「もう少しで今年も終わりか」
「……早いものだな」
俺がぽつりと囁いた言葉に男はしみじみと言った様子で答えを返してくる。
少し早いが年越し蕎麦も終え、男と共に年が明けるのを待つのみとなっていた。
この山奥に佇む庵は囲炉裏に火を点しているとは言えどもやはり何処か寒々しい。
それでも俺は男の隣に座りながらこうして男と二人、また新しい年が迎えられる事を嬉しく感じていた。
「……しかしアンタも毎年まめだよなぁ」
「そうか?」
俺は男との間に置かれた赤い屠蘇器と僅かに離れた所にしっかりと準備してある様々な正月料理を見ながら呟く。
気にしないようでいて、意外とこういう所にまめな男は面白いものだと思う。
しかし全てに神経質かと思いきや、そういう訳でもない。
こうして男と共に暮らし始めて年月が経っているが、それでも男の心全てを知り尽くせた訳ではないのだ。
けれどもしも男の心を掌握出来てしまったならば其れはきっと酷く詰まらないだろう。
互いに相手の事を誰よりも分かっている自信はある。
けれどその中にもきっと男が知らない俺が居れば、俺が知らない男もまた、何処かに潜んでいるのだ。
そうしてそのような溝を言葉や行動で埋めていく。
其れが何よりも相手を信頼している証になるのだろう。
そもそも『全てを理解する』など、例えどれだけの時間があろうと不可能だ。
だからそんな思いはただの傲慢か自意識過剰に過ぎない。
「どうした」
「ん?……なんでも無いよ」
「そうか」
年の瀬だからだろうか、少しばかり感傷じみた思いを抱えてしまうのは。
しかしそんな思いも直ぐに打ち消し、俺は男に向かって微笑みかけた。
男はそんな俺の笑みに同じように笑みを返してくる。
―――もうすぐ年が明けてしまう。
俺はそんな思いの中、男に向かって言葉を投げ掛けていた。
「……今年一年の感想は?」
「……ん?」
「聞かせてくれよ、この年が終わる前にさ」
くす、と笑って視線を普段は殆ど気にも留めていない兄弟に貰った小さな置き時計に向ける。
もう何分も無い今年の感想を不思議と聞いておきたかった。
男は俺の視線に気がついたのか同じようにその時計に視線を向けてからそっと囁いた。
「……お前と共に居られて良かった」
「……」
「其れがオレの気持ちだ」
「……『今年』の感想だって言ってるのに……」
途中から真っ直ぐな視線で此方を見遣ってきた男に思わず頬が染まるのを感じた。
こうして俺の意図しない方法で此方を焦らせる事もあるから男は油断ならないのだ。
すると此方に顔を寄せてきた男がその低く掠れた声音で優しく語り掛けてくる。
「……『今年一年』の感想だが?」
「……はいはい、……ズルイよなぁ……本当に」
「お前はどうなんだ、七夜」
「俺?……俺は……」
ふ、と視線を時計に向けるともう今年が終わるまで幾秒も無い事に気がつく。
俺は間にある屠蘇器を少しだけずらし、そのまま男の頬に手を当て、顔をゆるりと近づけた。
男はそんな俺の行動を当然の如く受け入れ、唇と唇が触れ合う。
そうして顔を離すと、もう年が変わってしまっていた。
「……俺もアンタと居られて嬉しいよ」
「……」
「……だから、今年も宜しくな?軋間」
「……嗚呼、此方こそ宜しく、……七夜」
互いにそんな会話を交わしあい、何処か照れくさい思いになってしまった。
どうしてこんなにも男と共に語り合い、触れ合うのは心地が良いのだろう。
ただ其処に居るだけで、共に寄り添いあうだけでこんなにも温かい。
「そうだ、折角用意して貰ったんだから呑まないとな」
俺は先ほどずらした屠蘇器を取り、盆台の上に乗った盃を男の方に一つ差し出す。
其れを受け取った男は同じように俺に盃を差し出してくるので其れを受け取った。
そうして盆の上に乗った銚子を取り、男に酌をしてやる。
「すまない……今度はオレが注ごう」
「お、悪いな」
互いに酌をし合い、その独特の匂いと色を見詰めた。
そのまま黙って盃を持ち上げ、軽く触れ合わせる。
盃に入った屠蘇を微かに口に含むと薬草のような風味が鼻に広がった。
俺は口に含んだものを飲み干してから、男に向かって言葉を紡ぐ。
「やっぱり後味が独特だよなぁ……」
「まぁな……一応少しだけ砂糖は加えてあるが……」
そう言って再び盃を口に運んだ男が不意に思い出したかのように囁く。
何処か寂しげに見えたその顔は俺の気のせいだろうか。
「……悪鬼を屠るにはこの薬染みた味が丁度良いのかも知れないがな」
「ん?……あぁ、……でもアンタにゃ効きやしないだろうよ」
「……」
「酒豪で尚且つまめまめしい鬼にこの程度の酒、効く訳無いだろう。……そもそも、意味を考えるならもう片方の意味で毎年出している癖に」
「…………気がついていたのか」
「何となく思っただけだよ」
「……」
毎年男は律儀に屠蘇を用意する。しかし俺も男も其処まで好みの味ではない。
だったら日本酒を屠蘇代わりにすれば良いと提案しても頑として男は其れを譲らなかった。
初めは其れは単純に男の拘りだと思っていたのだ。
しかし、『屠蘇』には様々な由来がある。『悪鬼を屠る』、そうして『魂を蘇生させる』
何処か言を担ぐ男だからこそ、そんな他愛も無い由来を気にするのも分からなくは無かった。
「……気分を害したならばすまない」
「そんな訳無いだろ?ただの正月の祝い酒じゃないか」
「……」
「それに俺はアンタのそういう所が好きなんだよ」
「……七夜」
徐に盃を置いた男が、その手を此方に伸ばしてくる。
そのまま頬を撫で摩った男は珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべながら囁いた。
「……新年早々余り煽ってくれるな」
「……煽ってない」
ふふ、と笑いながらそう答えると男が顔を寄せてくるので其れを受け入れた。
そしてその唇を舌先で軽く舐めると微かな苦味を感じる。
畳に着物が擦れる音を聞きながら、笑いあう。
「……でも、……」
「……ん?」
「……食べたいなら、良いぜ?」
「……そんな事を言うと後でどうなってもしらないぞ……七夜」
「……構わないさ」
互いに視線を合わせ、触れ合った手と手を絡ませる。
掌に感じるその熱が普段よりも高い事に気がついて、俺は男の首元に
甘えるように顔を摺り寄せたのだった。
-FIN-
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