悪食の花



 もう既に多量の精を受け止め、青臭さを内包したスキンが幾つか落ちている横で、みっしりと質量の詰まった肉体が互いの隙間を埋め合うように折り重なる。
 捕らえた獲物に喰らい付く獣の如く密着した肉体から発せられた熱が、見えないながらもフローリング張りの床へと落ちては室温を上げた。
 熱い、とミラージュは思う。どうしようもなく熱いのに、触れるのを止める気にならない。
 どこまでも目の前の男から発せられる色香のせいだろうか。
 刈り上げられた側頭部の丸みと、さらさらと揺れ動く黒い前髪に視線が奪われる。
 もっと欲しいのだ、その髪一房でさえ。
 強欲な自らの脳が導くままに、ミラージュは肩で息をしているクリプトの下腹部へと指を伸ばす。
 壁に取り付けられたエアコンの送風口から静かに冷風がそよいでいるにも関わらず、この一室だけは空気が甘く濁っていた。
 「も、……待て……って言ってる……の、に……!」
 迫るミラージュの手から逃れようと、仰向けから横へと身体をくねらせたクリプトの背後を取るように、ミラージュが俊敏な動きでクリプトの行動を阻害する。
 その際にベッドからもはや何の意味をも成していないクッションが音も立てずに滑り落ちたのを、クリプトもミラージュも気に留める余裕が無かった。
 地の底から甦った死者のような容赦の無さでミラージュの巨体がクリプトへと再度乗り上げ、ジタバタともがく細い体躯へと縋りつく。
 「……待てない……」
 優しさを欠いた動きとは違い、ミラージュの唇から零れた柔らかな音をした言葉がクリプトの耳に届けば、うつ伏せになっているクリプトが何も言えずに黙り込んだ。
 こういう点ではこの男は弱いのだとミラージュの唇が緩く弧を描くが、クリプトにその笑みが見えることは無い。
 そして、何を言うべきかを悩んでいるクリプトの隙をついて、既に何度も開かれ穿たれたそこにミラージュの剛直が近づけられる。
 餌を待つ雛鳥のように収縮を繰り返している窄まりは、その存在感のある昂ぶりの未だ衰えぬ勢いを感じ取ったのか、なおさらに求める動きを強めた。
 すぐに挿れるのではなく、先端だけをじれったく押し当て、深い息を吐き出したミラージュ愛用のバニラとムスクの芳醇さが特徴的な香水と混じった体臭がじわりと辺りを包む。
 濡れた先端をゆるゆると食んでくるクリプトの窄まりにゴクリと口腔内に溜まった唾液を飲み下したミラージュは、許可を得る事も無く、クリプトの臀部の谷間へと屹立している陰茎を一度擦りつけた。

 純然たる甘やかなセックスというには些か横暴さを宿したその行為が、クリプトへの負担になる事をミラージュは知っていた。
 元来、性行の為に誂えられた器官ではないのだ。知っていて、それでもなお、クリプトを芯まで犯してしまいたい願望の方が色濃く脳内を満たす。
 それなのに、何度身体を重ねても、何度中へと注ぎ込んでも、その時ばかりの充足感だけで、終わった後の疲労感の方が強い。
 その理由などミラージュはよく分かっていた。分かっていて、それでも答えを出す事が出来ないのは、ミラージュ自身の弱さのせいかもしれない。
 では、それすらも受け入れるクリプトがどうなのかという疑問を、ミラージュは見ないフリをしていた。
 世の中には答えを出さない方が上手くいく事も確かに存在する。
 「っぁ、あ、……無理だ……って……! ……ミラージュ……も……ぅ……むり……だ……」
 切なげな声を出しながらベッドの上で裸体を晒しているクリプトの脚が震え、腰を引こうとするのをミラージュの指先が引き摺り、傍へと連れ戻す。
 むずがるように腰を揺すったクリプトの肩甲骨が盛り上がり、肘でベッドを押して身体を持ち上げようとするが、その前にミラージュの両手が細い腰を掴む方が先だった。
 逃れるのを諦めたのか、枕に顔を半分押し付けた形になったクリプトの呼吸が、次に来る衝撃を耐える為に深くなる。その呼吸に合わせて腰を推し進めたミラージュとクリプトの呼吸がゆったりと重なった。

 ぶちゅり、とローションと体液が混ざりあった淫猥な音を立てたクリプトの性器へと変貌を遂げつつある後孔の縁は、目一杯に押し広げられてミラージュの昂りを咥え込む。
 言葉とは裏腹に呆気なく中への侵入を許したクリプトの内壁がミラージュの剛直の根元まで飲み込んだのと比例して、クリプトのシーツを掴む指先の力が籠っていく。
 白くなった手の甲にミラージュは気がつきつつも、それを覆い隠すようにクリプトのデバイスを纏った手を上から握った。
 逃げる先も、逃がす気も無いのだと言外に伝えるような手付きで絡ませた指に力を入れる。
 ミラージュのそんな思考を知ってか知らずか、シーツへと爪を立てていたクリプトの指の力が微かに緩んだ。
 「……ん、ぁ……っは……ひぅ……」
 「クリプト……クリプト……」
 「い、ぁ、あ゛ッ……あ……重、い……」
 屈強さを宿した色艶の良い褐色の肌がその下にある白い肌を押し潰す度に、サイドチェストに置かれたランプだけが光源の薄暗い室内に響く声が悲鳴に近い音へと近づき、壁に映る影が変化していく。
 ベッドの軋む音、絡まり合う吐息が湿っぽさで満ちた室内をいっそう熱して、じわじわとミラージュとクリプトの背を伝う汗へと還元される。
 汗ばんでいるであろううなじを覆うように取り付けられた金属製デバイスの縁を指先で撫でたミラージュの下で、その些細な刺激ですら煽られるのか、クリプトが微かな喘ぎ声を洩らした。
 もう何度目だったか、熱された思考の片隅から冷静な己が語り掛けてくるのを無視したミラージュは、まろみを帯びたクリプトの双丘を掴んで弾力のあるそこを撫でる。
 程よい筋肉のついた臀部は指先を沈み込ませる事はなく、かといって全く柔くないワケでもない。
 切った爪の痕はつかなくても、ミラージュはわざと乱雑に握ったそこに押し付けるように律動を始めた。
 「!……ッあ、ぁ……っんー、んぐ……バ……カ……」
 ぬかるんだクリプトの胎が押し込められた楔を悦ぶ。
 過ぎた快感に堪えるようにしなりかけたクリプトの背に流れ落ちた一滴を舌先で舐めとったミラージュに、枕で顔を押さえながらクリプトが批難の声をあげるが、それでもなお、ミラージュは真下に居るクリプトへの攻めを止める事はない。
 一種の侵略と略奪行為に近いその交わりが、どろついた不安を薄める。
 雄としての本能を誰かに教えられずとも、これまでの経験から学んでいたミラージュにしてみれば、その程度の抵抗に何ら意味が無い事をとうに理解していた。
 それに、クリプトだって結局はこうされるのが嫌いではない筈だ。
 奥まで貫いた陰茎が蠢く肉壁に搾られる感覚に、歯を噛み締めて堪えたミラージュの興奮が混ざった二酸化炭素が厚みのある唇から洩れる。
 ふーふーと浅ましさと肉欲で満ちた呼吸を繰り返しながら、ミラージュは白い肌へと吸い付いては痕を残す。
 鬱血による赤い花が幾つもクリプトの背で咲き誇るのを見ながら、ミラージュはクリプトの強い蠕動が収まるのを待った。

 本当はそんな休息すら与えずに奪い尽くしてしまいたかった。けれど、心のどこかでそれをして次が無くなる事を恐れていた。
 自分達の合間に明確な契約も、正しき理由も、そんなモノは何一つ存在しない。
 ただ、互いに都合が良かった。その一点だけで繋がっている。
 逆に言えば、どちらかが止めたいと言えば、手放さなければならない。
 それこそ、お得意の詐欺師めいた笑みを浮かべて、自分から解放される事に対して祝福でもしなければならないという事実がミラージュの脳内に去来する。
 「ひっ!? ……あ、っ、うぁ!」
 クリプトの呼吸が少しだけ落ち着いたのを見計らって、バツン、と肌と肌がぶつかり合う音が立つ程に引いた腰を奥へと押し込める。
 心地よい生温さの中で頬を伝う汗と、張り付く皮膚の感覚が脳内を蒙昧もうまいとさせて、獣じみた衝動の充足度を高めた。
 「みらッ……じゅ……も、……いや、だ、ぁあぁっ……?!」
 「嫌? それは、嘘だろ……、ほら……ここ好きなの、知ってる、ぞ……!」
 「ッあ゛、う、ぅぐ……う、……っ――……」
 慣れた手付きで腰を掴んだ両手に力を込めて、前立腺を擦り、さらにその奥をミラージュがゴリゴリと容赦なく抉り穿てば、ガクガクと全身を震わせたクリプトの身体が白いシーツの上で跳ねた。
 境界線すら曖昧になりつつある結合部と、結腸に到達し、締め上げられた亀頭部分からクリプトが押し寄せる快楽に溺れているのがミラージュへとダイレクトに伝わってくる。

 初めは男を知らなかったクリプトにメスとしての快感を覚え込ませたのはミラージュだった。
 何もかもを掌握しているような態度を見せる男が、ミラージュの手の中で確かに開花していく様を誰よりも貴び、愛おしく思った。
 それと同時に、触れれば触れる程、"クリプト"という人間の求める未来が見えたような気がして、ミラージュはそれを疎ましく感じていた。
 本来なら、この男がこの場所に立っている事自体が間違いだったのかもしれないと、ミラージュには思えてならなかったからだった。
 そうして、自分の下で喘ぎ乱れるクリプトという男が、それを自覚していて、元の場所へ戻ろうともがいている。
 "ミラージュ"という虚像ではけして届き得ない、この男が本当は立っている筈だった場所。
 自らの手で育てた美しい花が、実を結ぶ事も無く消えてしまう感覚。先に摘み取ってしまうのはきっと簡単で、やろうとすれば出来る筈なのに、ミラージュにはそれが出来ない。
 何故なら自分の言葉一つで、悪くは無いと思える環境が変化する事をミラージュ自身が恐れたからだった。
 全ての責任を負える程にエリオット・ウィットという人間は強い生き物では無い。
 肩に圧し掛かっている母との絆と、ミラージュ自身の性質がエリオットという人間をいつまでも縛り付ける。

 けれど、今まではそれで何も問題が無かった。それなのに、とミラージュは眼下で震えるクリプトの赤い痕の散っている背を見つめた。
 心の底から欲しいと思う人間だった。喉から溢れ出そうな感情の奔流をいつもの冗談で覆い隠す。
 そのセオリーだけでやり過ごしてきたし、それで良いんだと納得させていた。
 身体だけで良いんだと流されるままに二人でこんな所まで堕ちてきて、このままひっそりと生温い波の中で漂っていられたら良いんだとミラージュはそう願っていた。
 その筈だったのに、今シーズンにて新しくクリプトに支給された衣装が話題になった時、ミラージュは一人、絶望に近い感情を覚えていた。

 初めはいつものテイストよりも幾分かハードロック調な服に、ミラージュもそこまで気にはしていなかった。
 おっさんにしてはイカしてるな、なんて、そんな言葉を投げかけたりもした。
 けれどクリプトの額に刻まれた小さな文字がミラージュの意識に入り込んだ時、えも言われぬ不快さを覚えたのをミラージュは今でもしっかりと覚えている。
 クリプトのルーツである星の言語で刻まれたその文字の意味をクリプト本人に問う事は出来なくて、その後、それがネット上で"ミラ"という人名なのではないかと言う憶測が流れていたのを見た途端、ミラージュは自身の胸が軋むのを感じた。
 ネットの住民はその意味深な"ミラ"に、もしかして"ミラージュ"の暗示では無いのかと盛り上がっていたようだったが、ミラージュからすればそんな事が在り得ないのを一番理解していた。
 クリプトという男は、少なくともセックスフレンドの名前を額に刻む程、愚かな人間ではない。
 用心深く他人を滅多に信用しない男が名を刻むという事は、それだけクリプトにとってその"ミラ"という人物が大切なのだろう。

 「っぐ、ぁ、……ああ!……っは、ミラ……ジュ……や、だ、や……もぅ……、ん……!!」
 「……クリプちゃん……ッ……なぁ……名前、呼んで……名前で……呼んで欲しい……」
 「……な、……んで、……ウィ……ット……もう、……」
 「……そっちじゃなくて……、……な、……お願い……」
 そろりと腰を掴んでいた腕の片方をクリプトの首に巻き付けたミラージュが、金属デバイスの取り付けられた耳へと声を流し込めば、キュウキュウと柔くなった内壁がミラージュを刺激する。
 それと同時にクリプトの首へと回った腕に少しずつ力が籠って、ゆっくりとクリプトの首筋を圧迫していく。
 酸素が遮断されいく感覚を恐れるように怯えた声でクリプトが囁くのを、ミラージュはどこか夢うつつな気分で聞いていた。
 このまま、クリプトをこの場で手折ったなら、それは永遠と呼べるのだろうか。
 失う事を恐れる必要も無い、枯れる事を怯える必要も無い。いつか零れ落ちる存在を手元に置いておく事になり得るのだろうか。
 ミラージュの太い腕に立てられたクリプトの爪が食い込むのと一緒に、ヒュカヒュカと呼吸の細くなったクリプトの唇が開閉する。
 艶のある唇から掠れた声で、エリオット、と名前が聞こえた瞬間、ミラージュの腕に込められた力が微かに緩んだ。
 「エリ、……あ、っは、……あ、エリオット……っひ、ぃ……ぐ……!!」
 懇願に似た呼び掛けを聞き流しながら、ミラージュはクリプトの奥を穿つ。
 これがただの八つ当たりに過ぎないというのを理解してもなお、ミラージュはクリプトを攻める手を止める事が出来なかった。
 "ミラ"が自らを指すのではないという真実を飲み下す。そうして、その事に自分が何かをいう権利すらないという事実がミラージュを苛んだ。
 嫉妬というには余りにも深い根を張った重苦しさの中で、ただ鳴き喘ぐクリプトの後頭部へとキスを落とす。
 好きだというそんな簡単な一言すら言えない自分自身にずっと前から腹が立っていた。
 そうして、ミラージュにだけ開かれている筈のその身体に、自分以外の存在をあっさりと刻みつけたクリプトという男にも。

 ギリ、ともう一度クリプトの首に巻き付けた腕に力を込める。
 金属デバイスで守られているから、恐らくこの程度の力加減なら少しだけ酸欠状態になるだけだろう、とミラージュにしては冷たい考えが頭を過ぎった。
 殺す気なんてない、死なせる気も、最初からありはしない。
 ただ、行き場の無い怒りだけはどうしようも無い程に沈殿して、ミラージュを支配する。

 優しさばかりを振りまけば、この男を繋ぎとめておけると勝手に解釈していた自分自身の傲慢さが嫌になった。
 人の温もりに飢えているクリプトをどこまでも甘やかして、そのまま砂糖漬けにしてしまえば、ドロドロに溶け落ちてしまうと思っていたのだ。
 そうすれば、自分の手札を晒す事なく、クリプトを手元に置いたままでいられるのだと信じていた。
 でも、きっとそうでは無いのだろう。人の温もりに飢えているのはミラージュだって変わりない。
 仮初の交わりが身を焦がして、冷静な思考を狂わせる。己ばかりが相手に依存している。
 誰でも門戸を開くかわりに、誰にも真実を見極めさせない"ミラージュ"という存在の根底が揺らぎかけるのを感じた。
 愛などという不確定で、簡単に忘却出来てしまうモノに、もう二度と信用など置かないと誓っていたのに。
 「……え、……り……ッあ、……ひ、……ぁ……あ――……!!」
 「……っ、グ……ぅ……!」
 金属デバイスの内側でクリプトの喉仏が嫌な痙攣を起こしたのを筋肉で感じ取りつつ、ミラージュは薄くなった精をクリプトの中へと吐き出した。
 ベッドに押し付けられたクリプトの全身がビクビクと震え、そのまま弛緩する。
 締めていた腕を動かしたミラージュが慌ててクリプトの唇へと掌を当てれば、微かな呼吸がミラージュの汗ばんだ手にかかった。
 いつもならば批難する声が聞こえないのは、意識を失ってしまっているからだとミラージュが気が付く頃には、シーツの上でクリプト自身の陰茎からも色の薄まった白濁が零れてそこを濡らしていた。
 気を失っても従順に快楽を拾い上げるクリプトの肉体にミラージュは無自覚のままうっそりと笑う。
 そうして荒い吐息を洩らしたまま、中に埋めていた陰茎をミラージュが引き抜くと、既に何度も中に出された精液がローションと混ざって、熟れた果肉の如く赤くなり、縦に割れている窄まりから滴り落ちた。
 とろとろと流れる白い所有の証がクリプトの腿を伝い、なだらかな背中が呼吸の度に隆起する。

 【ゲーム】のせいなのか、それともその前からなのか、クリプトの背には確実に他者の手によって齎された古い傷跡があった。
 気にもしていないのだろうその傷をミラージュの前にあっさりと晒したクリプトは、今は死人のように気絶している。
 こういう所が、ミラージュにとってクリプトを手放す事の出来ない要因の一つだった。
 本人にそんなつもりは無いのだとしても、他者につけられた傷をミラージュの前では呆気なく曝け出し、先ほどまで首を絞められていた相手の前で寝転がっている。
 全て自分がそう仕向けたと言うにはミラージュの前でのクリプトは余りにも無防備だった。
 無防備でありながらも、本当に秘めたい事は絶対に言わない。……ミラージュにしてみれば、クリプトはパンドラの箱に近かった。
 男である以上、秘められれば秘められる程に、その中身を見てみたくなる。
 でも、もしもそれを開けたなら、ミラージュもただでは済まないだろう。
 そういう背徳的な危うさをクリプトは常に身に纏い、ミラージュの傍に立っていた。

 そっと手を伸ばしてクリプトの背に指を這わせたミラージュは、そのままその傷口へと顔を寄せてキスを落とす。
 小さなリップ音と共に離れた唇が今度は腰へ、そうして腿へと続けて落とされると、ぐったりとしたクリプトの身体を反転させて噛み痕の残る胸元へとキスをする。
 その間もミラージュの腕の中で一回り小さなクリプトの身体は、ただされるがままだった。
 涙の跡が残る頬、伏せられた睫毛に煌めく雫と、目尻に腫れた跡が残って痛々しさすら感じる。
 そんな目尻の下にある泣きぼくろにも口付けを施したミラージュは、最後に額へと唇を落としていく。
 「……名前、書いておきてぇなぁ」
 ぽつりと囁くようにミラージュの喉から洩れ出た本音はクリプトには聞こえない。
 ハァ、とわざとらしくため息を吐いたミラージュは、怠くなりつつある身体に鞭を打ってクリプトの身体を抱き上げた。

 □ □ □

 両手いっぱいになるくらいの大きな盆を携えたTシャツにハーフパンツ姿のミラージュは、履き慣れたスリッパの裏を擦りながら寝室へと向かう。
 あの後、結局すぐに目を覚まさなかったクリプトの身を清めてベッドに寝かしつけたのはまだ深夜帯だったが、ミラージュは穏やかな寝息を洩らすクリプトの横で上手く眠りに就けないまま朝を迎えていた。
 そうしていつもの通過儀礼ともいえる朝食を作る為に一人、まだ完全に明るさを取り戻していない時間にのっそりと起き上がり、普段よりもほんの少しだけ手の込んだ朝食を作ったのだった。
 盆の上にはマグに入ったコーヒーが二つと、水の入ったグラスが一つ。そうしてサーモンとクリームチーズのベーグルとスモークチキンとチェダーチーズのホットサンドが二つ別々の皿に盛られている。
 どちらもソラスでは手に入りにくい新鮮なレタスやトマト等を使用したそれらは、以前出した時にクリプトが特に美味そうにミラージュの前で頬張っていた物だった。

 盆を揺らさぬように僅かな隙間の空いていたドアを足で開けたミラージュの視界に、既に目覚めていたのか、ヘッドボードにミラージュが着せたグレーのスウェットを纏った上半身を凭れてカーテンの開かれた窓の外を見ているクリプトの姿が映る。
 ミラージュの手に持たれた朝食に気が付いたのか、不機嫌そうに眉を顰めたクリプトの目が僅かに和らいだのをミラージュは見逃さなかった。
 「……あー、……その、おはよう、クリプちゃん」
 おずおずと声を発したミラージュがベッドまで近づくと、さも当然とばかりにクリプトが右手を伸ばした。
 その手の意味を理解したミラージュはベッドの横にあるサイドチェストに盆を置くと、水の入ったグラスを恭しくクリプトの方へと差し出す。
 ガラス越しにでも伝わる冷たさに満足したのか、それを受け取ったクリプトはグラス半分程を一気に飲み下すと漸ようやく唇を開いた。
 「随分と、無理をさせてくれたな? 小僧」
 「いや、まぁ、……あぁ……うん……悪かったよ。昨日はちょっと、色々調子が悪くてさ……ほら、そのお詫びじゃないけど、お前が好きなヤツ作ったんだ! 好きな方選んでくれ」
 ミラージュの言い訳めいた言葉に、立ったままのミラージュを見上げたクリプトの目が細まる。
 だが、すぐにサイドチェストに目を動かしたクリプトはベーグルの方を指さしたので、ミラージュはベーグルの乗った皿ごとクリプトへと差し出すと、水の入ったグラスと交換で受け渡した。
 そうして残ったホットサンドの皿を取ったミラージュは、クリプトに背を向けるような形でベッドに座る。
 ミラージュとクリプトがこうして身体を重ねるようになってから随分と時が経っていたが、二人が共に朝食を摂るのが暗黙の了解となったのは、つい最近の事だった。
 それまでは夜のうちにミラージュ宅かホテルから先に出ていたクリプトをミラージュが引き留めたのは、ただの我儘と言える。
 けれど、重ね合った体の火照りが取り切れる前に居なくなってしまっていたクリプトも、ミラージュの『せめて朝飯くらいは一緒に食べよう』という言葉に頷くのは早かった。
 そして、朝食を共に摂るようになってからの方がまだ、気持ちの整理が付けやすい事をミラージュは学んだ。

 真夜中の間にぐずぐずに溶けあうようなセックスをして、少しだけ傍で眠って、朝になったら共に食事をし、次の日には【ゲーム】の同僚へと戻る。
 食事が終われば、身体中にミラージュが丹念につけた跡など全く無いような顔をしてミラージュの自宅から出ていくクリプトを見送る。
 クリプトの自宅も知らなければ、朝食の後にクリプトが何をしているのかも知らない。知る権利が無いからだった。
 けれど、夜のうちによろける身体をおして部屋から出て行こうとするクリプトを見るよりは、まだ、温かな食事を摂らせてから帰らせる方が良い。
 自分自身も、その方が残った熱を抱えて一人眠るよりはずっといいとミラージュは思っていた。

 皿から持ち上げたホットサンドを口元へと運んだミラージュは、そんな事を思いながらも機械的にそれを噛み切る。
 口の中に確かに美味い筈のスモークチキンの味が広がるが、ミラージュにはそれが心から美味いとは到底思えなかった。
 クリプトとの儀式的な朝食を摂る際、ミラージュの味覚はその時だけ馬鹿になったように何も感じない。砂を噛むような感覚ばかりが広がるだけ。
 それでも毎回懲りもせず作るのは、用心深いクリプトが自分の作った食事を黙ってその胃に収めるからだった。

 不意に背中を突かれてミラージュが後ろを振り向くと、もうベーグルを食べきったらしいクリプトが空になった皿を差し出していた。
 そんなクリプトの背後では温かな光が窓から射し込んでおり、疲労が残っているらしいクリプトの顔色を逆光によって薄暗くさせている。
 しかし、それはそう見えるだけであって、何故かクリプトはいつもよりも上機嫌のようだった。
 ミラージュはクリプトの手から空になった皿を受け取ると、コーヒーの入ったシンプルな白いマグカップをクリプトへと手渡す。
 本当ならベッドの上で朝食を食べるなどミラージュだけならば絶対にしない。
 だが、どうせこの後にベッドメイキングをするなら問題無いだろうと最初に言い出したのはクリプトの方だった。
 クリプトと目を合わせているのが嫌になったミラージュは、またクリプトへと背を向けて、食べかけのホットサンドを戻した皿をサイドチェストへと置くと、コーヒーのマグを取った。
 じんわりとした温かさのあるドリップコーヒーがユラユラと黒い波紋を描くのを見ながら、鼻に入り込む湯気を嗅ぐ。
 マグの縁に厚い唇を押し当ててミラージュが熱いそれを飲み込んだのとほぼ同時に、クリプトの事も無げな声がミラージュの背へと投げかけられた。

 「たまに、お前が何を考えているのかわからない時がある」
 その言葉に振り向きかけた体を必死に押さえたミラージュは、動揺を悟られぬように口の中に含んだコーヒーを飲み下す。
 俺が何を考えているのかなんて、お前に分かってたまるか。そう言いかけたのを唇をもごつかせる事で堪えたミラージュは、考え込む素振りだけをしてみせた。
 どうせ後ろ姿しか見えないのだからクリプトに自分の顔など見えてはいない。見せられるような顔をしていない事を自覚していた。
 自分にすら消化しきれない感情を、クリプトが理解出来るワケが無い。早く冗談めかして笑って、くだらない話にすり替えてしまえば良い。
 何度か開閉した唇は結局、いつものようにうまく回らずに、もう一度マグの縁へと着地した。
 その間に、クリプトが何かを言うのかとミラージュは待っていたが、クリプトも黙り込んだままで、珍しく沈黙が二人の合間に漂う。
 「…………たまにって、いつもは俺が何を考えてるのか分かるってのかよ? おっさんがエスパータイプだったなんて聞いてないぜ」
 漸くミラージュが絞り出した言葉は感情が乗っておらず、ただ日の当たる室内を掻き混ぜて消える。
 居心地の悪い沈黙が苦手なミラージュにとって、それは何よりも苦痛でしかない。
 そもそも、こんな事を問いかけておきながらも、どうせクリプトだって何も言わずにいつか自分の前から消えるのだろうとミラージュは予測していた。
 ミラージュが出来る限りの居心地の良さを提供しても、一人では知り得なかったであろう快楽を与えても、結果としてクリプトはミラージュだけを見るワケでは無い。
 当たり前だと分かっていたのに、それを痛い程に知らしめられた。

 マグを持つ手に力が籠り、グ、と洩れ出そうな息を止めたミラージュの背にまたもやクリプトの声がかかる。
 「……もしもお前が何かで悩んでいるのなら、手を貸そう。俺とお前の仲だからな」
 今度こそクリプトの言葉に顔を後ろに向けたミラージュは、クリプトの表情に見覚えがあり過ぎて顔を顰めた。
 この男は近頃何かにつけて『信用』やら『信頼』やらの言葉を発するようになった。
 そうしてその度に顔に浮かんでいる笑みはまさに好青年そのものといった様子で、ミラージュにしてみれば、その見え透いたうさん臭さに銀貨一枚でも払えやしないと思うくらいだ。
 別にクリプトが嘘が下手だと言っているワケでは無い。ただ、常に他人の顔色を窺い、人を騙す事に長けているミラージュにしてみれば、クリプトの発する嘘などある程度は簡単に見抜ける。
 「お前さ、……いつか本当にしめられる日が来ても知らねぇぞ」
 普段の笑みを消し、眉を顰めたままのミラージュに低い声で囁かれたクリプトは特に気にする様子も無く、マグに唇をつけた。
 たっぷりと数秒時間をかけてコーヒーを啜ったクリプトは、不遜さを隠す事無くニヤリとした笑みを見せたかと思うと、小さく肩を竦める。
 「人との向き合い方についてお前に説教される日が来るなんてな……世も末だ」
 「……俺は優しさから言ってやってんだよ。ちょっとは察しろ」
 「察してやってるだろ。……それに、俺をしめる? やれるものならやってみれば良い」
 ミラージュとクリプトの目が合い、その奥にある意図を互いに探り合う。
 釣り合いの取れている天秤、あるいは、同じ力で引き合う事を止めない綱引きのような絶妙なバランスが崩れるのをどちらも恐れている。
 それなのに、相手がそのバランスを崩すのを待っているのだ。そうすれば相手よりも優位に立てる上に、自分の責任ではないと言い訳が付く。
 クリプトの随分と捨て身に近い攻撃に、唇がずっと言いたくて仕方のない言葉を発しかけては無理矢理に肺の底へと呼吸と共に押し込んだ。
 窓の外から入り込む光を反射したクリプトの目が自分を観察するように動いているのを認識したミラージュは、敢えてへラリと笑ってからその黒い瞳から一度視線を逸らした。
 生憎と、誤魔化す術ならこちらの方が多く知っている。
 「全く、そんな事言って、お前はすぐに俺に喧嘩売ってくるんだからなぁ……そんなに俺の事が好きなのか? クリプちゃーん」
 一度逸らした視線を再びクリプトへと笑ったままのミラージュが向けると、先ほどまでの笑みを引っ込めて、逆に眉を顰めたクリプトが呆れたようにため息を吐いた。
 そのまま空になったマグをミラージュの方へと突き返したクリプトは、ベッドからのそのそと起き上がると、ミラージュが甲斐甲斐しくベッドの足元に畳んで置いておいたクリプトの私服へと着替えていく。

 【ゲーム】の時は白い衣装を身に纏っているクリプトは、オフの際は真逆の黒い衣服の場合が殆どだった。
 それに加えてミラージュの家に来る時は、暑い日でも首元まで覆われるような服を着てくる率が高い。何度も叱られたが、ミラージュがクリプトへの跡を残すのを止められないせいだった。
 昨日、【ゲーム】が終わった時に着ていた黒のタートルネックとデニムへと着替え終えたクリプトは、真夜中の出来事など何も無かったかのようにシレっとした顔でミラージュをベッド越しに見つめてくる。

 ここから先はもう甘いやり取りは無し。二人はただの同僚で、ライバルで、必要以上に干渉する事は許されない。
 朝食を食べ終えたクリプトが服を着替え、黙ってドアを開けて出ていく。ミラージュはそれを玄関先まで見送る事はしない。
 そんな一連の流れに寂しさを覚えなくなったのはいつからだったろうかと、ミラージュはふと回想する。
 だが、過去を思い出しても無意味なだけなのは理解出来ていたので、クリプトの方へと上半身だけ向けていた身体を前に戻したミラージュは、受け取ったマグをサイドチェストの上へと戻す。
 まだ自分のマグの中には半分ほどコーヒーが残っていて、人肌程度にまで温くなったそれを飲もうとする前に、背後に居たクリプトがベッド横を回ってミラージュの前へと立ち塞がった。
 いつもなら黙って出ていく筈のクリプトにミラージュが顔を上げると、今度は日光に照らされたクリプトを見上げる形で目が合う。

 怒っている様子でも無いが、かといって楽しそうな顔にも見えない。何かを思案し、戸惑っている様子のクリプトにミラージュまで困惑する。
 こんな事は何度も逢瀬を重ねているのに初めてだとミラージュが何も言えずに居ると、そっと身を屈めたクリプトの唇がミラージュの唇へと軽いキスを落として離れていった。
 微かなコーヒーの香りが鼻腔を擽り、呆気に取られるミラージュの前で、どこか気恥ずかしそうな顔をしたクリプトがすぐに何でもないような表情へと戻る。
 「いつも通り、朝食美味かった。ありがとう、ウィット。……次の【ゲーム】は明日……いや、明後日だったか……銃の腕を鈍らせないようにしておけよ」
 さも言い慣れているような雰囲気を醸し出しながらそう囁いたクリプトは、ヒラリと片手を振って、どこか楽しげな足取りでドアから出て行った。
 風のように去って行ったクリプトの後ろ姿を黙ってみていたミラージュは詰めていた息を吐き出してから、持っていたマグをサイドチェストの上へと戻す。
 ゴトリと硬い音を立てたマグを気にする余裕も無いまま、ミラージュは先ほどのクリプトの行動を反芻し、理解を深めようと無意識に髭に手を伸ばしてそこを撫で擦った。
 指先に伝わる硬い質感と、その傍にある唇にまで指を這わせたミラージュは、形容しがたい複雑な感情を宿した表情のまま、蝋人形のように固まり動けない。
 それほどまでにクリプトから与えられた言動が衝撃的過ぎたからだった。

 しかし、今の出来事の全てを真っすぐに信じられる程に、ミラージュに子供のような純真さはもう無い。何度も裏切られて失った過去があるからだった。
 でも、それと同時にあの男の罠に掛かってしまってもいいのでは無いのかと悪魔のような囁きがミラージュの脳内で響く。
 自覚しているのか、それとも無自覚なのか、その点が透けてこないクリプトの底の見えなさがミラージュには恐ろしくもあり、美しくも感じる。
 甘やかして自分の手の中に収めてしまおうと思っていた筈が、いつの間にかクリプトに上手い具合に囚われている。

 ミラージュはマグを置いたついでに残っていた冷めかけたホットサンドを手に取ると、一口それを齧った。
 冷めていてもサクサクとした食感のパン生地と、柔らかさの残るチキン、それにチーズとトマトの風味が口腔内に残ったコーヒーの苦みを掻き消していく。
 「あーあ、……美味いじゃないか……ったく、なんだってんだ……」
 さっき食べた時にはそこまで感じなかった香ばしさが鼻に抜け、何度か噛み締めるように咀嚼してから飲み下したミラージュの唇からは誰に聞こえるでもなく小さな呟きだけが洩れた。
 そうしてそんな旨味でも未だに消えないコーヒーの風味と、触れあった感覚を味わうように舌で唇を舐めたミラージュは、残っていたホットサンドを全て口の中へと押し込んだのだった。

-FIN-






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