瓔珞百合



温かな光が差し込む庵の小さな縁側に座り込み、目の前に広がる大小様々な木々を眺める。
春も終わりに差し掛かり、時折強い風が吹くようになったこの場所は、季節によってその表情を大きく変え、元々森育ちの俺にとっては此処から見える光景を意味も無く眺めるのは何時しか日課のようにさえなっていた。
また、この庵の主である男はいつも通り日課である読書を部屋の隅にある書見台で行っているようだ。
男と共に住むようになったのは、つい最近の事ではあるが、此処はとても居心地が良い。
其れは男の想像していた以上に穏やかな性格と、庵のある場所が幼い頃に慣れ親しんだ自然の中だからだろう。
薄氷色の着物を纏った身体を温めるように当たる日の光に僅かに眠気を感じていると、そんな眠気を更に煽るように柔らかな風が吹く。
そして風に乗って森の奥から運ばれてきたらしい桜の花弁が空に舞う光景に思わず目を奪われた。
咲いている桜には勿論風情を感じるが、それ以上に散り際は一層美しく感じる。
以前は興味すら持たなかったというのに、今では自然とこんな事を考えるくらいには俺の思考自体もまた、移り変わる季節のように絶えず変化していた。


「七夜」

「……うおっ!?」


ぼんやりとしていた俺の背後にヌッという効果音が付きそうな現れ方をした男に、自分でも恥ずかしいくらいに声をあげてしまう。
普段通り本を読んでいたというのに一体どうしたというのか。
確認するためにそのまま顔を後ろに向けると、胡桃色の着物を纏い不思議な表情をした男が立っていた。
ほぼ初めて見る男のそんな表情に、一瞬どのような反応をすれば良いのか分からなくなるが、必要以上に驚いてしまった自分自身を誤魔化す為にも苦笑しながら声を掛ける。


「おいおい、気配を消して後ろに立つなんて悪趣味じゃないか」


しかし俺の言葉に、嗚呼、と気のない返事をした男はそのまま縁側に胡坐を掻いて座り込むと、俺の腰を掴んで足の上に乗せた。
余りにも急な出来事にされるがままになってしまったが、直ぐに状況を理解し、羞恥で逃げ出したくなる。
だが、既に男の太い腕が腹に回されており、逃げ出そうにも逃げ出せなかった。
今まで男がこのような行動をしてきた事はない。
だからこそ、男の意図が読めずに自分でも掠れていると分かるような声で背後の男に言葉を投げ掛けた。


「ッ……なんだよ、急に……」

「……」

「なにか言えよ……」


必死な俺の言葉に答えない男は抱きしめている腕の強さを変えずに此方の首辺りに顔を埋めて、緩やかな呼吸をしている。
着物の隙間から出ているうなじに当たる男の吐息と、擦れる癖の強い髪の毛先に、ゾクリと背中が痺れた。
男の意図している事が理解出来ずにいると、俺の腹に回っていた内の片方の腕を離した男が僅かに離れた体を更に引き寄せるように此方の肩に手を掛ける。
本当に男は何を考えているつもりなのかと再度、背後にいる男に向かって声を掛けた。


「何かあったのか?……黙っていたら分からないだろう」

「……特に意味は無い」

「……は……」

「……深い意味は無いが、ただ、お前を愛でたくなった」


ふ、と含み笑いをしながら男が囁いた言葉に頬が一気に熱を帯びるのを感じた。
どんな顔をしてそんな事を言っているのかは見えないが、逆にそれが助かったと思うくらいに己の顔が熱い。
その間にも絶えずうなじには寄せられた男の頭が摺りつけられる。
まるで人に懐いた巨大な獣のようなその行為に、何も言えなくなってしまう。
男と共に暮らして其処まで長くは経っていないが、それでもそこそこ男の色々な側面を見てきたつもりだったのに、こんなにも甘えたがりだとは考えてもみなかった。
照れ隠しに、そっと片手を背後に伸ばして男の癖のある髪を撫でつつ、冗談じみた口調で囁く。


「……随分と甘えたなんだな、知らなかったよ」

「そうか?……隠していたつもりは無かったのだが」

「……」


此方の言葉に少しは動揺を見せるかと期待したのだが、より一層甘さを増した声でそう答えを返してきた男は摺り寄せていたうなじに軽く口付けてくる。
何度も繰り返し落とされる口付けは煽るというよりかは、本当にマーキングのようで、擽ったく感じた。
その間にも男の髪に絡めた指先を動かし、獣を撫でるように髪に触れる。
すると男が此方の腹に回していた腕とうなじに寄せていた顔を放して、体の向きを変えてきた。
男の膝の上で横抱きのような状態にされた俺は、此方に近づいてくる男の柔らかく触れるだけの接吻を受け入れる。
そしてゆっくりと離れた後に、穏やかな光を灯した男の隻眼と視線が絡んだ。
互いに無言のまま、男の温かな手が伸ばされ頬を撫でてくる。
僅かにかさついた掌は此方の心を酷く落ち着かせた。


「……しかし、なんで急に触りたがるんだよ。さっきまで全然普通にしてたじゃないか」

「お前が先ほど桜を見ていただろう」

「桜?……そういえばそうだったな」


会話の間にも頬を撫でていた手を動かし、今度は髪に触れた男に言われて、空に舞っていた淡い色の花弁を思い出す。
その後直ぐに男に名を呼ばれて驚いた為にすっかり記憶から抜け落ちてしまっていた。
桜を見ていた俺を見て何か思うところがあったのだろうかと、不意に思いついた事を笑いながら呟いてみる。


「まさか、……俺が消えそうだ、とか思ったのか?」

「いや……そうではない」

「……じゃあなんだよ」


まさかと思いながらも発した言葉は否定されたが、その後、男は自分の中にある感情を模索しているかのように一度大きく息を吐いた。
俺はその言葉の先を聞きたくなって、ついつい急かすような発言をしてしまう。
しかし、男が己の中にある感情を言葉にして吐露するのが得意ではない事を思い出し、考え込んでいる男の顔をただ見つめた。
暫し黙ったまま髪を撫で梳かしていると考えがまとまったのか、静かに男が言葉を紡いだ。


「お前がこの空間に当然のように溶け込んでいる事を改めて認識した、と言えばいいのか……」

「……」

「そう思った瞬間、お前に無性に触れたくなった」


此方の額に髪越しに口付け、至近距離で優しくそう囁いた男に胸が苦しくなる。
だが、この苦しさは痛みでは無く、寧ろ縛られる事によって得られる心地よさすら感じる苦しさだ。
先ほどの言葉の重みを男が自覚しているのか分からないが、ただの『人』として生きているとは言い切れない俺にとってその言葉は何よりも胸に響く。
そうして、男にとって俺が此処に存在するのが当然として受け入れられているというのを改めて理解する事が出来たというのも嬉しく思えた。
こういう事に関して男が言葉にする時が少ないからこそ、余計に。


「軋間」


男の名前を呼び、両手で男の頬を包むと顔を寄せて薄い唇に口づける。
そのまま続けて男の鼻や、長い前髪に隠された傷跡に触れては追いかけるように唇で触れていく。
そうして腹を抱く腕に片手を添わせると男の首筋に頭を寄せた。
鍛え上げられ隆起した筋肉のついた腕に触れると、僅かに此方を抱く力が強まった気がして笑ってしまう。


「アンタ分かってるのか?……それって最高の殺し文句だ」


勝手に緩む口元を隠す事無く、胸の中にある言葉を吐き出すと此方の髪に顔を寄せた男が笑っているのが聞こえた。
互いの穏やかな呼吸が重なって、一つになっていくような感覚を知る。
このまま眠りについてしまいそうな程の安心感に身を委ねてしまいそうになるが、その感覚に溺れる前に強い風が吹いた。
またも桜の花びらが舞うような風から守る為か、もっと胸元に俺を抱き寄せた男を見上げると、乱れた前髪を指先で整えてくれる。
俺は指先を掴んで口付けると、横から男が口づけてきた。
触れれば触れ返してくれる。声を掛ければ答えが返ってくる。
普通であれば当たり前の事だろうが、俺と男の間にこのような関係性が生まれるまでにはとても長い時間が掛かった。
昔を思い出して妙に感慨深い気持ちに陥りそうになるが、その前に男が声を掛けてくるのが先だった。


「どうした……?」

「ちょっと昔を思い出したんだよ。……まさかアンタがこんな台詞を吐くようになるなんてな」

「……嫌か」

「まさか!嫌だったら一緒にいるわけがないだろう?」


顔を近くに寄せたままの男がそう囁いたのを肩を竦めて否定すると、嬉しそうに男が口付けてくる。
――――本当に飼い主に甘える忠犬のようだ。
そうしてそんな男を心底愛おしいと思う。
厚い胸板も、此方を抱きしめる温かな腕も、広い掌も、黒い隻眼も。
解脱を求めて自らを研鑽しながらも、その奥には潜めた『鬼神』としての矜恃を抱いているという二面性を持った高潔で強靭な精神も。
男を構成する要素全てを俺は欲しては殺したいと願い、同じように男は俺を求めては壊したいと願っている。
けれど根底には、やはり紛れ様もない程の『愛』という青臭い感情があるのだろう。
離れそうになった男の髪を引き寄せ、此方からも惜しみなく接吻を落とす。
もう何度目かもわからない口付けは其れでも足りないと感じるくらいだった。


「……本当に可愛い奴だなぁ、アンタは」

「そのような事を言う奴はお前くらいだ」

「当たり前だろ。そんな事言う奴が居たら、俺が許さないしな」

「そうか」


クスクスと笑う俺の唇を親指でなぞりながら、肯定の言葉を使う男に笑みが深くなる。
これ以上俺を魅了して一体どうするつもりなのだろう。
そんな事を考えつつ、俺はまた顔を寄せてくる男の唇を目を閉じて受け入れながら、ふわりと庵全体を覆うように吹く風を感じていた。



-FIN-






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