アイリスの陶酔


※『詠うアガパンサス』の続き物



七夜と暮らすようになってからかなりの月日が経った。
そうして七夜の手に巻いてやった紐は変わらずに其処に巻かれていて、オレはそれを見るたびに安心すると同時に、心の何処かで焦りを感じていた。
それはその紐を解いたら最後、七夜はオレの前から消え失せてしまうのではないのかと思うからだ。
だがオレはけしてそのような焦りを見せる事も無く、ただ七夜がオレに対して風呂上り等にその手を差し出してきた時にその赤い紐を巻いてやっていた。
―――こうやってこの手に紐を巻き続ける日が一日でも長くあれば良いと願いながら。
そうして今日もオレは七夜が一人風呂に入っている間、煙管をゆっくりと燻らせながら何時もの様に考える。
けれど考えたところでオレがどうにか出来る訳も無い。
その一種の諦めと、この平穏な日々を壊したくない自分が居て、ため息を吐くしか出来ないのだ。
始めに抱いた恋心のような不思議な心持は今もまるで変わってはおらず、寧ろ共に暮らす時間が増えるに従って、より一層その思いは強まっていく。
まるで人間性を持たない筈の己がこんなにも複雑な思いを抱える事になるとは全く持って未来とは予想しがたい事ばかりだ。
だが、その普通ならば有り得ないくらいの事柄も、今現在のオレにとっては心地よく感じられる。


「軋間ー、出たぞ」

「……あぁ」


オレがもう一口煙管を燻らせている間に、七夜がその湿った髪を手ぬぐいで拭きながら此方の部屋へと戻ってきた。
そうしてオレの隣に当然の如く座り、此方を見遣ってくる。
オレはそんな七夜を可愛らしく思いながら、灰を落とした煙管を傍の煙管盆に置くとその七夜の肩に掛かった手ぬぐいを手に取り髪を拭いてやった。
始めはこんな子供っぽい所作などしなかったというのに今では普通のように垣間見える七夜の甘えにオレは内心、喜びを感じている。
けれど七夜が何時も差し出してくる左手にこの関係の終わりを見てしまって、結局寂しさを隠すことが出来ない己もまた、居るのだ。


「ほら、終わったぞ」

「ご苦労」


くすり、と笑ってそう言った七夜に対してオレはその髪を撫でる事で対抗する。
指に絡みつくその細い髪が全てオレの物になってしまえば良いのに。
そう思いながらオレは何時も通り七夜が紐と共に手を差し出してくるのを待ち構えた。
だが一向に七夜はそれを言い出す事は無く、髪を梳くように撫でるオレの手を甘受 しているだけ。
オレは一体どうしたものかと思いながら、自分で言い出す事も出来ず、七夜の髪を撫でていた 手を頬に滑らせ反応を窺う。
そこで漸く七夜が小さく呟いた。


「……どうした?」


オレはその言葉に一瞬なんと返そうか悩んだが、極めて普通を装い、七夜に問いかけてみる。


「……紐は、どうした?」

「え?……あ……」

「……」


その問いに七夜は本当に驚いた様子を見せると、僅かに考え込んでから柔らかく微笑んで答えを返してくる。


「……また忘れてたよ、……全く……俺も随分慣れちまったみたいだ」

「…………」

「……軋間?」


オレは不意に目の前に居る七夜を抱きしめたくなる衝動に抗えず、その幾分か細い身体を抱きしめる。
オレの力で壊さないように、けれど、逃がさないように。
あの形骸化していた筈の紐にいつの間にか囚われていたのは他でも無い己だった。
けれどそれならばどうして七夜はオレの傍に居たのだろう、と己の心が自分に都合の良い解釈を与えてくる。
もしもそれが真実なら、オレは今度はそんな拙い紐などより、もっと見えない深い所で七夜を捕まえていたかった。


「七夜」

「……ッ……、どうしたんだよ?」

「……」


オレはその問いには敢えて答えず、七夜の耳元に軽く吐息を吹きかける。
それだけで腕の中の七夜がブルリと身体を振るわせたのが分かった。
しかしまだ、目立った抵抗は感じられない。
オレはそのままその柔らかな耳朶に軽く口付けを行ってみる。
そうしてその赤くなった耳元に溶かし込むように囁いてみた。


「……七夜」

「名前、……そうやって……耳元で話すな……!」

「何か可笑しいか」

「……」


今度は七夜の方が黙り込んでしまって、その反応にオレは思わずそっと笑ってしまう。
すると聞こえたのか、七夜がオレの胸を軽く叩くものだから、顔を上げて七夜を見つめた。
微かに赤みを帯びた顔が燭台の明かりに照らし出され、陰影を浮かび上がらせる。
戸惑いを含んだその瞳に、オレは気がつかない振りをしてそっと顔を近づかせてみる。
そこで漸く七夜がオレの両胸を押して抵抗の意思を示した。
もう、後、10cmも無いであろうその距離で止まったままオレは七夜に問い掛けてみる。
此処まで許しておいて、今になってダメだと言われても納得など出来る訳も無い。


「……何故だ?」

「……ダメ、だ……軋間」

「……」


オレはそれでも敢えて視線を逸らす事無く、七夜を見据える。
幾らなんでもオレの勘違いではないだろう。
今までの事を思い返しても、今の行動を鑑みても、七夜がオレを嫌悪しているのでは無い事は明白だというのに。
そんなオレの考えを読んだのか視線を逸らし、長い睫をそっと伏せるようにした七夜は聞こえないくらいの声で呟いた。


「此処までしたら、……もうアンタと殺し合い、……出来なくなっちまう」

「……」

「……だから……っ……!?」


オレは請うように此方を見遣ってきた七夜を抱き寄せ、その唇に触れるか触れないかの 距離まで近づく。
驚いたのか目を見開いた状態で止まった七夜に対してオレは低く囁いてやる。


「……こうして、……」

「……」

「我慢する方が余程オレには堪えるが……お前は違うのか、七夜」

「……それは……」

「……」


そのまま頬をそっと一撫ですれば、七夜が消え入りそうな声で呟いた。


「……きしま……」


オレはその声に、口付ける事で返す。
始めは微かな抵抗を見せていた七夜も、次第に大人しくなり、オレはそれに煽られ発する熱を感じていた。
そのまま深く嬲るように七夜の口腔を舌で探る。
奥で縮こまるようにしている七夜の舌を舌先で絡め取れば、戸惑うように、けれど明確に絡んでくるのが分かって、その細い腰をもっとと強請るように 抱き寄せた。
そうして耳元で響く甘い声にまるで深酒をしたかのように一種の酩酊状態に陥る自分を感じる。


「……っ……ぁ……」


だが理性を完全に飛ばす訳にはいかないとそっとその甘い吐息を漏らす唇から顔を離すと、名残惜しげに蜘蛛の糸のような橋が架かる。
そしてとろりとした目をした七夜がくたりと此方に凭れ掛かってくるのを出来るだけ優しく抱きとめ、その髪を再び梳くように撫でた。
慈しむという行為は簡単なようで難しい。
オレは自身に出来る精一杯の愛情というもので七夜を満たしてやりたかった。
……それが可笑しな話だと分かっていても、それでも。


「……大丈夫か?」

「……ん……」


コクリと頷いた七夜の髪に口付けながらそう言うと、腕の中から此方を見上げてくる七夜と目が合う。
その唇が何かを言う前に、オレはもう一度その柔らかな唇に顔を寄せ、接吻を施す。
まるで小鳥が餌を啄むようなその口付けに七夜はじれったさでも感じたのか、顎を引いてそれを遮った。
もう少しばかり堪能したかったが余り性急すぎるのも良くは無いだろうと七夜の言葉を待つ。
すると七夜が苦笑してから、オレの頬を両手で包むように触れる。


「……そんな『待て』をされた犬みたいな顔するなよ」

「……そんなつもりは無かったが……」

「……無自覚か?……まぁ、良いけど」

「……」

「……目、伏せろ」


オレは言われた通りに目を伏せる。
暗くなった視界の中、何かが一瞬、唇に触れたのを感じてから目を開けると七夜がそっと笑いながら呟いた。


「……今度は俺がお前に紐、巻いてやろうか?」

「……その必要も無いだろう……」

「……」

「……もう、結ばれている」

「っく……、……それもそうかもな」


そう言って笑った七夜にオレはもう一度顔を寄せると、七夜はそれに応えるようにオレの着物を握ってから目を伏せた。



アイリスの陶酔



-FIN-






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