ブーゲンビリア


※軋+(獣)七・七夜の片手足破壊描写あり・死ネタ


湧き上がる殺意に、自身の心が震えるのが分かる。
己の存在を賭けた闘いの前がこんなにも心踊るものだとは知らなかった。
其れは今まで、自分の闘う相手が明確な形を取っていなかったからだろう。
黒く鋭い隻眼が俺を見ているという事実だけで、全身が総毛立った。
闘いを好む心が悦びを覚え、仮初めの体に潜む本能が存在が無くなる危機を感じるという相反する感情が身を焦がす。
けれどそれら全てを凌駕する程の想いが胸の奥から湧き上がってくる。
――――今すぐに飛びかかって、刺し殺してやりたい。
手に持った刃物で、ぐちゃぐちゃに掻き回して、男の浅黒い肌に大輪の赤い花を咲かせる。
歓喜の声を上げる自身が一瞬で想像出来るくらいに俺は高揚していた。
本当にそうしたいとズボンのポケットに手を伸ばすが、必死に抑える。
楽しみというのは、手間をかけてから味わう方がより一層、上質なものへと変化するのだ。
大して味も分からない体ではあるが、それでも魂が求めるモノへの執着だけは確かにある。
寧ろ、今の俺にあるのはその感情だけかもしれない。


「ずっと、ずっと、……待ちかねていたよ。紅赤朱」

「…………」

「分かるか?アンタに……俺のこの歓喜が……」


ぽつりと囁いた言葉が男に届いたのか、微かに眉を顰めたように見える男に笑いかける。
今にも飛び出しそうな体を抑えるために俺は自身の胸を衣服越しに掴むと、さらに黙ったままの男に向かって声を掛けた。


「……そんな顔をするなよ……紅赤朱。……折角会えたんだ、言葉の一つ二つ交わしたって良いだろう?」

「……人語を操るだけの『獣』と語る趣味は無い」

「おやおや……手厳しいなぁ……。この森に来るまで俺がどれだけ苦しんだのか、少しは喋らせてくれよ」


堪えきれず笑った俺を追い立てるように生温い風が周囲の木々の葉を揺らした。
本来であれば、複雑な足場を利用した暗殺が得意な俺がこうして男の前に、しかもこんな開けた草原で対峙するなど端から間違っているのだ。
けれど、例え有利な地形を使って男の首を狙ったとしても、恐らく蛾を払う程度の力で壊されるだけだろう。
幾ら本能に支配された『獣』だろうと、そんな結末は御免だった。
そして、せめて言葉を発する事が出来るのなら、焦がれた想いを男にぶつける事くらいは許される筈だ。
自身の胸に当てた手はそのままにもう片手を男の方に差し出す。
さながら劇場に立つ演者のように、此方を映し出す月の光を一身に浴びながら笑いを含ませた言葉を発した。


「アンタは俺にとっての『水』だった」

「……『水』……?」

「嗚呼、そうだとも。……俺はアンタの言う通り、『獣』……地獄から這い上がった『餓鬼』なんだよ」

「……」

「餓えてたんだ。それこそ、狂おしいほどに……、でもアンタの居場所を知って、こうして辿り着いた」


其処まで一気に言い切って、俺は深く息を吸い込む。
そうして胸に当てた手も差し出すように広げると、その両手の中心に佇む男が黙ったまま俺の次の台詞を待っているのが分かった。
『獣』と語る気は無いと言いながらも、それでも尚、俺の下らない寸劇に付き合ってくれる男は案外良い『鬼』なのかもしれない。と頭の片隅でもう一人の自分が囁く声を聞いた。
だが、もしもそうだとしてもそんな事に何の意味も無い。
男が例え、その肉体に見合った高潔な精神を宿していたとしても、俺にとっては男の奥深くに潜んでいるであろう闘いを望む心の方が必要であったし、どちらにせよ闘う事に何ら変わりはないのだから。


「アンタの居場所を知った時、体が震えたよ。やっと会えるって……この恐怖すら覚えるくらいの飢餓からやっと、解放されるって……そう思った」

「……」

「俺がずっと追い求めた『水』はアンタなんだ。……だから、たんと飲ませてくれよ、溺れるくらいにさ……!」


最後は高らかに宣言するように、男に向かって真っすぐに視線を投げつつ声を上げた。
…………俺にとって、此れはただの喜劇だ。
一人の観客すらもおらず、ただ純粋に俺という『餓鬼』が朽ちていく喜劇。
此方の声に何も言わない男に、差し出していた両手をゆるゆると下ろした。
元々反応が返ってくるとは考えてもいなかった為、そのままズボンのポケットに手を差し入れようとする。
しかしその手がポケットに入る前に、離れた場所に居た男がジッと此方を見つめたまま唇を開く。


「……餓えたモノが一気に『水』を得れば、そのまま死に至る」

「え……?」

「其れが分かっていても尚、お前は其れを望むのか」


低く落ち着いたその声に一瞬、反応が遅れた。
まさかそういう言葉が返ってくるとは思ってもいなかったせいだ。
だが、男の言葉が脳内に染み入ると同時に、腹の底から湧き上がる笑みを抑える事が出来なかった。


「ふ、……ふふ、……はは……!」

「……」

「そうだよ、その通りだ。……消えるなんて事は分かり切ってる。でもそうじゃない」

「……」

「餓えたまま消滅なんて、其れこそ不毛だ。馬鹿げてる。……滅してもいいくらいに求めているものが其処にあるのなら、手を伸ばさない訳にはいかないだろう」

「……そうか」

「其れに、アンタは随分と自信がおありのようだが、餓えた『獣』ほどしつこいモノは無いんだぜ?」


腹を抱えて一通り笑った後、自身の目元にかかってきた前髪を掻き上げる。
今日はなんて素晴らしい日なのだろう。
反応を示すとは思ってもいなかった男とこうして会話を交わし、尚且つ、闘えるなんて。
何より一人きりの公演だと思っていたというのに、まさか呼びかけた相手が飛び入りで参加してくれるなど。
ある意味、アクシデントではあるが、此れは良い舞台になるだろう。
不出来な『獣』が取り仕切る舞台にしては上出来過ぎるくらいだ。
俺は今度こそズボンのポケットに手を入れ、愛刀を取り出す。
そのまま飛び出し式の刃を音も立てずに出すと、逆手に持ち替え直した。
銀色の刃は月の光を浴びて、誘蛾灯のように煌めく。
この不条理舞台の台本に書かれた台詞は、もうない。
後は、此方が朽ちるまで続く闘いだけだ。


「もう我慢できない。……さぁ、はじめよう……!!」


半ば叫ぶようにそう言うと、遠くに立っていた男が纏っていた白い上着を脱ぎ捨て、草原に放り投げた。
男は俺と違い、構えを必要としないのだろう。
それでも、その周囲に漂う空気が変わったのは、此方からでもよくわかった。
瞬間、『欲しい』と全身が騒めく。
その声が耳元で囁くままに、俺は足元の草を踏みしめ、男の元へと駆けた。


「おらッ!」


駆け寄った先に居る男に向かって手に持った刃を振り抜く。
俺の動きを冷静に見ていた男は一歩後ろに下がるだけで其れを避けた。
真っ向から斬りに行った所で当たらないのは分かっていた。
だが、流石に此方の本気の斬りつけをいとも容易く避ける男に、内心苦笑する。
しかし、すぐにその感情をかき消し、追いかけるように二撃目を放つ。
近距離での戦闘は明らかに此方にとって不利だったが、離れつつ闘ったとしても危険な事に変わりはない。
ならば、男の剛腕が此方に伸びる前に、懐に入り込んで少しでも攻撃を重ね、適度な所で攪乱させる動きをするしかなかった。
返すように放った二撃目も太い腕に防御される。
普通ならばこの攻撃で深い裂傷が出来ても可笑しくないというのに、腕に纏っている布が切れてはいたものの、血の一滴すらも零れない。
此れでは埒が明かない上に、余り男の懐に長く居すぎるのはよろしくない。
そんな状況を脳内で確認しつつ、一度後ろに引こうとした此方の腹めがけて繰り出される炎を纏った掌底を身を捩る事で何とか避けた。
此方が三撃目を撃たないと理解してからの攻撃へと転じる機転の速さも、そもそもの物理的な力量も、何もかも俺を凌駕している。
けれど、避けられないスピードではない。


「ふ……」


一度呼吸を詰め、意識を男の動きに収束させる。
例え避けられないスピードでは無いとしても、ほぼノーモーションから繰り出される攻撃は男の筋肉や血流の些細な動きから予測しなければならない。
此方が掌底を躱した直後、今度は地面を踏んでいた男の足が動いたのを確認すると、俺は同じように地面を踏みしめ高く飛び上がる。
予測していた軌道で足が高く蹴り出され、丁度良い高さにまで飛び上がっていた俺は男の硬い脛に乗るようにしてそのまま頭上を飛び越えるように空を飛んだ。
そんな俺の動きを追うように顔を動かした男と視線が絡む。
隻眼の中にある光と、唇に浮かぶ笑みに男が俺と同じ感情なのを理解する。
空中で身体を捻ってから、男より少し離れた地面に降り立つと、勝手に漏れ出る笑みを抑えないまま再び刃物を構え直す。
一手一手が俺を殺そうと明確な意思を持って繰り出される。
避け損なえば最後、簡単に破壊されるだろう。
だが、闘いとは端からこういうものだ。
己の精神を研ぎ澄まし、己の持てる技量を駆使し、己の全てを使って敵を殲滅する。
自身が壊される覚悟の無いものが、真に興奮出来る闘いなど出来るわけがない。
俺も男も、今は互いの事しか考えられない筈だ。
――――だからこそ、悦い。此れこそが死合の醍醐味というものだろう。


「……お前は、……随分と素早いのだな」

「お褒めに預かり光栄だよ。紅赤朱」

「嗚呼……久々に心が躍る……」


ふ、と笑った男に思わず背筋にゾクゾクとした痺れが走っていく。
コイツはまだ何かを隠している。
手を抜いているわけではないだろうが、それでもまだ、何かある。
其れを理解し、決して届かない事への恐怖とまだ先があるのかという期待に胸が震えた。
しかし分かってはいても、飛び込まないという選択肢は俺の中には無い。
足元の草を踏みしめ、姿勢を低くし地面に片手をつける。
其処から一気に加速して男の背後を取った。
向こうから見れば俺が正面から消えたように見えるだろう。
そして上空から無防備な男の首元を狙い、刃物を振るった。
一撃は入れた、と確信した俺をあざ笑うかのように火の粉を散らし、目の前に居た筈の男が消える。
空中から気配を感じて顔を上げた先に、既に炎を纏った男が蹴りを放ってくるのが見えた。
咄嗟に片手を前に翳してその蹴りを受け止めるが、上手く力を受け流す事が出来ずに腕が軋む。


「く、そ……!」


軋んだ腕から嫌な音が響き、慌てて横に飛び退き離れる。
そして俺が退いた場所に降り立った男の衣服越しでも筋肉の隆起が見える背中を見つめた。
腕で防いだというのにその防いだ腕の骨が折れる程の威力の蹴りなど馬鹿げているが、相手は男だ。
この程度の負傷など初めから覚悟していた。
利き手が残っている以上、問題は無い。
そんな事よりも、男のスピードが増した事の方が問題だ。
力もある上に速度まで十分とは、この男は本当に俺を飽きさせない。


「……どうした、……気力が萎えたか」

「そんな訳ないだろう?……単純に驚いているんだ。あとは……考えてた」


不意に掛けられた言葉に、まさか、と首を横に振る。
腕が一本使えなくなった程度でこの殺意が萎えるわけがない。
寧ろ、もっと密度を増し、溢れそうな程の脳内麻薬を分泌させてくる。
だから痛みなど感じず、変わらずに男の事だけを見つめていられた。


「アンタみたいな完璧な奴をどうやって殺すか、ってね」

「……そうか」


冷静な口調でそう言った男も隠しきれていない殺意が全身から滲み出ていた。
此方の腕を砕いた足先も早く続きを、とせがむように地面を踏みしめるのを視認してから、 ぶら下がり力の入らなくなった腕を放置して刃物を持った手を掲げる。
今度は向こうから、早すぎるが故に残像すら見えるくらいの速度で一気に駆けてくるのをしっかりと見据えた。
勢いを殺さぬまま薙ぎ払うように向かってくる手刀を避けると、更に追い込むようにもう片方の腕が俺の頭に向かって伸びてくる。
其れを避けた所で既に空いた片手が確実に此方を捕らえるために伸びてくるのは目に見えていた。
このまま一方的に攻撃を与えられてばかりでは、もう片方の腕も壊されるだけだ。
俺は折れた側の肩に力を籠め、不可思議に外側へと曲がった腕を振り回しつつ男の腕にぶち当てると、一瞬怯んだ男の腕の隙間を縫って男の首元に攻撃を当てる。
パッと飛び散った赤い鮮血と、男の髪を認識してから姿勢を低くし、逆手に持った刃物を上に向かって 振り抜くと再度伸ばされていた腕を掠め、其処にも軽い切り傷を残した。
此れではまだ浅い、と続けて斬撃を繰り出す。
素早く刃物を振る事により、無数の白い軌跡を残すこの攻撃は確かに男の腕を僅かながらだが、削り取っていく。


「……!?」


しかし、その無数の斬撃を防いでいる腕の向こう側より、赤い光が見えたと思った途端、足元から炎が吹き上がる。
恐ろしい程の熱に視界が塞がれ、目を開けた時にはもう至近距離にまで男が迫っていた。
まずい、と咄嗟に蹴りを出すが、其れも足首を掴んで受け止められる。


「……ぅぐ……っ……ああ゛……!」


掴まれた足首に熱を加えられ、肉の焼ける匂いが周囲に漂う。
冷徹な瞳が此方を観察するように見つめているのを理解し、刃物を持った手を足を握っている腕に向かって振り抜こうとするが、その前に足を引かれ草むらに倒された。
そして草むらに横たわった俺の腹を男の足が容赦無く踏みつけてくる。
どうにかして抜け出そうともがくが、斬りつけようとした手も、俺の血に濡れた男の手によって刃物自体を弾き飛ばされてしまった。
其れでも動く手で男の足首を掴み、退かそうとするが、逆にさらに力を込められ息が詰まる。


「ッ…………随分、……悪趣味じゃないか……」

「お前のような相手は先に四肢を潰す方が良いだろう」

「……それは、間違いないな……」


男の背後にある月が薄ボンヤリとした光を発しているのを見ながら、息も絶え絶えにそう囁くと腹を踏む力を僅かに抜いた男が一つ息を吐いてからそう呟く。
四肢が全て揃っている状態でさえ、男と渡り合うのが難しいという状況だったというのに、例え左半身だとしても壊されれば勝機はほぼ無くなる。
その上、こうして腹を踏まれている以上、逃れようが無い。
あっけない結末、いや、想像よりは善戦した方かもしれなかった。
俺は全身に詰めていた息を吐き出し、此方を踏みつけている男を見つめる。
ちぎれた衣服を纏った腕は、幾つかの裂傷が残り、首筋近くには大きな切り痕があった。
腕の傷口から滴った血液が、丁度俺の頬へと落ちたのを理解し、男の足首に爪を立てていた手を 離してその血を親指で拭い取り舌先で舐めあげる。
少量ではあったが、其れは当然の如く濃い鉄錆の味がした。
けれど、甘く芳醇な香りに感じられた其れを体内に入れる事は思っていた以上に此方の欲を満たしてくれる。
そんな行動を怪訝そうに見ていた男に俺は自分でも満足げだと分かるくらいの声音で囁いた。


「もう終わりだ。名残惜しいけどな……日もそろそろ昇るだろう」

「……そうだな」

「最高だったよ……アンタとの闘いは。今までの経験とは比べ物にもならない、最高の時間だった」


そう言った俺の腹の上から足を退かした男が間髪を入れずに手を伸ばし、此方の首を押さえつけてから跨るようにして両足を地面へとつける。
触れられる程、近くなった距離に俺は男の首筋に手を寄せ、其処に出来た裂傷を指先でなぞった。
この傷も男の回復力ならば其処まで長い時間はかからずに治ってしまうのだろう。
だが、せめてほんの僅かでも良いから、俺が刻んだこの傷跡が残ればいいなんてそんな想いを込めながら。


「……名は」

「……は……?」

「……お前の名は」


低く呟かれた男の言葉に、理解が及ばずにいると男が急かすようにさらに言葉を重ねる。
一体なんのつもりなのかと考え込みそうになるが、男の深い瞳がただ此方を見ているだけな事に気が付き、掠れた声で答えを返していた。


「……七夜、志貴だ」

「『七夜志貴』……か」

「……何故、急にそんな事を聞く?」


頭上にある月が遠くに堕ちていく中で、上に居る男にそう問いかけると困惑したような顔をした男が瞬きをした後に調子の変わらぬ声で囁く。


「此れからオレが『殺す』相手の名だ。……知っておこうと思ったが、嫌だったか」


…………男の言葉に何も言えなくなる。
まさか男の口からそんな言葉が出てくるなどと思ってもいなかった上に、俺を『殺す』となどという台詞を聞かされる事になるとは。
静かに首を横に振ると、頭の後ろに敷いた草の匂いが鼻に入り込んでくる。
自分はただの餓鬼に過ぎないと男に語ったように、しっかりと理解していた。
だからこの闘いの果てに『死ぬ』のではなく、ただ『消える』のみだと考えていた。
けれど、男はそんな俺を『殺す』と言ったのだ。
たったそれだけだというのに、認められたような気がしてしまう。


「いいや、……問題無いよ」


そんな些末な言葉の違いを男が意識して言っているのかは分からなかったが、其れでもこの胸が確かに満たされるのを感じた。
やはり男は俺にとって、何物にも代えがたい『水』だったのだ。
首元にかけられた指先で緩やかに其処を締め上げられ、呼吸が苦しくなる。
熱を操る男が、此方を燃やし尽くさないのは、良心からだろうか。
其れとも、俺の体が炭化して醜くなるのを少しは惜しんでくれているのか。
次第に薄れゆく意識の中で、視線を逸らす事無く俺を見つめている男の瞳を記憶に残すようにひたすら最期まで見つめ返していた。



-FIN-








戻る