色待宵草


※学パロ



「……なぁ」

「……ん?」


ずっと何かの書類を書いていた男が顔を上げこちらを見遣る。
片目を隠すように伸ばされた癖のある長い髪は男が教師である事を否定するかのようだ。
然しながら他の部位は全くもって隙が無く、やはりこの男は何処か禁欲的な雰囲気を纏っていた。
俺は男が入れてくれた珈琲もどきを一度啜った後、それが入った疾うに俺専用となった白いマグカップを両手で包む。
もう随分と時間が経ったものだから温くなったそれはじんわりとした温もりを手に伝えてきた。


「……いや……うん……」

「……どうした」

「……」


現在の時刻はまだ普通に授業が行われている時間で、尚且つ男は厳しいとされている教師で。
こんな所でサボっている俺が言うのもおかしな話ではあるが、男は何故何時も何も言わないのだろうか。
もしも男が俺を叱るなら、俺は何時だって此処から出て別の所を探す事もなく勤勉な学生に戻ってやるというのに。
―――男が叱るなら?


「……やっぱりなんでもない、……酷く恥ずかしい事を考えたような気がしたが気のせいだった」

「……」


そこまで考えて、ふと自分がまるで男に叱って欲しい……則ち構って貰いたくて毎日此処に来ているかのようなそんな思いを抱いていた事に気がついてしまった。
始めはただ、男は一緒に居ると楽だし、この部屋も居心地が良く、そうして男の入れる珈琲もまずくない。
それだけの理由で此処に来ていた筈なのに、何時しか男に会いたいが為に通っているだなんて、まるで恋慕した女生徒が好いた人間に気にかけて貰えるように必死になっているようではないか。
いや、心の奥底ではそれを分かってはいたが、ずっと知らないフリをしていたのにどうして今この時にそんな事を思い返してしまったのだろうと内心舌打ちをしてみせるがまるで意味が無かった。


「…………」


これ以上此処に居たら、瞬間的に赤くなった顔を隠す事すら難しくなってしまう。
そう考えて俺は目の前にあるテーブルにマグカップを置いてから、座っていた黒いソファーから立ち上がろうとするが、その前に男の声が飛んできて制止されてしまった。


「七夜」

「……珈琲美味かった。此処に置いておいて良いか?」

「それは構わないが……戻るのか?」

「そんなの……別に俺の勝手だろう?どうせ本来なら此処に居るべきじゃ無いんだから」

「……」


仕舞ったと思えども、一度口からこぼれ落ちた言葉は二度と元には戻らない。
俺は居た堪れなくなってとりあえずソファーから立ち上がり、逃げるように扉の方へと足を進める。
本当は此処で逃げる事無く何かを言わなければいけないのに勝手に足が逃げてしまうのを止める事が出来なかった。
しかしこのまま逃げてしまったらまるで男自身を拒否しているようではないか。
そんなつもりではなかったのに、どうしたってこんな言い方しか出来ない自分が嫌になって、とりあえず何かを言おうと扉の前で振り向き口を動かす。


「……いや、……その……」

「……何か気に障ったか」

「!……そんな事は無い」

「……」


そう言ってから、男の前ではどうしても上手く感情を表現出来ない自分が悔しくて思わず歯噛みしながら俯く。
この男の前ではどうしても何時もの自分ではいられなくなるのだ。
世の中の人間を別に見下しているわけでは無く、寧ろある意味尊敬すらしているが、けして理解は出来ないと斜に構えている俺にとって唯一近しいと思える男は何時だって余裕を持って俺に接してくる。
それが可笑しいとは思わないし、教師であり年上である男は俺よりも当然経験豊富で俺のような問題児を諌める事等造作も無いのだろう。
だがそれが酷く悔しくて、そうして苦しくて仕方が無い。
毎日男と逢い、話をしたり今のように優しくされる度、どうせ男にとってはただの一男子生徒でしか無くて、卒業と同時に忘れ去られてしまう存在に過ぎないのだと考えてしまう。
……こんな事になるならはじめから必要以上にこの男に近づかなければ良かった。
そんな事を考えていると男が立ち上がり此方に近づいて来る音がして、そのまま立ち止まっている俺の足元に男の影が落ちる。
そうしてそんな目の前に居る男を敢えて見る事は無いままでいると男が小さく呟いた。


「……」

「……どうした」

「……」


俺は自分でも何を言ったら分からなくて、黙ったままでいると不意に男の手が俺の髪を撫でる感覚がして思わず顔を上げる。
其処には俺が思っていたのとは違って少し困ったような顔をした男が立っていた。
しかもそれは訳の分からない生徒を相手にしていると言ったものではなく、何故か自分の行いの方に困っているかのような表情で。


「……きし……」

「……さて、どうしたものか」

「……ッおい……!?」


そのまま黙って男の言葉を聴いていると、頭を撫でていない方の腕が予想外に伸びてきて、抱きしめられた。
一体何が起きたのか一瞬分からなかったが、視界には男の着ているジャージが映り、既に男の香りとして認識している微かな白檀の香りが鼻に通る。
それだけでも十分に俺を混乱させてくる要因ばかりなのに、耳元に顔を寄せて香り同様甘く囁いた男のせいで一気に顔に熱が集まってしまう。


「……ちょ、」

「教師としては、このまま授業に行くだろうお前を見送るべきなのだが……」

「……」

「……どうにも行かせたくなくなってしまった」

「……は……」

「……さて、オレはどうするべきだ?……七夜」


そして耳元でくすりと笑った後に男が今度は至近距離で俺の顔を見て、楽しげに笑うものだから、俺は遂に何も言えなくなってしまう。
そうしてもはやどうにでもなれという気持ちで俺を抱く男の広い背中に縋るように手を這わせた。



-FIN-






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