月光




薄汚れた灰色の世界でそっとため息を吐く。
そうして目の前に転がっている血に濡れた死体を足で軽く蹴り上げる。
靴の先に付着した血は、もはや変色を起こし、その色を鈍くしていた。
俺とこの死体以外には何も無い路地裏。
けしてこの行為に嫌気が差した訳では無い筈だ。
だって、俺はこの行為を行う事にまるで罪悪感など催さないのだから。
だけれどきっとあの男はこんな俺を見たら、嫌悪するのかもしれない。
いや、それとも、泣くのか。
その手が幾ら汚れていても、それでもあの男は何処か高潔だ。
そうして俺を好いていると言っては、無意味にもその手で触れてくる。
其処から伝わってくる温度は生ぬるく、俺の身体を可笑しくさせる。


(……疲れた)


俺は路地裏にある壁に背をつける。
驚くくらいに冷たいその壁は、まるで俺の一部にでもなったかのようで。
そうして手元にあった刃物を見遣る。
射し込む月の光を反射したその刃物には、変わらずに鈍い色をした赤いモノがぬらぬらと光を 湛えて映っていた。
あの男の赤さとは全く違うそのアカに俺は身震いをする。
―――俺は、何の為に。
微かに過ぎる疑問を無理矢理封じ込める。
何も感じたくない。知りたくない。分かりたくない。
分かったところでこの身体に纏わりついた鎖を断ち切る術など、持ち合わせていないのは 十分に理解しているのだから。


(……)


そっと顔を上げると俺に対しても僅かな光を落としてくる。
あの月には今の俺の姿はどう見えているのだろう。
軋りと背中が痛む、けして傷を受けたわけでもないのにどうして痛むのだろう。
その理由を考えていると不意にこの間男に抱きしめられた部分が傷んでいるのだと いう事に気がついた。
男が俺をその豪腕で優しく、傷つけないように抱きしめたのは、何故だったのだろう。
その優しい手付きが俺の背中にきっと深く食い込んで、消えない痕を残している。
そうしてこのけして無いと思っていた亡者の心にも。
この身体には男に知らず知らずにつけられた痕が散らばっている。
それが俺を纏う鎖とせめぎ合い、擦れ合い、そうしてさらに傷を深くするのだ。
深く鎖が食い込む感覚と共に男がつけた火傷の深度もまた、増す。
俺は倒れこみそうな程の痛みに、その膝をつけて許しを請いたくなる。
でも、それらはけして俺に倒れる事を許してはくれないのだ。
そうして許しなんて、誰に請うのだろう。
顔を俯かせると、先ほどと変わらない刃先が見える。
……この刃は俺の矜持だ。
なのに、どうして時たま煩わしさすら感じてしまうのだろう。
それは俺が生み出された存在だからだろうか。
あの男の、拾いきれない部分のみで構成されたこの身体、そうしてその命。
そんな俺に男は、此方が対処出来ないような感情をぶつけて来る。
俺にそんなモノを求められたって、きっと上手くなんて返せないというのに。
それでも、男はその手を俺に差し出すのだろう。
そしてその温かな手は俺を優しく抱き上げて掬うのだ。
でも、俺にその手は余りにも温かすぎて。


(……軋間)


この作られた存在に、居場所などあるのだろうか。
もしあるとしてもそれはあの場所ではないような気がする。
そう考えて再び焦れるように痛む背中に思わず顔を顰めた。
そうしてそのまま刃物を持っていない方の手を前から背中に回す。
まるであの男が俺に対して抗議でもしているかのようなその感覚に 俺は目を伏せ、男の姿を思い出してしまう。
そのまま瞼に映った男の影に手を伸ばす。
―――もしも、男が俺をこの灰色の世界から救い出してくれるなら。


「……軋間……」


ぽつりと勝手に唇が男の名を呼ぶ。
その声は自分の物では無いのではないかと思えるくらいに弱弱しく、掠れていた。
そうしてそっと目を開けると、やはり灰色の世界が広がっている。
けれど先ほどよりも月が動いた所為か、俺に向かって射し込む光が増えているように 感じた。
そうしてその仄白い光に映し出された刃物の血は、確かに輝きを増し、まるで 男の炎のような赤さを持っている。


「……」


俺はその刃物をまるで掻き抱くようにして、その赤さを閉じ込める為に強く目を瞑った。



-FIN-






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