――――ずっと、恋をしていた。
ある日突然、ミラージュと同じく【APEX】の【レジェンド】であったクリプトが失踪した。
気が付けば季節は巡り、もう1年ほど経っただろうか。
俺達がずっとクリプトと呼んでいた男は、本名はパク・テジュンと言う殺人の罪を犯した指名手配犯だったらしい。
【APEX】の運営に携わっているマーシナリーシンジケートにそう告げられた【レジェンド】一同は通達された内容が信じられず、それぞれにバラバラの反応ではあったが、恐らく一部の奴ら以外はほぼ全員が驚きの表情をしていた。
もちろん、俺だってあの無表情に見えて実は情に厚く、そうして皮肉げに笑っては俺と馬鹿みたいにキル数で騒いだりしていたあの男がそんな悪人なわけはないと思っていた。
仮に本当にアイツがパク・テジュンだったとしたなら、きっと何かの間違いや理由があった筈で、そもそも警察の捜査が間違っているのだろう。
だから皆で必死に奴の無実を証明する為に動こうとしたし、ワットソンやジブラルタルやライフライン、レイスだって運営にアイツを【レジェンド】の一員に戻すようにかけ合う為と何度も諦めず話をしてくれていた。
俺は俺でどこか虚しい思いを抱えながらも、彼女たちと同じように運営や警察に再捜査を要求し、いなくなったクリプトに向かって中継カメラ越しにどうか戻ってきてくれと毎回の如く呼びかけをしていた。
けれどそんな言葉にクリプトが反応する事は無く、結局は時間が流れるにつれて皆、クリプトの話をする事は少なくなっていった。
そうして【レジェンド】であるクリプトの今までの記録や情報は抹消され、次々に入って来る新しい【レジェンド】達が以前にクリプトが使っていたドロップシップ内の個室やロッカーを使うようになった。
まるで名前を出してはいけない人物のように、クリプトの名前を聞く事もまた、無くなっていった。
例えどれだけ仲が良い相手だったとしても、関係性が薄れてしまえば少しずつその記憶は失われて胸に僅かに残るしこり程度になっていくのだろう。
あまりにも辛すぎる記憶を忘却する、人間に備わっている防衛本能……だっただろうか。
人間は辛いと思う事をいつまでも鮮明に覚えているといつしか壊れてしまうから、と寂しそうに笑って言ったのは確かソマーズ博士だった。
1年という月日が経って、俺はそれでもクリプトの事を忘れる事など出来なかった。
けれど会わないでいる期間が長くなればなるほどに、アイツの顔や姿、低くも艶のある声の響きや癖のある発音の仕方などの記憶が少しずつ曖昧になっていく。
忘れたくないと思っているのに、まるで手の隙間から零れ落ちる砂のように段々と失われていくのが分かって怖くなった。
自分の記憶をいつまでも取っておけない事は、俺にしてみたら嫌という程に理解している事だったからだ。
居なくなった兄弟の記憶ももう今はおぼろげでしかない。
そうして唯一残っている俺の家族である母も、エリオット・ウィットという子供の記憶が保てていないのだから人間の記憶というものは本当に儚い。
だとしても、覚えている記憶の断片が俺を苦しめる。
物資も少なく、行く先々で敵に狙われてボロボロになって互いに罵倒しあいながらも、背中を守り合ってどうにか試合に勝った日。
パラダイスラウンジで二人酒を呑み交わしながら、くだらない話で盛り上がった日。
ドローンを操作している時の無防備な横顔に自然と目を奪われてしまった日。
それ以外だって忘れられない日はあって、どの記憶も忘れたくなかった。
普段の真剣な表情や、酒に酔っていつもはこちらの冗談になんてめったに笑わない男の思わず吹き出してしまったという笑顔。
皮肉気にしか笑わない男がその目を細めて、無邪気に笑う姿はこちらの胸を強く締め付けた。
友情というには余りにも重すぎるその感情の名前を俺は知っていた。
今まで女性にしか向けた事の無いその感情を、俺はクリプトという人間に対して抱いてしまっていたのだ。
それが一体いつからだったのかは分からない。
最初に現れた時の印象は正直最悪で、とんでもない新人が入ってきたものだと思ったものだ。
しかし、軽口の応酬のような会話をして、一緒に戦っていくうちにこの男の冷静さの中にある優しさ、そうして家族を大切に思う心を知った。
"奴ら"という何者かに追われているという話を完璧に信じていたわけでは無かったが、不意に見せる必要以上の警戒心と臆病な姿に今となってはそれは真実だったのだろうと思う。
だから運営がクリプトをパク・テジュンという犯罪者なのだと通達した時、何かの間違いだという気持ちと、どこか腑に落ちたような感覚があった。
その話を聞いた時に一番に思ったのは、どうして言ってくれなかったのだろうという寂しさだった。
仮に本当にクリプトが犯罪者だったのなら、レヴナントのスパイだと疑われた時にあんなに取り乱したりしなかっただろう。
自分は仮にも客商売をしている人間だから、人を見る目にはある程度の自信はある。
あの男はそんな事をするような奴じゃない。それは断言できる。
そうしてアイツにとって、俺はきっと一番の"親友"であったと思いたかった。
…………本当はずっとずっとずっと好きだと言いたくて仕方がなかった。
酔ったついでに冗談めかして言ってしまおうと何度思ったのか分からない。
けれど喉元まで出かかった言葉はいつものようにくだらない冗談と軽口に押し込められてはまた胸元へと戻って行った。
もしも、こんな悪友のような関係性が壊れてしまったら?
そんなつもりは無かったと、距離を置かれて友人でさえいられなくなったら?
俺はそんな恐ろしい想像が頭を過ぎって、結局クリプトにこの気持ちを伝える事無くアイツはいなくなってしまった。
こんな結末になるのなら、言ってしまえば良かったのだ。
例え気味悪がられても、嫌われてしまっても、自分の気持ちを言えないまま離れてしまうくらいなら、言ってしまった上で納得した方が良かった。
もう去年のように男の傍には戻れないのだろうかと何度も悩んでは痛む頭を抱える。
嫌になると思っても、この1年、俺は変わらずにこんな調子だった。
不意に自宅として借りているマンションのチャイムが鳴る。
今日は午後に【ゲーム】があって、帰ってきたのは夕方過ぎだった。そうして今はもう21時近い。
まさか、と俺は焦る体を抑えながら急いでマンションのドアを映すモニターを確認すると、なんて事はない宅配業者の配達員が立っていた。
そのモニター越しに持っている物はどうやら小さな箱らしく、いつまでも待たせるのも迷惑かと玄関ドアに向かう。
さっと手渡された荷物を受け取り、先ほどまで座っていたダイニングのソファーに戻るとそこに座り直した俺はその箱を観察する。
宛名は【ミラージュ様】と書かれたなんて事の無い箱ではあったが、差出人の名前や住所は書かれていない。
軽く振って確認するが、音は殆どせず、恐らく危険なものでは無いだろうとその急いで貼りつけられたような箱のガムテープを開く。
箱の中には花束と一通の手紙が入っており、それ以外には何も入っていなかった。
ときおり熱心なファンがどうやって調べたのか分からないが、直接この家にファンレターや贈り物を送ってきてくれる時があるのだ。
だが、ファンからの贈り物にしては随分と地味な白い小さな花が何本か透明なフィルムの中にまとめられ、緑のリボンをかけられた花束と、同じように地味な白い封筒の裏面には小さなネッシーのシールが封をするように貼られていた。
「……クリプト……?」
まさか、あの機械オタクがこんな古典的な手紙を寄越すなどあり得るだろうか。
逆に考えればそうしなければならない理由があるのかもしれない。
俺は震える手を押さえ付けながら、ソファーの前に置かれたローテーブルに花束を置くと、封筒から今では殆ど見かけない紙の便箋を取り出した。
大して枚数の多くない便箋に書かれた文面を俺は深呼吸をしながら一行ずつ目で追っていく。
『親愛なるジョーカー。 急にこんな物を送ったりしてすまない、お前にだけは最期に言っておきたかった事があった』
『この手紙がお前に届く頃、多分、俺は"奴ら"に殺されているだろう。もうすぐ傍まで"奴ら"の手は迫ってきている』
『何も言わずに皆の前から消えてしまった事を申し訳ないと思っている。特に、お前にはずっと言おうと思って言えなかったんだ、ミラージュ』
『お前にパク・テジュンだと知られたとしても、きっとお前は受け入れてくれると分かっていたのに、言えなかった』
『臆病な俺は、お前に知られる事でお前にまで"奴ら"の危害が加えられるのを恐れた。秘密を共有するにはお前の事を……お前を大切だと思い過ぎてしまった』
そこまで読んで、一度目を背ける。
クリプトが殺される? そんな事はあってはならないと思っても今どこで何をしているかも分からない。
全身が震えて冷や汗が出る。俺は助けにもいけず、アイツがどこで死んでいるのかも分からないままこの手紙を読んでいる。
『こんな手紙で伝える俺を許してくれ。俺の自惚れでなければ、きっとお前も俺と同じ気持ちなんじゃないかと感じていたから』
『お前の事をいつしか好きになっていた。友情なんてものじゃなくて、……愛を感じていた』
『だから最期にこの花を贈る。どうか朽ちてしまうまで、お前の傍に置いておいて欲しい』
『さようなら、ウィット。どうかお前だけは幸せになって欲しい。お前の事をずっと見守っているから、どうか、幸せになってくれ』
TJの署名で締められた文末まで読み終わると、俺は全身から力が抜けてソファーに凭れさせた重みがさらに増し、そのまま何もない部屋の天井を見上げるしか出来なかった。
きっと本当に極限状態で書かれたのであろうその文面は、書いた時の手の動きの所為か文字が震えていた。
ジワリと目に浮かぶ涙が頬を濡らし、そのままその涙は量を増す。
咆哮のような叫びを手紙を持った両手で抑えようとするが、こんなもの抑えられるわけが無かった。
俺がアイツを愛したように、アイツは俺を愛してくれていたのだ。
だったら、どうして俺に言ってくれなかったのだろう。
もしも俺がアイツの秘密を知っていて、そうして共に逃げ出す事を選べたのなら、迷わずその道を選んだ。
その道の先で"奴ら"がやってきたとしても、きっと二人なら生き延びる事が出来たかもしれない。
どんなに苦しい状況でも、俺達は互いの背中を守ってやってこれた。そうじゃないのか、クリプト。
もしも逃げ延びる事が出来なかったとしても、俺はお前となら一緒に死ぬのだって、構わなかったのに。
ドロドロにとけたような感情が目から溢れ、嗚咽が零れる。
お前が俺を守りたいと願うのと同じように俺はお前を守りたかった。
一人で自分を狙ってくる大勢を相手するのも、誰も頼れない空間でいつ殺されるかも分からない夜を過ごすのもいったいどれほどの恐怖なのだろう。
あの男は一体いつから一人で苦しんでいたのだろう。
どうして、どうして、俺を連れて行ってくれなかった。
お前の盾にだってなんだってなって、お前を絶対に死なせないように守ってやれたのに。
とめどなく落ちる涙の中で、ローテーブルに置かれた花を拾い上げそれを胸元に抱く。
名も分からないこの花は、アイツがくれた最期の贈り物だった。
純白のアイツの衣装によく似たこの姿は、その匂いもどこかあの男の気配を感じさせる。
「…………お前と一緒に幸せになれないなら、幸せになんかなれねぇよ。なんでそんな簡単な事がわからないんだ」
やっと絞り出したその言葉は自分の耳に届いてはさらに溢れる涙を増やす。
泣いても喚いてももう戻る事は出来ない。時は巻き戻らない。
あの男と馬鹿みたいな会話をして、笑っていた顔をまた思い出す。
そうしてその顔が血にまみれて苦しむ幻影を見た。
アイツに会う事はきっともう二度と出来ないのだろう。
自分の元から大切な人ばかり消えていってしまう。兄弟も、母も、そうして自分が愛した人も。
こんな事ならアイツを抱きしめてやれば良かった。その手を握って、真剣な目で好きだと言えば良かった。
溢れそうな想いを無理矢理押し込めたりしないで、あの男の全てを愛していると叫べば良かった。
戦場の中でもキラキラと輝く黒い髪も、常に周囲を冷静な視線で見ていた切れ長の目も、俺を小僧と呼ぶ生意気な唇も、もうどこにもない。
愛していると伝えたい相手は、この世界のどこにも居ない。居なくなってしまったのだ。
クリプトと最後に会った日の夜にアイツは何かを言いかけていた。
けれど俺はそれに気が付きながらも、また明日も会えるからと深く聞かなかった。
―――― 一生、それを背負って生きていく。
腕の中にある花束と手紙を見ながら、体中の水分が出ているのかと思うくらいに止まらない涙を拭う事なく俺はただただそう思った。
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