水蜜花春




かたん、と戸が開く音がしてまどろんでいた状態より覚醒する。
そうして囲炉裏のすぐ近くの畳で座布団を枕代わりにして眠っていた俺はゆっくりとその身を起こした。
その間に見慣れた白い上着を着た男がその手に半透明な袋を携えながら、下駄を脱ぎ中に上がってくる。


「お帰り」

「……嗚呼」


俺は男が此方に手渡してくる袋を座ったまま受け取り、両手が自由になった男は上着を脱いでから其れを畳んだ。
そして男は畳んだ上着を何時もの場所に置くと畳を踏みしめ風呂場へと向かう。
その後姿を見送ってから手元にある袋を開け中を見ると思いがけない物が入っていた。


(……豆?……と、なんだこれ)


中に入っていた豆の袋と随分と可愛らしい紙製の鬼の面を見つけ、思わず笑ってしまう。
恐らくこの豆の付録なのだろうが、其れにしても男が此れを買った時の姿は実に可笑しかったに違いない。
そんな事を考えていると微かに聞こえていた水音が止み、男が戻ってくる気配がする。
俺は徐に袋に入っていた鬼の面を取ると、男が戻ってくる方向を見ながら其れを顔の前に翳してみた。


「……なんだ、随分と可愛らしい子鬼だな」


そんな俺の姿を見つけたらしい手に煙管入れを携えた男が楽しげな声音でそう囁くので、俺は面を少し顔からずらし男を見遣る。
その視線の中、ゆったりとした足取りで俺の隣に座った男はそのまま俺の髪をくしゃりと撫でた。
俺はそんな男の優しい手付きを受け入れながら言葉を紡ぐ。


「わざわざ今日は此れを買いに行ったのか?」

「いや、そのつもりでは無かったのだがな……たまたま見つけたので買ってきた」

「ふーん……」

「七夜、その下に葉が入っているだろう?取ってくれるか」

「んー……ほらよ」


男がそう言って俺を撫でていた方の手を離してから袋を指差したので、改めてその中を見遣ると男が何時も吸う銘柄の葉が入っていた。
手に持っていた面を袋に戻し、入れ換わりに其れを袋から取り出して手渡すと、男が持っていた煙管入れから煙管を取り出し吸う準備を始める。
その男に身体を凭れさせるようにしながら、俺は今度は男が買ってきた豆の袋を取り出し、其処に書いてある注意書きを特に意味も無く目で追う。
一通り読み終えると、其れも袋の中に仕舞い込んだ。
そうして何時もの煙管独特の香りが鼻に届くのを感じつつ、呟く。


「そうだよなぁ、今日は二月三日か……やっぱりアンタってこういう季節のイベント好きだよな」

「……別に好きという訳ではないぞ。お前が来るまでした事も無かった」

「そうなのか?てっきりそういうのはキチンとやってたのかと思ったよ」

「…………オレが一人で豆を撒いている姿を想像出来るのか」

「……あー……いや、……そうだな」


男のその台詞に想像してみようと目を伏せてみるが、まるで想像がつかなかった。
もう出来ない想像をするのは止めにして、目を開け男を見遣ると紫煙を吐き出した男はその隻眼に柔らかな光を宿し此方を見詰めてくる。


「季節の移り変わりを風流とは思えども、やはりそのような事を一人でわざわざする気も起きない」

「……そういうものか」

「……其れに安泰や厄を払いたいと願うのもお前と共に暮らし始めてからだ」

「……」

「だから『鬼』が二人で豆を撒くのも、悪くは無いだろう?」

「……ああ、そうだな、軋間」


含み笑いをしながら囁いた男の言葉の意味に気がついた俺は同じように笑ってみせる。
そうして男の煙管を持っていない方の腕に腕を通し、そのまま指先を絡ませるようにして手を繋ぐ。
確かな脈動がこの身体に伝わるのを感じながら俺は更に男の肩に頭を凭れさせた。
目の前では相変わらず囲炉裏が仄かな温かさを作り出している。


「そういえば撒いた豆は年の数だけ食べるんだよな?」

「そうだな」

「俺はアイツに合わせるとしたら17だろうけど、アンタ、自分が食べる数分かるのか?」

「…………」


考え込むようにした男は煙管を燻らせてから、再び紫煙を吐き出すと囲炉裏の中に灰を落とす。
慣れた手つきで煙管を煙管入れに仕舞い込む男はその間も思索しているようだった。
だが答える事無くそのまま黙り込んでしまった男に俺は慌てて声を掛ける。


「……まぁ、適当で大丈夫だろ、撒く事に意味があるんだろうし」

「……」

「どうせだったら、袋の中身半分にしようか」

「……七夜」

「ん?……!」


そっと顔を此方に寄せてきた男は軽く触れるだけの口付けをしてくる。
静かに離れた男と至近距離で見詰め合うと、囲炉裏の中で炭が微かな音を立てて崩れる気配がした。
そうして顔を先ほどと同じくらいまで離した男は、ふ、と小さく笑う。
今の沈黙に多少の誇張が混ざっていた事に気がついた俺は絡ませた指先に力を込める。
しかし男は気にした様子も無く、俺の頭に頭を凭れさせながら囁いた。


「今日の夕餉は巻き寿司にでもするか」

「それは買ってこなかったんだな」

「……どうせ直ぐには食べないだろう?其れに此処まで持って帰ってくる内に痛んでしまうかもしれないからな」

「……あれってさ、切って食べたらダメなんだろ」

「そうだな……由来が由来だしな」

「味は好きなんだけど、恵方巻は全部一気に食べないといけないってのが苦手なんだよなぁ……」

「そうなのか?」


そう言って此方を覗き込んできた男に俺は敢えて妖しい笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。


「其れにアンタの銜えてる時みたいに愉しく無いし」

「……!」

「冗談だよ、じょーだん」

「……全く……」


呆れたようにそう囁いた男にしてやったりという笑みを見せてやると、絡ませていた指を引かれ、再び口付けられる。
薄くも乾いたその唇は熱く、ただ触れ合うだけなのに此方を何処までも惑わせる力を持っているのだ。
そうして顔を離し、互いに笑いあう。


「もう少ししたら豆撒きをするか」

「……だな」

「余り大量に撒かないようにしないとな……片付けが面倒になる」

「確かに」


先ほどと同じように男の肩に頭を凭れさせつつ、自分の横にある袋を見遣りながらそう囁く。
何気ない所で見える男のこういう気遣いが堪らなく愛おしく感じる。
其れはきっと俺も男も今までこのような事をした経験も無ければ、其れに込められた意味を理解する事も難しかったからだ。
―――だが今は違うとはっきり言い切れる。
俺はそんな思いの中、男の体温が此れからも変わらず何時も隣にある事を一人願っていた。



-FIN-






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