万年蝋




あの男が死んで、オレがこの土地に住みはじめてから幾分か月日が過ぎた。
オレに生の実感を刻み付けた男はその存在感には遥か及ばない小さな墓標が立てられた土の中にでも眠っているのだろう。
だが奴を殺した事にもはや未練も後悔も無く、ただ言うなればもう少し長くあの時間があればもっとオレは何かを掴めたのではないのかという疑問だけが残っていた。


『……』


さわさわと木々の葉を揺らす風は生温く、まだ明るい時間だというのにどうにも不思議な雰囲気を纏っていた。
この巨木の根元で座禅のようなまね事をし始めてからも大分経つが、この森は此処で死んでいった者達の思いを引きずるように鬱屈とした感覚を受ける時がある。
それに対しても同様にさしたる思いを感じる事も無かったが、閉じていた目を開けた瞬間に不意に視界の端に映った何か、には酷く心を掻き乱された。
しかしただの見間違いだと思い、今度はそちらを向いてしっかりとそこを見据えると、そこには何事も無かったかのように木々の幹が並んでいるだけ。
……ただの見間違いだ。何を動揺している。
そう自身に言い聞かせるが、あの赤い金魚の鰭のように泳ぐ物質には見覚えがあった。


『……』


あの月の夜に会った、赤い着物を着た小さな子供。
聞いた話では何をとち狂ったか、遠野家は奴を引き取ったらしい。
一族を殺された人間の息子になったなど、本人が後で理解したらそれこそ一族を皆殺しにされても可笑しくは無いだろうに、それを敢えて行うあの男の神経は理解の範疇を超えている。
だがきっとそれを見越して記憶改竄でもしているのだろう。
どちらにせよオレには関係の無い話だ。
そう、まるで関係の無い。


『……!』


また視界の端に赤い物が翻る。
慌てて見遣ると今度はキチンとした何かがそこには居て、思わず息をのんだ。
赤い着物に青い帯をした小さな子供は能面のように無表情で白い顔をしてこちらを見詰めている。
そうしてそれを食い入るように見詰めていると、つぅっと頭から赤い線が滴り、子供の顔を濡らした。


『……止めろ』


オレはその光景を見ている事が出来ず、立ち上がりながらそう声をかける。
何故、止めろ、などという台詞が飛び出たのかは分からない。
だが嫌悪感ばかりが脳内を満たし、オレはそのまま子供の方に向かおうと足を踏み出した瞬間、その子供はその能面のような顔に読み取れない表情を浮かべた後、まるで霞のように霧散してしまった。
残されたのは今の状況を理解出来ないまま子供の方に一歩足を踏み出していた己だけ。


『…………』


オレは踏み出していた足を戻し、思わず潰れた方の片目に手を添える。
酷く醜い傷口であろうそこは掌に確かな感覚を与えてくる。
そうしてオレの髪を揺らすように再び吹いた風は、先程と違って生温い風では無かった。



□ □ □



「……珍しいよな、アンタがこんな派手な着物を選ぶなんて」


「……ん?……まぁそうだな」


オレはそういいながら風呂上がりで僅かにしっとりとした肌をしている子供に対し、赤い着物を着せかけ、手早く着付けていく。
子供は首にかけた手ぬぐいで無造作に髪を拭いたまま、床に置いていた青い帯を拾って、膝立ちでそれを巻いているオレの頭に片手を添わせ、くしゃりと撫でながら顔を上向かせてくる。


「……」

「……」

「…………なんだよその顔」

「……なんの事だ?」


オレはそう答えながら子供に後ろを向くように指示すると、子供は嫌々という素振りでオレの髪から手を離し、小さな声で呟く。


「……お前のごまかし方は下手なくせに何をごまかしてるか分からないから腹が立つ」

「……それはごまかせているという事ではないのか?」


そのまま背中心より少し左側に結びを作り、終わった事を知らせるように子供の背中を軽く叩く。
もう寝るだけなのできっちりと結ぶ必要は無いと子供は言うが、そうすると着物が開けるのもお構いなしに子供は繕ぐのでキチンと結んでおくに越したことは無かった。


「……」

「……」

「……軋間?」


子供がこちらに体ごと振り向き、オレはそれを目一杯視界に収める。
赤い金魚のように靡くその着物の裾も、それを彩るように巻かれた青い帯もあの時と同じだ。
ただ、子供が成長し、顔に血の気があり、そうして不機嫌な顔をしている所は異なっていた。


「……」

「お前、本当、腹立つ」

「……?」


不意に立っていた子供がその場に座り込むのでオレも釣られるように膝立ちから普通に胡座を組む。
足に触れた木貼りの床が妙に冷たく感じられたが、オレに乗り掛かるように抱き着いてきた子供の体温は温かかった。


「お前さ、そういう顔して俺を苛立たせるの好きだよな」

「……別に何もしていないぞ」

「無自覚なら尚更質が悪い」

「…………」


オレは拒否されるかと思ったが、目の前に居る子供の髪に手を伸ばす。
しかし子供は拒否する事は無く、逆にその手をオレの掌にこすりつけてきた。
もう殆ど乾いたのか、さらさらとした髪がオレの掌の中で踊る。


「……アンタが何考えてるのか分からない」

「……」

「……それがむかつく」

「……そうか」


オレがそう言うと子供は顔をこちらの顔に近付け、スルリと片手でこちらの前髪を払う。
そこには醜い傷口があるが、子供はそれをさも愛しそうに撫でた後、少し悲しげな顔で笑った。


「……教えてはくれないんだな」

「……今はまだ、言えない」

「今は?」


オレは子供の髪を撫でながらそう呟く。
けして嘘をつきたい訳ではないのだ、だが今はまだ言えない。
それを伝えるようにしっかりと子供と視線を合わせながらただ黙って子供を見詰める。
今はまだ、それしか出来ない。


「……分かった、……アンタがそういう時は本当強情だからな」

「……すまない」

「謝るなよ、……別に謝らせたいわけじゃないんだから」


ふ、と笑う子供に昔の幻影が被る。
赤い着物の子供。
もう二度と会う事もなければ、逢ったとしても殺しあいの未来しかない。そう思っていた。
しかし今はこうして不思議な縁で互いに思いあい、寄り添うように傍に居る。
それは本当に不思議な事ではあったが、それ以上にこの奇っ怪な運命に感謝していた。


「……」

「……七夜」

「……?」


オレがそう呼んで、子供の身体を抱き寄せると大人しい猫のように肩に顔を寄せ た子供の髪を撫で梳かす。


「……」

「……何時か時期がきたら、話す」

「……分かった」


そう答えた子供の頬に手を当て、顔をあげさせる。
そのまま優しくその唇に口づけると子供が今度は本当に柔らかく微笑んだ。



-FIN-






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