公然の秘密




 店内にかかっている軽快なBGMの中で、笑顔で会話をしているカウンター席の中央に座っているカップルにオーダーされたシンガポールスリングとベイリーズミルクをそっとサーブする。
 言われた礼の言葉に、ファンサービスの一環とウィンクを決めたミラージュは彼らの邪魔をしないようにいつものよく回る口を閉じたまま二人とも似たような空気感を持つカップルの前から離れた。
 そうして店内を見回して他のテーブルに座っている客のオーダーも全て終えた事を理解したミラージュは、捲っていた袖が落ちてきているのを直しながらカウンターに置いたボトル入りのミネラルウォーターを口に含む。

 今日はシーズン中ではあるが、シーズンの合間に時たまあるオフの日であり、そんな日は本業であるパラダイスラウンジでマスターとしての仕事を行う。
 いわゆる二束のわらじというものではあったが、ミラージュにとって多忙なスケジュールながらもバーで過ごす時間は仕事とは言え好きな事をしているので有意義な時間として認識されていた。
 もちろん、どれだけ有意義な時間だとしても【APEX】とパラダイスラウンジの両方を一人で続けていくというのは不可能なので、何名かのスタッフと飲食店で労働する事を目的として製造されたマーヴィン達の手も借りている。
 それでも彼らを雇って余りある程にパラダイスラウンジは常に盛況であった。

 そんな中、ラフに着崩してはいるものの、胸元付近まで開けた白シャツに黒ベストというバーテンダーらしい服装をしたミラージュのスラックスに入れてある通信デバイスが微かに震え、着信がきた事を告げる。
 さりげなくカウンター下でミラージュがその通信デバイスの画面を確認すると、自身が【レジェンド】として参戦している【APEX】の同僚とも言えるレネイ・ブラジー……レイスからの着信である事が分かった。

 (……なんだぁ?)

 普段彼女とチームを組むことが多いミラージュではあったが、基本的にオフの日にレイスから連絡が来る事はほぼ無い。
 あるとしたなら、ミラージュが何かをやらかした時か、パスファインダーかランパートに何か急ぎで伝言がある時くらいだろう。
 パスファインダーは情報収集を目的にオフの日は一日中忙しく惑星間を飛び回っているロボットであり、ランパートは基本的に人からの連絡をほぼ受け取らない人種であるからだ。
 一番近くに居るスタッフに目配せで電話が来ている事を伝えたミラージュは、客から見えないように備品などが置かれている店舗裏に移動してからそのデバイスの通話ボタンを押した。

 「はいはい。全惑星で人気ナンバーワンのミラージュ様ですよー、何かご用か?」

 「もしもし、ミラージュ?」

 「あぁそうだが。一体なんだってんだ? お前から連絡があるなんて……もしかして俺なんかしたか?!」

 「まるで私が叱る時だけ連絡をするような言い方は止めて頂戴」

 デバイスの向こうで微かに苛立った声を上げたレイスに、ちょっと確認しただけなのに、と内心ミラージュは思うがそれを言うとさらにレイスの機嫌を損ねそうなので口を噤む。
 するとそのまま普通の声のトーンに戻ったレイスが言葉を続けた。

 「ちょうど今、パラダイスラウンジの近くに居るのよ」

 「んん? 今日はこっちに来るって言ってなかったろ」

 レイスが普段拠点にしている場所とパラダイスラウンジのある場所は僅かに離れている。
 たまにワットソンやライフライン達と共にオフに飲みにくる時はあるが、その場合はパラダイスラウンジ自体を貸し切りにする事が多い。
 それは【APEX】がアウトランズ中で有名な大会であり、それらに参加している【レジェンド】達は大なり小なりファンが付く程の有名人であるからだった。
 特に試合で活躍する回数の多いレイスのファンは男女共に多く、彼女はあまり脚光を浴びる事を好んでいないが、外に出ればそれなりに声をかけられる。
 だから飲むときは事前にミラージュに確認を取り、店を貸し切りにして飲む事が殆どだった。

 「たまたま仕事でね……。遅くなってしまったし、この辺りで気軽に入れる店をここしか知らないから」

 「なーるほど。来ても構わないが、流石に今すぐ店を貸し切りには出来ねぇな……一時間後くらいならなんとかなるが。それかカウンターの一番目立たない所を取っておいてやるよ」

 レイスの【気軽に入れる店】という表現に笑みを浮かべたミラージュは店内の状況を思い出しながらそう答える。
 店内に今居る客が全員帰るのは恐らくそのくらいの時間があればいいだろう。
 そうして新規の入店を断れば勝手に貸し切り状態になる筈だ。
 今日の分は売り上げも立っているし、元々本業とは言え今はこれだけで生活をしているわけでもない。
 ミラージュは店舗裏から顔だけを出すと、通話を繋げたままスタッフに店の外に掛け札をかけるようにジェスチャーをしてからまた裏に戻る。

 「とりあえず今どこに居るんだ? もう札をかけるように伝えたから、来るならいつでもいいぜ。ちなみに席は一つで良いんだろ?」

 「助かる。……それから今日はクリプトも一緒なの。だから二人分の席をお願い」

 「……クリプトぉ?」

 その名を聞いた瞬間、ミラージュの片眉が上がった。
 レイスは仕事だと言っていたが、まさか一緒に仕事をしている相手がクリプトだとは思わず怪訝な声が洩れる。
 ミラージュはレイスと同じく【APEX】の同僚とも言えるクリプトに対してだけは、もやついた感情を抱いてしまうのを自覚していた。
 それはクリプトの無表情な顔面であったり、鼻につくような生意気さであったり、こちらをバカにするような笑みであったりと理由は数多い。
 恐らくクリプトも同じようにこちらを煩わしいと思っているのだろうが、ミラージュにはそれを知る由も無かった。

 「なに? 何か問題でもあるの?」

 「いや……別に……」

 歯切れの悪いミラージュの返答にわざとらしくため息を吐いたレイスは呆れたように呟いた。

 「何をそんなに気にしているのか分からないわ。彼はいい人じゃない」

 「いい人、ね。……まぁいいさ。席は二人分だろ、用意しておく」

 「よろしく」

 すぐさまブツリと耳元で切れた通話にいつもの事だ、と通信デバイスを先ほどまでしまっていたポケットに入れ直したミラージュは裏から出ると、そこそこ広さのあるカウンターの一番奥の場所に【RESERVED】と黒字で書かれた小さな銀色のプレートを二つ置く。
 それを置いたタイミングで中央に座っていたカップルの男性がチェックを頼んできたので、ミラージュはにこやかに笑みを浮かべながら対応をした。
 そのまま腕を組んで帰っていく後ろ姿を見送っていると、丁度入れ違いのようにドアから見慣れた身長の二人組が店内に入ってくる。
 しかし、いつもと違うのはその服装で、ミラージュは思わずカウンターに近づいてきた二人の上から下までを眺めるとそれを嫌がるようにかけていた変装用らしい薄い色のサングラスを外し、それをジャケットにしまいこみながら軽く首を振ったレイスが言った。

 「そんなにジロジロ見る事も無いでしょう」

 「だってお前達のスーツ姿なんて初めて見たからさ。……仕事って一体なんの仕事だったんだよ」

 黒いパンツスタイルの質の良さそうなスーツを着ているレイスと同様に、彼女の隣に立っているクリプトもまたパリッとした黒いスーツを着こなしており、いつもの白と蛍光緑を基調とした服装とは与える印象が異なる。
 ミラージュのセリフに無表情を崩さないままのクリプトはプレートの置かれた席の一つを先に引いてレイスを座らせると、自身もその隣の席に腰掛けた。
 ここではいくら【レジェンド】同士だとしても、客は客だとミラージュは置いておいたプレートをカウンター越しに回収すると、ホワイトムスクの香りづけをした手拭きとガラス皿に乗せたナッツやチョコレートなどのチャームを提供する。
 手拭きでそれぞれ手を拭いながら、レイスはゆったりとした口調で話し出した。

 「私たちの【ゲーム】での連携を見たお偉いさんが居てね。この辺りで同業他社との会合をやるからSPとしてついてきてくれないかって言われたのよ」

 「SPって、わざわざ【レジェンド】に頼む話かよ。そんなのよっぽど、周りからうら……う……悪い奴なんじゃないのか?」

 「ああいう奴らは誰だって多少なりとも人に恨まれている事は確かだろうさ。それ以上に【レジェンド】をSPとして雇えるくらいのコネと金があると誇示したい……そんな算段だろう」

 ミラージュの疑問にレイスの代わりに答えたクリプトは静かにそう囁く。
 そういう意図があるのを分かっていてもなお、この二人が仕事を引き受けたからには相当な金と権力が動いているのだろうと理解したミラージュは普段よりも疲れているように見える二人に向かって極力明るい声を出した。

 「あー、まぁなんつーかお疲れさん。とりあえず飲めよ。飯は? 食ってないなら出してやるよ」

 その言葉を皮切りに卓上に置かれたメニューを手に取ったレイスがそれに視線を向けている間、ミラージュは彼女の隣にいるクリプトに悟られない程度の視線を向けていた。
 後ろを刈り上げた髪とその切れ長の目と同じ色の黒いスーツにネクタイ姿のクリプトはいつも以上にクールな雰囲気を纏っており、アンニュイな表情がよく似合っている。
 不本意ではあるが【APEX】内外問わず女性人気が高いクリプトのこんな姿を見たら放っておく女は居ないだろうな、とミラージュはぼんやりと思う。
 するとミラージュの視線を感じたらしいクリプトが顔を上げて、一度眉をしかめた。

 「おい小僧。いつまで見ているんだ」

 「はぁ!? み、見てねぇよ! 良いからさっさとオーダー決めろよな」

 ミラージュとクリプトのやり取りを聞いていたレイスはメニューを閉じて、そのやり取りを中断させる。

 「じゃあ私はコスモポリタンと、パスタが食べたいわね。出来ればアンチョビ入りが良いわ」

 「俺はモヒートと……ここでは何が作れるんだ? イタリアンか?」

 「別に決まってねぇよ。ライスだろうがパスタだろうが、その日、店にあるもんで作るからな。こだわりが無いなら適当に出すぜ」

 「じゃあ任せる」

 そのオーダーを聞いていたスタッフの一人に料理を作るのを任せたミラージュは、背後にある世界各国の酒を幅広く取り揃えた棚からウォッカとコアントローの瓶を持ち上げてキッチン台に置くとそのままその下に置かれた冷蔵庫からクランベリージュースとライムジュースを取り出す。
 そうして美しい光沢を宿したシェイカーに冷凍庫から事前に仕込んでおいたロックアイスを詰めると、ジガーでそれぞれ計量した酒類を上から入れ、慣れた手付きでシェイクする。
 軽快な音を響かせながらシェイカーを振る瞬間、自らの手で美味い酒を産み出している感覚がミラージュは好きだった。
 そうしてしっかりとシェイクされた事を確認し、グラスを冷やしておく為だけにある冷蔵庫から磨き上げられたカクテル・グラスを取り出すとそこに静かに注ぎ込んでいく。
 カウンター席の天井部分に設置されたペンダントライトに照らし出された赤い色のカクテルを先に出したコースターの上に乗せたミラージュを見ていたレイスが感心したように小さく囁いた。

 「あなたって、黙って仕事していると本当に別人みたいよね」

 「それって……俺の事イカしてるって言ってんのか? まさかレネイから誉められるなんて、明日は雪でも降るかな」

 「……前言撤回。あなたやっぱりそういう人よね」

 「冗談だって! ほら、ちょっとしたジョーク! な、怒るなよ」

 レイスのジットリとした視線に慌てたようにそう言ったミラージュは、ウォッカとコアントローのボトルを棚に戻すついでにホワイトラムのボトルを手に取りそれを台に置くと、続けてジュース類を片付けつつケースに入ったミントとライムを冷蔵庫から取り出した。
 そうして先ほどと同じようにグラス専用の冷蔵庫からロンググラスを取り出すと、ミントをペストルを使ってグラス中で軽く押し潰してから上からカット済みのライムを絞って皮ごとその中に入れ込む。
 ミントとライムの風味がほど良く香るそのグラスの中にシュガーシロップとホワイトラム、これまた営業前に仕込んでおいたクラッシュアイスをつめてからソーダ水を流し込み、ステンレス製のバースプーンで炭酸が飛ばない程度にステアする。
 仕上げにグラスの一番上にミントを飾り付け、ストローを二本差し込んだ。

 「ほらよ」

 そうして流れるようにカクテルを作り出す様を見ていたクリプトの目の前に出来上がったモヒートを置いたミラージュがそう言うと、クリプトは一度礼をするように頷いてからそれを手に取った。

 「あなたも何か飲む? 奢るわよ」

 そう言ったレイスにミラージュは微かに笑う。

 「別に気にするこたないさ。俺は……このミネラルウォーターで乾杯に参加させて貰う事にするよ」

 客とは言え、自分の店で自分の友人相手に奢って貰うのも可笑しな話だろうと手にミネラルウォーターのボトルを掲げたミラージュに、同じようにグラスを掲げたレイスとクリプトはグラスを当てる事はしないまま乾杯の意思を伝えた。
 そうしてグラスに口をつけたレイスが唇を離し、疲れたような吐息を洩らす。

 「今日は本当にお疲れ様だったわね。助かったわ」

 「……大したことじゃないさ。レイスこそ大変だっただろう」

 それに和やかな雰囲気を醸し出しながら答えたクリプトを見て、コイツはこんな顔をするのかとミラージュは驚く。
 自分の前ではこんな顔をした事など一度だって無かった筈だと脳内の記憶を探しているミラージュを見た瞬間、またクリプトの顔が無表情に戻っていた。

 (……そこまで露骨に嫌がる事もねぇだろうに)

 その変化に気が付かないフリをしたミラージュは、ここで二人の時間を邪魔するのも悪いかとわざとレイスにだけ視線を向けて話し出した。

 「俺はまだ仕事が残ってるんで、好きに過ごしてってくれ。これ以上は客も入ってこないし、少しはゆっくり飲めるだろうよ」

 「分かったわ」

 レイスの返事と共に何かを言いたげなクリプトがこちらを見ている事にもミラージュは気が付いていたが、敢えてそれを無視して二人から離れた。

 □ □ □

 店内に居る客が少なくなるにつれて、何かと仕事を探していたミラージュだったが明日の仕込みもほぼ終わり、片付けも出来る所は全て終えてしまっていた。
 そうすると自然にカウンターの端の方で楽しげに談笑しているレイスとクリプトの姿が気になってしまう。
 笑い声などが聞こえる程に盛り上がっているというわけでもないが、冷静さを常に失わない者同士、通じる所があるのか傍から見ていても良い雰囲気に見える。
 そんな二人の後ろ姿を見ていたミラージュは、やはりクリプトに対して自分自身でも理解出来ない感情を覚えている事に気が付いた。
 友人の一人であるレイスを取られた悔しさなのかと初めは思っていたが、そういうわけでも無い。
 どちらかと言えば、ミラージュにはけして向けられる事の無い笑みを浮かべているクリプトの顔を見ていると妙にそわついた気持ちになる。
 もう何度か磨いたので汚れの一つもないテーブル席をダスターで拭きながら、ミラージュはそんな自分の思考を分析しようと試みるがすぐに止めた。


 (バカバカしい。……一体なんだってんだよ、別におっさんが笑ってようが何してようが俺には関係ないだろうが)


 そんなミラージュを慰めるようにパラダイスラウンジに置かれたホロ装置から投影されている【ゲーム】に参加する時の戦闘服を着たミラージュの姿をしたデコイが、本人の肩に手を置いた。
 デコイを煩わしげに片手で振り払ってかき消すと、ミラージュは丁寧に整え伸ばされた顎ひげに手を当てる。
 今日は【ゲーム】の時とは違ってクリプトに余り皮肉を言われていないし、ミラージュもいつもの悪態の応酬をしていない。
 だからまだいつものノリが出ていないのだろう、そう結論付けたミラージュは極力気配を消して未だに談笑している二人の傍に忍び寄った。
 
 「わッ!!奴らが来たぞ!!ハハハ!……なんてな、驚いたか?」

 そうしてクリプトの背後からそう叫んで驚かすと、咄嗟に振り向いたクリプトの驚いた顔がすぐに呆れたような表情になり、その冷たい視線で見抜かれる。
 隣に座っているレイスもまた、会話の邪魔をされた事に呆れているのか冷たい視線でミラージュを見つめた。
 二人分の厳しい目と一気に醒めた空気に、流石にマズイと両手をバタつかせたミラージュは慌てて弁解をする。

 「いや、その……あー……ほら! 仕事も片付いたからちょっと参加しようかなと思ったんだよ」

 「背後からいきなり驚かせるのがお前流の話の始め方なのか?」

 「それはお前らが……」

 そこまで言ったミラージュは慌てて口を噤む。
 仲良さげにしている事に苛立ったからだ、という言葉が出そうになったのを寸での所で止めたので、レイスとクリプトはそのまま黙り込んだミラージュを不審げに見つめた。
 しかしすぐに興味無さそうにミラージュから目を逸らしたクリプトは、残り僅かとなっていたモヒートを飲み干してから座っていたカウンター席より立ち上がる。

 「おい、まさか帰るんじゃないよな?」

 「……用を足してくる。わざわざ聞くんじゃない」

 「……そうかよ」

 そう言ってミラージュの脇をすり抜け、トイレに向かったクリプトの後ろ姿を目で追っているミラージュの耳にレイスの低い声が聞こえてくる。

 「……ミラージュ。あなた前から思っていたけれど、クリプトに対してだけ可笑しいわよ」

 「おかしいってなんだよ。別に変なところなんて……ないだろ?……うん」

 「いくらあなたが口から生まれたような人間だとしても、むやみやたらに他人に突っかかるようなタイプじゃなかったでしょう」

 「口から生まれたって酷い言い草だな」

 そこまで言ってからカウンターテーブルの上に乗った食べかけのアンチョビパスタを口にしたレイスはそれを飲み込むと、ミラージュの目をその仄白く光る瞳で見つめた。
 彼女の前では何もかも見透かされてしまうような気がして、自然と目を逸らしたミラージュにさらに追い打ちをかけるようにレイスが語り掛ける。

 「今日の仕事で私もクリプトも半分見世物みたいな扱いだったのよ。でもそんな中で彼は私を出来る限り庇ってくれた。……だから感謝しているの」

 ミラージュの代わりにスタッフがチェイサーとして提供したらしい水の入ったグラスを手に取ったレイスは、空中を見てから一瞬だけ考え込むような表情をしたかと思うとさらに囁いた。

 「それに、仕事が終わった後にあなたの店に行こうと言ったのは彼なのよ?」

 「はぁ!?アイツが言ったのか、その、……俺の店に行こうって?」

 「そうよ。本人に言うと面倒くさい事になるから言うのは止めてくれって言われていたけれど、このままの方がもっと面倒な事になりそうだから」

 まさかのクリプトから自分の店に行こうと言ったという事実が上手く呑み込めず、ミラージュは目を白黒させる。
 そんな様子のミラージュを見ていたレイスは呆れたようにまたため息を吐いたかと思うと、手を伸ばしてミラージュの腰を叩いた。

 「分かったならさっさと謝ってきなさい。さっきのはあなたが悪いわ」

 「……ぐぅ……」

 うめき声のような吐息を洩らしたミラージュは渋々といった様子でクリプトが行ったであろうトイレの方向に移動する。
 クリプトが俺の店に行きたいとレイスに提案した、そんな事が本当にあるのだろうか?とグルグル回る思考のままミラージュは店の奥にあるトイレ脇の廊下にたどり着くとそこで腕を組み、壁に背をつけてクリプトが出てくるのを待つ。
 やがてトイレのドアが開き、そこから出てきたクリプトはドアの横に立っているミラージュを見て驚いたように眉を上げた。
 しかしそのまま無視して通り過ぎようとしたクリプトの腕をミラージュは咄嗟に掴むと、謝罪の言葉を口にしようとするが上手く言葉が出てこなかった。

 「……なんだよ」

 「ん、いや……その……」

 もごもごと歯切れの悪いミラージュにそう言ったクリプトは暫くミラージュを黙って見つめていたが、ついに深い溜息を吐いてから呟いた。

 「別に気にしていない。分かったらさっさと手を離せ、小僧」

 「…………悪かったよ。……さっきのは、俺が良くなかった」

 面倒くさそうにそう言うクリプトに、掴んだ手を離さないままいつもの威勢など殆ど失ったミラージュが囁く。
 廊下の天井に取り付けられた暖色系のライトがそんな二人の姿を輪郭のぼやけた一つの影として壁面に映して揺らめいた。

 ミラージュの初めて見る殊勝な態度に逆に黙りこくったクリプトは、握られていた腕がそっと離されるのを一瞥してからいつもの無表情を僅かに崩しミラージュを見つめる。
 しかし視線があったミラージュにはクリプトが何を考えているのか、まるで分からなかった。
 そんな中でクリプトは言いにくそうに一度軽い咳払いをしたかと思うと、ミラージュから視線を逸らす。

 「まぁ、お前の店に急に押しかけてしまったしな……その上で放って置かれて嫌な気分になるのも、分からなくは無い」

 「放って置かれて拗ねたわけじゃねぇよ。多分……よく分からんが……」

 「多分? お前自身の事なのに分からないというのが理解出来ないな」

 クリプトがそんな風にこちらを気遣うような素振りは初めてだ、とミラージュは視線を逸らしたクリプトの形の良い横顔を凝視する。
 そうしてずっと心の中にわだかまっている思いを言語化しようとするが、結局それは具体的な表現にならないまま生ぬるい空気の中に消えていった。 

 結局すぐに自分の返答がおかしい事に気が付き、セットされた頭を掻いたミラージュは凝視していた視線を動かすと、逆に顎に手を当てて首を傾げたクリプトが先ほどまでとは異なり興味深そうに目を細めてミラージュを見ながらそう言う。

 「お前だって自分の事が分からなくなる時だってあるだろうが。……そもそもお前がいつもと違うから俺も変なんだよ。あぁ、きっとそうだ。だからこんな風になったんだよ」

 「いつもと違う? 何も変わった事など無いだろう。一体何を言っているんだ」 

 忙しなく自分を納得させるかのようにブツブツと話すミラージュに、不可解なものを見るような視線を送ったクリプトは自分の姿を改めて確認するとミラージュが言っている事を何となく理解して着ているスーツのネクタイに触れる。
 いつもと違う、と言うミラージュは自分とレイスが店に現れた時からずっとこのスーツを気にしていた事をクリプトは思い出したからだった。

 俺のスーツ姿は随分とコイツにとって"違う"と感じる姿らしい、と察したクリプトは不意に壁際に居るミラージュの方に近づくと、胸元を開けているミラージュのシャツの襟を掴む。
 予想していなかったクリプトの行動に組んでいた腕を外して焦りを見せたミラージュだったが、襟元を掴まれている手を外す事は無かった。

 「えッ、おい、おい……!! なんだよ……なにやってんだ、クリプちゃん」

 「……うるさいぞ、ウィット」

 グ、と襟元を引かれる感覚といきなり名を呼ばれ、鼻先に微かなミントの匂いを感じたミラージュは思わず目を伏せる。
 だがすぐに手を離され、その反動で壁から僅かに離れていた背が再び壁についたタイミングで目を開けると、目の前には初めて見る楽しげな笑みを浮かべたクリプトが立っていた。

 「パボヤ」

 「ぱ…?……おい、お前今俺の事、バカにしただろ!」

 「さぁな。……それよりお前、いくら俺のスーツ姿が気になるからって、惚れるなよ?」

 そのまま肩を竦めて誰が見ても分かるくらいに上機嫌になったクリプトがクツクツと小さく笑いながら、今度こそミラージュの隣を抜けて席の方へと戻って行ってしまう。
 颯爽と歩んでいくクリプトの後ろ姿を見送ったミラージュは言われた言葉を理解するまでに10秒程度は停止したまま動けなかった。

 「…………はあぁ!!? バカ、そんなんじゃねぇよ!!俺にそんな趣味はねぇ!!」

 しかし動き出したのと同時に店中に響くような声をあげたミラージュの頬は赤く染まっており、離れた場所からでも聞こえるくらいのミラージュの喚き声を肴にカウンター席で一人座っていたレイスは苦笑しながら新しくオーダーしたばかりのモスコミュールに口をつけた。

-FIN-







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