九相図の果てに


※二人とも死ネタ・死体描写あり・バッドエンド


 物事の終わりというのは想像以上に呆気なく訪れる。
だが、こんな結末を一体誰が認めるのだろう。

 眼下に横たわる『鬼』の姿を見つめながら、自身の片手を手に持った『七つ夜』と一緒に強く握り込んだ。
恐らくは住処だったのであろう小さくて古ぼけてはいるが、手入れの行き届いていそうな庵の直ぐ近くで倒れていた『鬼』は身体中から血を流し、特にその首元にはパックリと開いた巨大な傷口が残されている。
薄ボンヤリと開かれた隻眼に光は点っておらず、遠くの空で此方を嘲笑うかのように満ちている月の明かりを吸収して一層仄暗さを増していた。


「…………ッ」


 ――――声も出ないとはまさにこの事だ、と何処か冷静な己が脳内で呟く声を聞いた。
この森に男が隠れ住んでいると知り、そうして今日の今日まで積み上げた幾つもの未練や義理を清算し、漸く此処まで辿り着いたというのに倒すべき『鬼』が既に誰かの手に因って無残に殺害されているなど。
馬鹿馬鹿しい悪夢だと一笑出来れば良かったが、男が殺害されてから数時間が経過しているようで、見て分かる程に死後硬直が進んでいた。
そうして周辺の草むらや木々は酷い焦げ跡を残し、何者かと男が死闘を繰り広げたらしいというのも理解出来た。

 だが、其れでも喉から発せられる言葉は何一つなく、まるで自分の体から発声という概念自体が消し去られたかのような感覚に陥る。
これは何かの間違いで、悪夢から生み出された己が見ている悪夢なのだと思い込みたかった。
 だからこそ、握り込んだ刃を離す事はしないまま、そっと男の傍に膝を折って近づくと、彫の深い顔をマジマジと見つめて、震える手を伸ばした。
冷たい温度を指先に与えてきた頬を撫で、更に手を動かし長く癖のある前髪を除けてその下にある目を確認する。
 前髪で隠された目は潰されており、他の傷よりも遥かに古い其処を指先でなぞるとザラリとした感覚が直接、指の腹に伝わってくる。
何度かその傷口を撫でてから、今度は微かに開かれていた反対側の瞼に触れ、閉じてやった。

 此処までして、この男は本当に死んでいるのかという疑問が頭の中に満ちる。
確かに血にまみれ、動くことも無く、声を発する器官さえも切り裂かれてはいるが、余りにも唐突過ぎて脳内処理の範囲を超えていた。
 だから目の前に明確に示された【男の死】という事象に対して笑う事も謗る事も、ましてや泣く事も出来ない。
まるで胸に巨大な杭を打ち込まれ、塞ぐことの出来ない大穴をブチ開けられたかのような感覚に、目を閉じ、一度大きく息を吸ってその穴を吸い込んだ空気で覆い隠そうと試みる。
けれどそんな行為は到底無意味で、持っていた刃をズボンのポケットに滑り込ませると閉じていた目を開く。

 閉じる前と何一つ変わらない光景を再度見据え、倒れ込んでいる男の頭側に移動すると、しゃがみ込んで男の背中を通り、脇に引っ掛けるように両手を滑り込ませた。
ヒヤリとした肌の冷たさと、微かに乾いてはいるものの、ぬるついた血液の感触を指先で感じながら完全に力の抜けた体をゆっくりと引き摺る。
 腰を落とし、渾身の力を込めて踏ん張らないと自分の方が倒れ込みそうな重さに気力が奪われていくのを感じつつもジリジリと少しずつだが庵へと近づいていく。
体を引きずる度に、ズルズルという音と共に地面には男の踵によって描かれた跡と、血の跡が残り、眩暈がしそうになる。
 其れでもどうしてだか、このままこの男を此処に置いておく気にもなれず、かといって地面に穴を掘り、埋めるのもしたいとは思えなかった。
ともかく今は数瞬でも早く傍にある庵の中にまで男を連れていかねばならないというその一点だけが己の胸の中を占めていた。



□ □ □



 どうにか男を庵の中にまで引き入れ、恐らく寝室として使っていたのであろう部屋にまで運び込む。
途中で通ってきた道を示すように黒く煤けた土と血の混じった跡が畳や床板に残っているが、其れは後でどうとでもなると勝手に部屋の隅に丁寧に畳まれていた布団を広げ、そっと倒れた男の横に敷き直す。
 長年使われた所為で薄くなってはいるものの、綺麗に洗濯され、大した皺もなく整えてある布団に、一度も語る事すら出来なかった男の性格を垣間見た気がして息が詰まる。
どうしてだとか、何故、という感情が脳内に去来するが、もう一度深く息を吸い込み溢れそうになる『何か』を押しとどめた。

 とりあえず血に汚れた男の体をどうにかしなければと疲労している肉体に鞭打って、ゆっくりと立ち上がる。
男を此処に運び込んだ時点では必死であった所為か、周囲に目を配る余裕も無かったが、改めて辺りを見回すと随分と殺風景ながらも確かに理性ある生き物が生活していた気配を感じた。
オレはそのまま男を引き摺った跡を辿るように先ほど開いた襖を潜り、居間として使用されていたらしい囲炉裏のある部屋へと戻る。
部屋の中心に備え付けられた小さな囲炉裏の傍には簡素な造りの書見台があり、読み掛けだったらしい古書が置かれていたり、更にはこれまた丁寧に片付けられている煙管盆があった。
『鬼』が煙管を遣りながら書物を嗜むなど、もしもオレが他者の正義の為に鬼退治にでも来た桃太郎だったならば、この光景を見てさぞや驚いただろうなと苦笑する。
だが生憎とオレはただの滅亡した一族の『亡霊』に過ぎず、『鬼退治』だとしても結局のところは全て己の為の物だった。

 …………だからこそ、この幕引きは納得なんて到底出来ない。
そのまま居間を通り抜け、土間造りの炊事場との境にある小さな板の間に戻ると、汲まれたばかりらしい透明度の高い水が入った桶を発見した。
 更に近くに置かれたままの手ぬぐいを見つけたので、其れを拾い上げると桶に無造作に放り投げ、桶ごと持ち上げる。
水を零さないように両手でしっかりと抱えながら、男を寝かせている部屋にまで桶を運ぶと敷いた布団とは反対側の畳にその桶を下ろした。
桶の中でゆらゆらと揺れ動く手ぬぐいを確認してから、男の衣服に手を掛け、金具を外していく。
 何者かの所為で所々破かれた衣服の前を寛げると、同じように傷つきながらも恐ろしい程に鍛え上げられた肉体が現れ、其処に残る傷口に唇を噛む。
オレの持つ『七つ夜』でさえ、男の肉体を此処まで裂く事は難しいだろう。

 そんな事を考えながらも、桶の中に両手を入れて中にある手ぬぐいを掴むとしっかりと水気を絞り、片手の上に乗せると汚れてしまっている男の体をゆっくりと手ぬぐいで拭い始めた。
既に乾いている部分は幾度か擦って漸く血の色が無くなりはじめ、その分拭いている手ぬぐいが赤黒く染まっていく。
 其れを再び水に浸すと、透明だった水に手ぬぐいから滲んだ赤い波紋が広がり濁っていくのを確認した。
しかし、水の濁りを気にせず、再び手ぬぐいを濯ぐと固く絞って男の体を拭き始める。
 上半身を粗方拭き終わると、飛び散った血で見えにくくなっていた傷口がしっかりと認識でき、比較的下半身よりも上半身の方が深い傷が多いようだった。


(コイツの手って、やっぱり大きいんだな)


 腕と足に纏っていた衣服もどうにか脱がし、武骨な手を支えつつ開かれた指の間までふき取りながらそんな事を考えてしまう。
ふと、男の厚い胸板に顔を寄せ、其処に宿っていた筈の鼓動を聞きたい衝動に駆られる。
自分でも無意識に薄汚れた手ぬぐいを握り込んで顔を寄せようとするが、咄嗟に顔を引き、押しとどめた。
 その行為をしたら最後、己の中にある枷が一気に弾けて壊れそうな気がしたからだった。

 握りこんでいた手ぬぐいを畳の上に置くと、今度は下の衣服も脱がさせ、上半身と同じように汚れた体を清めていく。
オレが引きずった所為で踵に付着した土も足元に移動してから拭い取り、その場で立ち上がると布団の上で横たわっている男を俯瞰した。
 全身を隈なく見つめると、男の肉体につけられた傷の深さを改めて目の当たりにする。
やはり致命傷となったのは首に負った傷のようで、他にも折れてはいないようだが右足にも何箇所か深い傷が残っている。
 恐らく敵は男の動きを止める為に執拗に右足を狙ったようだったが、それ以上に攻撃を防いでいたらしい腕や腹などにも斬られた跡が複数残っていた。

 そこまで考えて、早く何か着せるものを探さなければと、立ち上がったまま動けなくなりそうな己を叱咤し、のろのろと身体を動かして寝室の隅に置かれた桐で出来た箪笥へと近づく。
この箪笥に衣服を仕舞っているかどうかは分からなかったが、庵の中の殺風景さを見る限り、貴重なモノや衣服類などは此処に入れてあるだろうと一番下の段を引っ張ると思った通り、薄手の着物が何枚か出てきた。
 その中でも上の方に置かれていた紺鼠色の着物を取り出し、更にもう一段上の棚を開けて其処に入っていた帯を取り出そうとするが、 考えてみれば着物を纏わせることは出来ても着付けまでは出来ない可能性に思い当たる。
僅かに逡巡するが、やってやれない事は無いだろうと決心し、黒い細帯を取り出すと、開けた引き出しを静かに閉める。
そうして着物の上に帯を載せ、両手に持つと立ち上がり再び男の傍らに戻った。

 まずは先程寛げた上の衣服を脱がせなければならないが、腕の曲がらない身体から脱がせるのは至難の技だろう。
仕方なくポケットからナイフを取りだし、小さなため息を吐いてからその刃を振るう為に男の衣服に触れ、刃先をくり出す。
そうして、ビッ、と布が裂ける時特有の音と共に、脇の下にある縫い目にそって衣服を分断していく。
 なるべくならばまた縫い合わせれば着られるように形を保ったまま脱がせなければと、そんな事を考えつつ同じように反対側の縫い目も切り裂く。
そのまま出していたナイフの刃先をしまい込み、ズボンのポケットに入れ直すと男の頭の方に移動し、重い体を支えながら肩の部分を引っ張った。
身体の下敷きになっている所為か中々上手く引っ張る事が出来ずにいたが、下が畳な事もあり、暫し格闘しているとどうにか衣服を脱がす事に成功する。
 まるで喜劇の衣装のようになった其れを畳んで床に置いてから、今度は衣服を着せ掛けなければならない事に辟易した。
しかし、此処までやっておいて放置するわけにもいかない。

 どうしたものかと思案したのも一瞬で、横に置いておいた帯と着物を広げると敷いておいた布団の上に帯と着物を重ねて置き直す。
こうした上に男の体を乗せれば比較的着せ掛けるのも容易になる筈だ。
 問題はまた重たい体を一人で動かさなければならないという点ではあったが、先ほどの外から庵の中までの距離かは当然短い為、今度はほんの少しの苦労で男の体を布団の上に乗せる事が出来た。


(少し、柔らかくなった)


 男の体を動かした際に、指先に伝わった感触にそんな感想が浮かぶ。
途端にゾワリとした寒気が体を覆った。だが、まだ耐えられる。
口腔に溜まった唾をのみ込み、テキパキと腕を動かして男の腕に着物を通し、肩まで一気に其れを引き上げ着せ掛ける。

 しかし、布団の上に横たわった男の着物の前を合わせようとした時点で手が止まった。
本来ならば、左前にするのが普通なのかもしれない。
けれど自然と右前に着物を合わせ、前を整えてやると、着物の下に通しておいた帯を苦労しながら男の体に巻き付け正面側で緩めに結んだ。
 翻っていた着物の裾を戻し、着せ掛ける為に伸ばしていた腕を戻して正座をし直す。

 ――――これで全て、元通りになった筈だ。
改めて男の横顔を見つめ、そのまま身体に視線を移す。
 衣服を着せ掛け、身体を清めた為に、首元の傷口以外は目立った外傷も無いように思える男はまるでただ眠っているだけのように見える。
けれど其れはオレの願望だ。

 そう認識しなおした途端、急激に男を見ているのが恐ろしくなる。
一体何が『恐ろしい』のかは自分でもよく分からなかった。
背中に氷を捻じ込まれたように勝手に震える体を両腕で抱えながら、よろよろと立ち上がり、必死に先ほど開けたままの襖まで駆け寄る。
 もはや逃げ出すに近い勢いで居間に戻り、両手で閉めた襖の隙間から最後に見えた男の姿は此方の狼狽などとはまるで関係が無く、時が止まっているかのように横たわったままだった。

 そのまま一気に閉めた襖に完全に背を預けると、自然と膝から力が抜け落ちズルズルと座り込んでしまう。
座り込んだ所為で視線の低くなった視界で見る部屋は未だに煌々と外で輝いている月の光を窓から受け入れ、照らし出されていた。
光を反射して、空に舞う埃がキラキラと輝くのを見てやはりこれは夢なのでは無いかという空想を抱きたくなる。
 けれど、部屋に射し込んだ光は丁度部屋の中心に据えられた囲炉裏の脇を通るように残っている血の跡も容赦なくこの目に映してくる。
その血の跡を目で辿ると、座っている己のすぐ脇を通り先程まで居た部屋の中へと続いていた。


(…………どうしようもなく、疲れた)


 畳の上に残された痕跡に指で触れ、畳の目だけでは無いザラツキを感じながらそう内心呟く。
呆気なく、本当に呆気なく生命は死ぬ。
理解しているつもりだったし、其れに対して疑問に思った事さえ無かった。
けれど男は、男だけは、死なないと心の何処かで勝手に信じ込んでいたのだ。
 そうして、もしも死ぬ事があるならば、その最期はオレによって齎されるモノでなければならなかったというのに。

 頭の中で此処に来る迄に積み上げた石を思い出し、さらに男の横顔を思い出す。
様々な記憶が脳内に浮かび上がっては溶け落ち、また違う記憶を蘇らせた。
 それだけで酷く息苦しくなり、きっちりと留めたままの学生服の襟元を少し開けて空気を入れようと試みるが、息苦しいのは己の呼吸が乱れているからだと理解する。
悪夢が夢に逃避したいと願うのは、愚かだろう。
 分かってはいたが、今はほんの少しだけで良いから眠りたかった。
俺は自然と閉じる瞼に抵抗せず、目を伏せた。



□ □ □ 



 ――――今夜は、とても月が綺麗だ。
肌に伝わる夏特有の生温ささえも心地よく、足元に茂る草むらを軽快に踏み締め、進む。
この先に追い求めた『鬼』が棲んでいる事は随分前から分かっていた。
 だから今日こそは己の未練や義理を精算し、此処までやってきたのだ。
きっと此処で待っていたら『鬼』は此方の気配を察して現れるだろう。

 確信めいた想いを秘めたまま、暫し月を見上げて待っていると近くの木々の隙間から何者かが近付いてくるのが見える。
それを息を潜めて注視していると、遂に焦がれ続けた『鬼』が姿を表した。
 何処か理知的な光を灯した隻眼がオレを見つめた途端、自分の身体に火を灯されたかのような興奮と殺人衝動が一気に押し寄せてくる。
今にも飛び掛かってしまいたい欲求を必死に抑えながら、離れた場所に対峙している『鬼』に向かって言葉を投げかけた。


『よう、待たせたな。そっちの準備は済んで――――いるよな』


 問いかけに言葉を返してくるかと思いきや、黙り込んだままの『鬼』はただ此方をジッと見つめたまま動かない。
だが、動かずとも此方を睨みつける瞳には強い闘志が宿り、炎のように揺れるその光に煽られるように自身の喉が鳴った。
 これ程までに闘いたいと願う存在は今までに会った事が無かった。
己の存在が例えこの闘いの先で欠片も遺さず消えてしまったとしても構いはしない。
 ただひたすらに『七夜』としての証を、オレがオレであった存在証明を、闘いの中で見出したかった。


『ずっとアンタと闘いたかった。他の何を捨てたって良い、……そう思ってたのに』


 自分の声に混ざる正体不明の苦悩を感じながら、勝手に唇から洩れ出る言葉を紡ぐ。
けれど、本来ならばこの状況でこんな台詞は出ない筈なのだ。
何かが歪んでいる、とその歪みが何だったのか上手く思い出せない。


(その先は言うんじゃない)


 思い出そうとすると脳内から声が聞こえる。其れは他でも無いオレ自身の叫びにも近い声だった。
其処で漸くおぼろげながらもこれは明晰夢なのだと、気が付く。
 そうして夢の中ならば、人は何にでもなる事が出来るし、叶わない事もまるで真実のように見る事が出来るのは充分に理解していた。
オレの願いは『鬼』と戦う事だ。その願いはきっと叶うだろう。
――――嘘偽りに満ちた夢の中でも良い。渇望した願いがほんの僅かでも叶うのならば。
 だから途中で言い掛けた言葉を喉奥に封じ込め、まるで様子の変わらない『鬼』に向かって一度ため息を吐く。
『鬼』が言葉を返さないのは、オレが『鬼』の発する答えを知らないからだ。


『……此処でアンタを責めたって仕方がないのにな』


 幾らこの場で声をかけても、其れは永遠に届く事の無い声だ。
自嘲めいた笑みを口端に浮かべながら囁いた言葉も、何もかも無駄だと分かってはいる。
けれどせめて空想の闘いに興じる前に、此れだけは言っておきたかった。


『此れがただの夢幻だって構わない。……アンタがアンタじゃなくても、それでも良い』


 無意味な自慰行為に過ぎないこの夢を望んでしまうくらいに、『鬼』との一戦を求め続けてきたのだ。
ポケットに手を伸ばし、もはや体の一部のように馴染んだ愛刀を取り出すと銀色に煌めく刃をくり出した。
 美しい直線を描いた其れは、空に浮かぶ月の光を吸収して、人を殺める為の凶器だというのに酷く艶めかしくさえ見える。


『だから、今は存分に殺し合おう?…………この【夜】が明けてしまうまで』


 懇願に近い声でそう言いながら構えたオレに対し、離れた場所に立っている『鬼』は緩慢な動きで一度地面を踏んだ。
途端に周囲に赤い炎が巻き上がり、その炎の奥から鋭い瞳で此方を見ている『鬼』と視線が絡む。
どうやら、自らの空想にしては随分と素晴らしい出来のようだ。

 殺意と多幸感と哀しみという複雑な感情が幾重にも重なり、脳髄を駆け巡るのを感じながら、『鬼』に向かって駆けだした。
同じように此方に駆けてくる『鬼』に向かって逆手に持っている刃を横に薙ぐように振る。
 其れを片手で当然の如く捌いた『鬼』を近づかせない為に、更に幾筋もの軌跡を描きつつ刃を振るう。
何度も振るわれる攻撃を片手で受け止める事が出来なかったのか、両腕で防御し直した刹那の隙を窺い、首元を狙うように上に向かって切り上げる。
 だが、オレの狙いを察したのか、傷を与える筈だった首の代わりに後ろに跳んだ『鬼』の髪が一筋切り取られ、宙を舞った。
そうして今度は髪が散った先に居る『鬼』が防御に徹していた腕を動かし、此方の腹に向かって鋭い掌底を繰り出してくる。


『……ッ……!』


 捻りを加えながらも真っ直ぐに伸びてくる腕から逃れる為に、切り上げていた腕の勢いを利用して、バック転を行う。
そんなオレの体を更に追いかけるように続けて伸ばされた腕をすぐさまナイフで受け止めると、ギリッ、と通常ならば生身の肉体と擦れて聞こえる筈の無い硬質な音が周囲に響いた。
このままの力比べでは此方の方が圧倒的に不利だ。その上、向こうは片手がまだ空いている。

 咄嗟にそう判断し、両手で持っていた刃を一度自分の手前側に引く事で力を分散させ、素早くしゃがみ込むと『鬼』の腕から一度逃れる為、敢えて地面に手を着いて姿勢を低くし足元を駆け抜けた。
その際、ついでに左足を斬りつけたものの、まるで効いていないのかオレの姿を確認するようにゆっくりと振り返った『鬼』の脚は血の一滴さえも流れてはいない。
 百発百中の猟師を前に逃げつつも反撃の機会を必死に探る獣の気分だ、と苦笑しながら膝についた葉を手で払いながら立ち上がり、刃を構え直す。
次の一手で決着がつくだろう。そんな確信めいた予感がしていた。

 呼吸を整えるように細く長く吐息を洩らし、静かに瞬きを行う。
そうして瞼を開いた瞬間、此方に視線を向けていた『鬼』に向かって一気に距離を詰める。
懐に潜り込めれば、ほんの僅かではあるが勝機はある筈だ。
 持った刃を今度は横に動かすのではなく、突くように振るうと其れを避けた『鬼』が此方を掴もうと腕を伸ばしてくる。
だが突くように動かした手に持った刃を一度離し、空中で逆手に持ち直すと今度は大振りな動きで薙いだ。
 流石に此方の半身を捻って繰り出した大振りな動きには対応出来なかったのか、『鬼』の首元の肉が裂け、周囲に赤い鮮血が迸る。
その代わりに『鬼』の手は当然オレの首を捕らえ、そのまま地面に引き倒した。


『……ぐッ……』


 受け身も取れずに強かに背中を地面に打ち付けた衝撃に息が詰まる。
その間に此方に跨るようにしながら、オレの手に持った刃を奪い取った『鬼』は、それを遥か遠くの草むらへと投げ捨ててしまった。
『鬼』の行為を止めるように伸ばした手も、刃を投げ捨てた手によって指先を絡められ、地面に縫い止められてしまう。
首を押さえている熱い手の甲に空いた片手で軽く爪を立ててみるが、緩く締め上げられ、力が抜けるのを感じた。
刃は無く、急所を押さえられている。動くことさえままならない。

 完璧に対抗する手段が失われてしまったのを理解し、『鬼』を見上げる。
しかし、相変わらず表情の変わらない『鬼』は何故か此方を見つめたまま動かなかった。
 一体どういう了見なのだろうと考えてみるが、元を辿れば此れはオレの夢なのだ。
この先の展開も、オレが望んだようにしかならない。
 其れを理解し、オレは自分が『鬼』と善戦しながらも結局は負けるだろうと心の奥底では予想していた事に気が付いた。
そうして、其れを行えばこの甘美な夢は泡のように消えてしまう事も。
だからこそ目の前に居る『鬼』はオレからの指示を待っているのだろう。

 首を押さえている手の甲に触れていた手を伸ばすと、オレの方に顔を寄せた『鬼』の頬に触れる。
張りのある肌を辿り、下りてくる髪の奥に潜む目の傷跡を指先でなぞると、ザラリとした感触がした。
 『鬼』の背後には高く昇った月が変わらずに存在しており、頬を撫でるように吹く風は心地良い。
このまま何時までもこの夢の中で、偽物の『鬼』と共にまどろんでいたい。
けれど夢は何時かは醒めてしまう。
例えどれ程違う結末を望んでいても、現実を変える事など出来ず、其れは今も寄り添うように背後に佇んでいるのだから。


『……虚しいなぁ』


 何処に向けて放ったのか己でも定かではない言葉を空中に発する。
此方の言葉に答える事の無いオレの手を草むらに縫い付けたままの『鬼』の手を逆に握り込むと、温かな血潮を感じ、そっとため息を吐く。
その間に『鬼』の首元から滴る血がオレの頬に落ちて、流れていくのを感じた。

 せめて一声だけでも話してくれたらいいのに、と願ってみるが、やはり其れは出来ないのか『鬼』が一度瞬きをする。
オレは目の前で沈黙している『鬼』に向かって笑いかけると、露ほどの迷いも無く、囁いた。


『躊躇い一つなく、縊り殺してくれ』



□ □ □



 ブツリ、と自分の首筋が捩じ切れた音と共に、意識が浮上する。
夢の中では殺された筈だというのに、実際はまだ生きていて目が覚めるというのは何とも不可思議な気分ではあったが、アイツと戦う事が出来たのは悪く無い。
しかしそんな満足感もすぐに目の前の光景を認識した途端、見る見る内に萎んでいった。

 随分と眠ってしまっていたらしく、窓から射し込む光は月の光では無く、朝の日射しに変わりつつある。
そうしてその光の中では、夜に見た時よりもより鮮明に血の跡が目に飛び込んでくる。
…………もしかしたら今のこの状況の方が悪夢で、先ほどまでの夢だと思っていたのが現実なのでは無いのか?

 そんな混乱が頭の中を占め始める中、不意にオレの背後にある襖の向こう側から何か音が聞こえた気がした。
思わず振り返るが、当然、目の前には閉められた襖があるだけで中の様子は分からない。
 聞き間違いかもしれない、だが、もし本当に音がしたのならば、確認しないわけにはいかなかった。
オレは本当に夢を見続けているのかもしれない。

 次第にそんな馬鹿げた考えがどんどんと大きくなり、思考を蝕んでいく。
まるで胡蝶の夢のように、どちらが真実なのか分からなくなってしまっているだけで、男が死んでいるというのも間違いなのかもしれない。
 そうならば森に入った時からオレは恐ろしい悪夢に侵されているだけなのかもしれない。
仮説ばかりが次々と浮かび上がり、そうして消えていく。
 思案だけしていても意味が無いとノロノロと怠い体を起こし、襖の金具に手を伸ばした。


(…………もしも、本当は男が生きていたら?)


 自分の中に湧き上がる在り得る筈の無い期待に震える手を抑えつけながら、音を立てずに襖を開く。
そうして身体を滑り込ませ、部屋の中に入ると横たわっている男の傍らに近付いた。
もしかしたら、という想いを込めて布団の上を見つめる。

 ――――確かに、男は先ほど見た時とは異なっていた。
初めに見た時よりもより一層、肌は青白さを増し、水分を失っているのが触れずとも分かる。
近づく程に鼻腔に届く甘い香りは腐敗が始まっている証拠だろう。

 そうして腐敗で発生したガスによって浮腫みを帯び始めた体は、これからもっと膨張していく筈だ。
膨張しきった体はやがてグズグズに溶け落ち、溶けた筋肉や血液が周辺に飛散し、布団を汚すだろう。
 腐敗さえも終わった体は青黒く変色し、その体積をすり減らしていく。
その頃には男の顔など原型も止めぬ程に壊れているだろう。
壊れ溶け落ちた顔の向こうから白い骨が現れる所まで明確に想像した瞬間、激しい耳鳴りと共に発声を忘れていた喉から掠れた声が溢れ出た。


「……っは……」


 ひゅ、と声を出した所為か気道が締められ、息苦しくなる。
其れと同時に今までずっと蓋をしていた胸の内に空いた穴が途端にその大きさを主張し、何度かえずくように喉が痙攣したかと思うと目の縁に熱い雫が溜まっていく。
その雫を抑えようとすればする程に呼吸が乱れ、堪えきれずに口元を手で覆った。

 人の死に涙する事など今まで一度たりとも無かった。
オレの存在自体が人を殺す【殺人貴】であった事もそうだったが、生命が何処かで死ぬのは至極真っ当な道理で当たり前だと理解していたからだ。
 だが、オレにとって、目の前で横たわっている男は『鬼』であり、『一族の仇』であり、俺の『死』そのものだった。

 だから、男が無様に倒れているのを見た時に、心の奥底ではこれはただの間違いなのだと思い込みたがっている己がいた。
けれども、こうして時間の経過と共に変化していく男の死体をまざまざと見せつけられ、男が二度と届かぬ場所へと逝ってしまった事を漸く身に染みて認識させられる。
 それが此れほどまでに心臓を抉り、脳を揺らし、足元を覚束なくさせるとは考えてもいなかった。
このままでは立っている事さえ出来なくなりそうな程の眩暈が襲ってくるのと同時に、口元を押さえている手の甲を伝って自分の目元から落ちる雫が畳に染みを作っていく。
畳に出来た染みさえも上手く滲んで見えない中で、オレはやり場のない感情がどんどんと怒りに変化していくのを感じていた。


「ふ……ざけるな……、……ふざけるなよ、紅赤朱……!」


 唇から発せられた声は酷く震えていて自分の声だとは思えない程だった。
死体に何を言っても意味が無いなんて事は分かっているのに、どうしても男に対して批難の言葉をぶつけなければ自分自身が壊れてしまう。
口元に当てていた手を外し、男の傍へとしゃがみ込むと両手を男の胸に当て、ゆさゆさと揺り動かす。


「誰が殺されて良いなんて言った!!!……アンタは、……っ……」


 俺が殺してやる筈だったんだ、と言う台詞は嗚咽にかき消され、言う事が出来ない。
必死に唇を噛み締めて声を殺そうとするが、自分のものとは思えない程の獣じみた慟哭が庵に満ちていく。
胸が締め付けられ、激しい痛みを覚える。
苦しい、痛い、許せない。許したくない。
勝手に殺された男も、男を殺した見知らぬ相手も。
其処まで考えてオレは忘れてしまっていた最も大切な事柄を思い出す。


「…………探しに…………行かないと……」


 目元から落ちる雫が男の着物にまで染みを残すのを見ながら、呼吸の合間に自分自身に言い聞かせるようにそう囁く。
男を殺した相手が一体何者なのかは分からない。
 恐らくはオレ如きでは手も足も届かぬ程の実力者であろう事は男が殺された事からも容易に想像が出来た。
しかし、そんな事は関係がない。

 オレは自分の『矜恃』と『証』を求め、此処まで男を捜しに来たのだ。
【七夜志貴】という存在が闘いの後に一切の欠片さえ残さず消えてしまっても構わないと、それほどまでの覚悟を持って此処まで登ってきた。
其れを打ち砕いた第三者をどうして許す事が出来るだろう。
 オレと男の間の因縁を無理矢理断ち切ったその人物を殺さなければ、オレは、其れこそ誰彼構わずに斬りつけ暴れ狂いそうだった。
横たわっている男の胸を揺すっていた手を止め、首元に残る傷口を注視する。
 一刻も早く殺さなければ。この傷をつけた相手を。
自分のズボンのポケットにしまい込んだ刃を取り出し、立ち上がろうと両手を畳に着く。


「…………え?」


 ところが、立ち上がろうとした体は上手くバランスを取る事が出来ずに無様に畳に倒れ込んでしまう。
何故上手く立てないのだろう、と疑問に思い自身の足元を確認すると、其処には既に消えかけた両脚があった。
そうして消えていく部分はゆっくりと下半身を侵食していく。
そもそも此処に来るのでさえ無理をしていたのだ。

 途中でオレを泣きながら引き止めようとしていた白猫は其れを分かっていたからこそ、あそこまで死に物狂いで止めに来たというのに。
瞼の裏に涙を零しながらも闘いを挑んできた白猫の姿を思い出し、細く吐息を紡いだ。
 結局、オレは何もかも全て失って、本当に求めていたモノも手に入れる事が出来なかった。


「っふ……ふふ、……は……」


 余りの惨めさに、笑いさえこみ上げてくる。
こんな結末など認めたくないが、もはや腰まで消えているオレには出来る事など殆ど残されていなかった。
 そっと両腕で這うように男の傍に近寄り、男の隣に身を寄せると、血の気を失っている横顔を見つめる。

 もしも男が生きている時に出会っていたのなら、一体どのような声音でどのような会話を交わしたのだろう。
IFの話は好きでは無かったというのに、今はそんな事ばかりが頭の中を駆け巡っていく。
此れほどまでに未練が残ってしまったなら、オレは地縛霊にでもなってしまいそうなくらいに、思い残した事が多すぎた。


「……軋間……」


 紅赤朱、と呼びかけそうになるのを止め、男の本来の名前で呼ぶ。
どうせこの声も届きはしない。理解してはいるが、せめて最期くらいは男の名を呼んでみたかった。
手に握っていた刃を畳に突き刺し、空いた両手で男の手を包む。

 完璧に冷え切った体温を少しでも取り戻したくて、包んだ両手を擦るように動かすが、自分自身の掌も冷え切っていて温まっているのかも分からない。
窓から射し込む柔らかな日差しは何処までも残酷にオレと男を照らし出し、オレの体はもう臍の辺りまで消えかけていた。


「こんな風に終わるなら……」


 頬をもう枯れてしまっただろうと思っていた雫が濡らしていく。
掠れた声は低く、身体を照らす光とは異なって冷たく地面を滑っていくのが分かる。


「……せめて、……アンタをちゃんと弔ってやれば良かったなぁ……」


 遣り切れない想いが身を焦がす。
オレがこの世から跡形もなく消えた後も、男の亡骸は土に還る事も無く此処で朽ちていくのだろう。

 仇が取れないのならば、土に埋めて読経くらいはしてやりたかったが、それをしようと思うのでさえ遅過ぎたのだ。
初めに男を見つけた時に埋めてやれば良かったのだろう。
 けれど其れをする為に必要だった【男の死】をどうしても認めたくなくて、出来なかった。
一人こんな場所で朽ちさせる事を男は怒るだろうか?それとも悲しむだろうか?
 其れすらももう手が届かない場所にいってしまった。
既に胸元まで消えかけている体を無視して、ひたすら詫びるように男の手を両手でしっかりと握りこんでいた。



-FIN-






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