春告草の歌声




しっとりと辺りの空気が微かに湿っている感じがするのはここ二、三日、小雨が降っていたからであろう。
暫し前から、『美しい梅の咲く場所が有る』と言われ、足を伸ばそうとしていたのだが先ほど述べたように それを遮るように薄い雨の幕が掛かってしまい、行けなかったのだ。
しかしその雨も漸く機嫌をなおしたのか昨日の夜半近くには止み、こうして今、男と並んで僅かにぬかるむ 道とも呼べぬ道を歩む。
そっと、気づかれぬように男を横目で見てみると心なしか何時もより眉間の皺が薄くなっているように感じた。
そもそも顔に似合わず性根は良い奴なのだから、と男の顰め面をどうにかしてやろうとしたのだが、もはやそれは顔に刻まれたように取れないのだ。
無論、俺はもうとっくのとうに諦めてしまった。
大体この男がそれこそ所構わず、その顔を緩め、笑っていたら逆に子供が泣く。
そうして、そんな事をされたら俺も何故かは分からないが苛立つのだろう。
ただの空想でさえそうなのだから、現実にならずともよく分かる。
まぁ、現実になる可能性など一パーセントも無いので、そこは安心できるのだが。


「………着いたぞ」


その言葉に今まで余所見をしていた顔を前に戻すと遠くからでも分かるような美しい白梅が見えた。
しかもそれは一つだけでは無い。
幾つもの梅の木がまさに整然と並び立ち、まるで己が一番美しいのだと言わんばかりに咲き誇っている。
俺は自分でも気がつかぬ内に自然と早足になっていて、後ろから追うように来た男が微かにこちらの素直な 反応に微笑んでいる事にも気がつくのが遅れてしまった。
まるで子供ではないか。花に気を取られてしまうなど。
そんな風に思って己を恥じ入っていると、男はそれに気がついたのか武骨な手でこちらの頭を撫ぜる。
何もかもお見通しだ、というその腕に若干の気恥ずかしさと僅かな苛立ちを感じるが、俺だって 男の事は他の人間よりも知っているつもりだ。だからお互い様なのだろう。
俺は男の腕を振り払う事をせずにそのまま黙って沢山の花をつけた白梅の木々を見上げる。
見上げる、と言ってもかなり下の方まで枝は伸びており、触ることも可能だ。
だが、その清楚ながらも何処か厳格さを持つものに圧倒されてしまって、触れるという段階にまでいかない。
ほぅ、と深く息をつけば代わりに甘い香りが胸いっぱいに広がり、恍惚とすらしてしまう。
こんな風に花を愛でる趣味は無かった筈なのだが、男と共にこの森で巡り来る四季を眺めている所為か すっかり毒されてしまったらしい。
しかし、それはそれで悪くは無いと思ってしまっている自分がいるのも確かだ。
全く、俺はこの男にだけは弱い。


「………綺麗だな」


ぽつりと、素直に思ったことが口から滑り出る。
男の方を見ずに言った言葉ではあるが、きっと男は俺にしか見せぬ顔で微笑んでいるのだろう。
俺はそのまま男の方に頭を擦り寄せる。
すると男はそれに応えるように呟いた。


「………あぁ」


そうしてそのまま頭に触れていた手が肩へと下り、俺を抱きかかえるように男の方に引き寄せられる。
そういえば、と今まで見ていなかったが地面を見てみると、この間の雨で散ってしまった花を見つけた。
それらは泥に塗れてしまって、彼らの頭上で咲き誇っている物達とはかけ離れた存在になってしまったように見える。
散るな、とは言わないがもう少し、この光景を取っては置けないものだろうか。
そんな風に思うなんて、と昔の俺を知る奴等からは揶揄されそうな事すら考えてしまう。
だが、こんなにも美しいものすら永遠では無いのだと知るのは少し、寂しい。


「………どうした?」


男が怪訝そうにこちらを覗き込んでそう言う。
折角男がわざわざ俺をこの場所に連れてきたのだから、そんな想いに浸るべきでは無かったと僅かに反省するが ここではぐらかしても男はいずれ見抜くのだ。
だったら、今、笑い飛ばして仕舞った方が良い。


「いや、雨で少し散ってしまっているだろう?なんだか勿体無いなと思ってさ」


男は黙ったまま俺を見つめている。
それを男の肯定と受け取り、続けて言葉を紡いだ。


「……季節が移り変わるのは、当然だと分かっているんだが……どうにも、俺は時間が苦手のようでね。……別に悲観しているわけでは ないんだが」


笑い飛ばそうと思っていたのに、男の目を見ている内に心中を隈なく吐露してしまいそうになって慌てて言葉を付け加える。
時間が経つのは、恐ろしく早い。
何時消えるか分からぬこの身が、明日には消えてしまっているかもしれない。
男と過ごす日々が長くなればなるほど、その恐怖が纏わりついてくる。
完全なる永遠など存在しない。だからこそ、これほどまでに愛おしく思えるのだろう。
分かっているのに、時折、このまま時間が止まってしまえば良いと思ってしまうのだ。
幸せな時のまま、何一つ変わらずに。
男は何時の間にか俺の顔を覗き込むのを止め、まっすぐに目の前の花々を見つめている。
その目には何かが映っているのだが、横から見た分にはそれを理解するには難しかった。
馥郁たる花の香りに混じって、すぐ隣で嗅ぎなれた男の匂いがする。
そのまま瞼を伏せて、目だけでは無く、感覚で花を楽しんで見ようかと思っている所で不意に隣の男が動いた。
途中まで伏せかかっていた目は結局また元の位置に収まってしまう。
男の方を見てみると、まさに目と鼻の先程度に咲いていた花の小枝を摘み取っていた。
そうして黙って見ている俺の耳元にその花のついた小枝を飾る。
思わず、きょとんとしてしまった自分を見て男は少しだけ寂しそうに笑った。
その顔に怒鳴ってやろうかと思っていた己の心が萎えて行くのを感じる。
そもそもこの場所で怒鳴るなど、してはならぬ禁忌のようなものにすら感じてしまって、結局俺は普段よりも小さな声で呟くしか出来なかった。


「……珍しいな。……アンタがむやみに花を摘むなんて……」


何時もは、食料すら『必要以上には取らない』と決めているこの男がこんな風に戯れで花を摘むなど珍しい事。
しかもわざわざ俺をここまで引き連れて来たという事は、それほどまでにこの場所には思い入れがあるのだろう。
なのに、たった一枝とは言え、この場所の主であるような花を摘む暴挙に出るとは。
だがその何時もとは余りにかけ離れた行動に、何故か嫌な思いが胸を過った。
その予感は男の言葉でさらに確実なものとなってしまう。


「……七夜、俺は……お前の為にならばどんなものでも殺すだろう」

「…………」

「だが、お前に確実に害を成すと分かっていても、殺せないものが一つだけある」

「!……嫌だ……言うな、軋間……」

「何時か、俺は自身の血に抗えずに完全な紅赤朱と成り下がる。……そしてその時、俺はお前を傷つけるだろう」


俺はそこまで言う男の顔を半ば無理矢理引き寄せ唇を塞ぐ。
その先など、聞きたくも無い。
幸せにすると言ったくせに、もっとも残酷な方法で俺を貶めるなんて許さない。
しかし男は俺をゆっくりと引き剥がし、真っ直ぐに此方の目を見据えて言う。


「………その時は、俺を殺してくれ、七夜」


涙すら、出ない。元々分かりきっていた事だ。
お互いに見ないフリをして隠してきたものを、男は直視し、また俺に直視する事を強要した。
何時消えるか分からぬ幻と、何時壊れるか分からぬ鬼。
どちらに転んでも、永遠など有り得ない。
それでも、離れられないのだ。
男はこちらの頬を縁取るように撫でる。
そんな男の顔は、先ほどの微笑とは一変して、苦しそうな表情をしていた。
きっと自分では分からぬが、俺自身もきっとそんな顔をしているのだろう。
さぁっと一際強い風が吹き、芳醇な香りと共に何枚かの花びらを散らせる。


「……なんで、嘘をついたままで居てくれないんだ……」


俺はまるで聞き分けの無い子供のように男の言葉に反駁する。
分かってはいる。だが、夢を見たままで居たかったのが、本音だ。
自己の心に嘘を見破られていても尚、騙して居たかったし、騙されて居たかった。
それほどまでに、男の腕の中は温かい。
男は俺を強く抱きしめ、耳元で苦しげに囁く。


「………大切に思うからこそ、これ以上、嘘はつけない」


トクトクと男の心音がする。何時しかそれは止まってしまうのだろう。
俺の手で、止めて欲しいのだと、男はそう願っている。
もしも俺がこの男を殺してしまえば、俺も死ぬのだろう。
そんな見たくも無い未来を予想してしまって、息が詰まった。
だが、男の言葉は鋭く刺さったが、けして冷たくは無い。
だから俺は男の胸元で男に聞こえるように囁きかえす。


「……俺も、アンタの為ならどんなものでも、殺して見せるさ……」


男はその言葉の真意を理解したのか、小さくすまない、と言った。
俺はそんな男の間違いを正すように再び唇を重ねる。
謝罪など、欲しくは無い。だったら、血に抗う努力をして欲しいのだと伝えるように。
出来るなら、先ほど見た恐ろしい未来など実行したくはないのだ。
なるべく長く、側に居て欲しい。
男が居なければ、もう生きてはいけない程に作りかえられてしまった自分に内心で苦笑する。
唇の膜を重ね合わせるだけのそれは、激しさは無かったものの、何より決意に溢れていた。
そうしてこの場所の空気にもっとも良く合う気すら、する。
だから男はこの場所での告白を決めたのかもしれない。
それは清い選択にも、そうして最も正しい選択にも思えた。


「………七夜」

「……ん?」


ふと男が花の方に顔を向ける。
見ると、随分と遅い時間に出てきた為か日が沈みかけていた。
そうしてその夕日が白梅を照らし出し、白梅がまるで紅梅のように赤く染まる。
恐らくこの時間帯にしか見られないだろうその光景に思わず凝視したまま固まってしまった。
先ほども美しいと思ったが、この光景もまた、美しい。
もしも先ほど時間を止めてしまったならば、この光景を見ることは叶わなかっただろう。
時が経つのは恐ろしい。だが、この先の未来にはもっと己が想像も出来ぬ程の事が待っている。
それを体験しないまま、生きるのはきっと何よりも悲しい事なのだろう。
なんだか俺は少しだけ、泣きたくなりながらもその素晴らしい風景を目に焼き付けるように何時までも見つめ続けた。



-FIN-




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