詞の無い唄


※七夜の声が出ない話



始まりは何時からだっただろうか。
オレにとっては本当に些細な事だと思っていたし、それでいて酷く恐ろしい物だとも思っていた。
何故だろうか、なんてそんな疑問は今更な事だと分かっていても一人になると遂、考えてしまう。
だが、次の日になれば自然と森の中を歩み、開けた場所にある一本の巨木の根元に腰を下ろしている。
何を何度考えても、奴は笑って此処に来るのだ。
そんな奴を始めは信じていなかったし、今だって完全に信頼を寄せているわけではない。
しかし一度、大雨が降った日にどうせ来ないだろうと行かなかったその場所に、奴は居た。
何時ものようにこの巨木の下、びしょ濡れになって、髪からは幾つもの雫を零して。
ところが、声をかけたオレに向かってソイツは何時ものように笑って、


『……来ないかと思った』


そんな言葉を吐くものだから、思わず奴を傘の下に招きいれるように抱き寄せていたのだった。
冷たい体、まるで死体のようなその温度に思わず息を飲んだのを今でもはっきりと思い出せる。
そんな出来事があって、はや一週間近い。
その日から以前にも増して、しっかりと時間を決めて此処に現れる事にしている。
けして、奴と会いたいからとか、奴に苦労をかけたくないなどという事柄からきている行動ではない。
―――これは、本当にただの気まぐれであって、そうして同情だ。
そうしてオレが子供に対して抱く念など、大したものでは無いし、子供の気まぐれも何時か終わるだろう。
だからこそ、この行為や行動が何を意味しているかなんて、考えるだけ無駄なのだ。
森の中を行き、少し遠くに人工的な青を見つける。
何時もオレから声をかける事はしない。
だが敢えて気配をさらけ出し、子供が此方を見て笑い、挨拶をしてくるのを待つのだ。
そうして漸く挨拶をして子供の傍に座る。
そんな、決まりきった流れ。
だが、此方に振り向いた子供は何時ものように笑ってはいるものの、何処か影を宿していた。
そうして決まりきった挨拶がない。何時もならば、何かしら言う癖に。


「…………」

「…………」

「おい」


続く沈黙に思わず声をかける。
しかし子供は何も言わず、困ったような顔をしているだけ。
そんな顔を、させたいわけでは無いのに。
とりあえず巨木の根元、定位置に腰を下ろしてみる。
すると子供も何時ものように隣に座った。
さて、どうしたものか。
オレは目の前に広がる緑と空の青を眺めた後、子供の方を振り返る。
見据えた先の子供は先ほどから此方を見ていたらしく、ほっとした顔をしている。
そんな顔をするくらいならば、何か言えば良いのに。
だがそこまで考えて漸く、自身の愚かさに気がついたのだった。


「……まさか、声が出ないのか?」


そう問いかけると、子供はこくりと小さく頷いてみせた。
続けて問いかけを続ける。


「何処か具合が悪いのか」


今度の問いに子供は首を横に振る。
しかし具合が悪くないのに声が出なくなるなんていう事はそうそう無いだろう。
まぁ、それは人間の話であるから、人では無いヒトのコイツに当て嵌まるかは分からないが。
どちらにせよ、何があるかが分からないのだから、此処は奴を帰して暫く此処に来ない方が良いと言うべきだろう。
少し逢えなくなるだけだ、何の問題も無い。
オレは小さくため息を吐いてから、子供の方に向き直り、そうして帰った方が良いと伝えようとした。


「……!」


しかし、オレが言葉を発する前にするりと冷たい手が此方の手に触れる。
オレはその手の持ち主を思わず凝視してしまった。
黒では無い、色素の薄い煙りがかった灰色の瞳。
風に揺れる美しい髪の一筋すら、まるで時が止まったかのように良く見える。
その全てに含まれている、……この感情は、寂しさというものだろうか。


「……七夜」

「…………」

「本当に、大丈夫なんだろうな?」


こくりと今度は少し強めに頷いた子供に思わず苦笑してしまう。
この子供がそれを望むなら、もう何も言うまい。
別にオレにとっては大した事ではないのだから。
寧ろ小煩いガキが黙っていいかもしれない。
そんな事を考えながら、空いている方の手で子供の頭を撫で擦った。
すると子供は俺が何を考えているのかを理解したらしく、微かに苛立った様子で此方を見やってきたので、子供の手が触れてきている方の手を動かし、逆に手を包んでみる。
途端に赤みを増したその指先が妙に面白くて、今度は苦笑では無い笑みを浮かべた。


□ □ □


目が覚めた時、何時もと何かが違うと感じた。
その違和感は本当に些細なものにも思えたし、何かおぞましく強大なものにも思えた。
しかし余り自分の事に関心がない俺がその違和感に気がついたのは、主人である白い猫の様子が可笑しかったからだ。
申し訳なさそうな、それでいて、困ったような。
俺はそんな主人に声をかけようとして、漸く違和感の正体に気がついたのだった。


「…………?」

「おはよう、七夜」

「…………」

「……声が出ないのでしょう?」


そのようだ、と首を傾げて主人の方を見やる。
だが、何かを知っているらしいその言葉に俺は反応をしてしまう。
何か知っているのか?
いや、寧ろこの事態を彼女が引き起こしたと考えるべきだろうか。
しかしその理由が分からない。
そんな風に思考を重ねていると、彼女は俺の考えを読んだのか、小さくため息を吐いてからつらつらと語り始めた。


「……貴方が毎日言う事を聞かずに抜け出すから……」

「…………」

「……でも、そんな貴方への躾が至らなかった私のせいでもあるかもしれないわね」


雪原に良く似合う、その真っ白な衣服をたなびかせながら彼女は言う。
完全に己の所為では無いが、自分の所業だという。
つくづく不思議な言い回しだ。
俺は微かに雪原の雪を踏みしめ、不満を表す。
全く、声が出ないというのは中々に不便なものだ。
あぁ、でも、殺す為のものに言語は要らない。
寧ろ今までが可笑しかったのかもしれない。
俺は男を思い出していた。赤いオーラを纏う鬼神。
だけれど、普段は寡黙で何を考えているのか読めない不思議な男。
奴の元に通い続けて一体どれ位が経ったのかは分からないが、未だ興味の尽きない不思議な、男。


「ちょっと」


埋没しそうになった意識を甲高く苛立った、けれど甘い声が引き戻す。
そうだった、理由を聞くつもりだったというのに、最近の俺は嫌でも男の事を考えてしまう。
そうしてそれに対して別に嫌悪感を抱くことも無く、寧ろ、それが必要な事だと思ってしまうから面白い。


「…………」

「…………ねぇ」

「…………」

「はぁ……もう……話聴く気はあるのかしら?それともまだ寝起きで頭が働いていないの?」

「…………」


俺は肩をすくめ、聞いていますというポーズを作る。
猫はどうにも俺に大人しさを求めすぎているのだ。
そんな考えをとっくに見透かしているのか、猫は再び深いため息をついた後、事のあらましを説明し始めた。
要は、悪夢を見させる事で自分や俺の体を保っているのだが、最近は必要な魔力が多くなっている。
そうして手にいれられる魔力との釣り合いが取れない事から、どうしても何処かの機能を停止させる必要があり、猫なりに考えた結果、俺の声だったらしい。
形を崩すわけにはいかないし、猫は悪夢を見させなければ意味が無い。
俺の元々の存在理由は『俺を呼ぶ物を殺すこと』なのだから、声など其処まで重要では無い。


「分かった?」


猫はそう言って俺の反応を待っている。
俺は理解した事を伝えるように頭を縦に振った。
確かに声は必要ない。昔であったら。
だけれどそれを顔に出す程、俺は愚かでは無かった。


「……七夜」

「?」

「……あんまり、……いえ、なんでもないわ」

「…………」

「ともかく、二日くらいは我慢して頂戴」

「…………」

「それと…………」


至らなくて、という小さな声に俺は先まで言う必要は無いと猫の頭を撫でてやる。
きっと悩みに悩んだ結果なのだろう。
それに俺が猫の範囲内をちょくちょくと抜け出している事が猫の負担になっている事も分かっていたのだ。
でも俺は今日もそこに行くのだろう。
猫も分かっているから敢えてそれを全て口にはしなかった。
酷い主人だと分かってはいるが、それでも、俺は男に会いたかったのだ。


「…………そんな顔、しないでよ」

「……?」


暗い顔をした猫と目が合う。
しかし猫は俺と目が合った瞬間、すぐさまその目を逸らし、俺の手を振り払った。
その顔は微かに赤く染まっている。
俺は思わず苦笑するしかなかった。


□ □ □


「……!」


さらりと前髪が柔らかく避けられる感触に、思わずビクリと体が震えた。
横を見れば、男が何故か困ったような顔をしているのが分かる。
こんな事をするつもりではなかった、そんな顔。
けれど前髪を払った指先はそのままなのだから、男も性質が悪い。
俺は男を責めるような視線を送って見せると、男は微かに困ったような表情のまま囁いた。


「……もうそろそろ帰らなくて良いのか?」


絶対にそんな事を言うつもりではなかっただろうに、男のそんな台詞に俺は俺は納得したフリをするしかないのだから憎たらしい。
何時からだったか、男の傍にいるのが好きになった。
好き、というのがこのような感情ならば、という話なのだが。
だが男には気がつかれているのかいないのか分からないが、表立ってそういう事を言いあった事は無い。
どうせ先ほどの男の手も、今の行為も、俺を傍に置いておくのも、ただの気まぐれなのだろう。
その証拠に始めは男に何度も殺されかけたのだ。
けれど何度か此処に来ると、男は諦めたのか此処で俺を待っていてくれるようになった。
単純にあの雨の日に男を待っていた俺を不憫に思ったのかもしれない。
それでも男が俺を隣に置いておいても良いと感じてくれたのなら、それで良いと思う。


「……七夜?」

「…………」


なんでもない、そう言おうと口を開いたところで、自分の喉が何の音も発しない事に気がついた。
そういえば今の俺は声を失っているのだった。
そんなどうでも良いと思っていた事を思い出し、微かに憂鬱になる。
我を張って男の傍に何時ものように居たいと願ってはみたものの、話せない俺は何をしたら良いのか皆目検討がつかないのだ。
何時ものように話をする事だって出来ないし、嘘や冗談を交えて男に触れるなんていう事も出来ない。
殺人という手段が残っていても、男と対峙する時の俺はどちらかといえば皮肉屋なガキという役割しか持っていないのだから、何の意味も無いでは無いか。
手段と目的、役割が合致しないのがこんなに惨めな気持ちになるものだとは思っていなかった。


「……おい」


そう男が囁き意識を惹こうとしてくるが、俺は男から自然に逸らしてしまった顔を戻すことが出来ずに、遠くにある空を見上げる。
そこは先ほどと違って随分と暗さを増しており、男が示唆した通りもう帰った方が良い時間帯のようだった。
俺は敢えて男を見ることをせずにそのまま立ち上がり、漸く男の方に向き直ろうとする。
だが其の前に男の手が俺の腕に伸びてきて、男も俺と同様立ち上がっている事にやっと気がついたのだった。
森の土臭さと木々の匂いは嫌いではない。
そんなどちらかといえば安心できる筈の場にいるのに、腕から上ってくる熱は全身を駆け巡って心拍を少しだけ速くした。
今日の男は、変だ。
いや、最近になってもっと可笑しくなった。そんな印象を受ける。
同情や哀れみだと思っていたのに、それがもっと別の感情から来ているのでは無いかと錯覚してしまいそうなそんな行為の数々に、俺は自分の気持ちが肯定されたようなそんな気分になってしまうのだ。


「…………」

「…………」


黙ったまま、男の腕が放される事も無く、二人見つめあう。
だが暫くして男がやっと俺の手を離し、そうしてポツリと呟いた。


「……送っていこうか」


まさかの男の言葉に思わず体が固まる。
だが暫くして俺はやっと自分の首を横に振ることが出来た。
男が何を考えているのか分からなかったが、俺は急ぎ足で街へ戻る為の道へ向かう。
余りにも真っ赤になった顔を見られたくは無かったのだ。


「七夜」

「…………」


男の声に振り向く事は出来なかったが、立ち止まる事はできる。
ざり、と靴の裏を擦る土や草の感覚に僅かに意識を向けつつも、本心は男の言葉を待っていた。
そんな俺の背中に男の優しくも何処か圧力のある声が聞こえてくる。


「明日もまた来るのだろう?」


俺はそんな男の言葉に微かに頷く事しか出来ず、そしてすぐに街へと脱兎の勢いで下って行った。


□ □ □


はぁ、とため息をつく。
子供は勢いよく森を降りていったようだったが、何度も此処に来ているのだし恐らく大丈夫だろう。
それよりも、オレの行動に対して子供がどう思ったかの方が気になった。
そうして自分の行為が驚くくらい理解できない事も。
子供の手を握ったのはまだ、冗談だった。
子供の意識が何処か別の所に向いている事に何故か耐えられず、その髪を掬ったのも。
だが、オレの言葉に傷ついたような子供の腕を掴んだのは、自分でも何故か分からなかった。
何よりも、あの時のオレを突き動かしたのは、不安げな子供の顔をどうにかしたかったのだ。
ただ、そこに居てくれるだけで構わないのだと、そんな事を伝えてやりたかった。
……そんな事を考えていたつもりは無かったというのにだ。
何故なら子供を隣に置いていたのは、ただの気まぐれだった筈。


(…………)


先ほどまで子供の腕を掴んでいた指先を確かめるように動かしてみる。
オレが触れていた子供の腕は雨の日よりも確かな温もりがあって、それでいて子供は嫌がってはいないようだった。
……いや、本当は子供の微かな期待や感情の意味を俺は分かっている。
分かっていて気がつかないフリをしていた。
そうして自分自身がそんな感情を抱くはずが無いのだと自分自身に言い訳をしていたのだ。
そしてあまつさえこちらに好意を抱いている筈の子供の心まで否定していた。
ずるい人間だと己でも思う。
だが恋や愛などという感情を今まで書籍などの中にしか見たことが無かった上に、自分にはそのような感情が備わっているとは思いも寄らなかったのだ。
だからこの薄く脆い関係性を保つために子供の行動も、オレの行為も何もかも気まぐれや同情などというそれに限りなく近いが、けして傷つきはしない感情に置き換えて脳内を無理矢理に整理していた。
しかしそれを抑えるのもそろそろ難しいようだ。
大体、あの雨の日に子供を抱き寄せて小屋に招き入れた時点で自分の思いに正直になるべきだったというのに。


「はぁ…………」


再び巨木の元に戻り、その場に座り込む。
勝手に漏れ出たため息に、思わず微かに笑うしか出来なかった。
疲れているのだろう。
それは子供に対して抱く感情を無理に抑え付ける事であったり、自分を偽ることであったり。
もう、そんな無駄な行為は終わりにしようか。
そんな事を考えてみる。


(…………耳まで赤かったな)


脱兎の如く消えていったガキの顔を思い出す。
自分では誤魔化しているつもりなのだろうが、朱に染まった耳までは誤魔化せなかったようだ。
それに何時もならば皮肉な言葉を吐く唇も、今日は上手く機能しなかったせいか、反応が顕著だったように思えた。
その餓鬼の姿を可愛らしく感じた俺は、やはり疾うの昔に毒されてしまったのだろう。


「……ッく……」


そう薄く笑う。
あんな風に釘を刺されればガキも今までと同じように来るのを止めるわけにはいかないだろう。
そんな未来を想像して、漏れ出る笑いを止める事をせずに暫くそのままにした。


□ □ □


慌てて路地裏に戻ったのは、もう日が落ちてからの事だった。
主人はどこかに出かけているらしく、誰も居ない路地裏の住処としている場所に一人座り込み荒くなってしまった息を整える。
路地裏の奥は外灯も月の光さえも届かない場所だ。
けれど、何時もは猫の世界の中で生活しているので雪原が広がっている筈なのだが、今日はそれさえもなかった。
やはり自身の領域を展開する事さえ難しくなっているのかもしれない、などとそんな事を思う。
いや、そんな事より。


(なんだよ、さっきの……!)


先ほどの男の言動を鮮明に思い出して再び顔に熱が集まるのが分かった。
男に掴まれていた腕を擦る。
とっくに離されたというのに、未だそこには掴まれた感覚と熱が残っているのが分かる。
その感覚が、煩わしくも、胸が高鳴るのが分かった。
ドクドクと胸をつかまれ、首を真綿で絞められるようなそんな感覚。
これが恋というものなら、どうしてこんなに苦しいのだろう。
しかも苦しいというのにそれを嫌だとは思えない。
何より、男の台詞が嬉しかったのだ。
送っていこう、なんていう台詞も、そうして明日も来るのだろう、なんていう台詞も。
今まで聞いた事も無かったのに、今日一日でそんな事を何度も言われるなんて思っても居なかった。


(……あぁ……もう……)


体育座りをしていた状態から、自分の膝に頭を乗せ、自身の熱を醒ますようにする。
けれど少し思い出すだけで色々な事がどんどんと押し寄せるように思い出されてしまって、結局、何の意味も無かった。


(本当、なんで…………くそッ……)


くしゃりと自分の頭を掻き混ぜる。
何処に居ても何をしていても最近は男の顔がちらついて困っているのに、まさか男から仕掛けられるなんて思ってもいなかった。
ただ単にお互い気まぐれだと思っていた時はまだ良かったのに、俺が奴を好きになって、それでも男は余り変わらなかったから其処までうろたえたりはしなかったのに。
まさか、男も俺を好き、かもしれないなんて。
でもそれは分からないのだ。男にしか分からない。
……なんてもどかしいんだろう!
まるで恋する乙女のようではないか。
そう考えると自分で自分が恥ずかしい。
今度はもっと強く自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。
結局猫が戻ってきて驚かれるまでずっと俺は路地裏の隅に居たのだった。


□ □ □


「…………」

「……来たか」


片手を上げて此方に近寄ってくる子供にそう声をかけて自分の隣を空ける。
其の目元は微かに赤くなっているような気がしたが、気にしない事にした。
オレは敢えて隣に座った子供の顔を見ながら早速質問を投げかける。


「……まだ声は治らないのか?」


子供はそれに答えるように首を縦に振った。
さらりと子供の髪が風に靡き、柔らかな日差しを受けキラキラと輝く。
今日も昨日と同じく良い天気だ。
しかし子供の声が治らないのは良いことではない。
オレは微かに曇った顔をした後、そうか、と呟く。
そんな表情の変化に気がついたのか、子供の顔も微かに曇ったのが分かって、オレは思わず昨日言えずにいた言葉をかけていた。


「……別に声が出無くても、お前はお前だろう」

「…………」

「……なんだその顔は」


驚いたように目を見開いて此方を見つめてきた子供に思わずそう呟く。
そうしてそのまま自然にその髪を撫でる。
風に流れる髪は、手で触れてもやはり柔らかく、さらりとしていた。
そしてそっと子供に視線を戻すと、その顔はもっと赤く染まっているのが分かった。


「…………」


伏し目がちになっている子供の視線を此方に向けたくて、そっと撫でていた手を頬に当ててみる。
温くも心地よい体温。
其処を何度か撫でさすってみると子供の視線が諌めるように、それでいてもっと、と強請るように此方を見遣ってくる。


「七夜」


思わず掠れた声が出る。
だが、撫でていた手をさらりと取られ、そのまま困ったような顔をされてしまう。
焦っているのが、自分でも分かる。
自覚して相手に伝えるのがこんなにも難しいものだったとは思わなかった上に、それに対して拒否されるとも思っていなかったのだ。
しかし困っていると思っていたのは、俺の行為に対してでは無かったようだ。


「…………」

「…………」


子供は俺の手を取り、その手を自身の手と絡ませる。
そんな子供の行動を見てから、そっと視線を合わせてみると、子供の口が微かに開き、そうして再び閉じられる。
その唇は苦しげに噛まれ、見ているだけでその感情の動きが分かるようだった。
俺は思わず子供の腕を逆に掴んで、引き寄せる。
慌てたような顔をした子供が目の端に映ってそれは酷く愉快だった。


「……七夜」


自分でも驚くくらいの速度で子供の体を抱きしめていた。
そうしてその真っ赤になった耳に吹き込むように言葉を囁く。
すると戦慄くように子供の体が大きく震え、それが嫌悪でも拒否でも無い事が良く分かった。
子供の耳にそのまま口付けを落としてみる。
声は出なくとも、微かに荒くなった呼吸などは逆に驚くほど良く分かった。


「……こっちを向いてくれ」


そう言ってそっと子供から僅かに離れると、おずおずと子供の顔が此方に向けられる。
今まで子供と過ごした時間はけして短くは無いが、こんなにも愛らしいと感じる表情を見たのは初めてだった。
否、オレの言葉や行動で顔を赤くしながらもこんなに素直に振り向いてくれるのは初めてだ。
何時もならばその上手い口や、茶化したような行動で逃げられてしまう。
それは子供に対して自分自身の感情を露わにしていなかったせいなのだが、こんなにも良いモノが見れるのならばもっと速くに決心を固めるべきだったと微かに後悔をした。
……でも子供の声が出なくなったのは、もしかしたらある意味良かったのかもしれない。
そんな酷い事を考えてしまう。
治って欲しいとは思うし、七夜の声が聞きたいと誰よりも思っている。
だが、こういう事に意外と臆病な自分達が漸く素直になれたのは、オレが自分を否定される事が無いような気になったのと、子供が自分に正直になれたからかもしれない。
まぁ、勿論、子供の声が出なくならずとも遅かれ早かれこのような事態にはなっていたと思われるが。


「…………」

「…………」


暫し無言でその薄い体の感触を堪能する。
そうして伸ばした先にある細い髪を撫でては、さらさらとそれが空を舞うのを見ている。
この状況を、この心を、言葉で言い表すのは簡単なようでいて難しい。
オレは元々、寡黙な方であるし、難解な言葉を用いて喋るのも元からの性格だ。
だが、これは素直に、そうしてあるがままの心の有様を語らなければならないだろう。
けれどそれがどうにも踏ん切りがつかず、何も語らない子供に甘えて、行動だけで気持ちを酌んでくれるように願っている。
それでは駄目だというのにも関わらず、だ。
子供が言えないのなら、オレが始めなければならない。
そう自身に言い聞かせ、そうして声をかけようとした。
すると今まで此方の行為に何も抵抗をする事の無かった子供が不意にその身を起こし、その灰色の瞳をこちらに向ける。
その瞳は何か思い悩んでいるように見えて、伝えようとした言葉を一旦、喉の奥に押し留め、その揺れる瞳が何を訴えようとしているのかを見極めようとした。


「…………」

「…………」


そんなオレの思いを察知したのか、子供はその視線を受け、微かに逡巡を見せた後にゆっくりとその唇を開く。
しかしやはりその唇からは何の音も漏れては来なかった。
一瞬、再び苦しそうな表情をした子供に対して、視線を逸らす事をせずにただ凝っと見据える。
そうすると、子供はその淡い色をした唇を懸命に動かし、此方に何かを必死に伝えようとしてくる。
そんな子供の唇を読み解くことに神経を澄ませた。


「…………」

「……き……?」

「…………」

「…………好き……?」


ぱくぱくと動く唇を読み解けば、それは確かに言おうとしていたのと寸分違わぬ言の葉。
オレは思わずそんな子供の唇に、自らの唇を添わせていた。
先に言われてしまうなんて、というそんな感情を込めて。
ふっくりとしつつも薄く滑らかな唇の表面を舌で舐め上げ、その体が跳ねるのを体で感じる。
そうして此方を受け入れるように微かに開かれた口腔に押し入れば、熱く、けれど逃げるように奥の方で縮こまっている子供の舌を探り当てた。
それを引き出すように舌で絡め取り、上手いとはいえないだろう接吻を、それこそ猿のように続けてみる。
互いの唾液が絡み、子供の唇から滴るまでの何分か分からない間、夢中でその柔らかさと甘さに酔いしれていた。
しかし、苦しくなったのか子供に胸を叩かれ、そこで漸く自分の節操の無さに気がつき子供を離す。
離された唇と唇の間には透明な絹糸が掛かり、ふつ、と途切れてしまう。
そうしてその先には目を潤ませ、唇から雫を零し、顔を赤くした子供が荒い息を吐いていた。


「…………すまん」

「……やりすぎ……なん……だよ……バカ……」

「!」

「……え、あれ……?」


互いに狐に抓まれたような表情になってしまう。
確かに先ほどまで声を失っていた子供の唇から、何時ものように言葉が出てきたのだから。
これではさながら、何かの童話のようでは無いか。
オレはそんな風に考えながら、子供の唇の端を拭ってやる。
そしてそのまま、その頬に手を伸ばし、手の甲で何度か撫で擦った。
子供は暫し、驚きと困惑を混ぜたような表情をしていたが、その手つきに何かしらを感じ取ったのか、じとりと此方を見つめてくる。


「…………そんなに喜ばないのな」

「言っただろう、お前はどんな時でもお前だ」

「…………」

「……あぁ、でも」

「?」


俺は子供の額の髪を掻き揚げ、すべらかなその肌に口付ける。
先刻までもっと濃厚で、情を煽るような口付けをしていたというのに、子供はこんな接吻でさえ顔を羞恥に染め上げた。
オレの見解では子供はこういう事に慣れているのかと思っていたのだが。
そんな子供の印象の違いは、嫌では無く、寧ろ非常に好ましいものだ。


「……でも……なんだよ」


そのような考えに浸っていて途中で言葉を切ってしまったオレに思い起こさせるように子供がその先をせがむ。
俺はそうだ、と考え、その続きをまるで本当に大切な事を打ち明けるかのように耳元でゆっくりと囁いた。


「……お前に名前を呼ばれるのは、好きだ」

「……名前」

「……あぁ」

「……軋間……?」


そう囁くと、子供がおずおずと言った具合にそう呼んだので、その声に答えるようにありったけの愛の言葉を返したのだった。



-FIN-






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