「……あれじゃないか?」
隣を歩んでいた七夜のぽつりと発せられた声と共に真っ直ぐ指差された方向を見遣る。
人通りの全く無い細い路地をひたすら歩き続け、なかなか目的の場所が見えない事に苛立っていたのか、その声は心なしか弾んでいた。
指差された方向に顔を向けると、慣れた狭い視野の中に葉を落とし寂しげになった木々に囲まれ、それらに隠れるように土蔵が建っているのを視認する。
遠目からでも分かる白い漆喰塗りの壁面はそこまで薄汚れてはいなかったが、町外れの場所にあるせいか陰鬱な雰囲気を宿していた。
このような場所とはいえ、不意に現れる土蔵は知らぬ者から見れば最初は随分と奇っ怪に思うものだろう。
そんな事を思いながらも、昔馴染みの姉妹の片割れに渡された地図を手におおよそ言われた通りの場所である事を確認してからオレは七夜に向かって返答した。
「そのようだ」
「全く、その地図だと近いみたいな書き方をしていた癖に意外と遠いじゃないか。遠野もなんでこんな場所にわざわざ蔵を造ったんだか」
「近い場所であればわざわざオレ達に仕事など頼むまいよ」
首元に巻いた灰色の柔らかな襟巻きに顔を埋め、両手を学生服の衣嚢にしまい込みながらブツクサと文句を言っている七夜の耳は赤い。
今日は少し離れた町まで降りるから暖かい服を着ろと言ったのだが、面倒臭がって着なかったのは自業自得しか言いようが無い。
季節は冬に差し掛かり、日の射している今でさえも上着越しとはいえ身体に吹き付ける風は冷たい。
オレにとっては然程苦痛では無いが、強がりながらもそこまで寒さに強くは無い七夜にしては辛いものがあるのだろう。
外気を遮断してくれる建物や街路樹も少なく、どちらかと言えばだだっ広い空き地に近い事もあり下手をしたらオレ達が住んでいる森よりも冷えているかもしれなかった。
そんな風に考えているとこちらの顔を覗き込みながらヤツ当たりのように七夜が言葉を発した。
「そもそも、アンタが『掃除をする代わりに、必要なら遠野家秘蔵の古書を好きなだけ持ち出しても良い』なんて誘惑に釣られて琥珀の頼みを聞くからだろう」
「お前がついてくるとは思っていなかったからな。それにお前も『本邸には置けないような怪品珍品の類いがあるかもしれない』などと言っていたではないか」
「そりゃあ、そうだけども」
「ならば文句は言わない事だな。……終わったら街で何か温かい物でも食べて帰れば良いだろう」
また餓鬼扱いしやがって、と小さな声音で七夜が囁いたが敢えて聞こえないふりをして持っていた簡素な地図を自身の上着の衣嚢にしまい込むとさらにその蔵に近づいていく。
木々に囲まれている為に近づくまで正確な大きさが分からなかったが、蔵としてはそこまで巨大というわけでもなかった。
話を引き受けてから、場所が離れている云々よりも一日で清掃を終えられるかの方が気掛かりではあったのだが、強力な助っ人もいる事もあって中身が余程乱雑になっていなければ大丈夫そうだと内心安堵する。
数日通う事も覚悟してはいたのだが、それは流石に杞憂だったようだ。
目的地が見えれば歩むのも苦痛にはならないのか先程よりも足取りが軽くなった七夜と共に庇の下に備え付けられた蔵戸の前に立つ。
今は殆ど見る事もない昔ながらの瓦屋根の土蔵は、よくよく見れば不思議とこの寂しげな空間にはよく馴染んでいた。
しかし、その昔気質な土蔵で唯一歪だったのは蔵戸の真横に大きく掲げられた看板である。
「【遠野家所有の蔵】だってさ。この一文があれば大抵の奴は怖気づくだろうな」
「……まぁ、そうだろうな」
本邸から離れている為にどのような警備をしているのかという疑問があったのだが、確かにこの一文が書かれていればある程度の情報を入れている賊は手を出さないだろう。
その上、蔵戸の近くにはこれみよがしに小型の監視機器が取り付けられていた。
これでわざわざ警備を配置せずとも賊から財産を守れるのだから最近の技術の発展は目覚ましいものだとも感じる。
そんな事に感心しながらも地図を入れていた方の衣嚢にもう一度手を入れ、中に入っていた複雑な形の鍵を取り出す。
扉に掛かっている和錠の見た目はそこまで新しく見えないが、この鍵の形状を見る限り特注品だろう。
七夜の言う事を完全に信じていた訳では無いが、確かにこの蔵にはそこそこの『怪品珍品』の類が存在するかもしれなかった。
鍵を外し、それを七夜に手渡すと木と鉄で出来た蔵戸を片手で引く。
するとオレの腕を屈んで避けてから、するりとその隙間を七夜の細い身体が入っていった。
その素早い動きに思わず猫を連想してしまい、戸の内側に立った七夜を見つめる。
ほぅ、と吐息を洩らした七夜は暫し周りに視線を巡らせていたかと思うとオレの方に向き直り言葉を紡いだ。
「ちょっとばかり埃っぽいが、やっと寒さを凌げる」
「だから暖かくしろと言っただろう」
「掃除するなら動くかと思ったんだよ。それよりもアンタが入ってくれないといつまでも開け放したままで暖まれないんだが?」
「……勝手な事を言う」
「俺の勝手さなんてアンタは重々承知してるだろ。今更な事を言いなさんな」
薄く笑いつつ、戸脇にあったらしい明かりの電源を入れた七夜に振り回されつつも居心地が良いと思ってしまうのはこれが当たり前の日常になってしまったからだろう。
七夜と同じように蔵の内部に足を踏み入れたオレは開けたままの蔵戸を開けた時とは反対方向に引き、風を遮るために閉める。
戸を閉めると明かりがついているとはいえ、仄暗く湿っぽい。
重い音を響かせながら閉まった目の前にある蔵戸はその僅かな光を吸収し、鈍く光る。
一年に一度程度しか此処に人が立ち入る事が無い為か、扉を閉めると外から見る印象よりも一層、隔絶された場所に感じられた。
何よりも、自分の意識に訴えかけてくる既視感の原因が分からず戸惑う。
しかしそんな考えが過ったのも一瞬で、オレの背後に居た七夜が歩みだしたのをきっかけにオレも身体ごと振り返り周囲を見回した。
壁には収納用の木棚が複数取り付けられ、その上には丁寧に箱詰めにされて、中身の大雑把な分類が側面に貼られた物品がいくつも置かれている。
およそ10畳ほどの蔵は、横の広さは無いが高さはそこそこあるようで取り付けられた木棚の近くには上の方の物を取り出せるように金属製の脚立が置いてあり、高い部分はそれを使用して出し入れを行えるようになっていた。
蔵の内部を観察していたオレの近くに居た七夜は、その取り付けられた木棚に近寄ると人差し指で棚の表面を一撫でする。
「そこそこ汚れてる……ってところだな。本当に年に一度の清掃だけらしい」
「この広さならばそこまで手間もかからないだろう。物品の虫干しはまた別日に来るそうだからな」
「それってじっくり箱の中身を見られないって事じゃないか、つまらん」
「……それはお前の良心次第だな」
その言葉にニヤリと笑った七夜に、下手に恐ろしい葛籠を開けて蛇を出さねば良いが、と思う。
オレよりも遥かに危機回避能力はある餓鬼だから、そこまで心配もしてはいないものの、たまにコイツはオレを困らせる為だけにわざと危険な目に合う時がある。
しかしなんだかんだで真面目さを持っている七夜が周囲を見回して言葉を発した。
「ちなみに清掃道具はどこにあるんだ?まさか素手でやれってんじゃないだろう」
「確か聞いていた話だと扉脇にある収納に道具一式が入っているとの事だったが……」
「ふむ。じゃあ探してみよう。……このまま日が暮れたら俺は帰る頃には凍死しちまうからな」
オレは閉めた扉脇に目を向けると、赤茶色の髪をした女人の言っていた通りに置かれている木で出来た黒い収納箱に手をかけそこを開く。
中には箒と塵取りとハタキ、雑巾に加えて桶や小型の電気掃除機などの物品がそれぞれ区分けされた場所にしまい込まれており、どれも綺麗な状態であった。
年に一回の清掃の際に使用した雑巾類はそのまま処分しているとの事だったので、他の物に関しても古くなる前には新しい物に適宜取り換えているのだろう。
水道は蔵の外にある物を使用してくれとの指示だったので、桶があるのも何度も外を行き来する手間を省く為なのだろう事がうかがえた。
「俺は水に触る気は無いから、お前にその辺は任せる」
オレの隣から顔を出した七夜が収納の中身を同じく確認したのか、肩を竦めてそう言う。
確かにこの寒い中で何度も外に出て水を汲み、その水で濡らした雑巾を使用するのは寒さが苦手な七夜にはとんだ苦行だろう。
その点に関しては特に異論は無かったので黙って七夜にハタキを手渡す。
そのままハタキを手にした七夜はさっさと木棚の方へと向かってしまった。
恐らく期待していた割にはそこまで面白い物が無さそうだと思ったのだろう。
オレはオレで収納箱から桶と雑巾を取り出すと、上着を脱いでその収納箱の上に置くと掃除を始めた。
□ □ □
七夜が寒いと言うので蔵戸は開けずに唯一ある観音扉の窓を開け、換気を行いながらひたすら二人とも黙って清掃を続けていく。
オレもそうだが、七夜も何かをしている際は集中して取り組む性分で、庵の掃除を行う時も其処まで会話をしながら行う事は少ない。
なのでオレは黙ったまま七夜がハタキで埃を落とした後の木箱や木棚をひたすら拭いていく。
だが、いつもならば大して気にならない事が妙に気になってしまう。
例えば、古い造りの窓から差し込む光が照らし出す埃っぽさであったり、長らく閉めきられていた所為でじめついた空気の嫌に身体に纏わりつく感覚。
周囲からの音が聞こえず、逆に内部からも何を言っても聞こえないような遮音性。
蔵に入った時から感じていた既視感の元凶を考えて、ジクリと潰れた筈の右目が痛む。
その痛みに思わず持っていた雑巾を木箱の上に置く。
そこで漸くオレはこの蔵の内部がかつてオレが幽閉されていた座敷に雰囲気が似ているのだという事に気が付いた。
あの頃のオレにとって狭く薄汚れた座敷こそがこの世の全てであった。
肉親や兄弟、そのような存在すらもよく分からないままに鎖に繋がれ、その上で甚振られている化け物と呼ばれる存在。
言葉や教養などといった物も与えられずに、あの座敷の中でただひたすらに飼い殺されていた家畜にも近い生き物であった。
今となってはよくあの状況に居たものだと思うが、こうして一族全てを屠り、一人生き残っている現在でも幼少の頃の記憶を忘れる事はない。
どうにかオレが育つ前に現世に出す事なくあらゆる手で殺そうと加虐の限りを行ってきた奴らを、オレは結局同じようにその首を縊り、圧殺し、そうして燃やした。
燃え盛った炎の中でオレは何も感じる事は無く、ただ一切の面倒が済んだとだけ思っていた。
いつかは訪れるであろうその行為を終わらせたというだけの、充足感も何もない連続した日常のような思いで居ただけであった。
だが、今の己は気が付けば随分と人間らしい気質を得ているらしく、過去の追憶をする度に叫び声すら聞く前に全員の首や腹を捩切った指先とあの男に潰された右目に疼痛が走る。
感傷などというモノでもないが、かと言って以前よりも何も感じないわけでもない。
何とも言えない己の心の在り方の変化に自分自身、戸惑っていた。
「……軋間?」
ふとオレの隣にいつの間にか立っていた七夜がオレの名を呼ぶ。
その穏やかながら艶のある声を聞くと、胸に淀んだ空気が僅かに晴れるのを感じる。
何か返事をするべきだとは思うが、何を言うべきかもわからずただ黙っているとオレの顔を覗きこんできた七夜は一瞬、驚いたような表情をした後に静かに囁く。
「アンタのそんな顔、初めて見たな」
「…………そんなに酷い顔をしているか、オレは」
七夜の言葉にどうにか返答を行うと、オレの頬に触れた七夜がそのまま其処を撫でつつ微かな笑みを浮かべた。
「酷い顔、っていう形容はどうかと思うがね。……まぁ、心底疲れたような、そんな顔さ」
「……そうか」
「……なにか思い出す事でも?」
この餓鬼は本当に敏いなと内心舌を巻く。
恐らく他の人間にはオレの表情の違いなど分からないだろうくらいの些細な変化な筈だ。
けれどその表情の変化を読んだ七夜はさらにオレの回想も分かっているかのように問いかけてくる。
オレは誤魔化す事を諦め、平坦な調子で言葉を紡いだ。
「此処はオレが居た場所に少し似ている、ただそれだけだ」
「居たって……アンタが昔、一族の奴らと住んでいた場所って事か?」
「"住んでいた"と形容出来るかは疑問だがな。……どちらかといえば"飼われていた"に近い」
「……ああ」
オレのセリフだけでこちらの言わんとした事を察したらしい七夜はため息のようなその相槌をすると、オレの頬に触れていた手を動かしてこちらの手を引き、七夜の方へ身体ごと振り向かせようとしてくる。
その手に抵抗する事無く七夜の方を向くと、オレを真っすぐに見つめてくる薄灰色の瞳と視線が合った。
こちらの右目を潰し、オレに"生"の実感を与え、そうしてオレによって殺された男の息子。
本来ならば殺意だけを向けてくる筈の瞳が、いつしか柔らかな光を宿してこちらを見つめるようになってから随分と経つ。
そうして同じようにオレの片方しか機能しない目も、この餓鬼の全てを愛しく感じるようになっていた。
愚かで、間違っていると分かっていても尚、オレは"七夜"という存在をこの手の中に収めていたかった。
「アンタの一族も随分と色々悪さをしていたらしいな。身勝手にアンタを生み出した後も、そうだったんだろう?」
「……オレのような正気を持たぬ化け物を間近で飼うのは随分と恐ろしかったらしい。それも仕方のない事だろうと今では思う」
オレの言葉に何故か眉をしかめた七夜がこちらの両手を握ってくる。
冷えた細い指はこちらの手の温度を求めるようにそのまま其処を擦ってくるのが分かり、オレはその手を握り返すか迷う。
この手は僅かにでも加減を間違えれば、細い指先を花の茎のように簡単に手折ってしまうだろう事が分かっているからだ。
こちらからの力が籠っていないのを気にしていないように七夜の指先がオレの指を撫でていく。
「アンタの一族はアンタの本質を理解出来ていなかっただけだよ。俺から言わせれば、アンタほど廉潔なヤツはいないさ」
「そもそもアンタを生み出しておいて、その強大さに恐れ慄くなんて馬鹿げてる。求めた結果が出て、それに対して後から疎ましく思うなんて考え無しのマヌケもいいところだろう」
ジッと見つめられながら強い口調でそう囁かれ、オレは黙り込むしか出来なかった。
そんなオレに対してさらに七夜は言葉を続ける。
「それにアンタもアンタだ。……"正気を持たぬ化け物"?中々な言い草じゃないか」
「俺にとってアンタは今も昔も変わらない"死"の象徴だが、それでも初めてアンタと言葉を交わした時、僧侶然で俺を"獣"だと言う程に理知的だったアンタが"正気を持たぬ化け物"なら俺は一体どうなっちまうんだよ」
最後の言葉は半分含み笑いの籠った声でそう言う七夜に、オレは本当にコイツに心から感謝と尊敬の念を覚えていた。
ここまで他者の、それも一族の仇である相手に対して優しい言葉をかけられる人間が居るモノだろうか。
もしもオレならば口下手である事を差し引いてもきっとこれほどまでに七夜の求める言葉を返してやれたかどうか分からない。
「…………お前は今のオレにとっては生きる理由だ。お前が居るなら、それ以外は必要ない」
そうして今もオレはその七夜の言葉に相応しい言葉を上手く紡げているかの自信が無かったが、こちらの手を握っている七夜の手を静かに握り返しそう呟く。
嘘偽りのない心の赴くまま唇から発されたオレの声に目を丸くした七夜が暗い室内でも分かるくらいにその頬をほんのりと赤く染めたのが分かった。
「そうかい、……それなら良いんだけどさ……」
「嗚呼」
「とりあえず……アンタも大丈夫になったならもう少しで掃除も終わりそうだし、さっさとお目当ての物を見つけて帰ろうぜ。此処はどうにも静かだが湿っぽくて頂けない」
「……そうだな」
そう言った七夜がスルリとその手を離してくる。
先程までは両手に枷がかけられているかのような重みを感じていたというのに、その手が触れた瞬間からその重みは霧散し、逆に温かさを取り戻していた。
そうして喉を塞いでくるような息苦しさも今はそこまで感じない。
七夜という存在がどれほどまでにオレを救っているのかというのを改めて実感し、そうして共に居られる事に心から歓喜の念を覚えていた。
この餓鬼がいなければオレはとっくに鬼の血に飲み込まれてしまっていただろう。
今はまだ、人間として生きていける。それがいつか終わりを迎えるとしても、恐らくもっと未来の話だろう。
この手の中に守りたいと思う相手が居る、その事実はオレにとって最も強い支えとなる。
己の過去の罪が消える事は無くとも、それでもオレは七夜と共にこれからも生きていくのだろう。
そんな思いを噛み締めながら、今度は電気掃除機の電源を入れた七夜に倣うように置いていた雑巾に手を取り再び清掃を再開した。
-FIN-
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