桜草と不如帰




目の前の男がどんどんとその身をこちらに近づけてくる。
本当ならば俺は逃げなければならないというのに、骨の髄まで敗北を染み込まされた体はもはや動くことすら ままならなかった。
背中に当たる木の幹が煩わしい。
しかしそれは無様に後ずさるのを許してくれないからではない。
その木にしがみ付く事でしか男とまともに対峙する事の出来ない自分が、許せなかったのだ。
男に纏わりついている赤い揺らめきはまさに男の全てを表現しているようで、それを一目でも見ることが叶う自分は かなり貴重な体験をしているのだろう。
鬼神とも表される男の前に立ち塞がる者は、大抵の場合はその場から逃げ出すか、一瞬の猶予も与えられずにその頭を 地に伏せる。
だから正直、今俺がこうして満身創痍ながらもしっかと男の目を見据えられているのは奇跡に近い。
そうしてその奇跡を俺はじっとりと体を覆う汗や血でもって噛み締めるように理解している。
そのような事を頭の片隅に置きながらも必死でくず折れそうな体を鮮血に濡れた手で支えていると男が 約一メートル前方で急にその足を止めた。
荒い息をしながらその急な行動に途惑い、男の目を睨んで見せるが、男の目には何も映ってはいない。
いや、実際には何か感情が渦を巻いているのだろうが、元々仏頂面の男、何を考えているかの検討もつかなかった。
滑りそうな手を何度も幹に引っ掛け、体を支える。
きっと今の俺の手は悲惨な事になっているかもしれない。
男が目の前に居て、何時殺されるかも分からぬという時にそんな瑣末な事を気にしているなど自身でも愚かだとは 思ったが、案外人間というものは本当の危機には疎いらしい。
その上、男は一向に此方に近づいてこず、首を捻じ切ろうともしないものだからこっちの方が焦れてしまう。
こうして見られていると、まるで馬鹿にされているような、それでいて、弄ばれているような不愉快な心持になる。
今でさえ、無様な姿を晒しているというのに、それを長く見つめ続けられてもっと酷い状態を嘲笑されるなど御免だ。
……この男だけは、そのような事をしないと信じていたというのに。



「……………………」


「……………………」



暫く無言のにらみ合いが続く。
男と闘い始めた時刻からそう経ってはいないのだが、如何せん、始めた時刻が遅かった。
もうすぐ終幕を告げる朝がやってきてしまう。
このまま男の目の前で消えてしまうなど、男に殺されることも、殺す事もせずにただ、消え去るなど堪えがたかった。
俺は全てを振りきって、ここに来たのだ。今更帰る場所など無い。
全てを清算して、それすら厭わないと思ったというのに。
男と対峙するために、俺は全てを捨てても厭わないと思ったのに。
ひっそりと息を吐く。
もうそろそろ限界かもしれない、と思い始めた瞬間、今まで押し黙っていた男が急に声を上げた。



「…………七夜」


「…………なん、だよ…………」



その声に半ば落ちかけていた意識が復帰する。
気がつけば先ほどまで一メートルほどの間隔が開いていたというのにその距離が少しだけ縮まっているような気がした。
漸く俺を殺す気になったのか、と滴り落ちる血もそのままにぼんやりと男を見据える。
空はもうそろそろ夜を締め出してしまうのだろう、端の方が僅かに明るく染まり始めていた。



「お前は、恐ろしくはないのか」


「…………なにが、だ…………」



多少苛立ちを込めた声で答えてやる。
ここに来てまだ戯言を吐く男の考えている事が分からない。
どうせ、地獄で落ち合うというのだからこんな姿を何時までも晒し続けさせないで欲しいというのに。



「…………お前は、どうして欲しい」



しかし男はそんな俺の気持ちや言葉とは裏腹に、まるで独り言のように呟く。
実際、俺の返答なぞ気にもかけていないのだから独り言と言ってしまっても何ら問題は無いだろう。
俺に男の事は理解出来ない。けれど近しい存在だとは思う。
そうして俺は男の事が嫌いではなかった。
けして憎しみから男に闘いを挑んだわけではない。
男が俺をどう思っているかは、分からないがそれが問題だとは思わなかった。
戦うのが必然であると考えていたし、負ければ死ぬ、ただそれだけだと思っていた。
だが何故か男は俺に答えを求めている。
何を躊躇う事があるのだろうか、男が下した決断に俺が逆らえる筈も無いのに。
これではまるで、俺に自分の処刑をさせるようなものだ。
だから俺は、ゆっくりと、だが確実に男の言葉に反駁した。
今度はきちんと男の脳に届くように。



「お前が、決めた事に俺は……逆らえない」


「………………」


「好きにしろ…………お前の、好きにして良い……」


「………………しかし」


「それに、…………面白いだろう?」



俺はそこで少し笑ってみせるが、それは引きつった笑いにしかならなかった。



「……アンタの判断で、俺の全てが決まるんだ…………なんだかそれって、可笑しいだろ……?」


「………………」


「…………だから、なんでも良い」



其処まで言いきってずっと掴まっていた手にも限界が来てぐらりと体が揺れる。
あぁ、このまま地面に顔を着けるのは少しばかり醜いな、などと思っていたが、遂に俺の顔と地面が 出会う事は無かった。
一度掬い上げられ、再び抱きなおされる感覚に酔う。
ぐらぐらとしている視界の中、男の手がこちらの顔を拭っていくのが分かった。
本当は男がこちらに手を伸ばしたとき、このまま殺されるのかと思ったのだがそんな事は露ほども考えていない という風な優しげな手付きで頬を撫でられ、混乱する。
そうしてそのまま髪に手を差し込まれ、思いきり抱きしめられた。
衣服越しにも分かるその体温の差に内心驚きつつも、もう抵抗する力すら残ってはおらずただ成されるがままになる。
腰を支える手も、離さないと言わんばかりに頭を抱く手も熱い。
だから、俺には男が理解出来ないのだ。



「…………七夜」



再び名を呼ばれる。
先ほどと同じようにその声には何処か憔悴と焦燥と、俘虜の感情が混ざったものが見え隠れしていた。
もう朝がすぐ側まで来ている。
朝日に当たって消え去るのか、はたまたこのまま息絶えるのか、それとも別の道があるのか。
分からないがきっと男は俺を朝日から守るように抱きしめ続けるのだろう。
それが男の選び取った決断だというのならば俺に拒否権は無い。
薄れて消えて行く意識の中、俺はそっと男の胸に手を添える。
そこには確実な生の実感があって、なんだか俺は悲しくなってしまった。



-FIN-






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