吾亦紅




「軋間ー……さっきから、聞いてんのかよー……?」


燭台の灯りが揺らめく中、周囲に散らばっている空になった酒瓶に手を伸ばし、畳の上に並べる。
四半刻ほど前から、完全に此方にしな垂れかかるようにしつつ白い杯から怠惰的に酒を呷る七夜に、どのような反応をすればいいのか皆目分からず、同じように己の杯に入った酒を呑む。
この餓鬼とオレの庵で時折酒を酌み交わすような間柄になってから随分と経つが、此処まで酔いが回った七夜を見るのは初めての事だった。
そもそも普段ならば囲炉裏を挟んでオレの向かい側に座り、ある程度の時間になればほろ酔いの上機嫌で街に帰っていく餓鬼を僅かに心配しつつも見送るのが常なのだが、今日は考えてみれば端から隣に座ってきたのを思い出す。
もしかしたらオレが気が付かなかっただけで此処に来る前に『何か』があったのかもしれないが、ともかく隣に座った七夜が手土産に携えてきた酒だけではなく、庵に貯蔵していた酒も二人でほぼ全て飲み干していた。
オレとしては少しばかり飲み過ぎたと思う程度だったが、七夜にとってはそうでは無かったらしく、もはや完全に出来上がったのか、今までに無い位の斑気さを発揮してきている。
まさかこんな風になるとは想像も出来ず、七夜の飛び飛びで紡がれる理解不能な会話に曖昧な答えを返し続けているが、其れは向こうの望む返答では無いらしく苛立った様子を見せた七夜が遂に飲み切った杯を畳に置き、此方を凝視してくる。
しかし睨んできている瞳には鋭さがある訳ではなく、寧ろどちらかといえばドロリとした濁りを帯びていた。


「お前、やっぱり聞いてないだろ」

「聞いているだろう」

「……本当かなぁー……アンタたまに嘘つくからなー……」


そう言いつつ隣に居た七夜が今度は此方の膝に片手で触れたかと思うと、顔を覗き込んでくる。
他者と共に呑む事など自身の生涯の内で殆ど無かったオレは此れが俗にいう『絡み酒』というものかと感興を覚えながら、七夜の行動を窺う。
其れと同時に餓鬼の発した言葉に引っかかりを感じて、七夜の身体を避けながら手を伸ばし、畳の上に置かれた残り僅かになっている最後の酒瓶を手に取った。
そのままその酒瓶から持っていた杯に手酌して酒を注ぎ足しつつも答えを返す。


「……嘘?……そのようなモノをついた覚えはないが」

「……アンタは誤魔化してるつもりかもしれないけど、……顔に出てるんだよ」

「……其れがお前には分かるのか?」


手に持った杯を唇に当てて酒を呑みながら、素直に疑問に思った事を口に出す。
己でも自覚してはいるが、オレは感情が滅多に顔に出ない。
その上、元から感情の起伏自体も少ない為に一層変化が乏しいのだ。
すると膝に触れていた手を動かした七夜が、更に顔を近づけてくる。
色素の薄い瞳が間近に迫ってきたため咄嗟に顔を引きそうになるが、膝に当てられていた手に力を込められ制止される。
そうして至近距離で見つめ合うという不思議な緊張感を和らげるように、不機嫌そうに顰められていた眉が解かれ、急に柔らかく笑った七夜が目を細めて囁いた。


「分かるさ……当たり前だろ?……アンタの事は良く見てるんだ」


燭台の灯りに照らし出された七夜の睫が瞬きの度に頬にうっすらとした影を落とす。


「だから分かるよ。……アンタの事は他の奴なんかよりずっと、ずっと、見ているんだから」


フワリと笑んだまま、『ずっと』という部分を強調しながら語られた台詞に仄かに痺れを覚える。
今まで餓鬼が飲みの席で此処まで自身の心情を吐露する事は無かった。
確かに会えば幾らだってそのよく回る口で語る事は多かったが、それはあくまでも互いの近況報告や書籍の話などの世間話程度で、何故此処に通うようになったかなどの核心部分は幾ら聞いてもはぐらかすだけだった。
初めのうちはその返答に当然、不信感を抱いていたが、何時しか重ねられる逢瀬に次第にどうとも思わなくなっていた。
寧ろ、今は餓鬼が来ない日の方が物足りなく感じるくらいだ。


「なぁ、だから…………誤魔化しても無駄なんだよ」

「……そうか」

「……そうだよ……」

「……七夜?」


此方の想いを見透かしたかのような言葉に、まだ続きがあったのかと離れていた意識を戻すが、其れを語る前に七夜が眠たそうに空いた片手で自身の目を擦るのが先だった。
オレは持っていた杯を畳に置くと、両手で七夜の肩を支えながら声を掛ける。
掴んだ肩は細く、力加減を間違えればきっと瞬時に破壊してしまうだろう。


「もう眠いのだろう?……布団を敷いてくるから今夜は泊まっていけ」

「………眠くない」

「……しかし……」

「……まだ、アンタに聞いて欲しい事が、色々……あるんだよ……」


割れやすい陶器を扱う時のように細い肩を支えているものの、駄々を捏ねる童のように首を振った七夜にそのまま首が折れるのでは無いかと妙な不安を覚える。
そのため、肩を支えていた手の片方を動かし七夜の頬に当てて顔を固定させようと試みた。
すると相変わらず濁りを帯びた瞳を此方に向けた七夜と真っすぐに視線が交わる。
目が合った瞬間に濁っていた瞳に僅かに光が灯り、目元が仄かに赤みを帯びたように見えた。
だが、そう感じたのも一瞬で、頬に触れた掌に顔を摺り寄せてきた七夜がそのまま聞こえないくらいの声音で囁いた。


「……アンタの手ってやっぱり熱いんだな……」

「……」

「……これは知らなかった」


クス、と笑った七夜にどのような反応を返せばいいのか分からず困惑する。
きっとこうして躊躇いも無く触れてくるのは酔いが回っている上に眠気に襲われているからだろう。
――――そうで無ければ、こんな風にオレなんぞに触れられて此れほど嬉しそうな表情をする訳が無い。
何処か言い訳じみている言葉を自分自身に言い聞かせつつも、頬に触れている手を動かし、ゆっくりと唇を開いた。


「……随分酔っているな……早く寝た方が良い」

「だから……酔って、ないって……」


言葉を区切りながら言う七夜にこれ以上の問答はしても無駄だと理解し、頬に当てていた手を離すと細い腰を掴み胡坐を掻いていた膝の上に七夜を抱き上げる。
若干の抵抗もあったが、すぐに大人しくなった七夜が不満げな顔をしながら囁いた。


「……なんだよ、なんで抱き上げるんだよ」

「……」

「……なぁ……」


拗ねたようにそう言う七夜に答えるのも面倒になって、腰を掴んでいた両手を動かし片手で背中を擦り、もう片手で頭を押さえて肩に顔を凭れさせた。
そうして指先に絡む柔らかな髪とその下にある小さな頭骨を壊さないようにゆっくりと撫でる。
何故このような行動に出たのか自分でも理解し難かったが、首にかかる吐息が心地よい。
だが、頭を撫で始めてからは大人しい猫のように静かになった七夜の手が此方の背中に回され、着物を握りこまれる。


「……軋間……」

「……なんだ」

「……」


オレの名を呼んだ七夜に今度は素直に答えを返すが、髪を撫でる手はそのままにしていると黙ったまま肩に頭を摺り寄せてくる。
その行動にもっと撫でろと強請られているようで、応えるように出来るだけ優しく何度も掌で往復していく。
絹糸のように手の中で流れていく髪を撫でながら、背中に添わせた手も動かし背を擦る。
他者を寝かしつけるという行為をまさか自分が行うとは考えてもいなかったが、戸惑いながらも自然と身体が動いていた。
青い学生服の上から触れた背中は薄く、呼吸の度に確かに生命の脈動を感じた。
命あるモノをこの腕の中に抱くというのはこんなにも複雑な感情を呼び起こすのだと初めて理解する。
少しでも力の加減を間違えれば呆気なく骨を折り、その奥にある心臓までも容易に破壊出来るだろう。
空想しただけでも怖気の走る光景に恐怖してしまい、思わず髪を撫でていた手が止まった。
此方に真っ当な殺意を溢れんばかりに滲ませていた餓鬼は何時からオレを此処まで絆していたのだろう?
脳内に浮かび上がる疑問とは裏腹に、止まっていた手を再び動かし始める。
もしもこの状況を七夜が望んでいたのならば、『全てを見透かしている』と言外に訴えていたのにも納得がいった。
そもそも一番初めに酒を持って現れた餓鬼を追い返しきれずに共に杯を交わした時点でオレは七夜に駆け引きで負けていたという事だろう。
そんな事を考えている合間に、着物を握りこんでいた七夜の手から力が抜け、肩口に乗せられた顔からは微かな寝息が聞こえてくる。
すっかり熟睡してしまったらしい七夜に、寝かしつけたのは良いものの、動けばきっと目覚めさせてしまうという事に漸く気が付く。
せめて布団にまで運んでから寝かしつけるべきだったかと後悔するが、それ以上に七夜が自分の腕の中で眠りについた事に動揺と共に安堵を覚えていた。
撫でる手を僅かに緩めながら、ふと顔を動かし撫でていた髪に唇を寄せてみる。
己の癖の強い髪とは異なって、やはり柔らかな其処は唇で触れても尚、繊細な感触を此方に伝えてくる。


(コイツが素面の時にこういう行動したならば、一体どのような反応をするのだろうか)


頭の中で考えてみるが、見た事の無い光景はなかなか想像し難く、すぐに諦めてしまった。
此処まで泥酔している七夜を見るのも今宵が初めての事で、正直、既に脳内処理の範囲を超えている。
髪に寄せていた唇を離し、燭台に点る光を見つめつつ、庵の外から聞こえてくる涼やかな虫の音を聞きながら再び両手を動かし始めた。


□ □ □


ずきずきと頭が痛む。
痛みに閉じていた瞼を開けると、目の前に小豆色の着物が見えた。
この着物には見覚えがあると痛む頭の中から記憶を引きずり出しながら、視線を動かす。
癖のある髪と、その隙間から見える筋がしっかりとした首が緩やかに動いているのを確認し、段々と状況を理解する。
今日、街で偶然にも兄弟に会った俺は柄にも無く子供っぽい言い争いをしてむしゃくしゃしていた。
こんな日はいっその事、慣れ合いのような事をしている内に、いつの間にか好いてしまっていた男の庵に乗り込んで共に酒を食らうのが一番の憂さ晴らしになると意気揚々と酒を携え山を登った。
そうして何時ものように困惑している男に酒を手渡し図々しくもあがり込んだのが恐らく夕刻くらいだっただろう。
其れから浴びるように酒を呑み、途中からほぼ無意識で男に対して今まで思っていた事柄を延々と語り続けていたような気がする。
しかし、どうして其れが男の腕の中で眠っているという状況に陥るのだろう。
――――もしや、散々グズついて結局男に抱かれたままずっと眠っていたのか?


「……は……」


その事実を再認識し直した途端、間抜けな声が唇から洩れるのと同時に、自身の体から血の気の引く音がハッキリと聞こえた。
先ずは顔を上げて男の表情を確認すべきだろうと恐る恐る顔を上げてみる。
すると、俺を抱きしめながら目を伏せていたらしい男はゆっくりとその瞼を開いたかと思うと微かに眉根を寄せ、困ったような顔をして微笑んだ。
目の前にあるその見慣れない笑みに、頭の痛みも忘れる程に心臓が脈を速める。


「……起きたか」

「俺は、…………ああ……ダメだ……頭が痛くて……考えが纏まらん」

「あれだけ呑めば頭も痛むだろうな」


男の少しだけ呆れているようだが柔らかな口調に安堵しつつ、また先ほどの頭痛がぶり返してくるのを男の着物を掴む事で堪える。
普段はこんなに後を引く程呑む事が無かった為に、まさか自分が此処まで酒に打ちのめされるとは考えてもみなかった。
そして、俺が必死に堪えているのを見て哀れに思ったのか背中に添えられた掌が髪に触れたかと思うと、まるで熱い物を注意深く触るようにゆるゆると撫でられる。
炎を扱う男が熱いと感じるモノなど存在しないだろうから、この例えは間違っているかもしれない。
けれど、そんな在り得もしない想像をしてしまう程にその手は此方を労わる温度をしていた。


「だが、オレも途中で止めるべきだったな……すまない」


其れと同時に耳元で囁かれる低い声にゾクリと背中が甘く震える。
この男はこれほどまでに優しかっただろうか?という疑問さえ頭の中に浮かぶが、考えてみれば朴念仁に見えてその実、芯から清廉な所が何時しか良いと思っていたのだ。
心底酔っぱらった顔馴染みの貧相な餓鬼の世話など面倒極まり無かっただろうに、嫌な顔一つせずに謝罪までしてくるとは。
俺は確実に酔った所為だけでは無い頬の火照りを見られないように敢えて苦しんでいるフリをして男の首筋に先ほどと同じように顔を寄せる。
その間にも頭に添えられた男の掌は此方の髪を緩慢に撫でてきていた。


「アンタが謝る事じゃない……限界を見誤った此方が悪いのさ」

「……しかし……」

「……寧ろアンタにこんな介抱までさせちまって……餓鬼をあやすのは心底面倒だったろう?悪かったな」


段々と治まってきた痛みと共に、逆に男に自虐的に謝罪の意を伝える。
好いた相手に酔って絡むなど羞恥の極みだというのを改めて思い出したからだった。
きっと男も普段通りに俺の言葉に軽口で返してくるだろうと思っていたが、囁かれた言葉は俺の想像していた言葉とは僅かに異なっていた。


「別に煩労では無かったぞ。其れよりか……」

「?……それより、なんだよ」

「……いや、何でもない」


何故かその先の言葉を濁した男に続きを促してみるが、結局言うのを止めてしまった。
一体男が何を言いたかったのか普段ならばその表情をさり気無く観察してどうにか探ろうと試みるのだが、この問答の合間にも絶えず押し寄せる頭の痛みと、其れを忘れさせてくれる程の男の温かな両の掌に一々意図を探るのは野暮かとさえ思う。
何より、酔った勢いとはいえ男の腕に抱かれる事自体今後無いかもしれない。
だから本当は、出来る事なら全てを酒の所為にして童のように甘えたかった。
けれど流石にこれ以上は図々しすぎるだろう。


「とりあえず、いい加減アンタも重いだろう?……もう大丈夫だからそろそろ退くよ」


ゆっくりと体を起こしながらそう言うと、頭の上に乗せられていた掌にほんの少しだけ力が込められ再び首元に顔を寄せさせられる。
まさかのその行為に動揺している俺に対して、静かに男が囁く声が聞こえてくる。


「……焦る必要はない」


けして冷たいわけでは無いが、今までに聞いた事のない声音に思わず男の名を呼んでしまった。


「ッ……軋間……?」

「……もう少し休んでいろ」

「……だが……」

「辛いのだろう」


此方の言葉を遮るように発された有無を言わさないその言葉に、一体どういう事なのだろうと男の顔を確認したかったが其れは叶わなかった。
しかし、頭を押さえたままの手は絶えず此方の髪を撫で梳かしてくるものだから怒っている訳では無いのだろう。
…………もしかしたら俺に顔を見られたくないのか?という想いが脳内に浮かび上がる。
俺が男を理解したいとするあまりに表情を常に観察してしまう癖が何時しか出来てしまったという事は、多分、知られてはいない筈だ。
だが、記憶が無い合間に何を口走ったのか定かではないのが恐ろしい。


「……なぁ」

「ん……?」

「……やっぱり……、何でもない……」

「そうか」


思い切って己の醜態を晒した時の話を確認してみようかと唇を開くが、結局恐ろしくなって言葉を濁す。
まるで先ほどのやり取りを繰り返しているようだと思っていると、微かに笑った男が背中を擦っていた掌を動かし、此方を抱きしめる力を強めてきた。
熱を帯びた太い腕が背中にぴたりと触れるのを感じて、喉が詰まる感覚がする。
俺をこんなに甘やかして、一体男は今後どうしようというのだろう。
此れでは頭の痛みが無くなり、酔いが醒めきっても、まともに顔を上げて視線を交わす事さえ出来なくなってしまうではないか。
完璧に茹で上がった顔を男の肩に半ば擦り付けるようにしながら、やられっぱなしは癪だと冗談じみた口調で囁いてみる。


「……アンタって随分俺に甘くなったよな……、餓鬼の扱い方を覚えたのか?」

「……オレは己がしたいようにしているだけだが」


しかし俺の言葉にそう返してきた男に何も紡げなくなり、唇を閉じる。
己がしたいからしているという事は、俺をこうして抱きしめている腕も髪を撫でる指先も俺の為だけでは無く自分の希望も入っていると言っているに等しい。
そういう内容を俺に語っているという事実を男は自覚しているのだろうか。


「七夜?」

「…………頭が痛い」

「……大丈夫か」


黙り込んだ俺に心配そうに投げかけられた言葉にやっと其れだけ囁くと、更に男が髪を撫でてくる。
男に何を言っても此方が一層羞恥にまみれて動けなくなるだけだと漸く気が付く。
その瞬間、今は虚勢を張るのは止めようと男の背に縋りつくようにその着物をしっかりと握りしめていた。



-FIN-






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