白梅と鶯




ふわり、と目の前で咲き誇る花々がその身を揺らしては少しずつその儚い命を散らす。
いや、その当人にとっては好き好んで自分の身を削っているわけでは無いのだろう。
そもそも花に意思があるのか、そういう事を考えるとキリが無い。
何故、こんな事を考える羽目になっているのか。
それは急に連れ出され、男と共に森に入り、こうして少し遅い花見を楽しんでいるからであって。
しかも俺を連れ出した張本人である男は、一通り花を楽しんだ後、一体何処に潜ませていたのか急に本を取り出して読み出してしまった。
そんな男の隣に仕方なく座り込み、軽く男の肩に頭を乗せ、さわさわと風に吹かれている梅と、その匂いに包まれながらこうして思考に耽っている。
濃厚な梅の香りはこの空っぽな頭を満たし、柔らかく酔わせてくれた。
心地が良いほどの日差しと、自分勝手な男と、それに似合うくらい我が侭な俺に、散り逝く梅。
こんなにも似合いそうにない組み合わせが妙に愛おしい。


(なんて、こんな風に思う自分はどうなんだ?)


一度瞬きをしてからそう自問自答する。
しかしそんな事は答えが分かっていながら解く問題と一緒で、答えは疾うに出ているのだ。
殺したいと願う男と、一度殺された俺がこうやってまるで何かの恋愛映画のような場面を紡ぐのは、とても面白い。
憎いと思った事がないと言えば嘘になるが、それよりも興味のほうが大きかったし、何より俺に初めて触れてきた男の手は暖かかった。
今でもその温度は覚えていて、その温度は俺の胸に侵食し、ずっとその場に居座っている。
そうして男が俺に触れる度に共鳴するように戦慄いて、その熱量を増やす。
昔そんな事を男に言ったとき、男は黙って俺の胸に手を当てて、薄く笑っていた。
まるで俺を掌握して喜んでいるかのようなその笑みに、俺は苦笑と共に微かな疼きを覚えて、お互い様だと男の手を取って笑った。
……ざぁ、と一際強い風が吹いた気配がして俺はいつの間にか閉じていた瞼を開ける。
考え込むと瞼を閉じる癖はもう直らないのだろう、俺は何度か瞬きをして視界を鮮明にした。
先ほどより地面に落ちている花弁の数が心なしか増えている。
此処には時計なんてものは無いから、こうして時間を計るしかない。
後は、日が何処まで落ち始めているかとか、動物の気配とか、そんなものばかりだ。
男と住む小屋にも時計はあったような気がしたがあまり見ないので覚えていない。
そんなものを見なくても、俺達はそれぞれの規則正しい生活を送っていて、男はそれを是としている。
此処まで考えて、そういえば男は解脱を望んでいたか、と思いだす。
しかし俺と馬鹿みたいに求め合っている時の男はまるで獣のようで、そんなものは到底無理だと俺は思う。
それに経を読むような大人しい男より、俺は俺を求めてくる獣のような男の方が余程好きだ。
それでも一番好んでいるのは、俺を見て穏やかな表情を浮かべる男だったりするのだが。


(…………)


そう考えて俺は何を惚気ているのかと、少し顔を赤らめた。
こんな風に考えるようになったのも、何もかも男のせいだ。
少しずつ少しずつ、男の意識が俺の中にまるで地面に散った花びらのように侵食して、俺を変えていく。
夜になれば男が俺を獣のように求め、俺はそれに答える。
朝になれば男が俺の隣で優しく微笑んで、俺はそんな男の柔らかな瞳にトクトクと胸を高鳴らせる。
もっと触れて欲しいと懇願しながら、涙を流す俺の頬を拭う男の指はかさついていて、それでいて、熱っぽい。
……駄目だ、昼間から何故こんなふしだらな事を考えているのか。
バレないように微かに首を振る。
折角こんなにも風流な景色の中にいるのだ、今はそれを愉しまなくては。
しかしそんな事を考えている俺の首筋辺りにからかう様な視線を感じて思わず横を見る。
すると先ほどまでずっと本を読んでいた筈の男が確かに口端に笑みを浮かべながら此方を見ていた。


「……なんだよ」


自分でも微かに熱いと分かっている顔を男に向け、そうして呟く。
そんな俺を見ながら、男はその手に持っていた本を閉じて懐に仕舞い込んだ。


「……いや?……なんでも無いぞ」

「……ふん、……何か言いたい事があるなら言ったらどうだ」


俺は男から視線を外して、目の前の梅の大群を見ながらそう囁く。
どうせバカにでもされるのだろう、なんてそんな事を考えながら。
けれどそんな俺の思考とは違って、男の指が俺の髪を横から掻き揚げ、頬を撫でる。
やはりその指はかさついていて、それでいて熱を帯びている。


「……七夜」

「……なんだよ……」

「…………」


黙り込んだ男はそのまま撫でる手を止める事無く、緩やかな呼吸を重ねる。
何も話さないその男に苛立ちよりも、心地よさ、それにじれったさを感じるのは何故だろう。
何かを話して欲しいと思うと同時に、このままずっと撫でていて欲しいとも思う。
そんな思いを汲み取ったのか、暫くの間、男は俺の頬や髪を撫で続けていた。


「……軋間……」

「……ん?」

「……なんか……言えよ……」


しかしそんな心地よい沈黙を敢えて自分から押し破る。
これ以上、そんな甘い視線で見つめられ触られたら、自分から何かを懇願してしまいそうで不安になったのだ。
男はそんな俺に触れる手を止め、そうしてそっと耳元で囁く。


「こちらを向いてはくれないのか……七夜」

「……ッ……」


低く、掠れたような独特な声。
情事の時には獣のように俺を強請るその声は、今は微かに子供のような不満げな色を滲ませて。
さっきまでまるで俺には興味が無いかのように本を読み漁っていたくせに、そんなのずるい。
しかしそんな俺の思いとは裏腹に勝手に俺の顔は男の方へと向いていた。
片方しかない微かに青みを帯びた黒い瞳は、俺の中に入り込み、そうして奥深い所まで探る。
あぁ、もう、本当にこの男にだけは弱い。


「……さっきまで、……本を読んでいたくせに」

「…………悪かった」

「別に……責めているわけじゃ……」


男は俺の瞼にそっと口付ける。
そういう事をするのが俺にとって一番効くと分かっているのだろう。
口では責めていないなどと呟いたが、心の奥底にあった僅かな苛立ちが確かに氷解していくのを感じた。
そして男はそのままゆっくりと頬を撫でていた手を動かし、軽く此方の唇の上を擦る。
薄い粘膜と指が擦れる感覚と、むせ返るような梅の香り。
このまま可笑しくなっても、不思議ではなかった。
それとも、もう、可笑しいのかもしれない。
男が俺の中にまた奥深く侵食していく。


「七夜」

「…………」

「…………」

「……軋間……」

「……そんな顔をするな……」


酷い事をしたくなる、と男が囁く。
してくれるのならして欲しい、そう言いそうになるのを必死に喉の奥に押し込んだ。
すると男の指がまた動いて、男の方に引き寄せられる。
今度は、ちゅっ、と唇に口付けられ、そのまま何度も重ねあわされていく。
そうしていつの間にか深く口腔の中に舌を差し込まれていた。


「……んッ……ぅ……」

「…………ん」


ちゅ、と淫猥な水音が耳に響く。
ゾクゾクと背中に甘い痺れが走って、思わず男の白い上着に指をかけ、握りこんだ。
上顎をなぞられ、舌を吸われ、そこまでされて漸くゆっくりと顔が離れていく。
はぁはぁと荒い息をする度に、甘い香りが胸一杯に広がって、噎せそうだった。


「……いやらしい顔だ」

「う……るさい……」


そのまま髪に口付けられ、男の匂いを感じる。
そして壊れ物を抱くかのようにそっと抱きしめられた。
しかし、完全に抱きしめられる前に、急に強い風が吹く。


「……うわ……!」


ザァッと音を立てながら吹く風の中で、微かに細めた視界の中で幾つもの花弁が舞うのが見える。
目の奥に焦げ付いたように残る幾つもの白い花びら。
しかしそんな事に思いを馳せる前に男が守るように俺を抱きしめた。


「……大丈夫か?」

「あぁ……」


そう言って男と顔を見合わせる。
すると男が不意にこちらに向かって手を差し伸べてきた。
俺は何があるのかと男の手を黙って見つめていると、男の指が髪に触れ、何かを取っていく。


「何か付いてたのか?」

「ほら」


そう言って男が掌にある物を此方に見せてくる。
其処には美しい一枚の花びらがあった。
真っ白なその梅の欠片は、少しだけもの悲しく、それでいて芳醇な香りを漂わせていた。


「……今ので付いたんだな」

「そのようだ」


そんな事を言う男の頭にも同様に花びらがついていて、思わず俺は手を伸ばしその欠片を取る。
男はきょとんとした顔をしていて、それがなんだか可笑しかった。
なので俺は男と同じように掌を開けて中にある物を見せる。
だがその白い花びらはひらりと柔らかな風に飛ばされてしまった。
ゆらゆらと飛んでいったその花びらはそっと近くの地面に落ちて、他の花びらと同化して分からなくなってしまう。


「あーあ……飛んでいっちまった……」


二人してその花びらを目で追いかけ、そのまま見詰め合う。
そうして、自然と互いに微笑みあった。
別に何があるわけでもない。
けれど、今の間抜けな状況が何ともなしに面白かった。
こんな何気ない日常が、幸福だというのだろうか。
……そうだとしたら、本当に俺は男に骨の髄まで毒されてしまった。
そしてそれを嫌だとも思えないし、逆に安心している自分がいるのも確かで。


「……さて……」

「?」


男が俺の髪を撫で、小さく呟く。
そんな男の顔を見ると、俺の一番好きな穏やかで優しい顔をしている。
じわりと胸の中から温かな感情が溢れるのが分かった。


「……もう昼も過ぎただろうし帰るか」

「もうそんな時間か?」


俺は男の顔から目を離し、空を見上げてみる。
綺麗な青空。微かにたなびく薄い雲と白い花。
青と白のコントラストが酷く美しい。
確かに日がもう少し低い位置にあった時に此処に来たので、そろそろ昼時なのだろう。
俺は男の言葉を理解した事を頷く事で示し、立ち上がる。
続いて男も立ち上がった。
自然と男が俺の隣に並び、ひらひらと花びらの舞う中、住処にしている小屋に向かって歩き出す。


「!?」


隣にいた男の手がそっと伸びてきて、するりと手を取られ、そのまま指を絡められる。
思わず体がビクつき、男の方を見るが、男は何事も無いかのような顔をしている。
そんな男のしてやったりという顔に微かに苛立ちを感じたが、手を振り解く気は起きず、せめてもの抵抗に握った 手に力を込めた。
隣で男が含み笑いをしているのが分かったが、敢えて其方を見ずに梅の方を改めて見遣る。
―――また、来たい。
そんな風に思えるくらいに、美しい光景が其処には広がっていた。



-FIN-






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