愛逢月の残響




今日も今日とてじりじりと焼き尽くされるような日差しが森中に降り注いでいる。
そうしてそんな森の中にあるこの庵は当然の如く蒸し暑かった。
こんな暑さの中、最後の抵抗とばかりに俺は着ている浴衣の前をだらしなく開きながら、そこに掌で風を送る。
幾らあの路地裏に居たときよりかは涼しいといえ、元々余り暑さは得意では 無い俺にとってはその微かな風ですらあるのと無いのとでは大違いだ。
しかし俺の傍らに居る男は暑さなど微塵も感じていないような顔をして書物を読み 耽っている。
その余りの表情の変わらなさには慣れている筈なのだが、こんなにも差があると まるで自分が酷く暑がりか何かになったかのようで落ち着かなかった。
だがそんな事を思えども暑いものは暑い。
俺は遂に座っているのも面倒になって、そっと昼寝をする時のように畳張りの床に横に なる。
だが先ほどまで書物に向かっていた男の視線が俺を追うように此方に向いたのが分かり、 俺は敢えて男の方向を向いてから肘を立て、其処に頭を乗せた。
すると男が黙ったまま此方を見据えているので俺は先ほどまでずっと疑問に思って いた事をぶつけてみる。


「アンタ暑くないのか……?」

「……そこまで暑いとは思わないが……」

「……ふーん」


そう答えた俺に対して男は書物に目を戻す事の無いまま言葉を紡ぐ。
てっきり新しく買ったばかりの書物に夢中になっているのかと思いきや、会話を続けたいような雰囲気を 醸し出しているので俺は続けて声をかけてみる事にした。


「やっぱりあれか、炎を扱う鬼だから尚更暑さに強いって事なのか」

「どうだろうな……余り深く考えた事は無いので分からん。……お前は随分と暑さに 弱いようだが」

「そうだな……まぁ前は雪原で過ごしている事が多かったしなぁ……別にそこまで気温の 得意不得意は無かった筈なんだが、どうにも身体が鈍ってるのかもしれない」

「……そうか」

「でも路地裏に居たときよりかは此処は涼しいからまだマシだ」

「やはり森の方が木々があるからな……冬はどちらかと言えば都会のほうが暖かいのかもしれないが」

「……あぁ」

「……」


そこまで話をしていて、男が完全に書物を閉じて此方に向き直っている事に気がつき 何となく気まずくなる。
別に問題があるというわけではないのだが、男が何か言いあぐねているという訳でもないし、かと言って積極的に語るわけでもない。
どちらかと言えば俺が話題を振っていて、男がそれに答えるようなそんな問答。
もっと端的に言うなら、優しげな笑みを浮かべた男にひたすら見守られている。
そんな感覚にどうしてもむず痒さを覚えて、俺は一度男から視線を逸らした。
さっきまで俺の事等気にしてもいないような様子だったのに、不意にこういう 事をしてくるものだから男は油断ならないのだ。
俺は一度状況を改めて認識する事で男の視線に流されないように自己を 奮い立たせたのだが、再び男の方を見遣るとそんな俺の抵抗も考えも見透かした かのように男が囁いた。


「七夜」

「……なんだよ」

「来い」

「……」


胡坐をかいた状態の男がそう言いながら自身の足を一度手で打つ。
その有無を言わせぬような態度に、今までの俺ならば苛立ちが先行する筈だった のにどうしたって逆らえる気がしない。
これはきっと俺が変わってしまった事もあるのだろうが、何よりも俺は初めから 終わりまで男に勝てないのだろうと心の何処かで思ってしまうのだ。
俺はゆっくりと横になっていた身体を起こし、男と同じように胡坐をかく。
だが何故か微かに赤くなってしまった顔を男には見られたくなくて、俺は 僅かに顔を逸らしながら男の声に答える。


「……さっきまでの会話、覚えてんだろ」

「そうだな」

「……じゃあなんで……」

「……嫌か?」

「……」

「……」

「……ッくそ……」


結局抵抗しようと重ねた言葉は逆に絡め取られるようにされてしまって、やはり 俺は男に勝てないのだと理解させられてしまう。
そうして半ばやけくそのように男の側に近寄ると、男の足の間に何時ものように 収まり、男の片手が俺の髪を後ろから撫でて来るのを許容する。
また、もう片方の腕は当然のように俺の腹に回ってきて何処かそれに安堵を覚えて いるのも確かな事実で。
そんな事を考えていると急に髪を撫でていた男の手が俺の顎先を掴み、後ろから口付けられる。
ただ粘膜同士を触れ合わせるだけのものだが、それでも中々慣れる事が無いのは何故だろうか。
俺の鎖骨に一筋汗が流れ落ちた頃、漸く男の口付けから開放されて、前を向きなおした俺はため息混じりに 問いかけてみる。


「……一体何なんだよ、急に……」

「ん?」

「さっきまで特に興味もなさそうだったくせに」

「…………」


そう言ってからまるで自分が男に興味を持ってもらえずに拗ねていたような言い草 になってしまっているのに気がついて、口を噤む。
……暑さのせいからかは分からないが今日は特に余計なことを喋り過ぎているようだ。
そうやって自らの行いを内心反省していると、耳元で男がそっと笑った声が聞こえて、俺は男の方に再び向く。
すると男は楽しげな色を滲ませたまま言葉を紡いだ。


「無自覚だったのか?」

「……はぁ?」


訳の分かっていない俺に知らせるように腹に回っていた男の腕が不意に俺の着ていた 浴衣の胸元を引く。
暑さの余り自分で緩めた胸元は、殆ど肌が見えていて、浴衣を着ているというよりかは 軽く羽織っているかのような状態になっていた。
そうして其処には多少薄くなっているとはいえ、まだ点々と散らばっている赤い跡が無数に覗いている。


「まさか、……これか?」

「分かっていてやっているのかと思っていたぞ」

「……」


確かに男のいう通りわざとそういうような行いをした時が無いわけではなかったが、 別にそういうつもりでは無い場合にこんな事を言われるとは思っても見なかった。
だからこそ何故だか無性に恥ずかしさがこみ上げてきて、俺は瞬間的に赤くなる顔を 片手で隠しながら呟く。


「……だから……夏は嫌いなんだ」

「そうか?……オレは良いと思うが」


そう言ってクツクツと喉奥で笑った男の腹に結局俺は本当に軽い肘鉄を食らわせてやる事しか出来なかった。



-FIN-








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