勿忘草


※軋→←七←白レン 





私のマスターはよく嘘をつく。
それはもう、巧妙に、だけれど今回の何処か分かりやすいその嘘は、まるで気がついてくれと言わんばかり。
そうしてその嘘に何故か本人が一番騙されている。
滑稽だ、と笑ってあげれば気がつくのかもしれない。
けれど、気がつかせてしまったら、きっと彼は私を置いていってしまう。
遠い何処かを見つめる彼の色素の薄い目を、私は失いたくない。
私は……私は、ただ彼が傍に居てくれるだけで良い。
彼が何かを殺さなくては生きて行けないとしたら、私はその為に舞台を用意してあげるのに。
彼が望む全てを私は、見つけて差し出してあげるのに。
彼は私を見ない。
私を見ないで、別の誰かに想いを寄せている。
幾らなんでも私だってもう立派な淑女。
だけれど女の勘、というには悲し過ぎるそれを受け入れたくない。
それは、我侭なのかしら。
今宵も何処かにふらりと居なくなってしまった彼を探すために一人暗い夜の道を踊るように進む。
―――嫌な予感がする。
何時も居なくなってしまう時とは違う、何か、不安が実体化してしまいそうなそんな雰囲気。
何処までも気配を探りながら歩んで行くと、彼の気配は私が干渉できる場所から離れ、森に向かっているようだった。



(森……?……まさか!)



思わず止まってしまった歩みを自身で叱咤する。
ただの偶然に過ぎない。きっとそう。
だって、私から離れてもし怪我なんかしたら彼は死んでしまうのに。
………けれどあの場所にはあの鬼がいる。
彼が何時だって焦がれていた鬼がいるのだ。
ぎゅう、と何時もは皺になるのが嫌でどんな時にも扱いには気を使っているスカートの裾を握り締める。
途端にそのスカートに醜い皺が寄ってしまったけれど、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。
もしも、彼が死んでしまったら?
不意に込み上げてくる想いが胸を突く。



(違う、違うわ……それは二番目に恐ろしいこと)



私は、あの時から気がついていた。それかもっと前から。
彼が殺されてしまうのは恐ろしい。
だけど何より恐ろしいのは、彼が私を忘れてしまう事。
置いて行かないで、と言えるほどに私は素直じゃなかったし、彼は甘くなかった。
そんな所が好きだった、とでも言えば少しはマシになったのかもしれない。
何時も昏い目をした彼は、鬼を語る時だけは、愉しそうだった。
私は側にあった壁に体を預けてあの時をゆっくりと回想する。
しかし思い出すまでも無い。
私は今でも一字一句、表情や体の動きまで、まるで刻み付けられたように忘れられないのだから。



□ □ □ 



「七夜?……ねぇってば、七夜!」

「……ん?どうかしたかい、ご主人様?」

「どうした、じゃないわよ全く……さっきから呼んでいるのに返事もしないで……」

「悪かったよ。……少し、考え事をしていたんだ」

「貴方が考え事?珍しい事もあるものね」

「失礼な、これでも俺は思慮深いと有名なんだ」

「なぁに、それ。そんな噂、聞いたことも無いわ」


そこまで言い終わって、さっき入れたばかりのロイヤルミルクティーに息を吹きかける。
ここは真っ白な雪原であり、私の領域。
空に浮かぶ真っ白な月と、煌く星、そして群青色の空。
どれも私のお気に入りの風景で、その中心にはこれまた真っ白なテーブルと二脚の猫足チェアーがある。
真っ白なテーブルには銀で出来たケトルや食器類が並び、赤く瑞々しい苺が乗ったホールケーキもしっかりと完備しているのだ。
なんて素敵な御茶会なのだろう。
………相手が悪いとは自分でも思うけれど。
ほぅ、とため息をついて充分に温くなったそれに口をつける。
本当はもう少し熱めの方が美味しいのだけれど、私は根っからの猫舌だし、用心に越した事はない。
ちらりと視線を上げればまた、何処かを遠くを眺めている彼が目に入ってきた。
何時もなら、私のこの御茶会にも『御遊び』なんて皮肉を言いながらもしっかりと参加するくせに、今日はまだケーキにも紅茶にも手をつけていない。
この間、私に無断で何処かに出かけてからというものずっとこう。
何処に行ったかは聞いても教えてくれなくて分からなかったけど、大した傷は作っていなかったので心配はしていなかったのだけれど……。


「ねぇ、本当に大丈夫?……具合でも悪いの?」

「………なぁ、レン」

「………何?」

「君は、憎悪の反対はなんだと思う?」


その突拍子の無い言葉に一瞬面食らうものの、何故か答えなければならないような気がしてしまって私は青薔薇の模様の入ったティーカップをこれまた同じ柄のソーサーに置いてから答える。


「憎悪の反対は、……愛じゃないかしら」

「……そうか。……」

「そして表裏一体のものは何処か似ているから、反転してしまう事もあるわ。言うなら貴方と志貴のように」

「…………」

「二面性、というのかしら。私には上手く説明できないけれどね」

「……入れ替わってしまうって事か」

「……そういう時も、あるかもしれないわねって話よ」

「…………じゃあ、殺されるかと思っていたら、不意に……いや、止めておこう」

「え?ちょっと、何よ。気になるじゃない!」

「君のような子供には、とてもとても」

「ッ……!また私を馬鹿にして!!……私は貴方より年上なんだからね!」

「その割には、落ち着きが足りないようだけど?」

「煩い煩い!!……折角の御茶会が台無しだわ!全く!」

「……………」

「!…………七夜?……ねぇ、ちょっと……」

「ダメだな……少し、頭を冷やしてくるよ。……出かけるが問題無いよな?」


そう言って彼は椅子から立ちあがりさっさと雪原から出て行ってしまう。
私は引きとめようと上げた手をどうする事も出来ずに黙って下ろした。
さっきの顔は、反則だと思う。
あんな、まるで……誰かに恋をしてしまったような顔。
切なそうに顔を歪めて、けど何処か、幸せそうで、悲しみを込めた目なんて。
あんな顔をした彼を私は見たことがない。
だって何時も、慇懃無礼で、殺戮が一番好きで、皮肉屋で、でも何処か優しくて、かなりの変人なのに。
さっきの表情は、今にも泣いてしまいそうな顔。


(何よ……別に、マスターが誰に恋しようと関係ないじゃない)


そう思うのに、誰も居なくなった目の前の空席を見ていると自然と涙が目の淵に溜まる。
それを必死の思いで収めた頃には、完全に紅茶は冷えてしまっていた。



□ □ □



「紅赤朱」

「………七夜か」

「……この間の、真意が聞きたい」

「…………」


ゆらりと立ちあがった男の影がこちらの足元にまで伸びる。
黙って出てきてしまったからきっと彼女は俺を探しているだろう。
しかしそれを、捨て置いてでも今は聞きたかった。
この間はわけの分からぬまま俺は男の腕を振り払って逃げてきてしまったから。
あれからずっと男の影が俺に付きまとっている。
その影は温かく、何時までも抱きしめられた時の感覚を忘れさせてくれない。
ざわざわと森全体が答えるように風で揺らめき、男が少しずつ歩みながら此方に近づいてくる。
俺は今度こそ逃げ出さないように、仁王立ちで硬直している自分はさぞかし男には滑稽に映っているのだろう。
だがそうでもしないと今にも逃げ出してしまいそうだ。


「…………」

「この間、とは……オレがお前を殺さなかった事か?」

「……違う、……アンタが……俺を……抱きしめた事だ」

「…………」

「もしも、深い意味が無いただの戯れならそう言えば良い。……そうなら今度はちゃんと殺し合いが出来る」

「……戯れではない」

「っ……じゃあ何だよ……ただの戯れじゃないなら、からかったのか?……それならそう言えば……」


男が俺の目の前に立つ。
その鋭い一筋の眼光がこちらの目をしっかと貫いた。
続きはもはや言えなかった。言えなくなったといった方が正しいかもしれない。
男の手が伸ばされ、こちらの頬を撫でる。
そんな痛くも無い行為なのに、俺は無様にも体をびくつかせてしまった。
しかしそれを笑うこともせず、そのままゆるりと俺の腰を引き寄せ抱きしめてくる。
髪が柔らかく梳かれていく感覚と、男の心臓の音が聞こえてきて不思議だ。
何度か髪を撫でられた後、男がその身をさらに近づけ俺の耳元で囁く。


「………好きだ、七夜」

「……ッ……」

「…………好きだ……」

「……軋間……」

「…………」

「……きしま……」


俺はどうにも答えられなくなってしまって、ただ男の名を呼びつづけた。
だがそれでも思いは通じたのか男が俺の顔を上げさせる。
俺は男の手に触れて、一度それを止めさせた後、僅かに困惑している男に囁いた。


「……少し、待っててくれないか」

「…………何か大事な用があるようだな」

「………あぁ。……しなくちゃならない事を思い出した」

「………行って来い、……待っているぞ」

「……すまない」


俺は男の名残惜しげにこちらに触れて来る手に小さく接吻を落としてから急いで森を駆け、街への道をひた走った。



□ □ □



きっともう戻ってこない。
彼は私を忘れてしまう。
ただの影の私は、忘れられてしまうことが一番、恐ろしいのに。
もう探すのは諦めて、何時ものように広い雪原に一人座り込む。
これからはまた一人、ここに存在し続けるのだと考えると足が竦んだ。
今まではそんな事、気にした事も無かったのに。
何時の間にか彼の存在が私の中で大きくなっていた。
分かっていたけれど、失って始めて、理解出来た。


(私を置いて行かないで、七夜)


止めた筈の涙がまた零れ落ちる。
このまま眠ってしまおう、そう考えていると後ろから声が聞こえてきた。
まさか、と思い振り向きたかったけれど、今の私はきっと凄く情けない顔をしている。
それになんだか、先の展開が読めた気がして、彼が言葉を紡ぎ難くしたかった。


「……やぁ、お嬢さん……顔を見せてはくれないのかい?」

「今はダメ。……にしても紳士を気取っている方が、随分な息の乱しようじゃなくって?どうかしたのかしら」

「……少し、言わなければならない事が出来てね」

「…………」

「…………レン」

「……嫌よ。……聞きたくない」

「………俺は、もう……君の物ではいられないよ。レン」

「……嫌!……だって貴方は私が居なくちゃ生きていけないじゃない!今までだって散々色々な事を許してあげたじゃないの!!」

「…………」

「もし貴方がここから出て行くっていうなら、私は全ての力を使って貴方をここに縛り付けるわ」

「………君が本当にそうしたいなら、すれば良い」

「!」

「けれど、俺の気持ちはここには無くなる。……それでも良いなら、そうしてくれて構わないよ」


そんな事、出来るわけないじゃないと言いかけてその言葉を喉の奥に押し込む。
どんどんと涙声を隠せなくなっていく自分が許せなかった。
引きとめるなら、引きとめるなりに、美学というものがある。
これではただ縋っているだけに過ぎない。
………何時だって、彼の荷物にはなりたくなかった。
けれどそう願う事で、本当に言わなければいけない言葉も一緒に封印してしまっていたのかもしれない。
そうしてその言葉はもう二度と、元には戻らないのだ。


「……馬鹿七夜」

「…………」

「何時だって勝手で、行くなって言ってるのに直ぐ居なくなって、皮肉ばっかりで、殺すのが大好きな倒錯者のくせに……」

「…………」

「けど何処か優しくて、それでいて悲しそうにしているかと思えば、誤魔化すように笑って……」

「…………」

「……行きなさいよ、顔も見たくないわ。……暫くは戻ってこないで」

「………すまない」

「……なんで、謝るのよ……もう良いから、早く行ってよ……!」


後ろで彼がこの言葉に押し出されるように踵を返した音がする。
ザリザリと雪とスニーカーが擦れる音がゆっくりと遠ざかって行く。
きっと私の言った通り、暫くは戻ってこないだろう。
だからこの音を聞くのも、もしかしたら最後かもしれない。
そう思うと咄嗟に振り向いて叫んでいた。


「七夜!!!」


驚いた表情でこちらを振り返った彼に向かって出来る限りの声で叫ぶ。


「私の事、忘れないで!!……御願いっ……!!」


今の私の顔は涙や何やらで悲惨な事になっているだろう。
しかしそれを気にしている場合ではなかった。
もはや雪原の出口付近に立っていた彼は一瞬逡巡した後に私の声と大差無い声の大きさで叫び返してきた。


「忘れるわけ、無いだろ!!」


それが聞けただけで良かった。
私はそのまま彼とは反対方向を向きなおして歩み出す。
この雪原の中で歩める範囲など決まっていたけれど、これは私の意思表示に過ぎない。
彼は私の意図が読めたのか、そのまま黙って雪原から出て行ってしまった。
完全に彼の気配が消えたのを理解してから、私は自身の膝がくず折れるのを感じた。


(好きよ、七夜。……大好きだった)


顔を両手で覆って子供のように咽び泣く。
けれど悲しみはさほど無かった。
あるのは喪失感と、何か分からぬもやもやとした物。
しかしそれらはきっと泣いてしまえば消え去るだろう。
次に彼が戻ってくる時までにはきっと大丈夫。
そんな願いが私の胸の片隅を占めていた。



-FIN-






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