月白アザレア




ジワジワと外から蝉の鳴く声がする。
普段よりも思考能力の低下した頭がその煩わしい音を聴きとりながらも、普段通り書見台の前に座り、小難しい書籍を読んでいる男の横顔を知らぬ間に見つめていた。
風を通す為に開け放たれたままの縁側へと続く障子戸の脇に凭れかかった俺は男に向けていた視線を外へと移す。
少し離れた場所は相変わらず此処を覆い隠すかのように木々が生い茂り、熱せられた地面には綺麗に刈られた草むらが広がっている。
この間、男と二人でせっせと庵周辺の草取りをしたのだがその時も随分と暑い日で、骨が折れた。
しかし其の甲斐もあり、暫くは邪魔になる程伸びては来ないだろう。
どうせこの暑さなのだから此れで雨でも降れば直ぐに草木は伸びてきてしまうだろうが。
この俺が草取りなど此処で男と共に住むようになるまで考えた事も無かったというのに、今では当然のようにそんな事を気にしている。
其れが良い変化かと言われれば『殺人鬼』としては、とんだ欠陥品だろう。
けれどただの『殺人鬼』として生まれ落ちた俺が意志を持ち、男と戦い、そうして何の因果か生き残ってしまったのだ。
さらには互いに拳を交えた男と気が付けば傍に居るのが当たり前になり、求めるままに触れ合った。
身体だけでは無く、何処か世界から外れているモノ同士、あるのか分からない心で『愛』なんていうモノを感じてしまった。
もしかしたらただの傷の舐め合いかもしれないと考えた事はある。
でも其れをグズグズと考えたとしても、意味を成さないのだと教えてくれたのは他でも無い男だった。
この惚気なのか、はたまた感傷なのか訳の分からない思考をしているのはきっと暑さにやられている所為だろう。
俺は着ていた薄手の浴衣の胸元をより一層開き、風を送り込む為に其処を手で掴んではためかせる。
本当に男は普段と其処まで変わりが無いように見える。
まるでこんなに暑がっている俺が可笑しいかのように思ってしまうが、別に体内温度計が壊れている訳ではないだろう。
まぁ、よくよく考えずとも、この男は火を扱う力を持っているのだから多少なりとも熱に強くない筈が無いのだが。
そんな風に考えながら手持無沙汰になった俺は、男の座っている姿を観察し始めた。
俺が以前、色々言った所為か暑い日は髪を後ろで緩く縛るようになった男は肘辺りまで捲り上げた俺と色違いの浴衣を着ている。
男の目元は垂れた前髪によって見えないが、恐らく隻眼は目の前にある書物の文字を興味深げに追っているのだろうという事は見えなくても分かった。
この男は見た目は其れこそ『鬼』のような姿をしているが、話し方や立ち居振る舞いによってその知識の多さや思慮深さを周囲が理解する事は多い。
殺し合いが終わって死んだと思っていた俺が初めて目覚めた時、改めて男と相対して話し、男が余りにも落ち着いているものだから無性に騒めいた怒りや苛立ちもぶつける事が出来ずに黙り込んでしまったくらいだ。
しかし其れは元々男が持っているモノもあるのだろうが、何よりもこうして自らを日々鍛えるように知識の習得や鍛錬に励む男の努力の賜物なのだろう。
そして、そうやって禁欲的に解脱を求める修験者のように学ぶ男が、此方から仕掛ける様々な事を受け入れ、その奥に潜ませている凶暴性を露呈する時は言い様の無い優越感を俺に与える。
無論わざわざそのような事を考えているというのを男に今まで伝えた事はなかったが、俺が急に手合わせをしようと持ち掛けたり敢えて夜間に煽るような言動をする度にうっそりと笑う男はきっと分かっていて受け入れているのだろう。
…………俺が男にだけ向ける衝動的で波のような殺意に男が密かに悦びを感じているのと同じように。
自分だけが何よりも相手の特別な存在なのだと自覚する度に、己もまた、相手を心の深くから必要だと感じる事が出来る。


(………って、結局戻ってくるのはそういう場所か)


散々グダグダと散らした思考も最終的には何時も決まった終着点に辿り着く。
分かっている癖にそれをするのは、暇なのもあったが、何より今は考える事が好きなのだろう。
ふ、と零れる笑みもそのままにして、俺は意識を再び男へと向け直した。
相変わらず変わりない姿に、銅像にでもなったかと思ったが、髪の隙間から見える首筋に確かに汗の一滴が浮かんでいるのに気がついて、思わず凝視してしまう。
男だって汗を掻くのは当然の事だ。
其れは理解しているし、真夜中の二人だけの淫靡な時間には湿る程に掻く。
だが、こうやって真昼間の明るい中で大人しく座っている男の浅黒い肌に浮かぶその珠のような汗は、何故か分からないが俺の琴線に響いて不明瞭な音を立てた。
それは完璧だと定義していたモノが、微かな歪を見せた時に感じる独特の念だろう。
けして届かぬと思っていたモノが案外近い場所に居るという落胆とそれを上回る愉悦。
道徳からはかけ離れた、その感情に身を委ねたくなる。
けれど直ぐにそれをしなかったのは、俺は手元に愛刀を持っていなかったのもあるし、何より今までの記憶が衝動を押し留めた。
嗚呼、でも、手合わせくらいは頼んでも良いかもしれない。
そんな事を考えていると、俺の視線に気がついたのか顔を此方に向けた男が暫く黙っていたかと思うと静かに笑った。
途端にゾクリとした感覚が背筋を走り、俺は我慢の限界を迎えた自身を明確に理解しながら獣のような動きで男の方に這い寄る。
しかしその前に書物を置いた男が身体を動かしてから俺の目の前に手を翳し、其れを制した。


「……っ、……は……」

「………どうした、そんなに慌てて」


瞳に面白がる色を湛えながらそう言った男は翳した手をそっと動かし、俺の頬を宥めるように撫で擦る。
余裕のある手管と微笑みに次第に熱された感情が緩やかに静まるのを感じながら髪を撫でる手を受け入れていると、男が優しく囁いた。


「……熱にでも中てられたか?」

「………いや……」


その間も男の手が俺の首を擦り、耳を擽る。
煽り立てるようなその手付きに収まった筈の熱が再びぶり返していく。
この男は分かっていてやっているのだと、今になって気がついた。
背後から男に向けて放っていた殺気も、抑えきれない衝動も、何もかも理解している上でこうして俺を甘やかす。
それは自分が俺に負ける事が無いという確固たる自信と、例え俺に殺されたとしても、構わないという思いがあるからだと以前、同じような事があった時に聞かされたのを思い出してしまった。


「……七夜?」


俺の顔を撫ぜる男の手を取り、そのまま男に強く抱き着く。
当然のように其れを受け入れた男の浴衣に顔を寄せ、力強く刻まれる心音を聞いた。
この音は男の生命力を表しているのかと思うくらいに此方の耳に響いてきて、其れに安堵している己が居る。
そうして、毎回最後にはこうして男に絆される俺が抱く思いがどれほど不毛なのかを思い知らされるのだ。


「……アンタは優しい男だ……こんな俺を見捨てないんだからな」

「何故オレがお前を捨てなければならないんだ」

「……だって幾らアンタが俺に殺される訳が無くとも、アンタの寝首を掻くのを何処かで求めているんだぞ?」

「……」

「そんな奴を傍に置くなんて、酔狂極まりないだろ」


そんな常識めいた事を今更言ったところで意味も無いのは分かっているが、敢えて口に出すと、 俺を抱きしめている力を緩めた男がそっと此方の顔を覗き込んできた。
長い前髪の隙間から見える黒い隻眼は鋭くも、柔らかな光を宿し、俺を見つめてくる。
その視線に気恥ずかしくなり顔を反らそうとすると、男の腕が伸びて俺の顎を掴んだ。


「確かにそうかもしれないな……だが、共に居る意味は確かにあると思っている」

「意味?」

「嗚呼。……オレとお前が好き合っているというのは、まぁ、前提として」

「……」

「お前が時折、オレを殺すのを求めたとして、其れの何が問題だ?」

「……それは……」

「それについてお前が悩み、苦しむようになるのはオレも困る」

「……」

「お前の衝動を無駄と思っているわけではない。寧ろ、オレを認識しているからこそ、そういった衝動が生まれるのだろう」


俺の顎を掴んだまま真っすぐにそう言った男は何処か嬉しそうな笑みを浮かべながらそう囁く。
低く囁かれる言葉はまるで遅効性の猛毒のように注がれ、全身をくまなく回っていく、そんな感覚に陥った。


「……オレはお前を構成する要素、全てを愛おしく思っている」

「っ……」

「だからオレに向けられる殺意ならば幾らでも、お前の気の済むまで受け入れよう。……だが、その代わり」


――――他のモノに其れを向けた時、オレがどう出るかの保証は一切出来ないがな。
ふ、と笑ってから男が最後に言った言葉が鼓膜を震わせた途端、否応なしに体が疼く。
これが男の『鬼』としての本質ならば、俺が殺せる訳が無かった。
疾うに心すべてを魅了され、捕らわれた俺は男の腕の中で微かにもがく餓鬼に過ぎない。
何より、何物にも執着しなさそうな男が唯一見せた独占欲が心底心地よく感じられて、もっと 強く縛られたいとさえ、刹那、感じてしまう。
湧き上がったその想いをゆっくりと吐き出した息に乗せ、結ばれた男の髪に手を寄せて赤い結紐を解く。
見えない位置に落とした其れを気にせず、解いた癖のある髪に触れ、其処を撫ぜると目の前の男が首筋に唇を近づけてきた。
熱を帯びた男の薄い唇が、ちゅ、と軽い音を立てて啄むように首に接吻を落とす度、代わりに俺は男の髪を撫でては身体を擦り寄せる。
暑いのは苦手な筈なのに、もっと傍に来て、触れていて欲しい。


「……ん……」

「……七夜」

「……ふ、……やっぱりアンタも汗は塩っ辛いんだな」


男が戯れのような口づけを浴衣をずらし、鎖骨にまで落とすのを認識しながら、男の額に浮かんだ僅かな汗の珠に舌を這わせ吸い上げる。
次第に荒くなる息に思考が乱されるのを感じながら、そのまま身体を畳に押し倒されるのを受け入れ男の浴衣の襟に手を掛けた。
合わせ目から手を差し入れると隆起した男の鎖骨と筋肉が動くのを指先で触れ、感じる。
何処も彼処も鋼のように硬い男の体は俺よりもずっと高い体温をしていて、抱き合い弄られる度に忘れられない程の快楽を覚えさせてくるのだ。
体の相性がいいのか、それとも男に毎回限界近くまで注ぎ込まれる体液に秘められた魔力のせいか。
そんな事をぼんやりと考えていると、首元に所有欲の証である痕を残される時に感じる鈍い痛みを感じ、俺の上に乗った男に視線を向けた。


「……何を考えている?」

「……ッ……、怒るなって……アンタの事しか考えてないよ」

「……」

「アンタとするの、何時もめちゃくちゃ気持ち良いからさ……なんでかと思って」


くすくすと笑ってそう囁くと俺の横についた手を動かした男が髪を撫でてから満足そうに笑った。
武骨な掌にかき乱されるままでいると、男が軽く額に口付けをしてから言葉を返してくる。


「お前は本当にオレを煽るのが上手いな……、……待っていろ、布団を敷いてくる」

「なんだよ、俺はこのまま此処でシたって構わないぜ?」

「……悪いが……一度で終わらせる気が失せたのでな」


たまには畳の上で獣のようにまぐわうのも悪くは無いと男の首元を撫でると 男がその手を取り、指先にキスを落とす。
顔を上げた男の瞳に宿る隠微な光に、先ほどとは異なる興奮を覚えた。


「流石に此処で何度も穿たれるのはお前も辛いだろう?」

「……ッ……!」

「……だから待っていろ、と言ったんだ」


そのまま体を退かした男が寝室へと向かう後ろ姿を見ながら、自分の 頬が赤くなるのを感じつつ自分も立ち上がる。
俺の気配に気が付き振り向いた男の腕を絡め取り、寝室の襖に手をかけた。


「……俺も手伝う。……その方が早いだろ」

「……」

「ん……」

「……そうだな」


一瞬黙り込んだ後、此方の言葉に嬉しそうな顔をした男が顔を寄せ唇を合わせてくる。
かさついた其処に宿った想いに俺も顔が綻ぶのを抑えないまま男の手を引いて 素早く寝室へと入り込んだ。



-FIN-






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