紫羅欄花




手に持った杯を唇に触れさせ、中に入っている酒を飲む。
喉元を過ぎる酒は口当たりがよく、男の選ぶものに間違いは無いと改めて感じた。
俺の座っている前にある囲炉裏の反対側に座っている男は、初めに飲み始めた時と変わらぬ表情で同じように酒を飲んでいる。
けれど周りにはかなりの数の酒瓶が置いてあり、自分の体がふわふわとした酩酊状態に陥っているのは理解していた。
こうやって男の庵に来るようになったのは大分前からで、初めの理由は単純に男を殺しに来ただけだった。
だが、今ではただ酒を飲むだけでなく、戯れに触れ合う事も増え、曖昧で不可思議な関係のまま、互いに踏み出す事も出来ずにいる。
何時までこの関係を続けるのかも分からないが、俺はそれでも男の好きな酒を携えては此処に来ていた。


「……なぁ」

「……なんだ」

「近くに行っていいか」


手元にある杯が空になったのを確認し、いつも通り反対側に居る男に声を掛けた。
俺の言葉に、一言返事をしてから黙って男は自身の隣を空ける。
こうして酒を飲み、互いに十分酔っているのを理解しながら俺が傍に寄るのは、此処に来るようになってから暫くして、流れの一部になった。
空になった杯を畳に置き、男のすぐ隣に移動した俺は、男の空いた杯に近くにあった酒瓶で酌をしてやり、残り僅かとなった酒で満たす。
最後の一雫が、ぴちゃり、と音を立てて杯に落ちたのを確認すると、男が想像以上の思い切りの良さで其れを飲み干した。
酒を最後まで愉しむ男にしては珍しい事もあるものだと考えていると、不意に杯を畳に置いた男が俺の肩に手を伸ばして引き寄せてくる。
されるが儘に引き寄せられた肩先に、戸惑いながらも頭を寄せると男の呼吸が耳に滑り込んできた。
そうして回された腕は労るように此方の肩から肘までをゆっくりと擦っていく。
衣服越しにでも分かる掌の大きさと熱さに、確かに今、男の傍らにいるのだと深く認識し、胸が強く脈を打つ。
こうやって触れ合うのは、今までに何度かあった。
けれど、それは何時も俺から不意打ちのように仕掛ける時だけで、男からされた事は無い。
何時も俺が仕掛けた後、拒否もしないが言葉も発さない男はただ、餓鬼の戯れに付き合っているだけなのだと思っていたのだが。


「七夜」


鼓膜を震わせる男の低く甘い声に、飛ばしていた意識を掬い取られ、顔を上げる。
いつの間にか近付けられていた男の隻眼に映る燭台のぼんやりとした灯りと、それから、此方を蕩かすような赤に、視線が奪われ動けない。
この男はこんなにも切なげな顔をするのだと初めて知った。


「!……、……は……」


瞳を奪われたまま固まった俺に、空いた片手を伸ばした男が顎先を掴み上げ、一度緩く撫でたかと思うと軽く口付けてくる。
粘膜を触れ合わせるだけの接吻とも呼べるか曖昧な行為に、くらりと酒だけではない酔いを確かに覚えた。
此方から仕掛ける時は、何時も戸惑うような顔をしている男の瞳に、今はそのようなモノは見えない。


「……軋間……?」


このままでは、呑まれてしまう。と妙な恐怖を覚え、男の名を囁く。
しかし、それに答える事無く、俺の額に口付けを落とした男は顎先に触れていた手を動かしたかと思うと、今度は耳に触れてくる。
耳殻を撫ぜ、耳垂を掠めた指先が衣服越しに首元を撫でてきたかと思うと、学生服についている襟元の金具の手前で指が止まった。
暫し互いに黙ったままでいると、男の指先が遂に此方の学生服の金具に伸ばされ、僅かに荒っぽい手付きで襟元を開かれる。
男のそんな行動は今までに無く、試すように首に触れてくる指先は此方の魂すらも撫で上げるかのようだ。


「……白い肌だ……」

「……其処まで、……じゃない……アンタが……っぅ、あ……」


開かれた奥にあるワイシャツさえも開かれ、首筋に噛みつかれた。
甘噛みされた部分が無性に熱を持つのを感じながら、男の髪に指を絡めると、今度は鎖骨に顔を移動した男が幼子のように幾度も痕を残す。
ピリリと、繰り返される痛みに思わず髪に絡めていた指先に籠めていた力を強めると、不意に跡を残す動きを止めた男が顔を上げる。
そうして此方の首筋を注視していたかと思うと、小さくため息を吐いた。
ため息の意味が分からないまま、男の髪に触れていた指先を肩へと移動させる。
すると、瞳の中には確かに熱を帯びている癖に、開かれた首筋には敢えて触れずに、此方の髪を撫でた男が身体を離しつつ呟いた。


「…………すまない、……少し……やりすぎた」

「……は……?」


俺から視線を逸らし、そう言った男の言葉に思わず呆然としてしまう。
此処までしておいて、どうしてそういう発言が出てくるのか。
そもそも俺が嫌だと思えばとっくに拒否をする筈で、抵抗も何もしなかった事から此方の想いも分かっているだろうに。
すっかり先ほどの赤い色を失った瞳のまま、離れてしまった男の着物の襟元を掴むと、顔を近づけ、噛みつくように口づける。


「なな……」

「……この……意気地無しが」


半ば吐き捨てるようにそう言うと、開かれた首元もそのままに立ち上がり、男を上から見据えた。
傷ついた表情を見せた男に、少しばかり言い過ぎたかと後悔の念が湧き上がるが此処まできて謝罪の言葉を口にした男に苛立ちを感じるのは間違いでは無いだろう。
絡まる視線の中に、此方の動向を窺う色が覗いているのは分かっていたが、正直なところ、何時も何時も俺が折れている気がして許せない気持ちもあったのだ。


「……帰る」

「……本当に帰るのか……?」

「…………帰るっていってるだろ……ッ……!」


寂しげな男の声に息が詰まるが、言葉をひねり出して顔を逸らす。
本当に俺を引き留めたいのならば、無理矢理にでも抱き寄せて座らせればいい。
そんな事さえ思っていたのに、結局男はその一言だけを発してから何も言わなくなってしまった。
これでは本当に引くに引けなくなってしまったではないか、と内心舌打ちをしつつ、結局男に背を向けて畳を踏みしめ、土間造りの炊事場へと続く障子戸を開ける。
漸く背後で男が立ち上がった気配を感じたが、声は掛けられない。
そのまま揃えてあった靴を履き、扉を開いて外へと飛び出す。
仄暗い森が眼前に広がるが、夜目が利く俺にとっては月が出ているならば、まるで問題は無い。
無性に感じる苛立ちを隠さないまま、一人歩き慣れた道を町へ向かって歩み始めた。


□ □ □


街に戻った時にはもう、完全に日が暮れており、普段住んでいる路地裏にひっそりと隠された白い雪原の結界の中に戻ると、どうやら白猫は留守にしているようだった。


(くそ……)


今は誰にも会いたく無いと考えていたものだから逆に都合が良いと、雪原の中央に置かれた白い敷布が敷かれた広いベッドの上に靴を脱いで倒れ込む。
普段ならば『行儀が悪い』と叱られるが、白猫が居ないからにはそんな小言を言われる事も無い。
柔らかなベッドはこちらの身を優しく包み込み、沈む。
いっそ、このまま眠りについてしまおうかと思ったが、ジンジンとした痛みを首筋に覚え、思わず首に手を伸ばす。
森から此処まで走ってきた間には、苛立ちが頭を満たしていたからだろう。
其処までの痛みを感じなかった。
だが、こうやって気持ちが落ち着いてくると男につけられたらしい跡がどのようになっているのかが気になってくる。
俺はベッドに仰向けになると虚空に手を伸ばし、小さな手鏡を取り出した。
彼女の空間では他人の夢の世界から様々なモノを引き寄せる力があるため、求めたものがある程度ならば手に入る。
開かれたままの学生服をずらし、男が噛んだ部分を鏡で確認すると、首筋にはっきり残った噛み痕と、幾つかの赤い跡が散っているのが見えた。
…………其れを視認した瞬間、体に火を灯されたような感覚に陥る。
掲げていた鏡をベッドの上に放り投げ、体を丸めた。
身悶えするというのはこういう事を言うのだろう。


「……っ、……くそ……アイツ……!」


男があの瞬間、どれほどの熱量で俺を求めていたのかを実際に見せつけられた気になって、ぞくぞくと体が震えた。
恐らくだが、男も多少は酔っていたからこそ、此処までの行為が出来たのかもしれない。
そしてつけた跡を見た途端に我に返ったのだろう。
あの男は俺よりも余程優しいから、このまま進めば俺を傷つけるかもしれないなんて、健気な事さえ考えたかもしれない。
俺はあそこで引かずにきて欲しかったのだが、人と関わる事自体に慣れていない男に、其れは酷だったかもしれないと今になって考えてしまう。
グルグルと迷走する思考の中で、男の熱を帯びた瞳を思い出してしまって、また一人ベッドの上で転がった。
微かに残っていた酔いもすっかり醒め、庵を出る前に見た男の寂しげな声と表情が脳内で再生される。
きっとあの男は庵で一人、俺にした事に対して思い悩んでいるかもしれない。
もしくは俺が帰った後、自分を責めてさらに深酒をしている可能性も考えられる。


「あー、……もう、……」


ベッドの中で転げまわっていた体を起こし、前髪を掻き上げる。
此処まで情熱的な印を残されて、今夜このまま眠れるわけがない。
開かれたままの学生服の襟を緩慢な動きで普段以上にきっちりと整え直すと、放り投げた鏡を虚空に戻し、代わりに白い紙とこれまた白い羽で作られたペンを取り出して、一言メモを残す。
黒い文字が刻まれた紙を分かるようにベッドの上に置くと、靴を履き直し雪原を踏みしめるように立ち上がった。
どうせ今日はもう帰ってこられないだろう。
だからと言って黙ったまま居なくなると、後から面倒な事になるのは分かりきっていた。
長い溜息を吐くと、気合いを入れるために一度頬を叩く。
此れからまた、あの森に戻るとしたら、相当時間がかかるだろうが、仕方のない事だ。


「……意気地がないのは俺も同じだな」


男だけを責めた自分に対して自嘲の笑みを浮かべる。
今までずっとごまかしてばかりで、男に対して感じていた想いも伝えられずに戯れなのだというフリをしていた。
何時か男が酒に酔って行う俺の戯れじみた触れ合いに絆されて、本気になればいいのになんていう事を考えて。
だがしかし、男から向けられた本気の熱に中てられて、僅かに逃げ腰になったのを見抜かれたのだろう。
もう酒も抜けている今、俺は今度こそ男に言えずにいた言葉を発さなくてはならない。



『今夜は別のところに泊まるから戻らない』


ベッドの上に投げ置いた自分の決意のように書かれたメモに一度視線を投げてから、俺は先ほど入ってきたばかりの結界の入口に近づき其処を開く。
そうして、もう一度、男の居る森に向かうために暗い路地裏へと飛び出していた。



-FIN-






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