 獣じみた男の顔を見るのは慣れたし、匂いにも慣れた。だが、いきなりの乱暴な行為には慣れるつもりは無い。
 唇に残るぬるついた感触を手の甲で受けとめつつ、目の前の男に舌打ちを投げかける。

 「お前、少しの我慢すら出来ないのか? ……ここがどこだと思ってる」

 「…………悪かったよ」

 俺の苛立ちまじりの言葉に、ふ、と吐息を洩らしたミラージュがそう囁きながらクセのある前髪を掻きあげた。
 【ゲーム】の後で汗ばんでいるからか、普段よりもパサリと乾燥した前髪がミラージュの額から一度離れて、そうして落ちる。
 妙に様になっているその行動の合間に、先ほどまでヘーゼルの瞳に映っていた獣じみた炎は鳴りを潜め、見慣れたお調子者で気弱な顔が見えてくる。

 先ほどまで行われていたデュオでの【ゲーム】で俺とミラージュは同じ部隊だった。
 今回の【ゲーム】のフィールドはワールズエッジ。そんな慣れ親しんだ場所で、迫りくる空爆や銃弾、そうしてフラグの嵐を掻い潜り、二位にまで上り詰めたのだ。
 だが、最後の最後、ほんの少しのタイミングの誤差で集中砲火を浴びたミラージュが先にダウンし、そうして戦況を立て直す暇もなく、続けて俺も倒されてしまった。
 だが、全体を通して見れば、けして悪くは無い試合展開だったと思う。勝つ事が重要であるのは当然ではあったが、負ける時だってある。それは【ゲーム】なのだから仕方が無い。
 だから取り立ててミラージュを責める気は無かったし、もし必要であれば反省会でもすればいい、そんな風に考えていたのだ。

 しかし、未だにこちらを追い込むようにロッカーに押し付ける形で手を伸ばしたままのミラージュは、余程悔しかったらしい。
 怒りなのかなんなのか、俺には理解出来ない感情のままにロッカールームに入るや否や俺をそこに押し付けて口付けを寄越した。
 いや、理解出来ないというのは間違いかもしれない。
 時折巻き起こる自分でも抑えが利かない感情の昂ぶりがある事を、俺もまたよく知っていたからだった。

 その昂りはコントロールが難しく、ゾワゾワと肌の上を這う毛虫のように身体を駆け巡る。
 発散させない限りはいつまでも残って燻る熱をいつしか互いに慰めあう関係になったのは、自分でも全く予想していなかった事ではあるのだが。
 常に周囲を警戒し、そうして他者と必要以上に深く関わらないように気を付けていた筈の自分が、昂りのままにこの男と交わりを重ねるようになった。
 もしも過去に戻れるのなら、きっとそのような過ちなど犯さぬよう、万全の対策を取っただろう。

 「クリプト」

 そう思うのに、前に立つ男の瞳がじっとりとした熱を帯びてこちらを見る視線を受けて、全て忘れたいと願う程の交わりの残滓を回想してしまう。
 皮の厚い指先の触れる絶妙な力加減、打ち据えられるような腰の律動が肌を叩く音。
 それから、顔だけは悪くない男の切なげに寄せられた眉の下、ギラついた瞳と、荒く吐き出される熱された息が頬を撫でる感覚。
 指を絡めれば溢れるくらいに蜜のような先走りを零す男の隆々とした陰茎がこちらの腹を好き勝手に突き上げる、その瞬間の快楽の波。
 あぁ、と思った時には自分の中の昂りがミラージュの声に引き摺り出されているのを自覚する。

 「……今日、家に来ないか」

 真っ直ぐに投げられた言葉が耳奥を擽り、背筋に甘い痺れをもたらす。
 もうこんな事は止めてしまおうと何度思ったのか数えきれない。
 今の状態の男の家に行くという事は、飢えた猛獣の巣に自ら降りていくのと同義だ。有り体にいえば、食われに行っているのと大差はない。
 ひたすらに無意味だと思う。こんなやり取りも、性行だけで繋がるこの関係性も。
 何一つ有益な事など無くて、実るモノすらも無い。
 いや、唯一あるとするならば、ただひたすらに脳内を薄めさせる麻薬のような快感だけか。
 それなのに喉が勝手に震えて声を形作った。

 「……飯」

 「ん?」

 「飯、奢れよ。……それからじゃないと嫌だ」

 なら、家で作ってやるよ、とミラージュが苦笑する。
 こうして男が俺を家に呼ぶときの常套句を耳に入れながらも、勝手にくぅと鳴く腹を押さえ込んだ。
 先ほどまで【ゲーム】で走り回っていたのもあって、性欲だけでは無く食欲の方も限界を迎えている。
 そうしてこれに関しては誠に不本意ではあるが、目の前の男の作る料理は美味いのだ。
 元々自分が食にそこまでの興味が無かったのも原因の一つなのだろうが、とかく、普段から店をやっているのもあってミラージュの料理は口にあった。
 絆されている、と思う。こんな風に【レジェンド】の誰かと深い関係になんてなるつもりは無かったのに。
 俺の逡巡を知ってか知らずか、ミラージュはロッカーに触れていた手を離してからそっとこちらの唇に一度触れると、薄く笑った。

 「んじゃ、後でな。クリプちゃん」

 そう言ったミラージュがシャワーを浴びる為に、自身のロッカーから小さなバッグを取り出してから、エンジニアブーツの踵を響かせロッカー室を出ていく。
 どうせ俺もこれからシャワーを浴びるのだからとは思うものの、俺達の中ではなるべく一緒に居る所を見られないようにという暗黙の了解があった。
 【ゲーム】内では、互いに言い争いながらも上手くやっていると俺は思っている。
 ミラージュに関しては初めて会った時の『バカなヤツ』という印象が完全に抜けきっているワケでは無いのだが、それでも何度も【ゲーム】に参加すれば見えてくる姿があるものだ。

 あの男はぐだぐだと無駄に話す無意味な言葉達に惑わされがちだが、案外、弱くはない。
 無論、こんな【ゲーム】で初期の頃から生き延び続けている時点で、並の身体能力では無いのだ。
 その上、あの男の持つアビリティーやアルティメットは他の【レジェンド】の使用する能力よりも、些か地味だと言って良いだろう。
 それでもなお、ミラージュはその名の通り、敵を攪乱し、幻惑して、そうして派手に敵を倒していく。
 衆人に地味だと思われがちなホログラム技術も、使用する人間によってはここまで洗練された美しさと効果を持つのだと、俺は心の中で感心した事が数えきれぬ程にあった。
 こんな話をアイツにすれば調子に乗るのは確実なので伝えた事は一度たりとも無かったが。

 不意にロッカールームの扉が開き、二人分の足音が響く。

 「クリプト、お前まだシャワー浴びてないのか?」

 「おやおや、先ほどはどうも」

 ドタバタと室内に入ってきたのはオクタンで、その後を隙の無い足取りでシアが追うように入ってくる。
 俺とミラージュの部隊を倒し、チャンピオン部隊になった彼らは先ほどまでインタビューを受けていたのだろう。
 泥にまみれたまま自分のロッカーの前でボンヤリとしていた俺を見て、オクタンがカラカラと笑いながらさっさと宛がわれたロッカーを開けて荷物を取り出す。
 それを横目で見ながら、シアも同じようにロッカーを開けて、こちらに笑いかけてくる。

 「とても良い勝負でしたね。クリプト、やはり貴方のドローンは素晴らしい」

 「……負けた上でそう褒められると、どう返すべきなのか困るな」

 「ふふ。別に貴方を困らせたくて言っているワケでは無いのですよ? 本当の事しか、私は言いませんから」

 そう囁くシアの横でさっさと荷物を取ったオクタンがガシャガシャと駆動音を響かせ、風のようにロッカールームを出ていく。
 オクタンの背を呆れたように見ていたシアは優雅さを残したまま、静かに呟いた。

 「もしよかったら、たまにはお食事でも? ……勿論、貴方が他の方と余りそのような交流を好まないのは存じていますが」

 全てを見透かしているのでは無いのかと錯覚してしまいそうなくらいに青く透き通る瞳が真摯な光を宿し、こちらを見つめてくるのを迷いなく見返す。
 シアという人物はそのターコイズブルーの輝きの所為で随分と苦労をしてきたのにも関わらず、基本的にはどんな人間に対しても常に物腰柔らかい。
 サーバー上のデータのみで、彼自身の多くを知っているというわけでは無かったが、彼の両親は彼へ向けられる周囲の偏見の目をもろともせず、一身に愛情を注いだらしかった。
 本当の血を分けた家族の繋がり。それはどれだけの力となってこのシアという人間を支えたのだろう。
 変に感傷めいた気分になりかけたのを無視して、ゆっくりと唇を開いた。

 「今日は先約があるんだ。……悪いな。また今度、誘ってくれ」

 「そうでしたか、それは残念ですね。またの機会にしましょう。……あぁ、でも、シャワーブースまではご一緒しても?」

 律儀にもそう言って微笑んだシアに、思わず苦笑を浮かべながらその言葉に頷くと、二人並んでロッカールームを後にした。














 「……んぃ、ッ……あ、ぁ! ……っは、……みら、……じゅ……!」

 「ここ、好きだよな。……クリプちゃん……っ、ほら……締めてくる……」

 「ば、か……ッ……ぁ、あッ……あぅ……」

 ぽたぽたと体に落ちるミラージュの汗と共に、内部に埋められた熱が腹を掻き乱す。
 強く握り込んだシーツが皺になるのを気にする暇も無いまま、逆にミラージュに掴まれた腰に食い込む指先に意識が向いた。
 硬い上に長さもある一種凶器じみた陰茎がこの肉体に収まっているのを自覚させられるようで、いつも不思議な心持になるからだ。
 逃がさないとでもいうように引きかけた体をさらに自分の方に引き寄せるようにしたミラージュの顔は、獰猛なオスの顔をしていた。
 この男のこういう顔を見た事があるのは一体この世界に何人存在するのだろう。

 「っぁ、ぐ、……んぅ、う、ぅあ……!!」

 「……なに、……別の事、……考えてたッ……?」

 「ひぅ……ん、う……それ、や、だ……や……だ……!」

 タン、タン、タン、とリズムよく三度強く中を穿たれるのと同時にミラージュがわらう。
 けれどその笑みはいつものような笑顔では無いのを俺はもう知っていた。
 そもそも、この男は年がら年中その顔に笑みを貼り付けているが、本当に心から笑っている事の方が少ない気がしていた。
 臆病さを誤魔化す為に笑顔を貼り付けやり過ごす、そんな子供を俺は幼少の頃に見た事がある。
 親に棄てられた子供が、今度こそ棄てられないようにと養母や仲間に向かっておどけてみせては周囲の笑いを誘う。
 『こうでもしないと、自分に価値が無いような気がするんだ』と孤児院で一緒だった仲間の一人が苦しげに笑っていたのをコイツを見ていると思い出す。
 そうしてそんな風に言っていた仲間は、孤児院を離れて独立した数年後に自室で首を吊って死んでいた。

 「ウィット……もう、……も……ダメ、……はや、く……」

 「ん、……俺も、イキそ……きもちい……」

 ゾクゾクとした痺れが背中を走る。
 追い立てられるような腰の動きに加えて、前を扱かれれば脳内に浮かんだ過去の仲間の顔は遠くに流れていく。
 何も考えたくないという望みを叶えるかのような動きが、内壁を擦り、前立腺を内側から押し上げてくる。
 気持ちが良いのは、嫌いじゃない。頭がバカになる感覚に溺れてしまいそうになる。
 きっと俺は、何もかも忘れてしまいたいと思う事が人よりも多いのかもしれなかった。

 「イく、……っぁ、う、うー……ッ……あー……!」

 「っは……ふ、ふ……っぅ、出す……!」

 ばちゅんと濡れた音と共に最奥を押し拓かれ、自然と背がしなる。
 チカチカと目の前に光が舞うような幻覚と、その光の先の男が歯を食い縛り俺を見る瞳と視線が絡んだ。
 そうして宣言通りにスキン越しにでも分かる放出と、自身の腹に散った白濁とした体液がほぼ同時に達したのだと伝えてくる。
 暫しの余韻。温かな波間に漂うかのような感覚の後にはさざ波が引くような倦怠感が襲ってくるのだ。

 「……早く抜け……」

 「はいはい……、ちょっとは、じょ、……じょう? ……なんだっけ、そういうの無いのかよ」

 「あると思うのか? ……俺と、お前に」

 じとりとした目で見ながらそう囁けば、肩を竦めたミラージュの萎えた陰茎が腹から抜き出される。
 埋め込まれた場所が抜かれたタイミングでヒクヒクと物欲しげに蠢くのは気のせいなのだと思いたかった。
 汗ばんた髪を掻き上げつつ、ベッドの下に落ちている服を拾い上げようとすると、慣れた手つきでサイドチェストに置かれたミネラルウォーターのボトルとティッシュを渡してきたミラージュの手からそれらを受け取る。
 腹を拭い、ボトルの蓋を捻って温くなった水を口の中に入れる頃には、ミラージュもまた、無駄に吐き出した精液の溜まったスキンをゴミ箱に投げ入れ、水を飲んでいた。
 スタンドライトの仄かな明かりの中、ボトルの蓋を閉め、そのまま下着を身に着けながらベッドサイドに腰掛けているミラージュの背中を見つめる。
 力も入れていないだろうに盛り上がった筋肉と、褐色といって良いくらいに浅黒さを乗せた肌につけられた無数の傷跡。
 普段はスカーフで隠された首の後ろの凹凸から辿るように均整の取れた肩甲骨と、背骨、腰骨を見遣る。
 どこを見ているのか分からない横顔は、瞬きの度に睫毛が揺れ動き、水を含んだ唇から飲み切れなかったのか一筋、ヒゲを伝って顎先へと雫が落ちる。
 それを手で拭った男は、こちらの視線に気が付いたのか緩やかに顔を向けた。

 「なに、もっかいしたいの? おっさん、元気だなぁ」

 「……明日も【ゲーム】があるんだぞ」

 俺の声を聞きながら、ボトルの蓋を閉めたミラージュが持っていたボトルをサイドチェストに置く。
 そうしてこちらの持っていたボトルも取ったかと思うと、先に置いたボトルの横にそれを並べた。
 ボトルの中でゆらゆらと揺れる水が反射する光が薄暗い部屋で煌めきをもって、その存在を主張する。
 ギシ、とベッドのスプリングが動く音に呼応してミラージュが俺の上へと舞い戻った。

 「……うん……そうだな」

 その言葉とは裏腹に、履いたばかりのボクサーパンツの裾からミラージュの指先が侵入してくる。
 太腿の筋をなぞられ、ぴったりとした下着の裾を辿るように指が動く。
 ヘーゼルの瞳がライトの明かりを吸い込んで、宵闇の中で輝く二つの星のようだと柄にも無くそう思った。

 「本当にダメか? ……俺が、したくなっちまった」

 はは、と笑みを浮かべたミラージュがそう呟く。狡い男だと言いたくなるのをどうにか唇に押し込み、眉を顰めた。
 今まで一度で終わった試しなど数えるくらいしかない。
 最初から分かっていて、それでもなお、俺はいつも同じような言葉を返す。
 明日も【ゲーム】があるやら、違う仕事があるやら、用事があるやら、その時々で言うセリフは様々だった。
 でも結局のところは、ミラージュの"おねだり"に負ける自分が居る。ただ押し負けているだけなんだと、自分自身を納得させる理由を探している。
 狡い男なのは俺なのかもしれなかったが、その点については考えるのをもうとっくに止めていた。

 「……仕方のない小僧だな……もう一度だけだぞ」

 「あぁ、ありがとよ。ちゃんと、よくするからさ」

 そんなの当たり前だ、と返せば俺の下着にまた手をかけたミラージュが目を細めて今度こそ本当に笑った。


 □ □ □


 ミラージュと体を重ねるようになっておよそ半年という期間が過ぎ、その間にもどんどんと【ゲーム】は新しい【レジェンド】を迎え入れる。
 新しく【ゲーム】に参加する事となった過去に【レジェンド】達で協力しあい、完成させたアッシュという名のシミュラクラム。
 アッシュはホライゾンと深い関わりがあるらしく、母の面影を感じるホライゾンの願いを叶える為に、俺はアッシュの人格プログラムへのハッキングを仕掛けるコードを作成した。
 結果として、そのコードを使用したホライゾンの顔色はアッシュを見る度に悪くなり、そんな彼女を無機質な目で見つめるアッシュは余りにも異様な存在として目に映った。
 アッシュはホライゾンの過去の秘密を握る相手であり、そうして普段は温厚な彼女を怒りに満ちさせる程の邪悪な存在らしい。
 自分は母の為にと助力を惜しむ事無く、コードを渡した。無論、こうなる可能性も考えなかったわけでは無い。
 きっとホライゾン自身もある程度は予想していたのだろうが、それでも割り切れる話では無いのだろう。
 辛そうな顔で俺に『いい子』だと言ってくれた彼女に、俺の行為は逆に重しとなってしまったのかもしれない。
 何もかもが上手くいくなんていうのは無理だと分かっている。
 それでも俺は母の面影をどこか重ねていたホライゾンの助けになれないのが辛かった。
 まるで自分の無力さを突きつけられているようで、嫌になる。

 「……クリプト、大丈夫?」

 不意に隣から柔らかく甘い声が降ってくる。
 その声に俯いていた顔をあげると、こちらを心配そうに覗き込んでくるサファイヤブルーの瞳と目があった。
 ざあざあと波の音が遠くにいっていた思考を呼び戻すように鼓膜に響き、勝手に詰めていた息を吐き出す。
 今日の【ゲーム】の舞台はストームポイント。俺は正直言ってこの場所が苦手だった。
 何故ならここはクリプトになる前、ただのテジュンが必死に生き延びる為にもがき苦しんだ土地だったからだ。
 比較的、亜熱帯気候気味ではあるが、夜は寒く、そうして血に飢えたプラウラーやスパイダーの数も多い。
 実際に住んでいたスオタモは【ゲーム】で戦っているエリアよりはもう少し文化的ではあったが、それでもオリンパスなどに比べれば発展しているとはとても言い難かった。

 「すまない、少しぼうっとしていた。……ドローンには敵影は映っていない。異常無さそうだ」

 「ふふ、珍しい事もあるのね。貴方がそんな風になるなんて」

 鈴を転がすような声で笑ったナタリーは、海の間際に建っているこの建物の外から見える海岸線に目を向ける。
 この場所は二階建ての建物で、小屋の中には彼女が張った電気フェンスが蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
 触れれば敵を痺れさせ、そうして拘束する事の出来る精密なテクノロジーで作り上げられたフェンス。
 籠城するには持って来いのアビリティーを持った彼女は、笑顔のまま退屈そうに囁いた。

 「でも本当に暇ね。周りの部隊は違う所で交戦しているのかしら」

 「そうだろうな……アナウンスはひっきり無しに流れているし、ここに居れば勝手にリングで皆倒れるかもしれない」

 俺の言葉に、目を瞬かせたナタリーは、それって何というか、とっても策士ね! と褒めているのかよく分からない事を言った。
 初動でバロメーターに降りて複数の敵部隊と当たった俺達は、どうにか同じ場所に降りた全ての敵部隊を蹴散らし、物資もアーマーも十分に育っている。
 そうしてドローンでリング位置を確認すれば、丁度セノーテ洞窟の海岸付近が最終リングに近くなりそうだというのが分かったのだ。
 ならばわざわざ遠くに居る敵を倒しに行く必要も無いだろうと、ナタリーと俺、そうしてもう一人の仲間でそう結論付けた。
 まぁ、もう一人の仲間であるミラージュは少し不満そうな顔をしていたが、奴はいつだってカメラに映る事ばかりを考えているような男だ。
 そしてその男は少し周囲を見てくると言い残して、今はこの建物の中にはいなかった。

 「ねぇ、クリプト」

 「なんだ? ナタリー」

 「貴方は海は好き?」

 脈絡なくそう言った海の色をした彼女の瞳がキラキラと輝いている。
 純粋無垢なその瞳は、ジッとこちらを見ては楽しそうな笑みを浮かべていた。彼女には自分の秘密を話しているが、それは俺の秘密の全てではない。
 それでも構わないと言ってくれたからだった。
 『信頼しているから』と言ってくれた彼女の事を見ていると、自分が夜ごと欲を発散させる為だけに奴と抱き合っている事が申し訳ない気持ちにすらなる。
 別に、言うつもりは微塵も無いというのに。
 思わずその透き通るブルーから目を背けて格子状のフレームが嵌められた窓の外を見遣る。
 結局、目を向けた先にも美しい青色を滲ませた空と海が遥か彼方まで続いていた。
 潮の匂いが鼻に入り込むのを懐かしく思いながらも、俺は自分の中の考えが纏まらないままに唇を動かしていた。

 「……正直に言うと、あまり好きじゃない」

 「そうなのね。私は結構好きよ、風がベタベタするのと、電気回路が少し不具合を起こしやすくなるのは嫌だけど」

 「海が好きかどうかより、俺はきっとこの場所が余り好きじゃないんだ」

 ポツリと呟いた言葉にナタリーの顔が不思議そうな色を帯びる。

 「ここには来た事があるの? テジュ……ごめんなさい。クリプト」

 俺の本名を呼びかけてすぐに謝った彼女は慌てたように両手を前で振った。
 そんな姿に可愛らしさを感じて笑みを浮かべてしまうのは仕方のない事だろう。
 ここが自分の故郷であるというのを話すつもりは余り無かったが、彼女にならばいいかもしれない。
 そう思って口を開こうとした瞬間、ギイと勢いよく金属製の扉が開かれて、電気フェンスに引っかかり大きな音を立てて崩れ落ちた。

 「あ! 悪い悪い、勢い余って壊しちまった」

 フェンスを通り抜けてミラージュが入り込んでくる。この男は一体いつから扉の前に居たのだろう。
 だが、頭を掻いて申し訳無さそうにそう言ったミラージュに、ナタリーはクスクスと笑って声をかけた。

 「もう、ミラージュったら、折角のお城を壊さないで頂戴」

 「いやー、中から開けて貰おうと思ってたのによ。まぁでもほら、これ見つけたから持ってきたぞ」

 口では注意しているものの、嬉しそうに近寄ったナタリーに謝ったミラージュは、その手の中にアルティメット促進剤とシールドバッテリーを何本か持っていた。
 周辺の建物から見つけてきたのだろうそれをナタリーに渡しているミラージュに視線を向けた瞬間、俺はゾッと背筋が凍るような気分を覚えていた。
 唇の端に浮かべた笑みも、声帯から発せられる冗談めいた言葉も何もかも普段と変わりが無い。
 けれど、ヘーゼルの瞳はまるで洞のような仄暗さを宿し、ナタリーを越えて俺を見つめている。

 独占欲なのか、はたまた、嫉妬なのか、俺には理解しえない感情がその目に浮かんでいるのを見つめ返す。
 この男は近頃こういう目をする事が特に多くなった。
 それは俺が他の【レジェンド】と仲が良さそうに話をしている時や、戦いの途中、敵として出会った時など様々だった。
 ただ一つ言えるのは、こうして薄暗い目をしているミラージュを見ていると、初めは恐怖心が先立つものの、隠している筈の感情を俺にだけ向けているのだという一種歪んだ悦びのような感情を得てしまう。
 こんな風になるつもりなど無かった。ただ、身体だけでそれ以上の関係なんて求めていない。
 そうでなければ、男をこちら側に引き込む事になる。
 何よりも家族というモノを大切にしている、この男を。

 「クリプト」

 ナタリーの前から動いたミラージュがこちらに近づいてくる。
 その顔には笑みが浮かんでいるが、本当にわらっているワケではないのは一目見て分かった。
 この男の思考が読み切れない、そんなのは前からなのに、今日は特にそれを思う。
 後ろに下がりかけた俺に貼り付けた笑みを向けた男は、掌に乗せたアルティメット促進剤をこちらに差し出した。

 「ほら、お前にもちゃんと持ってきたんだぜ?」

 「……あ、……あぁ……」

 少しどもりかけた俺にさらに近づいた男の掌からそれを受け取ろうとする。
 だが、それを受け取る瞬間、男のざらついた親指が俺の爪の上をスルリと撫でた。
 それだけでジクジクと熱を与えられたように、腹の奥底が脈動する。
 ――――このままでは支配されてしまう。

 「……今日……」

 夜、来れるよな? と低い声で囁かれる。
 ナタリーに聞かれていないだろうかと思いながら彼女の方を見ると、彼女は貰ったバッテリーをバックパックにしまう為に荷物を整理している最中だった。
 もうこんなのは止めにしよう。そうしなければ俺はその内にもっとおかしくなって、そうして、この男に何もかもさらけ出してしまうかもしれない。
 それは許されない事なのだと自分を制する心がまだ残っている内に、この男から離れなければいけない。
 それなのに俺はただゆっくりと首を縦に振る事しか出来なかった。

 「! ……ドローンが」

 俺が頷いたのを見たミラージュが微笑んだ瞬間、外に待機させていたドローンが撃ち落とされた音が響く。
 リングの収縮に追い立てられるように敵部隊がこちら方面に移動してきたらしい。
 まずはこの【ゲーム】に勝利しなければならないと、俺はミラージュから視線を逸らしてナタリーの方へと向かう。
 背後から追いかけてくる視線には気が付かないフリをしなければ、どうにかなってしまいそうだ。

 「やっと敵が来たなぁ」

 そう呑気な声を上げたミラージュは一体どんな顔をしているのだろう。
 声と同じく楽しそうな顔をしているのか、それとも、やはり仄暗い瞳をしているのか。
 今はそれを確認する術も必要も無いと脳内の靄を払うように俺は背負っていたCARSMGに手を伸ばした。


 □ □ □


 道の先を行くミラージュの背中を見つめる。
 酒を含んだ身体はほんのりと温かくも、真夜中のソラスは随分と冷え込む。
 俺は着ている黒いモッズコートの前を両手で抱えるように押さえながら、どう切り出すかを悩んでいた。
 あの後、結局三人でチャンピオンを取り、俺とミラージュ、そしてナタリーでパラダイスラウンジで飲む事となった。
 次々と差し出される上手い料理と酒、そうしてナタリーとミラージュのどこかとぼけた会話を聞きながら、俺はボンヤリと今日で終わりにすべきだと思っていた。
 身体を重ね合わせなくたって、俺たちはそこそこの友人関係で居られる筈だ。

 以前は自分に友人など居ないと言っていたミラージュも、そんな戯言を吐いた事などなかったかのようにナタリーやパスファインダー、そしてレイス達といつも親しげに会話を交わしている。
 そんな男が俺に対してどう思っているのかはわからない。分からないが、少なくとも生理的な嫌悪感があればセックスはしない筈だ。
 そして俺も、ミラージュも、なんだかんだと言いながら仕事には真面目に取り組んでいる。
 だから大丈夫、俺達はただの仕事仲間で、そうしてたまに呑みに行く程度の友人に戻れるだろう。
 そうならなければならない理由など、いくつだって思い付いた。

 「今日は結構寒いなぁ。おい、クリプト大丈夫かよ? お前そこそこ呑んでたろ」

 周囲は薄暗く、そうして、路地裏のようなこの道はホテル街に近いからか上や横から発せられる色とりどりのネオンがミラージュのブラウンカラーのコートを着た広い背を撫でる。
 冷えた空気の中に様々な臭いがしている。そうして、この街はいつだって歪な音に溢れている。
 それなのに、ミラージュの声は俺には嫌になる程によく聞こえた。
 もしも聞こえなければ、答えなくても良いのにと思う自分はやはり狡い男なんだろう。
 鼓膜を伝わって脳に入り込んでくる囁きと共にミラージュがクルリと振り返る。
 男の表情は少し離れているからか、ハッキリとは見えずに、淡いオレンジやピンクのライトがその整った顔の上で瞬いている。
 
 わざとこの道を選んでいる事はもう気が付いていた。
 道には他に誰も居らず、ジリジリと古くなったネオンの焼ける音がする。
 真夜中の底冷えを宿したこんな街では、みな、どこかに引っ込んでしまっているのだろう。
 それを想像するのと同時に両脇に佇む、けばけばしさすら感じるホテルが存在を主張してくる。

 「……帰る? それとも、寄ってくか?」

 ふ、と笑ったミラージュの視線が俺を試す。
 どこに寄るかなんて言わずとも分かるだろうといわんばかりのその態度が、腹立たしかった。
 この男はけして俺に無理強いをしない。
 初めて身体を重ねた時も、そうしてその後も、結局は選択肢を俺に与える。
 コイツらしいとも言えるその言動が、俺を惑わせ可笑しくさせるのだと理解したのは三回目の交わりの後だっただろうか。
 いっその事、都合が良い時に俺を適当に呼び出すくらいのふてぶてしさがコイツにあったのなら。
 そうすれば、こんな風に悩むことなんて無かったというのに。

 「……もう、止めよう」

 喉から発せられた言葉が微かに震える。これは寒さのせいで、発言のせいではない。
 そう思わなければ、ミラージュの顔すら満足に見ることが出来そうになかった。
 自然と俯くようになった俺の前に、男の影が重なる。
 何かを言って欲しいと思うのに、何も言わないでくれと願う自分の身勝手さが首を絞めた。

 「……なんで?」

 ポツリと落とされた言葉には何の感情も乗ってはいなかった。
 顔を上げるのが酷く恐ろしい。
 俺は一度強く目を瞑ってから、さらに言葉を続けた。

 「……なんの、利益も無いだろ。お互いにこの関係を続けてたって、得られるモノが無い」

 「……得られるモノが無い、ね」

 俺の言葉を退屈そうに繰り返してそう言った男に、漸く顔を上げる。
 思った以上に近くに居た男の甘い香りが鼻を擽る。
 そうして、ミラージュの瞳はやはり洞穴のような暗さを宿していた。
 暗く深い海の底。色は違えども、与える印象は近い。
 意気地無しとすら言われかねない穏やかさと、いつだって周囲に向かっておどけてみせる男の心の奥に潜む、闇の一端。
 そんな目をしながらも、ミラージュはただゆっくりとわらった。

 路地の向こうで車が通り、ハイビームになっていたらしいライトがミラージュを背後から照らす。
 逆光で隠れた男の表情は、歪んでいるようにも見える。
 だが、車が通りすぎたのは一瞬の出来事で、ネオンの薄明かりが暗い世界にゆらゆらと灯るだけ。

 「そうだよな。確かに、俺達はそのうちに年下の可愛いお嫁さんでも貰ってさ、そんでもって家族でピクニックだとか……なんだ? とにかく、たくさん外に遊びにだって、行けるしなぁ。犬とかも飼ったりして……そういうのが、当たり前なんだろうなぁ」

 ニコニコとわらうミラージュがそう呟く。聞きたくないと耳を塞ぎたくなる自分を必死で堪えた。
 この男の隣で優しく微笑む見覚えの無い女の幻覚が脳裏に浮かぶ。
 ただそれだけの事なのに吐き気がした。
 でも、先に言い出したのは俺の方だ。
 終わりにしようと決めたのは、俺の選択なのだと吐いた息が白い糸となって細長く空へと流れる。

 「……それに、俺は子供も欲しいしな」

 だが、続けて発せられた言葉に、思わずミラージュを凝視する。
 微笑む女の姿が変わる。その下腹部が膨らみを有して、そうして、そこを慈しむように擦る細く白いしなやかな指先。
 俺には無いモノしかない。どれだけの努力をしても、意識を変えても、絶対に手に入らないモノ。
 重ねた身体の分だけ失われた実らない種は、可哀想に全て焼却炉で跡形もなく燃やされているだろう。
 決定的な終わりだな、とそう思う。
 そもそも始まってすらいなかったのに、終わりだなんて可笑しな話だけれど。

 俺達は恋人に、ましてや家族には絶対になれない。
 欲しいモノを与えられない存在が、本当の事を伝えられない存在が、どうして家族になんてなれるというのだろう。

 それなのに、俺は初めて目の前の男を本気で殺したいと願っていた。














 手荒くドアを開け、リビングへと入り込む。
 どうやって帰ってきたのかも曖昧なままに飛び込んだ自宅は、空々しい寒さが沈殿していた。
 自分以外には誰も居ないこの部屋は電子機器の唸る小さな音しかしない。
 カーテンの隙間から差す僅かばかりの光がただ、唯一の明かりだった。
 あの男と道の先で別れ、そうして途中から堪えきれず走って帰ってきたというのに、身体は室内と同じく冷えきっている。
 吐息の乱れすらもたいして無い事が、俺が【逃亡者】として長く存在している証明のようだった。

 走ることには慣れている。
 幼少の頃、海の近くで暇潰し程度に俺を襲おうとする漁師達から。
 そうして、施設の中で養母に見えないように苛めてくる上級生たちから。
 無実の罪を着せられて、漸く得た平凡ながらも幸せな生活から。
 全部、全部、俺の後ろに過ぎ去っていった。
 だから、あの男との交わりだって、いつかたまに思い出しては苦い顔をする程度の思い出として昇華されていくのだろう。

 くだらないな、と心底思った。
 こんな事に心を乱されて、本懐を遂げられなければ俺はただの馬鹿だ。
 ここまでずっと独りで生きてきて、これから先だってきっと独りで全てが終わるまで生きていく。

 そろそろと足を動かして仕事部屋の方へと移動する。
 暗くとも勝手知ったる自宅であれば、どういう道を辿ればどこに着くかなど分かるものだ。
 仕事部屋として使っている部屋のドアを開けると、ドアの傍らに取り付けられたセキュリティシステムが瞬時に俺の全身をスキャンし、テーブルに置かれたライトが灯る。

 昼光色に照らし出された自分で組んだハイスペックパソコンに繋がれた複数のモニターが広々としたデスクの上で、その黒い機体を輝かせる。
 待機状態のモニターには、【クリプト】のマーク。見慣れたそのマークは、さざ波だった心を僅かばかり落ち着かせた。

 「……これで良かったんだ……」

 そうしてデスクの上。
 モニターのすぐ傍らに置かれた、俺の本当の家族の写真。
 色褪せかけたその写真の入った額縁の表面を指先で撫でた。俺にはこの二人が居る。
 この人達の為に、全てを懸けて俺はこの場に立っている。
 だから、俺は自分の幸せなんて、今は追いかけている暇は無いのだ。
 そんなモノの為に、俺は【クリプト】になったんじゃない。

 「これで、良かったんだよ」

 そのまま小さく呟いた言葉は、俺以外の誰に聞かれる事もなく、深海のような隔絶された部屋の床に転がり落ち、跡形もなく泡のようにただ、消えていった。


-FIN-






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