ヤーアブルニー


※紅軋七・食人&死体損壊描写あり


 ぐらりと視界が揺れて回る。
 これが本当に起こっている出来事なのだと信じたくない己と、世界との乖離からか眩暈じみた体調不良を覚えたが、しっかりと状況を認識しなければと目を見開く。
 俺の視界は紅く赤く朱く燃え上がり、瞳の中心に炎の揺れが映った。辺り一面を覆い尽くすほどの熱気と煤は、昨日までの穏やかな時間を夢幻に塗り替えてしまう。
 それを心底恐ろしいと思うのと同時に、いずれは訪れるであろうその瞬間を目の当たりにして俺は心の何処かで美しいと思ってしまっていた。
 それほどまでに世界が一変してしまったのだ。

 これは天変地異に見舞われ、成す術を持たない非力な存在がただただ天に祈る事しか出来ないのと同じようなものだろう。だが、これはけして天変地異などではない。
 緊張のあまり喉に上がってきた胃液を飲み込むと、体全体にその小さな音が響いた。
 そんな微かな音を出すのでさえ躊躇われる程の空間で、そろりと瞬きをしてから再度、その炎の中心に目を向ける。

 青々としていた周囲の森を焼け尽くすかのような炎の渦が収まったかと思うと、パチパチと木々が小さな音を立てて崩れ落ちた。
 焦げた臭いが鼻につき、緩やかに死を覚悟する。季節は図らずも男と初めて相対した夏。
 先ほどまで煩わしい程に鳴いていた蝉も余りの異常さからかその声を止め、空には燻った煙が薄くかかり日射しを遮っていた。

 次第に煙も風によって押し流され、その炎の元凶である男の姿が視界に映る。
 黒く煤けた地面の中心に当然のように立っている男は静寂を保っているにも関わらず、こちらの全てを破壊するかのような威圧感を纏っていた。
 いつかこのような瞬間が訪れる事は互いに理解していた筈で、それはまるで閻魔の前に引き出されるのを待つときか、はたまたゴルゴダの丘に登るような、あるいはたった今飛び降りる為に13階段の最終段に足をかけているかのような感覚を常に背後に抱えていた。
 だからある程度の覚悟は出来ていた筈なのだ。

 けれど、全身が粟立つのは止められる訳もなかった。それは生命の危機を感じた生物ならば当たり前の事だろう。
 自らよりも遥かに強大で絶対的な力を持つモノを前にして、冷静で居られる筈がない。
 それは俺に退魔の本能が強く刻まれているのもあるが、何よりも目の前の男が『鬼』として完璧であったからだ。

 しかし、奴が本気を出せばすぐに俺を殺せるというのに相手からは殺意のさの字も伝わってこない。
 一体どうした事だと男を見つめてみると、どこかぼんやりとした瞳でこちらを見返してくる。
 この姿になれば己の理性が吹き飛び、男自身も自身の行動に責任が持てない、と言っていたが随分と大人しい。
 だからこそ、その時が来たならば介錯を、と頼まれていたものの流石につい数瞬まで愛すべき存在であった者を無抵抗のまま殺すのなぞ俺の気持ちに反していた。

 どうしたものかとじっくり2分ほど考えた後、それでも男が動かないのを確認する。とりあえず俺を躊躇いの一つも無く殺そうという気はないようだ。
 俺はズボンのポケットに忍ばせている刃物に手を伸ばすと、それを取り出し手の中で刃をくり出す。
 そして、逡巡の狭間でさえも本能を炙ってくる魔性のモノに対する殺意を抑え込みながら、ゆっくりと一歩ずつ男の方に足を進めた。
 男に近づく度に腹の底から湧き上がってくる興奮と、あっという間に喉笛を噛みちぎられるのではないかという恐怖を感じながらも敢えて影のように努めて気配を薄くする。
 その所為か随分と耳は敏感で、サクリサクリと草を踏む音から、焼けた大地を踏む音に変わるのをしっかりと聞き分けていた。
 身体のどこへでも触れられるくらいまで近づいた俺を、相変わらず無感情な顔で見つめてくる男に向かって震えそうな喉を押さえつけ、なるべく普段と変わりなく声をかける。

「軋間……?」

 男の名を呼ぶと、ガラス玉のような赤い瞳がこちらに向けられるがそこには何の感慨も無さそうだった。
 余りの変わりように衝撃を受けながらも、殺される心配はしなくて良さそうだと刃物を握りこんでいない方の手を伸ばし、そろそろと男の頬に触れてみる。
 触れた頬は今までと何ら変わらない艶張りのある肌で、健康な肉体であるのが窺えた。
 あれだけの炎に晒されたというのに焦げや傷一つ無い男に、やはり人外の逞しさと恐ろしさを感じていたが、そんな俺の緊張をほどくようにゆっくり瞼を下ろした男が高い体温を伝えるように触れている掌に微かにすり寄ってくる。

 その瞬間、男を冥土に送ってやる事は俺には無理だとハッキリ理解してしまった。
 それと同時に目の縁にうっすらと透明な水が溜まるのを感じた。この男はもう今までの男と同じように考えてはいけない。
 恐ろしいほどの力を持ちながら、何も分からない『獣』と同じだ。腹が減れば喰らうし、殺そうと思えば何の戸惑いも無く殺すのだろう。
 けれど、他者の掌の体温が理解出来るくらいには温もりを知覚出来る。
 元々は他人の事など理解しようとも思えなかった俺とは正反対に、何処までも己に清廉さを課していた男がこうなってしまうとは皮肉なものだと笑ってしまうが。

「軋間」 

 俺は握り込んでいた刃物を地面へと落とし、空いた手も使って長く伸びた前髪をよけながら両頬を包み込むと赤い隻眼を真っ直ぐ見据える。
 もうこの男は俺の名を呼ぶ事は無いのだろう。変異してしまった紅赤朱は元には戻らない。
 ――――だが、それが一体なんだというのか。

「俺がお前を守ってやる。 ……こんな世界に一人遺されるなんてごめんだ」

 男が何よりも恐れていたのは己の理性が失われ、すべてを破壊してしまう事だった。
 強靭な肉体に堅物ともいえる位の精神が載っていたからこそ管理出来ていたのに、その箍が外れればどうなるかなど男で無くとも想像がつく。
 そうして『鬼』に堕ちる事も男にとっては不愉快で堪えられないというのも分かる。
 それでもなお、俺はこの男を生かしたくてたまらなかった。

「どうせいつか終わりは来るだろうけど、今はまだ、終わらせたくないんだ」

 だから、男の代わりに俺が『鬼』になろう。生憎と血生臭いことや惨たらしいことには慣れているのだ。
 男の両頬から手を離し、地面に落とした愛刀を拾い上げて刃先についた土埃を振り落とす。
 そのまま、クルリクルリと刃を回すと手に吸い付くかのように一定の速度で回った。これは俺の矜恃だ。『殺人鬼』としての俺の。
 先ほどまで目に滲んでいた筈の涙はもう二度と出ることは無いだろう。

「だからさ、恨まないでくれよ?」

 カチリ、と回していた勢いのまま刃先を鞘にしまい込み目の前に立っている男の方に顔を向け、そう呟く。
 相変わらず透明度の高いガラス玉のような赤い瞳をした男は、俺をジッと見つめたまま何も言わずに立っていた。
 俺は一度視線を空へと向けると、この決意とは真反対に感じる透き通った空気を見つけたが、そこから目を反らして目の前に立つ男に向かって微笑む。

「……さぁ、帰ろうか。軋間」

 愛刀をズボンのポケットにしまい込み、片手を差し出して男の手を掴んで握りこんだ。
 例え男自身がそれを望まなかったとしても、この手をけして離しはしない。
 掴んだ男の手は温度が高いものの、力を感じることは無かった。
 俺はそれを補うようにさらに力を込めて男を誘導しつつ、共に暮らしている庵を目指し歩み始めた。


□ □ □


 担いでいる布袋2つが肩に食い込むのを感じながら、軽く舌打ちする。
 やはりもう少し軽くしておくべきだったかと思うが、せっかくの貴重な食料だと欲張ったのがいけなかった。
 ふう、とため息を吐いてから視線を空に向けると思ったよりも時間がかかってしまったのもあり、周囲が暗くなり始めていた。
 あれだけ蒸し暑かった森も秋に差し掛かっているからかまだマシだと言えばマシなのだが、余りに寒くなるのも好みではない。
 森の中は夏は比較的生い茂った木々のお陰で暑さは堪えられるのだが、冬はといえば雪かきやら何やらをせねばならない程に寒くなるのものだから毎度の事ながら辛いものがある。

 そんな風にすぐ先の未来を夢想して暗澹たる気持ちになるのを奮い立たせながら、木々を僅かに通りやすく倒して辛うじて作られた道の傾斜を上がっていくと、住み慣れた小さな庵が見える。
 庵に明かりは灯されておらず、やはりもう少し早く帰ってくるべきだったかと思うが、もしかしたらまだ眠っているのかもしれない。
 男が起きている様子ならば早く部屋に戻ろうと思っていたが、眠っているのなら先に肩の荷物を少しでも下ろそうと考え、庵の裏手に回る。
 そうして右肩に掛けた袋を左肩にかけ直しながら庵の横にしつえられた薪割り場を横切り、風呂用の釜の前に比較的軽い方の布袋を下ろす。
 これでもだいぶ肩の負担が減ると安堵しつつ、その袋よりもさらに巨大なもう一つの袋を担いで庵の正面に向かうと簡素な木造りの引き戸に手を触れさせた。


 ガラリ、と味気ない音を立てて開かれた戸の奥からは何の音もしない。やはり眠っているようだ。
 そもそも男が変異してから食事の量を制限しているのもあるからか、眠っている事が増えた。
 それについては暴れられるよりかは良いかと個人的には納得している。
 男の食欲の限度を計り知れなかった時は、何度か男が苛立ちを見せ、男自身が気に入っていた茶器やら何やらを叩き壊したりなど散々だったからだ。
 その際は男に自らの血を分け与えて収めたが、その紛らわせ方にも限界があった。

「……よっ、と」

 戸を開けて入った先は小さな庵の中でも比較的広くつくられた玄関土間兼炊事場で、居間に入る為に小さく作られた板の間に背負っていた袋を置いてから、炊事場の棚に置かれた水桶から柄杓で水を掬い手を洗う。
 ヒヤリと冷たい水の感覚を心地よく感じながら柄杓を戻すと、袋のすぐ隣に座り込み靴を脱いで板の間の上に立ち上がる。
 そのまま居間として使用している囲炉裏のしつらえられた部屋に続く障子を開け、布袋を引き摺るように移動させつつ中に視線を向けた。


「ただいまー……っていないか?」

 布袋を掴んでいない方の手でぞんざいに障子を閉めながら中に入ると、そこには誰もおらず、寝室へと繋がっている襖は閉め切られていた。
 やはりまだ眠っているようだと判断し、まずは準備をしてしまおうと常に着ている学生服の上着を脱ぐと手早く畳んで畳の上に置く。
 そうして部屋の隅に置いてある火消し壺から火箸で何個か消し炭を囲炉裏に置き、その横にさらに新しい炭を並べて、街で安く買ってきたライターで手早く火を熾す。
 男の意識がハッキリしていた時は火打石を使用していたが、今はそれさえも手間だと思って楽をしてしまっている。
 ついでに部屋に2つ程置いてある燭台にも火を灯していると、その間に囲炉裏に入れた炭がじわりと温かくなり始めていた。

 ライターをそのまま左ポケットに突っ込みながら、漸く人心地つけると畳に置かれた座布団に座り、置いたままにしていた布袋を引き寄せる。
 毎回ここに帰ってくるのでさえ一苦労だと苦笑しながら、表の布袋を剥ぐようにして、中にあった二重になっている黒く大きなゴミ袋を取り出すと中身を一瞥し、問題が無いのを確認する。
 ゴミ袋を仕込んで二重にしておかないと面倒な事になると理解したのは三度目の狩りの時だったか。
 後始末が面倒なのと持ち運びの不便さだけはどうにかならないものかと、袋を持っていた所為で凝り固まった首を何度か鳴らす。
 そんな風に思いながら、もうそろそろ流石に声をかけるべきかと、僅かに疲れを感じる身体を叱咤しながら立ち上がった。

(今日は風呂にとっとと入って早く寝よう)

 湯を温めるのは面倒ではあったが、大仕事の後や寒い時は温かい風呂に肩まで浸かるのが一番だ。
 温かい湯の良さを想像の中でも噛み締めながら、居間から寝室に続く襖の前に立つと、静かに開ける。
 寝室の中心には布団が敷かれており、布団はこんもりと盛り上がっていた。
 俺はその布団に近づくと濃紺の着物を着て死んだように眠っている男の脇に座り込み、ポンポンと叩くように男の胸付近に手を当てた。

「おい、もう夜だぞ。そろそろ起きてこい」

 そう声をかけるものの男の瞼が開かれる事はない。
 仕方がないな、と右ポケットに手を突っ込むと使い慣れた愛刀を取り出して人差し指を軽く傷つける。
 そしてまた愛刀をしまい込むと、うっすらと膨れるように零れる血液を男の唇に沿わせるように塗りこんだ。
 赤く色づいた唇の男に愛らしさを覚えながら、様子を窺っていると不意に目を見開いた男が反応出来ないくらいの速度で布団から起き上がり俺を畳に縫い付ける。
 居間から洩れる仄かな明かりに照らし出された男の瞳は煌々と燃え盛り、硬い質感の赤髪が揺れた。

「やっと起きたか。腹が減っただろ?飯、持ってきたぞ」

 くすくすと笑ってそう言えば、ぎらついていた瞳がほんの僅かに和らぎ、顔を近づけられたと思うと遠慮無しに口づけられる。
 技術も何も無く、獣のように自分の血液の味を含んだ熱い舌先を絡ませてくる男に、そう言えばコッチの方も間が空いていたなと思い返す。
 今日は早く寝ようと思っていたが、そうもいかなそうだ。
 暫し男の好きなようにさせていたものの、流石に押さえ付けられた両腕が痛むと手首を動かすと、躾けた甲斐もあり口付けられていた唇が離れる。
 蜘蛛の糸の如くか細い糸が互いの口端から掛かるのを認識し、舌先でその糸を拭った。

「ちゃんと【待て】が出来て偉いなぁ。軋間。でもこれはもう少し遅くなってから、……な?」

 そのまま自由の利く右足の膝で焦らすように男の太ももを撫ぜると俺の上に跨っている男の瞳が細められる。
 獲物を目の前にして、いつ喰らいついてやろうかと悩んでいる様子の男に確かな興奮を覚えるが、俺が止めた手前許可をする訳にもいかない。
 その代わりと言わんばかりに顔を動かして男の視線を居間へと続いている開け放たれた障子に向けさせる。
 すると俺の伝えたかった事が分かったようで、のそりと俺の上から退いた男が居間の方へと向かっていく。
 俺はその後を追うように立ち上がると、男の背中を押して先ほどまで座っていた座布団の上に男を座らせる。

「あ、コラ!待て待て」

 座った途端に俺の持ってきた黒い袋に手を伸ばした男を制止しながら、急いで部屋の隅に置いてある木箱を取りに向かったが、余程腹が減っていたらしい男は俺の声などお構いなしにそのビニール袋に手を突っ込んだ。

「待てって言ってるのに」

 その中にあるモノを両手で掴んだ男が満足げに喰らい始めるのを見ながら、木箱の中から襷と使い捨ての黒い食事用ナプキンを取り出す。
 まぁ、随分と今回は我慢させていたのだから仕方がないと諦めつつ、既に血で汚れている男の着物を見てため息を吐いた。
 着物が濃紺色だからあまり染みが目立たないとはいえ、ベットリと血がつくと落とすのが大変なのだ。

 俺の苦労など知りもしない男は夢中で肉や皮を喰らい、そんな男の背後に回ると手早く袖を引き上げ襷を架ける。
 そうしてさらに食事用ナプキンを男の項付近で蝶々結びして留めると、そのまま男の肩に顎を乗せ、ナプキンの下を潜らせるように抱きしめてみる。
 衣服越しにでも分かる均整の取れた筋肉と、生命力に溢れた肉体は俺の中でいつまでも眩しく輝く。
 この美しい生き物はどうしてこれ程までに俺を魅了してやまないのだろう。

「本当にいつも美味そうに喰うよなぁ、アンタ」

 ぐちゃぐちゃという粘着質な音と、男の咀嚼する音が混ざって耳に響くのは心地良く、疲れた身体には子守歌に聞こえてくる。
 このまま少し眠ってしまおうかと思っていたが、不意に男の手が止まったのを感じて目を開けた。
 すると首を傾げている男がジッと見つめているモノが俺の視界にも入り込んでくる。

「嗚呼……それは食べちゃダメだ。腹壊すかもしれない」

 五本のすらりとした指の先にキラキラと宝石のような石が幾つか載っており、白い肌を染める血とは異なる赤が塗られていた。
 男が食べやすいように不必要なモノをそぎ落とし、極力解体した筈だったが、そこまでは気が回らなかった。
 俺は男の肩に顎をのせたまま腹に回していた手を動かして片手をポケットに差し入れると、愛刀を取り出して刃をくり出す。そうして後ろから男の耳に向かって声をかけた。

「ほら、貸してみろ」

 素直に俺にソレを手渡してきた男が手元を見つめているのを感じながら、爪の先端に刃先を差し込み林檎の皮を剥くように一枚一枚手早く剥がし取っていく。
 剥がした爪先の下から、ふやけた組織が現れ、ぬるりとした血液と体液が滴り落ちた。
 まだそこまで時間が経っていないのもあり、末端の組織までは死後硬直が始まっていなかったが、肘から先は直ぐに切り離してしまったので触れた掌は冷たい。
 五本全て綺麗に剥がし終えると、蝶標本のように飾り立てられた爪をとりあえず畳に置いてから愛刀をポケットにしまい直す。

「これで大丈夫だ。もう片方はまた後で取ってやるから先にこっちから食べたらいい」

 そう言って男に差し出すと、硬い骨や筋などまるで気にならないのかバリバリと音を立てて噛み砕く音が聞こえてくる。
 本当は食べ応えのある獲物を持ってきてやりたいのだが、狩るまでの時間や後処理の面倒さや此処まで運んでくる労力を考えるとどうしても小柄な相手を選ぶしか出来ない。
 最初の内はその事実に自らに向かって嫌悪感を覚えた事もあったが、もうそんな躊躇いも慣れた所為なのか微塵も感じなかった。
 俺がただひたすらに求めるのはこの男と共に生きる事で、必要な犠牲があるならばそれは仕方のない事なのだ。
 ドロドロと腹奥から湧き上がってくるどす黒い感情が脳内に占める割合が日々大きくなっていく。
 けれど俺はあの日に自らに課したのはこういう未来を堪え抜くという事だ。

 今度は夢中でふくらはぎ辺りを貪っている男の背中に顔を摺り寄せる。
 そのまま視線を横に向けると畳に転がっている先ほど剥いだ爪が、幼い頃の記憶に残っているガラス製のおはじきに見えて少し笑えた。
 しかしすぐにその笑みも消え、覆い隠すようにその爪を片手で握りこんで持ち上げた。

「……さて、と」

 男が満足するまで待っていても構わないのだが、生憎俺にはやらねばならない事がある。
 身体が離れた所が冷えるのを覚えながら立ち上がると、男の頭に手を乗せ声をかけた。

「俺は風呂沸かしてくるから、あんまり汚すなよ。さっきみたいに食べきれなかったやつは処理してやるから残しとけ」

 俺の言葉が分かっているのかどうかは曖昧ではあったが、その言葉に顔を向けてきた男の口端についた血液を拭ってやる。
 その表情はどこまでも無邪気さを宿していて、全身を巡る毒のような気分が僅かに紛れた。
 このまま、変わらない日々が送れるなら俺は他に何も求めない。

 ゆっくりと男から目を反らし、炊事場へと続く障子を開くと帰ってきた時とは逆回しに見えるように靴を穿き、戸を開けて外へと出る。
 もう暗くなった森の中で、庵の裏手に回ると風呂用の釜の前に立った。
 その横には割った薪を何束か積んであるので、まずはそれを釜に入れ込む。
 そうして置きっぱなしにしておいた布袋に手を入れると、秋物の薄手なセーターとスカートが出てきたので、さらにそれを余り見ないようにしながら釜に突っ込んだ。
 少しずつ、少しずつ、こうして持ち帰ったモノをこの釜で燃やしては風呂を沸かす。
 夏の間はすぐに処理出来たが、冬に近づけば近づくほどにより面倒になるだろう。
 それでも、こうしなければならないのだ。
 俺とあの美しい獣との生活を守るために。

「これもか」

 ポツリと呟いて、握りこんだままだった爪を釜の中に放り投げた。
 薪の上に置かれた血に汚れた服と剥がされた生爪はいつ見ても生々しい。
 しかし、それも燃えてしまえば残るのはただの灰だ。
 俺は左ポケットに手を差し入れると、先ほど使ったライターを取り出してセーターに火を着ける。
 端からメラメラと火を灯した服を見つめている俺の視界は赤く染まっていくが、あの日見た男の炎より遥かに弱く醜いと一人嘲った。



-FIN-






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