ラスティネイル


※クロニクルモードネタバレあり・死体描写あり・一代目←ゴルド―からのゴルケイ(一代目のキャラクターをねつ造しています)


 わざわざ自分でいう事も無いが、昔から俺は真面目な人間ではなかった。その割に地頭が悪いわけでもなく、体格や運動神経も幸運な事に恵まれ、若い頃になにかで苦労したという記憶が殆ど無い。
 だからだろう、齧った程度ですぐ物事に飽きてしまい、己の人生自体に退屈さを感じてしまっていた。今ならたかだか生まれて十数年のケツの青いガキに良くあるモラトリアム期間特有の症状だったとハッキリ理解できる。
 しかし、当時の俺にとっては本気で世界は退屈で色褪せて見えていた。何かに真剣になった事さえも無いくせに、目的を持って努力している他人を心の何処かで見下してさえいた。
 もしも周りに熱心でしっかりとした大人が居れば、俺が心から本気になれるような物を見つけるまで付き合ってくれたかもしれない。
 だが生憎と自分の周りの大人も、同じようにつるんでいた友人達もお世辞にもガラが良いとは言えず、俺は次第に退屈さを紛らわせる為に誰も得しないような喧嘩に日々明け暮れるようになっていた。
 他人を殴れば殴るだけ自分の中に溜まった澱が流れ消えるようで、殴られれば殴られる程に色のない不愉快な世界に『赤』という色がついた。


(……今考えてもあの時の俺は相当いかれちまってたなぁ)


 しみじみとそんな事を思いながら、自らが立っているバーカウンターの中から周囲に視線を巡らす。
 明るさを落とした間接照明を設置している為に薄暗く、そこまで広いとは言えない店内には同じテイストで統一されたシンプルな造りのカウンター席や大きなソファーを設置したテーブル席が何席か用意してあるが、俺以外には誰も居ない。
 シックな色合いのウッドパネルが貼りつけられた壁には、モノクロの風景やヴィンテージカーの写真がところ狭しと並べられ、一層渋い雰囲気を醸し出している。
 店を始めた人間の趣味が存分に反映された店内は完璧な静寂という訳では無く、天井に備え付けられた音響設備からは会話の邪魔にならない程度の音量で軽快なジャズが流れていた。
 落ち着いた大人が日々の喧騒を忘れ、静かに美味い酒を飲む。

 そんな空間に何故あの時の俺がふらっと立ち寄ったのか、これはまさに気まぐれとしか言えない。もしかしたらどんどんと仄暗い世界に足を踏み入れ始めている俺を止める為に、運命の女神様がこの場所に来させたのかもしれなかった。
 ともかく、あの日も俺は無意味な喧嘩をして相手から巻き上げた金を持って夜の街をウロウロとしていた。そうして店の外に出ている看板に目を留め、若干の緊張もありながらこの店に入ったのだ。
 その時は俺以外にも何人か客が居たが、そこまでの騒々しさは無かったように思う。


『なんか適当に』


 丁度、現在俺が立っている位置にあの人がグラスを磨きながら立っていて、俺はまるで挑戦でもするように正面のカウンターに座って、半ば睨みつけるような視線を送りつつ不躾なセリフを吐いた筈だった。
 喧嘩をした直後だったのもあって興奮気味だったのはそうだが、あの頃の俺は周りの人間すべてが敵に見えていた。ほんの僅かでも気を抜けば、騙され足元を掬われる。第一印象から負ける訳にはいかない。
 そんなガキの見栄っ張りで無様な矜持。
 しかし俺の睨みなど欠片も気にしていないようにゆっくりとグラスを磨いていたあの人……この店の一代目マスターは俺が見ている前で悠々とカウンターの下に設置された冷蔵庫を開けると、当たり前のように磨き上げたばかりのグラスに牛乳を注いで俺の前に置いた。


『お子ちゃまにはミルクで十分だろ?』


 そんな煽るようなセリフとは正反対に黙っていれば強面の顔に浮かんだ人懐っこく柔らかな笑みに毒気を抜かれ、湧き上がった苛立ちも吹き飛び、気がつけば周りに客が居るにも関わらず時間も忘れてマスターと話をしていた。

 全てが退屈で何もかもが嫌で、自分でも虚しいと理解しながらも喧嘩ばかりしている事。 どうにか抜け出したいと思いながらも、その手段も無く、そのままもっと深みに落ちてしまいそうな事。

 ただの愚痴にも近く、要領さえ得ない話をマスターは茶化さずにひたすら辛抱強く聞いてくれた。
 もしかしたら過去の自分と俺を重ね合わせていたのかもしれないと、マスターのろくでなしさを知ってからは思ったが、それでもその時は単純に俺の奥深くに押し込めた気持ちを黙って聞いてくれただけでも随分な忍耐強さだったと思う。
 こうして考えてみると当時の俺は、俺を否定せずにしっかりと見てくれる人を探していたのかもしれなかった。


『お前さん、明日からここで働けよ。ちょうど人手が足りなくて困ってたんだ』


 そうして閉店時間になって、初めに見せたのと同じ笑みを見せたマスターは当然のようにこう言ってのけた。この規模の店だ、いくら店の経営の事などよく知らないガキでも人手が足りない訳が無いのは分かっていた。
 しかし、まるで頭上に垂らされた蜘蛛の糸を辿るように俺は頷きながらマスターの差し出してくれた手をカウンター越しに掴んでいた。
 ここでこの手を掴まなければ、もう二度と自分は這い上がれないように思えたから。

 それからはほぼ毎日ここに通っては、無数とも思える程の酒の種類やレシピ、この店に相応しいしっかりとした接客技術やウィットに富んだ上品な会話のこなし方、会計の仕方などを押し付けられる訳ではなく自然と覚えていった。向こうも物覚えの良い俺に教えるのは楽しかったらしく、俺は俺で今までの退屈さが嘘のように毎日が楽しかった。
 特に、閉店時間が過ぎてマスターと二人きりで賄いを食べながら他愛もない話をする時や、仕事中のふとした時に互いにしか分からないように絡む視線。
 初めて教わった料理やカクテルをキチンと美味く作れた時の褒めてくれる言葉。
 次第とそんな事にも意識が向いて、くすぐったくも、もどかしい、秘かな想いが日毎に増していく。
 必死に気が付かれないようにしながらも、どんどんと大きくなっていくその想いは俺を毎日店に向かわせる大きな要因の一つになった。
 薄暗い世界から救い出してくれたマスターへの尊敬と満足に受けられなかった父性への羨望なのか、それともそれ以上の恋慕だったのか、それは今でも分からない。

   俺なりに巧く隠していたつもりだったが、出会った時から俺の中に巣食う闇を一目で見抜いていたあの人に気が付かれるのは時間の問題だった。
 だからだろう、もう俺がこの店に慣れて別にマスターが居なくても十分に回せるようになった頃、いつものように閉店後の居心地良い店内で俺の作った賄いを食べている時に、不意に向かい側に座って同じく賄いを食べていたマスターはあの懐っこい笑みを浮かべながら囁いた。


『お前にこの店を任せる。俺が戻るまで潰すんじゃねーぞ』


 まるで頭を鈍器でぶん殴られたかのような衝撃。
 俺の中ではこのままずっとこの店で俺とマスターの二人でやっていく、そんな未来ばかりが見えていたものだから裏切られたような思いさえ感じた。アンタまで俺を置いていくのかと、声を上げそうになったがマスターの俺を見る瞳を見て何も言えなくなってしまう。
 優しいが何処か寂しげで、まるで子供の自立を願う親のような瞳。俺の感情などお見通しなのだろう、その上でマスターは俺から離れようとしている。
 ――――だったら俺に出来る事なんて、笑って送り出す事しかないじゃないか。
 賄いの生ハムとアボカドのパスタを食べていた手を止め、グラスに入った水に手を伸ばし喉の渇きを潤す。


『なんだよ、急に。旅にでも出るってのか?』

『おう。この店もお前だけで切り盛り出来るようになってきたしな、ちょっくら世界を見てくるわ』

『世界、ねぇ……変な国で野垂れ死んだりすんなよ? 迎えに来いって言われて行ってみたらアンタは死体になってた、なんてのは目覚め悪すぎるからなぁ』

『馬鹿言え、俺を誰だと思ってんだ。それよりもお前はこの店、潰すなよ? 帰ってきて跡形も無くなってましたーの方が悪夢だ』

『それは善処します、としか言えねぇな』


 自分でも少し掠れていると分かるような声ながらもどうにか作る事に慣れた笑みを浮かべ、上手く受け答えできた筈だ。
 そうしてその後はいつもと変わらずに他愛もない話をして、片付けも終わり最後に全ての扉を施錠したマスターは俺に店の鍵を渡してきた。
 別れ際に初めて出会った時と同じように握手をしたが、元々デカかった俺がドンドンとデカくなるものだからいつしか俺の手はマスターの手よりも大きくなっていた。
 けれどマスターの手は初めて触れた時と同じように節くれ立ち、温かく乾いていた。
 その感触にこみ上げそうになった涙を堪えるように息を呑むと俺は離れ難いその手を開放する。


『じゃあな。仕事にかこつけて飲み過ぎないように気をつけろよ、ゴルドー』

『わかってるよ。アンタも、達者でな』


 そのまま互いに店の前で背を向け、もう明け方近い街の中に俺もマスターも溶け込んでいく。元々俺とマスターの帰り道は反対方向で、背を向けるのは当たり前なのだがその日は酷く後ろ髪を引かれた。
 しかし、結局一度も振り返る事なく自宅まで戻り、その日は何も考えられずにシャワーさえも浴びる事なくただひたすらに眠った。
 次の夜、がらんとした店の中で一人開店準備をしていると何故か視界が滲み出し、俺はカウンターの中で蹲るしか出来なかった。

 あの人はもう戻ってこないだろう。

 そんな確信めいた想いが脳内に湧き上がり、嗚咽を洩らす唇を掌で覆った。そうでもしなければ、誰も居ないとはいえ叫びだしてしまいそうだったからだ。
 俺がもっと上手くこの想いを隠し通していたならば、こうはならなかったかもしれない。
 だが、いったいどうすれば良かったというのか。自分の想いの名さえ分からないというのに。
 責めるにも誰を責めればいいのかも分からないが、そもそも何に対して責めるというのか。
 俺は喉から溢れそうになる声を胸の奥へと必死にしまい込んでからトイレで顔を洗い、その後は何事も無かったように開店準備を始めた。今の俺に出来るのは『店を潰さない』事だけだ。
 だからいつまでもガキみたいにメソメソとしているわけにもいかなかった。
 俺は俺でこの数年の間に随分と図太くなっていた。

 それからは経営というモノの大変さを身に染みて理解させられながらも、前のマスターの時から店に来てくれていたロジャーやヒルダ、それにケイアスと出会いそこそこ楽しくやっていた。きっとマスターはこうして俺に自分以外の人間とも交流出来るようになってほしかったのだろうと今ならわかる。
 本当に親のようだ、と時折マスターを思い出して苦笑さえ浮かぶが、そうだとしたら俺は随分と手がかかる子供だろう。

 その証拠に、出会った三人とは、けして酒を呑むだけの清らかで常識的な友人関係とは言い難かった。
 今までの不真面目さの罰なのか『虚無』に噛まれて『偽誕者』になり、『忘却の螺旋』なんていう組織を作って『虚ろの夜』で力比べの為に『顕現』を振るうのはマトモではないだろう。
 けれど、何もかもが物騒で、それでいて自分の『顕現』や精神力に自信があったからこそ、面白がっていた。ギリギリの狭間に佇み、周りの人間とは違った能力に浮かれてもいた。
 危険だと分かってはいても、本当に死にはしないだろう、なんて楽観的に構えてもいた。
 ロジャーが俺の目の前で化物に成り果て、あの女に首を落とされるまでは。


「……っ……!」


 俺はカウンターの中に設えられたシンクの縁を掴み、何度思い出しても身震いするあの光景に堪える。目から迸るほどの血を流し、人とは思えないような力をみなぎらせ、獣のような叫びを唇から溢れさせていたロジャーだったモノ。
 ケイアスは俺に気を遣ってロジャーを取り戻す道を探そうと言ってくれていたが、それが詭弁だという事はあの場にいた誰もが分かっていた事だろう。無論、俺も分かってはいたが少しでも希望が無ければあの時は罪悪感からか立ってさえいられなかった筈だ。
 親友が化け物に成り果て、自分の手で殺してやる事も出来ずに目の前で殺されるのを見てしまったのだから、まともで居るというのも無理な話だが。

 しかし不思議とあの日から涙は出なかった。まるで全てが夢の中の出来事のように曖昧で、本当にあんな事があったように思えない。
 こうして店を開けていればひょっこりとロジャーが扉を開けて店に入ってくるような、そんな気さえする。だからケイアスに心配されながらも店を開ける事にしたのだが、やはり少し早すぎたようだ。

 ふらつく頭をどうにかしようと、カウンター下のグラス置き場からロックグラスを取り出すと、その中に足元にある冷凍庫から取り出した氷を放り込む。
 そのまま背後にある色とりどり大小バラバラの酒瓶の中からそこそこ上等なスコッチウイスキーの瓶とドランブイの瓶を掴んで、そのグラスの中に目測で半分ずつ入れるとバー・スプーンで軽く二回程ステアする。
 客に提供する際は計量まできっちりとするが、自分で呑む分には目分量で構わないだろう。カラカラという氷の涼やかな音と琥珀色の液体が混ざっていく様子に心のざわつきが僅かに収まった気がした。


(今日はもう、ダメだな)


 そう言い訳をして作ったばかりのその酒を掴むと、カウンターから出て前掛けを外し誰も居ない店内のカウンター席に力なく座り込む。この席は俺が客としていつも座っていた特等席だ。
 そうしてたまに現れては店の雰囲気を崩していくロジャーは大体俺の隣に座っていた。大概はすぐに別のお客の所に行っては話しかけていた奴だから、定位置というのもあまり作ってはいなかったのだが、話し疲れて戻ってくる時は当然のように隣に座ってくるのがお決まりだった。

 思い返して、またぐらりと頭が揺れる感覚が起き、瞼を伏せる。
 目を閉じても未だに鮮明に思い出せる、マスターとロジャーがいた頃の店の雰囲気。普段は大人の隠れ家的な店だったが、アイツが来ると途端に空気が和らぎ皆が笑っていた。
 それを『店の雰囲気が安っぽくなる』と叱っていたマスターも気がつけばアイツのペースに巻き込まれ、笑っていたのは可笑しかった。

 俺は閉じていた瞼を開き、手元に持っていたカクテルを口元に運ぶと静かにそれを呑む。口当たりは優しく、甘さを強く感じるが度数はそこそこ。
 そこまで甘い酒が好きだったわけでは無いが、マスターが俺が来始めた頃に良く出してくれたお陰でいつしか最初の一杯はこれになる事が多かった。


『……まーたラスティネイルかよ』

『甘いから呑みやすいだろ。作るのも簡単だしなぁ』

『おいおい、一応今日はオフで来てるんだから客扱いしろよ』

『客っていうならキチンと正規料金払って呑むんだな』

『……何も言えねぇ』

『だろ?優しいマスターに感謝しとけ。……それにお前にはそれが似合ってるよ』

『似合ってる? ……どういう事だ?』

『なんでもねぇよ』


 ハハ、と笑ったマスターはそれ以上何も言おうとはしなかった。それに疑問を感じてその日の帰り道にスマホで調べた俺は、随分と勝手なことを言ってくれる、と一人苦笑したものだ。
 しかしあながち間違いでも無かったかもしれない、とも思う。俺がこの店に来たのも結局は心の中に空いた穴を埋めてほしかったからだ。
 原因があって結果がある。過去があっての現在だ。だから全ては繋がっていて、現在の俺が構成されている。
 こうやって本来の店主も客も存在しない店で一人飲んでいるのだってその結果だ。


「…………こんな時、アンタがいてくれたらな」


 ぽつりと呟いた言葉は周囲の音楽と共にふわりと空中に舞い上がり、狭い店に満ちて沈む。
 俺は屑でダメな人間だから、こんな時、どうしても誰かに甘えたくなる。
 そうでもしないとまるで真っ暗で底の見えない闇に足元からのみ込まれてしまいそうだからだ。
 だが、それを求める相手が今はいなかった。
 馬鹿みたいな話をして、年甲斐も無く笑い合ってはマスターに二人いっぺんに叱られていたロジャーも、客に酒を勧められ、断り切れずに呑み過ぎて裏でぐったりとしている俺に水を与え、毛布を掛けて頭を撫でてくれたマスターも。
 一人はもうこの世から居なくなってしまっただろうし、もう一人はだだっ広い世界のどこかへと消えてしまった。
 それらの事実は酷く俺を嬲り、思考を鈍らせた。

 ため息を吐き出しながら、どうやっても暗くなりそうな思考を元に戻そうと試みる。今日は久々に酒を呑んだ為かかなり回りが早かった。いつもならこの程度の酒量でここまで酔ったりしない。
 それを自覚しながらも、またグラスを唇に当て口の中に酒を含む。そしてグラスを置いてからカウンターにだらしなく両手を置き、手の甲に頭を横たえた。

 このまま深く深く眠ってしまいたい。もう何も考えたくない。
 まるで世界に独りきりのような、身を裂かれそうな程の孤独感と自分の不甲斐なさに歯噛みする。もしも俺がここで死んでいてもきっと暫くは誰も気が付かないかもしれない、なんてそんな事まで思った。

 しかし、ロジャーが俺の目の前で消えてからその後の数日間ずっと呆然としていた俺の世話をかいがいしくしてくれていたケイアスの姿が不意に脳内に浮かんだ。
 あの日から数日はストレスで体調を崩し、自分でもあまり覚えていないが、半ば詰め込まれるように与えられた食事や、時折確認するかのように額に乗せられた冷たい掌の感覚は忘れずに残っていた。
 無性にあの冷たくも細い指先と赤い眼鏡の向こう側から俺を優しく見つめる瞳の持ち主にいますぐにでも会いたかった。

「本当にダメだな……俺って奴は……甘え癖が抜けてねぇ……」

 自分の甘さに笑うしか出来ず、そう囁く。マスターが居なくなって、甘える相手が居ないからといってケイアスに甘えていては何の意味もないというのに。
 ロジャーの事だって俺がキチンとあの場で覚悟を決めていれば、せめてこの手で楽にさせてやれた筈だ。
 しかし、会いたいという気持ちは寧ろ大きくなっていく。ここでケイアスに来てくれと電話する事は簡単だろう。アイツは今の俺が電話すれば何かあったかと心配して直ぐに飛んできてくれると自惚れじみた想いを持っている。
 だがそれでは意味が無いのだと、自然と下がっていく瞼に逆らう事なく、眠りの谷へと誘われていった。



□ □ □



 廃墟と化したビルに溜まっている濁った空気の中、赤い光とモヤが周囲を覆い隠し、全てが血色に染まっていた。 
 このおぞましい気配を宿した『赤』は奥にある『深淵』から洩れ出た膨大な量の『顕現』であり、それらは俺達『偽誕者』の身体にまとわりつき蝕んでいく。全身の力を奪い取られていく感覚は『虚無』に襲われ、『偽誕者』になった時のそれとよく似ていた。
 俺はそんな異質な空間の中で、自分の親友であるロジャーがその両眼から血を垂れ流し獣の如き声を上げて俺を襲ってくるのを認識し、さらには俺を助ける為に敵であった万鬼会の『鬼哭王』が最後の力を振り絞ってこちらの腹を蹴り、壁に吹き飛ばした隙にその腹を『虚無』の延ばした『手』によって無残に貫かれたのも見てしまった。
 呆気なく死体となった『鬼哭王』の体を『虚無』の黒い腕が捕らえ、先も見えないような深い『闇』に落とされ後には何の姿も残らない。本当にただその一瞬の出来事を見ているだけしか出来なかった。
 この後の展開を俺は嫌という程に知っている。
 まるで己を断罪するかのようにあの時の光景を見させられるのは例え夢だと理解していても苦痛以外の何物でもないが、だからといって目を背けるわけにもいかずにあの夜を一人繰り返していた。
 しかし、もしもあの時こうしていたら、という思いがこの夢を見させるのだとしたらそれは俺にとってはふさわしい罰なのだろうとも思う。

 周囲に響く轟音と、身体を伏せているほこりっぽい床が揺れ動いた。見たくないと思いながらも閉じていた瞼を開くと、親友だった筈の『虚無』の背後にメラメラと激しく燃え盛る炎を見る。
 全てを焼き尽くすような『炎』は『虚無』の体を覆い尽くし、『虚無』の膝をつかせたかと思うと躊躇いのカケラも無く鋭い剣先が弧を描いて、『虚無』の首を落とした。
 さらに切り離された肉体は業火のような炎の力に因って黒く炭化し、空中へと霧散していく。


『ロジャー……!』


 そう声をあげ、汚す事を恐れてしまった両手を強く握りこむ。これは本来ならば俺がやらねばならなかった仕事だった。
 しかし夢の中でさえも俺は未だに覚悟が決まらずに、いつもいつもあの赤い装束を纏った女の振るった素早い剣と炎によってロジャーが終わらせられるのを見ているしか出来ない。そうして赤い装束をたなびかせ顔の分からないあの女の影が消えていく後ろ姿を見送る場面で意識がブラックアウトしてしまう。


『は……?』


 だが今日の夢は異なっていた。あの女の影が消えてロジャーだった筈の肉体が消滅してもなお、切り落とされた頭部だけは地面に転がったままだ。
 普段通りならば現実で起きたのと同じようにロジャーの肉体は灰の山になってしまう。そうして俺はその事実に絶望し、意識を失うように夢から目覚めるのが常だった。
 何故今日は頭だけが残っているのだろう? 疑問を覚え、煙で霞んだ視界を凝らすように目を細めると、全身から一気に冷や汗が噴き出し、身体が小刻みに震える。
 僅か数メートル先に転がっているその首が酷く恐ろしい物に思えた。何故なら転がり落ちている頭部は顔の部分が下になり表情が分からないが、血に濡れた髪の毛は確かに青みがかった銀髪をしていたからだ。
 ロジャーの髪の色はもう少しくすんでいて、髪型もアイツのトレードマークであった灰色のバンダナを巻いていない。


(ふざけるなよ、こんな、……こんな夢……)


 脳内でそう悪態をつきながらも力の入らない体で地面を這いつくばり、転がっている頭部へと近づく。
 これは夢だ。ただの夢なのだと自分に言い聞かせながら触れられる距離にまで近寄り、身体をどうにか起こすと恐る恐る両手で地面に落ちている頭部を拾い上げた。人の頭を実際に持った事は当然無いが、おおよそ5キロ程度の重量があるらしい。
 なまじそんな知識がある所為か夢の中だというのに持ち上げた頭は重く、両腕に圧し掛かってくる。
 もう止めておけ、と心の中で叫ぶ自分と見なければと思う己が相反し、恐る恐る抱えていた腕を動かして血にまみれた首を持ち上げ顔を確認した。


『……嘘、だろ……』


 恐れていた通り、それはロジャーでは無くケイアスの顔をしていた。しかし、トレードマークである赤い眼鏡は衝撃の所為かレンズにヒビが入り、何よりも表情が普段とはまるで違っていて別人のようだ。
 眼鏡の下にある閉じた瞼からは涙のように血を流し、真っ青な肌と乾いてひび割れた唇は生きた人間ではないのを明確に示していた。何よりも切り裂かれた首から滴る粘性のある血液が俺の腹を汚し、美しい色をしている髪はその血液で所々固まっている。
 完全に首だけの死体と化したケイアスはその目を開ける事なく、俺の腕の中に収まっていた。


『……ケイアス……ケイアス!』


 目の前の光景が信じられず、何度もケイアスの名を呼びながら両腕に抱えた頭部を軽く揺り動かしてみる。あの日、俺の前で消えたのは『虚無』と化したロジャーだった筈だ。
 だからこんな事など在り得ないと分かっていても、物言わぬケイアスの生首は息が止まりそうな程にリアルで、恐ろしいはずなのに目が離せなかった。それはもしかしたら近い将来に本当に起こりうるかもしれない事象を再現されているような不快感があるからだろう。
 俺もヒルダもケイアスも、『虚無』と化してしまった『偽誕者』の話や、『偽誕者』同士の戦いで死人が出たなんて話を噂で聞くたびに自己責任だと言って笑っていた。それは自分たちがそのへんに居る『偽誕者』とは異なり『札付き』にまでのぼりつめた自信の現れでもあった。
 しかし、ロジャーの姿を見て、腹をくくっていたつもりに過ぎない事を嫌という程に実感させられ、そうして人は本当に簡単に死ぬのだとも思った。
 自分が己の能力不足で死んでしまうのならば、仕方がないと諦めもつくかもしれない。けれど、この状況に陥ったなら、俺は今度こそ正気を保つ自信が無かった。


(はやく、……夢ならさっさと覚めてくれ……頼むから……)


 地獄のような悪夢を見ている自分自身を責めるように脳内でそう囁きながら、ケイアスの首をしっかりと胸元に抱きかかえなおし、きつく目を瞑った。
 これはただの夢だ。だから、息を潜めて時間が経てば終わる。
 俺の願いが通じたのか、次第に自分の意識が目覚める時に始まる不思議な浮遊感を感じ始める。この感覚が始まれば目が覚めるのはすぐだ。


(……早くしてくれ……!)


 苦行に堪えるようにそう願いながら目を閉じ、現実へと戻るまでの僅かながらも長く感じられる時間をただただ強く胸元にある首を抱えながら待った。



□ □ □



「……ん……」


 何かが俺の肩を優しく揺り動かしている。その微かな感覚が俺をあの悪夢の世界から現実へと呼び戻してくれたようだった。
 カウンターに突っ伏して眠っていた所為か、体が痛い。小さく声を上げ、目を開けると、起き抜けでよく見えない視界の中心で誰かが隣に座って俺の肩に触れているのが見えた。
 次第に見えるようになった視界には、持ち込んだ携帯ライトで手元を照らし出しながら読んでいたのであろう何やら小難しそうな本を片手に、ケイアスが心配そうにもう片方の手でこちらの肩に触れていた。
 まさかあの夢の続きなのか? と疑うがこちらを見ているケイアスの頬には血の気があり、着ている白いタートルネックも血に汚れてなどいない。良かった、ちゃんと生きている、と一先ず安心する。
 するとこちらの動揺に気が付いたのか、ケイアスが何やら複雑そうな顔を一瞬だけしたかと思うと、持っていた本を閉じてカウンターに置いてから囁く。


「おはよう、ゴルドー。って言ってもまだ夜だけど」


 そのままそう言って俺の頬に手を当て、親指でそこを拭ってくる。俺自身も気が付いていなかったが、どうやら眠っている間に泣いていたらしい。
 眠りながら泣く姿をもう何度かケイアスには見られているので、気恥ずかしさもあるにはあったが、今は目の前に居るケイアスが本当に居るのかどうかの方が気になった。まさかこんなタイミング良く現れる事があるのだろうか。


「大丈夫かい?……やっぱり仕事に復帰するのはまだ早かったんじゃないかな」

「……」

「来たのが僕だったから良かったけど、『開店中』の札のまま眠るのはダメだよ。どうするのが正解か分からなかったから『本日貸し切り』の札に変えておいたけど」

「……ああ、……すまないな、ケイアス」


 俺の反応が鈍いのを泣いていたのを見られた恥ずかしさからきているとでも思っているのか、普段以上に良く喋るケイアスに対して漸くこちらが答えを返すと安心したように口を噤んだケイアスが頬に触れていた手を動かし髪を撫でてくる。
 セットした髪を崩さないようになのか、まるで幼子をあやすような緩慢な手付きで撫でられる感覚は遠慮のカケラも無く撫でてきたマスターとは異なっていたが、酷く心を満たしてくれた。
 空っぽでヒビさえ入っていそうな器に生温くも甘い液体が余すことなく注がれているような、そんな感覚。コイツまで俺の傍から離れてしまったら、今度こそ俺は戻ってこられないかもしれない。
 もう誰かを失いたくない、と初めて心の底から願った。安堵と恐怖とその他の言葉にしがたい様々な感情が渦を巻き、喉と目元に熱い何かがこみ上げてきそうになる。
 そんな俺の異変に気が付いたのか、髪を撫でていた手を離したケイアスが一度咳払いをしたかと思うと座っていた椅子から素早く立ち上がった。


「とりあえず僕は外の札を『閉店』に掛け替えてくるから。……君は……」


 しかしケイアスが俺の背後にある扉に向き直り、言葉の続きを言う前にケイアスの顔を見ないままその手を掴んでいた。
 本人が言うように戦闘には向かなそうな白く細い指、女と同じくらいにキメ細かくなめらかな肌。掴んだそこに問答無用で指を絡ませると、心なしか絡んでいるケイアスの手の温度が上がった気がした。
 こんな行為は当然ながら男の友人同士でする事ではない。それでも俺はどうしても、こうやってこの手を掴みたかった。


「……行くなよ、ケイアス」


 自分でもズルいと分かっているような声音で甘くケイアスの名を呼ぶ。この年まで無駄に生きている分、どのようにすれば好いた相手の気を惹く事が出来るかというのは知識だけでは無く充分身につけていた。
 それを同性相手に披露するなど初めての事ではあったが、己が持っている手管全てを使ってもケイアスという男を攻略したかった。
 流石に動揺したのか繋いだ手が一瞬、微かに震えたもののケイアスは黙ったままだ。互いに顔は別の向きを向いているから相手の表情までは見えない。
 だから、俺にとっては手から伝わる温度だけがこの後どうするかの指針になる。体温の僅かな変化さえも感じ損ねないように汗ばむ掌も気にせず、より強く絡ませた。


「……ケイアス……」

「ゴルドー……一度、離してくれないか」


 そのまま縋るようにもう一度名を呼ぶと、黙っていたケイアスが不意に言葉を発した。その声に含まれている感情は幾ら俺でも聞くだけでは分かりかねる。
 一番初めに出会った時から俺はコイツの事を人として気に入っていた。それはケイアスも同じであろうと思ってはいたのだが、こういう意味で触れられるのはやはり嫌だったかもしれない。
 俺もこんな思慕を男に対して覚えるのはそれこそマスター以来で、世間的に見れば異常だというのも分かっていた。
 女が無理だという訳では無く、純粋にケイアスだからこそ触れたいと願っていても、恐らくヘテロセクシャルであろう向こう側にしてみれば、友人だと思っていた男に手を握られるのは不愉快だろう。

 頭の中が急速に冴えていくのを感じながら、一体どのように誤魔化そうかと考える。
 冗談?酔っていた?それとも単純に寂しさの余り可笑しくなっていたか、どれを言い繕っても上手く言葉が紡げる自信は無いが、とにかく手を離すのが先だろうと名残惜しさを覚えながらも絡ませていた手を離した。
 するとゆっくりとこちらに向き直ったケイアスの手がこちらの肩に触れたかと思うと、カウンター側に身体を向けていた俺を回転するカウンター椅子ごと動かして自分の方へと向けさせてくる。
 まだ顔を真っすぐに見られるような状態では無い為、俯きがちにケイアスの方へと顔を向け、伏目がちに相手を確認した。怒っているか呆れているかだろうという予想に反し、ケイアスの頬は微かに紅潮しており、艶のある薄い唇が苦笑したかと思うと座ったままの俺の頭を胸元へと包むように抱きしめてきた。


「……ッ……!?」

「全く、『収穫者』とも言われる君がなんていう顔をしているんだよ」

「ケイ、アス……」

「……僕がこんな風に縋られて、今更振り払うなんて出来るわけないのは分かってるだろうに」


 クスクスと笑いながらそう言ったケイアスの胸元からは絶えず生命の脈動が聞こえてくる。トクントクン、という切れ間の無いその音は俺の耳に心地よく響き、脳内を埋めていた不安をかき消していった。
 これでは本当に母親の胸に凭れかかる幼子のようだ。
 俺も大概甘えたがりだが、コイツはコイツで甘やかしたがりなのは問題だろうとも思う。そんな事を考え、何も言えないままの俺の頭を先ほどと同じように緩やかに撫でながら、からかうような声でケイアスが囁くのが聞こえた。


「そもそも君もズルいよね。……最初に出会った時は隙の無い完璧な男だと思っていたのに」


 黙りこんだままの俺を覗き込むようにしながらさらにケイアスが言う。


「こうやって弱みを見せたと思いきや甘えてくるし、……さり気無くスクリュードライバーやらカシスソーダやらを奢ってくるしさ」

「!……気が付いてたのか」


 まさかの言葉に思わず顔をあげると、こちらを見返していたケイアスと視線が絡んだ。澄んだ湖面のような水色の瞳は悪戯っぽい光を宿し、俺を真っすぐに見つめている。
 いくらケイアスと言えどもそういう分野に関しては興味が無いだろうと高を括っていたのだが、間違いだったようだ。俺の困惑を理解したのか相変わらず楽しそうに口元に笑みを乗せながらケイアスが言葉を紡ぐ。


「僕もそういう事には疎かったから最初は全然気が付かなかったけどね。いつだったか……君が一代目マスターに酒を奢られた話をしていた時にふと思って調べたんだ」

「……そんな話、したっけか」

「君もかなり酔っぱらってたから忘れていても仕方がないよ」

「……不覚だ……」

「ふふ、……ともかく君の話を聞いて、二人きりで呑んでる時だけは最後に君は僕に一杯だけ奢ってくれていただろう?」

「……ああ」

「日頃の感謝っていう話だったけれど、それにしても振舞われる酒が君のチョイスにしては可愛らしいものが多かったからね」


 大きくて良く動く瞳を縁どる長い睫が天井から降り注ぐ光に照らし出され、煌めく。
 ケイアスの推察通り、俺はコイツと二人きりで呑んでいる時だけは最後の一杯を奢る事に決めていた。いつも金を落としてくれている感謝という名目ではあったが、様々な知識が豊富であろうコイツに対しての一種の謎かけのような物だったのだ。
 勿論気が付かれるとは思っていなかったし、そんな素振りを見せたつもりも無かったのだがケイアスには全てお見通しだったようだ。
 正直な所、マスターの時のように真っ直ぐな感情を視線に乗せるのが無理だったから俺は敢えて遠回りで理解されないだろう方法で色々と投げかけていた。
 だから眠っている時に泣いている所を見られるよりも、こうして素面の時に行っていた行為がすっかりバレていた方が余程恥ずかしい。
 俺は降参の意味を伝える為に両手を上げてからケイアスの細い腰に手を回すと、折れないように緩く抱きしめ返して薄い胸元により顔を寄せた。


「……いつからバレてたのやら……うちの『参謀』様は恐ろしいなぁ」

「そう言うなよ。僕としては、こんな良い男に毎回毎回いじらしい暗号を投げかけられて、結構気分が良かったんだから。君にも可愛い所があるって分かったしね」


 そっと髪を撫でていた掌が頬に動いて、俺の顔を上げさせた。見上げた視界には優しい光を灯した薄い水色の瞳がこちらの言葉を待っているかのように見つめてくる。
 普段は聡明さに満ちているのに、闘う際は意外にも好戦的な瞳に魅入られたのは一体いつからだっただろう。もう思い出せなかった。
 しかし思い出せなくても良い。それ以上にケイアスをこの腕で抱き留められる歓喜の方が大きいのだから。


「そうだよ、俺は好いた相手にまともに告白も出来ない奴なんだ。……失望したか?」

「失望……? そんなわけないじゃないか。寧ろ僕は人間味があって、初めに出会った時よりもずっと好きだよ」

「……それなら、良いんだが」


 当たり前のように『好き』だと言われてコイツの思い切りの良さを改めて理解させられる。通常ならば無駄な事を言わないように脳内で言葉を吟味してから発言する癖に、自分が言うべきだと思ったらこちらが驚くような事を簡単に言ってのける。
 だからこそ面白いと思ったのがキッカケの一つではあったのだが。


「それに失望っていうなら、多分君の方がそう思う筈だよ。……僕は今まで隠していたけど嫉妬深いし、心配症なんだ」


 既に十分と言って良い程にケイアスの心配性な面は見てきた筈だが、もしかしたらこれでも抑えていた方なのかもしれないと、やにわに不安を感じる。だがもうここまで来たら覚悟を決めるしか無いだろう。
 俺のように精神的にフラフラとしている人間にはこれくらいしっかりとした女房役が居ないと立ち行かない。
 しかしずっと向こうに主導権を握られているような感覚になり、俺も少しはケイアスの焦れた姿を見てみたいと、意地悪をしてみる。


「嫉妬、ねぇ。……お前さんが嫉妬する様子は想像がつかないが、それはちょっと面白そうだ」

「君には隠してるって言っただろう。今日だって正直、こういう展開にならなかったら一人で帰って泣いてる所だよ」


 こちらの言葉に肩を竦め、僅かに拗ねた様子を見せたケイアスの珍しい表情をもっと見たくて背中に回していた手を動かし背骨を辿るように擦る。衣服越しでも分かる浮き上がった腰椎の凹凸一つ一つを指先で確認するようにしてみると、くすぐったいのかピクリと体を揺らしたケイアスの睨み付けるような視線を感じた。
 その視線を敢えて真正面から笑って受け止めると、先に視線を逸らしたケイアスが目元を染めながら聞こえないくらいの声で呟く。


「寝ている時なら仕方ないとは思うけどね、僕が隣に居るっていうのに違う男の名を呼ばれたら苛つきもするさ」

「……何か言ってたか、俺」

「苛つくから何を言っていたかは言わないよ。……まぁ、最後には僕の名前も呼んでいたから、こうやって引っ叩いて起こすのは無しにしてあげたんだ。感謝してくれよ」

「そいつはどうも。……お優しいケイアス様に心底感謝だな」


 照れ隠しなのか途中からムッとした表情をしながら、髪に触れていた手をずらして空中に向かって想像していたよりも鋭い手刀をしてみせたケイアスにそう言う。起きている時ならばまだしも、眠っている時にあの勢いの手刀を食らっていたらただでは済まない。
 本気でするつもりはなかっただろうと分かってはいたが、こちらを見ているケイアスの目が笑っていなかったのが若干の恐怖を覚えさせた。

 ともかく俺の小賢しい暗号めいた想いも何もかも分かっていてコイツはここに来ていたという事だろう。他人に甘えるのは良い事ではないが、こういう関係になったなら話は別だ。
 随分と都合のいい解釈だと自分でも重々承知しているが、やはり俺は真面目な人間ではないのだ。
 背中に触れていた手にもう一度力を込め、細い腰を引き寄せると上目使いでケイアスを見つめ、そっと囁いた。


「じゃあ怒らせちまったお詫びに何か一杯奢ろうか」

「……今日は一体何を作ってくれるんだい、ゴルドー」

「んー、そうだな……さしずめテキーラサンライズかXYZってところだ。お前さんのリクエストがあるなら幾らでも聞くけどな」


 こちらの上げたカクテル名に含み笑いをしたケイアスは、首を傾げて一瞬考えこんでいる素振りを見せたが、すぐに顔を正面に戻したかと思うと俺の耳元に顔を寄せた。


「だったら……シェリー酒をお願いしようかな」


 掠れた甘い声と共に耳元に当たる吐息に思わず背筋が痺れる。先ほどまでの気分の低迷さが嘘のように高揚している己に笑ってしまいそうになるが、そのまま首元に顔を寄せてしまったケイアスの髪を背中から動かした片手で撫で梳かした。
 絹糸のような艶を持った青み掛かった銀髪が手の中でサラサラと揺れ動くのを確認しながら、その隙間から覗いている赤く染まった耳殻に一度口付け低く囁く。
 どうにか顔を見たいが、ここで肩から引きはがすのは紳士とは言えないだろう。


「……良いのか? ケイアス」

「……そういう確認をするのは野暮だよ、ゴルドー」

「それもそうだな。……それじゃあ今夜はこの店にある一番上等なシェリー酒を持って帰ろう」

「持って帰る?」


 俺の言葉に違和感を覚えたのか、そっと顔を上げたケイアスの顎に手を添わせ、流れるように唇を寄せた。
 不意打ちのキスに驚いたのか微かな抵抗をされたが、すぐに応えるように瞼を伏せたケイアスの薄くも張りのある唇を何度か啄んだ。
 ちゅ、ちゅ、と軽いリップ音が店内に響くジャズにかき消される事なく耳に届き、周囲の空気を濃密にしていく。
 口付けをしながらケイアスの掛けている赤い眼鏡のつるを辿って耳に触れ、柔らかいそこを軽く親指と人差し指で揉みこむと弱い部分だったのか微かに開かれた唇から聞こえないくらいの喘ぎが洩れ出る。
 うっすらと目を開けると、とろけた瞳をしたケイアスと視線が交わり確かに下腹部にとぐろを巻くような熱を感じた。


「……っは……」

「ん……」


 勢いで舌まで入れそうになるが、店内でそこまでするのは不味いだろうとゆっくりと顔を離し、熱された吐息を洩らして冷静さを取り戻そうと試みる。すると名残惜し気な表情をしたケイアスがこちらを見つめてくるのが分かって、背中に触れている手を滑らせ、なだめるように腰を撫でた。
 ずっとお預けを食らっていて、やっと『良い』という命令を貰えた犬のように餓えていたのと、寂しさも相まって本気で余裕が無い。
 情けないとは思いながらも俺の顔を見ているケイアスの瞳も俺と同じく餓えた獣の色をしていた。どうにか余裕の無さを誤魔化そうと耳に触れていた手を再び動かして、触り心地の良い髪に触れる。


「ここでお前に酒を提供してやる程の余裕が無くなっちまったからな」

「ッ……だったら今日はもう店じまいにして、帰るのが得策じゃないかな。……呑むのはいつでも出来るわけだし」


 掛けた眼鏡を指先で押し上げ、視線を床に落としたケイアスのどこか他人行儀なセリフに緊張しているのが伝わってくる。
 色恋に関してまるっきり初心なわけでは無いだろうが、流石にこういう場面ではいつもの冷静さを乱す事もあるのだろう。だとしたら、ベッドの中ではもっと動揺して乱れる姿を見せてくれるかもしれない。
 つくづく俺も欲望に忠実だと脳内で呟きながら、ケイアスの腰に回していた両手を離すとカウンターテーブルに置かれたままの中の氷が溶けきり薄まった酒が入ったグラスを掴んだ。


「それじゃあ、そうしよう。これだけ片付けるからちょっと待っててくれ」

「ああ。……じゃあ僕は今度こそ『閉店』の札をかけてくるよ」

「頼む」


 いそいそとそう言って出入り口に向かったケイアスを横目で見ながら、座っていた為に固まってしまっている体を伸ばすように立ち上がると再びカウンターの中に入り込み、シンクの前に立つ。そうして手元にある残った酒を飲み干してしまおうかとも思ったが、敢えてゆっくりと中身をシンクに向かって零した。
 銀色に光る磨き上げられたステンレス製のシンクにグラスから落ちていく琥珀色はそのまま排水溝へと吸い込まれて、消えていく。
 勿体ないと思いはしたが、薄まった酒は美味くもないし、もうグズグズとあの人の事で悩むのだけでもやめるべきだろう。他にも俺には考えなければならない事が山ほどある上に、今夜は久しぶりに満ち足りた夜を過ごす事が出来そうなのだから。

 さらに蛇口を捻り、シンクに残った酒の残り香すらかき消すように水を流してから中身を零して空になったグラスを軽く洗うとシンクの横にある金属で出来た水切り台に乗せた。明日は元々定休日だから明後日の開店準備の際に磨いておけば問題無いだろう。
 そもそも開店してすぐにこの店に来る客はそこまで多く無い。
 そんな風に考えていると札を掛け終わったのか店内に戻ってきたケイアスがカウンターに置かれたままの本や小さな携帯ライトを黒赤色のクラッチバッグに詰めて帰り支度をしている。

 これは早く自分も帰り支度を済ませないと今度こそケイアス渾身の手刀が脳天に直撃しそうだと慌ててカウンターから出ると、カウンター脇にある小さな扉から従業員用の小さい個室に入り込んだ。
 殆どスペースが無いと言っても過言ではない薄暗い部屋の中にはマスターと俺の貴重品を入れる用の狭いロッカーがあり、その片方から黒い本革製の財布と揃いのキーケース、スマホを取り出すとスラックスのポケットにそれらを突っ込み部屋の隅に置かれたコート掛けから取ったキャメルのトレンチコートを羽織った。
 そうしてすぐに扉をくぐるとそのまま隣のカウンターに戻り、極少額の釣り銭分しか入っていないレジの鍵を閉め、その下に置かれた音響機器のスイッチもオフにする。これで後は電気を消して店の施錠だけすればいい。
 俺の家はこの店から徒歩圏内な事もあり、基本的には一々着替えたりもしないし、荷物も必要最低限の物しか持ち込んでいない。
 そしてその間に黒のピーコートを羽織りクラッチバッグを抱えてそわそわとした様子で扉の前に立っているケイアスの元へと近寄ると、待たせた事を詫びるように一度その髪に手を乗せる。


「なんだか僕を子ども扱いしてないか」

「待たせて悪いと思っただけだ、そう怒るなよ」

「……別に怒ってはいないけどね」

「お前を怒らせたら怖いからな」


 すると髪を撫でる手に触れたケイアスがそう言うので、肩を竦めてそう言い返す。子供扱いなどするつもりなど毛頭ない。むしろ俺が触れたくて仕方が無くて我慢が出来ないガキなだけだ。
 しかしそれを口にするのは憚られるので普段通りの軽口を叩きながら髪に触れていた手を離しつつ、店の扉を開けて先にケイアスを外に誘導する。

 店の照明や空調のスイッチは扉のすぐ脇に設置してあるので、手を伸ばし、消し洩らしの無いように全て消すと一気に見慣れた店内が違った空間に思えた。ほぼ毎日ここに来て同じ事をしているというのに、この瞬間だけはどれだけ経っても慣れない。
 一人取り残されたあの日の思い出が外に出て扉を閉める度に甦るからだろう。
 けれど感情を表に出さないようにするのは年を重ねる度に上手くなっているようで、俺は余裕綽々で恐れ知らずな人間だと周りからは思われているらしい。
 少なくとも『収穫者』なんていう二つ名が他の『偽誕者』に認知される程度には修羅場をくぐってきているし、そう思われて損な事は無いがそこまで精神的に強い人間では無いのは俺自身がよく分かっていた。

 そんな淀んだ思考に再び陥りそうになるのを無視して、扉から外に出るとスラックスのポケットに手を入れてキーケースを取り出し鍵束の中の一つを掴みあげ、ガラスの嵌った木造の扉に鍵を掛ける。
 さらに扉脇にあるシャッターのスイッチを格納している小さな金属製の扉用の鍵を掴み、そこを開けるとシャッターを閉めるボタンを押してからまた金属の扉を施錠する。
 ここら辺一帯はこの店と同様に居酒屋や小さなスナックなどが軒を並べていて、人の通りは多い方だがけして治安が良いとは言い難い。その為にいくら店内に残した金銭が僅かであっても、商売道具である酒類を守るためにわざわざ二重の扉を閉める事になっていた。

 ガラガラという音を響かせながら重いシャッターがしっかりと地面にまで到達するのを確認してから後ろを振り返ると手持ち無沙汰そうにこちらを見ていたケイアスと目が合う。
 普段の営業時間よりかは早く店じまいをした為に、まだ周辺の飲食店は開いており中では飲み会でもしているのか無数の影が動いているのが見える。しかしそんな喧騒よりも、飲み屋のネオンに照らし出されたケイアスの頬が微かに赤みを帯びている事の方が俺にとっては重要だった。
 いつもその場で引っ掛けた女相手なら、照れてるのか?なんて笑って肩を抱き意気揚々と自宅に連れ帰るのだが急に言葉が出てこなくなる。
 本当に重要な場面であればある程に俺はどうにも緊張しやすい性質のようだと嫌でも理解させられた。

 ケイアスの方も俺が黙り込んでいるのを見てどのように反応すればいいのか迷っているらしく、暫し互いに黙りこんでしまう。期待と、困惑と、未だに夢の中にいるような浮遊感。
 それらを押し退けるように一歩前に出ると、ケイアスに向かって手を差し出した。差し出した手に視線を向けたケイアスは悩んだ様子を見せてから、そっと手を俺の手に乗せると、軽く握り込んでくる。
 一つ一つの指が細く、美しく整えられた爪と俺よりも低い体温。
 あの時に触れた手とは何もかもが違う感覚をもっと堪能するために、また指先を絡ませ引き寄せた。


「……お前の手はやっぱり冷たいな」

「そうかな? 君が温かいだけじゃないか?」

「そうかもな。今日は特に熱い……勿論、手だけじゃないぞ?」

「また君はすぐにそういう事を言うんだから……」


 話している間に互いの間にあった緊張感が和らぎ、冷たい秋風が俺達の頬を撫でていく中で普段通りの冗談を言うと、隣ではにかむように笑ったケイアスが絡ませていた指先の爪で軽くこちらの手の甲を叩いた。
 しかし絡んだ手は離れる事はなく、むしろより強く結ばれる。それほどに繋いだ手から伝わる温度は心地良かった。


「……もう早く帰ろう。僕は寒いんだから」

「ああ、……帰ろうか」


 そう思っているのは俺だけでは無いようで、繋いだ手を離す事なく身体を寄せて自身のコートのポケットにそのまま入れ込ませたケイアスがそう言うのに笑ってしまう。
 手を離すのは嫌だが、他人に見られるのは不味いという感情からそういう行動に出たのだろうが、敢えて何事も無いようにそう言うのが可笑しかったからだ。
 周囲が薄暗くてハッキリと表情がよく見えないのが惜しまれるが、そう返答し、自宅へと続く道へと視線を向けた。視線の先には街灯がぽつりぽつりと等間隔で並べられ、狭い道には俺達しか居ない。
 そんな中をあの日のように背中を向け進むのではなく、同じ方向を見据え、行く。ただそれだけの事がこんなにも嬉しい。
 俺は隣に居るケイアスの手をけして離さないように歩幅を調整しながら、二人で夜の闇にそっと溶け込んでいった。



-FIN-






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