Helichrysum




少し離れた場所を流れる小川に、周囲に茂る木々。
そうしてそこに隠れるようにしながら鳴く小鳥や蝉の声が辺りに響いている。
都会の重苦しい暑さとはまた違ったその如何にも『夏らしい夏』といえる 光景の中、先ほどまでぐったりとしていた子供は少しばかり気分が晴れたのか、 近場の木の根元に座り込み此方を見上げて語りかけてきた。


「やっぱり此処は涼しいな」

「そうだな」


オレはそう答えを返しつつ、持ってきていた荷物を置きながら子供の隣に座り、流れている小川を見つめる。
木々の隙間から射し込む光を反射し、まるで万華鏡の如く美しい色彩を放っているその川は、 普段からオレ達が生活していく上には欠かせないものだ。
そもそも今の住居であるあの小さな庵がこの小川より其処まで離れていないのは、生活の利便さも考えた上 での事で、ふ、とオレは隣に置いてある持ってきていた木製の水汲み用桶を見る。
この桶もこの森の木を少しばかり拝借して作った物で、まだそう古くなっていないように見えるが、自分でも何時作ったのか分からないくらいの代物だ。
……子供がオレの元へ来るより以前に作った事は分かっているのだが。
そんな事を訥々と考えていると、隣に座っている子供が再び語りかけてきたので其方に意識を向ける。


「なぁ」

「ん?」

「あの水ってやっぱり冷たいよな?」

「其れはそうだろうな……どうした、急に」

「少し浸かれば涼しくなりそうだろ」

「……あぁ」


オレが納得したような声音でそう答えると、子供が不意に立ち上がりその小川へと向かっていく。
子供はオレが昔着ていた着丈の少し長い錆鼠色の着物をはためかせながら、小川へと歩み寄り、その川の側にしゃがみ込む。
その丸くなった背中に何故か眠っている猫を連想してしまって、微かに自分の口元が弧を描いたのを感じた。
そうして見つめていると子供が履いていた草履を脱いでから立ち上がり、着物が濡れないように両手 で裾を持ち上げながら小川の中に入っていく。
そのまま此方に振り向いた子供に今度は光が降り注ぎ、その黒髪や肌に不規則な影が映って妙に懐かしい心持ちになる。
オレはそんな不思議な気持ちを心地よく感じながら、僅かに離れた子供に声をかけた。


「どうだ?」

「結構冷たくて良いな、これ」

「そうか。……多少は熱気払いになるかもな」

「あぁ。……アンタも来たらどうだ?」

「……そうだな」


そういってオレが立ち上がると、子供が一瞬驚いたように目を丸めた。
まさかオレがそう言うとは思っていなかったのだろう。
たまに子供の考えとは異なる反応を示してみるのも、新鮮な反応を楽しむ事が出来るなら問題ないと 思っているオレは変わっているのだろうか。


「ッ……!?」


だが、そんなオレの考えを山の神が読んだのは分からないが、小川に居た子供が急に小さく声を上げた 後、小川に座り込むようになったので今度は此方が慌てて子供の元へと駆け寄った。
すると小川の中に座り込みずぶ濡れになった子供が忌々しそうな顔をして川を見た後、此方を見上げてくる。
そうして一度肩を竦めてから自身に呆れているような声で呟いた。


「……滑っちまった」

「……」

「なんだよその顔」

「いや、……怪我が無くて何よりだ」

「……」


この小川は其処まで深いという事も無いし、子供の事だから瞬間的に滑っても受身を取る くらい造作も無いという事は分かっていたので、何事も無かった事に安心しながらも珍しい 子供の失態に少しだけだが面白みを感じてしまっていたのを気が付かれたのだろう。
子供は一度舌打ちをしてから、再度川に目を向ける。
そうしてオレが立ち上がる為に手を貸そうかと思っていた瞬間、不意に冷たい水がぱしゃりと 音を立ててオレの顔に掛かった。
そして理解が遅れていたオレの手を子供が伸び上がるように掴み、そのまま引き込まれる。
子供に圧し掛からないように倒れ込みながらも身を動かしたオレは結局子供と同じように 隣に座り込むような形になってしまった。
そうして子供と同様に着ていた黒紅色の着物がさらに水を吸って色を濃くしていくのを見遣ってから 子供の方を向くと、まさに悪戯に成功して喜んでいる顔をした子供が笑いながら言葉を紡ぐ。


「どうだ、冷たいだろう」

「……全く……冷たいという問題では無いだろう」

「俺の事一瞬馬鹿にしただろ?お返しだよ」

「……気がつかれたか」

「其処は否定しないのかよ……!……まぁ良いけどな」


そう言った子供は両手を後ろに付き、その身を逸らせるようにして目を瞑り冷たさを感受している ようだった。
オレは顔に張り付いた髪を手で除けながら、首だけを動かして上を見上げる。
燦燦と葉の間から透ける光がこの川の中から見るとこのように見えるとは思いもよらず、 此処に住み始めて長いがまだまだ己の知らない事が数多く存在しているのだというのを 理解しながら深呼吸をした。
川から巻き起こる涼やかな空気が肺一杯に満たされて、身体の中から冷やされているような 感覚すら覚える。
そうして隣を見遣ると先ほどと変わらない格好のまま光に照らし出されている子供の姿に、一種の 神々しさすら感じて、オレは刹那、逡巡を覚えたが、その顔に張り付いた髪を指先で払ってやった。
その感覚に子供が目を開いて此方を見遣ってくる。
流石に何時までもこうしていてはあっという間に時間は過ぎてしまうし、何よりこの濡れて しまった服をどうするかを考えなければならない。
子供はオレの考えている事を理解したのか、後ろに着いていた手を前に戻し、川の中で 座りなおした。
そもそも川の中でこのように座り込んでいる事自体が可笑しな話なのだが、子供 は気にした様子も無く、極自然にオレが木の根元に置いてきた桶を見ながら、語りかけてくる。
オレも自然とその視線を追って、桶の辺りを見ながら応答していた。


「そういや水、汲まなきゃな」

「それよりも先にこの服をどうするか考えないとまずいだろう」

「……此処で脱いでみるか?」


くすりと笑いながらそう囁いた子供にオレが視線を戻すと愉しげな表情をした子供が 此方を覗き込んでくるのが分かった。
時たまこの子供はこういう性質の悪いからかいをしてくるのだが、最終的には自分が 困ることになるのだから何を思っているのか分からない。
恐らくオレの動揺が面白いのだろうが、オレにしてみれば此方の思いがけない返答に答えを詰まらせる 子供の方が受ける被害は様々な面で大きいと思う。
―――それに、そういう子供の行動でどちらかといえばオレは得をしているようなものだ。
だが、今回はそれには乗らずに、一般的な答えを返した。


「……風邪を引くぞ」

「……まぁ、な」

「とりあえず一旦帰って着替えてからまた来るか。……一度の往復では足りないしな」

「了解」


そう言ってオレは立ち上がり、隣で立ち上がろうとしている子供に手を伸ばしてやる。
小さく礼を言ってその手を取った子供を引き上げてやると、そのまま不意にその冷えた 唇に触れるだけの接吻をしてやった。
流石にそこまでの予測はしていなかったのか、驚き固まった子供の耳元で囁く。


「……驚かされた事への礼だ」

「…………馬鹿か」


暫し黙っていた子供がぽつりとそう呟き、顔を背けた。
だが、髪の間から見える子供の耳は微かに赤く染まっていて、そんな反応を酷く可愛らしく思う。
先まであんな風に此方を挑発してみせた癖に、此方が押すと途端に恥らうのはある意味 最も此方に良く効く方法を理解しているのかと思うほどだ。
しかし水音を立てながら小川から出た子供は素早く草履を履き、浴衣の水を絞ってから オレを待つ事無く桶を置いた木の方へと足早に向かってしまう。
そんな分かり易い行動にオレは笑みを噛み殺しながら同じように浴衣の水を絞り、子供の 元へと歩んでいった。



-FIN-






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