スターチス




「おい」


何時ものように勝手に男の庵にやってきて畳の上でまどろんでいた俺に掛けられた声に気だるい体と視線を向ける。
最初は俺が来る度に面倒臭そうにしていた男も今ではまるで気にしていないようにしていたものだから険しいその声に少し驚いてしまった。
しかもまだ帰る時間には早い筈で、男が出掛けるには遅すぎるだろう。
そうして微かに鈍っている頭を俺が回転させている間にこれまた珍しく纏っている深緑色の着物を擦らせながら俺の隣に座った男が此方を見詰めてくるので、頭を掻きながら体を起き上がらせた。
そのまま男に向き直るように胡坐を掻くと、同じように胡坐を掻いている男が凝っと此方を見ながら言葉を紡ぐ。


「……口を開けろ」

「……は……?」


行き成りの男のその言葉に思わず呆然としてしまうが、直ぐに正気に戻り、俺は目の前に居る男に向かって肩を竦めた。
一体どうしてそんな事を言うのだろう。
男の言動が分かりにくいのは今に始まったことでは無いが、其れでもそんな意味不明な事をただ黙って受け入れるのは癪に障る。
そもそも俺が男の言葉を素直に聞く筈が無い事を男は良く分かっているだろうに。
とりあえず俺は普段通り自分でも生意気だと思える口調で言葉を紡いだ。


「一体なんなんだよ、急にそんな事を言われたって……ッ……!?」


しかし俺が言葉を言い切る前に男がその手を伸ばしたかと思うと指先を此方の口腔に忍び込ませてきた。
瞬間、逃げようとする俺の腕を掴んだ男はそのまま自身の方に俺を引き寄せたかと思うと、好き勝手に口の中を指先で弄ってくる。
流石に苛立ってその指に噛み付いてやろうとするが、其れを止めるように男が低い声で囁いた。


「……噛むとお前の歯が欠けるぞ」

「……っ、……ぁ……ふ……」


そう言いながら、男の熱い指先が此方の上顎を撫でていくのに思わず背中に甘い痺れが走る。
自分の物ではないような其の声に急に恥ずかしさが込み上げ、男の腕に両手を添わせ爪を立てるがビクともしない。
くちゅり、と濡れた音が脳内に響き、自然と息苦しさで目元に涙が浮かんでしまう。
しかも逃げようとしても無表情で此方の手を掴んで離さない男が此方を観察しているように思えて、俺は思わず目を伏せ、男から視線を外す。


「……ん、っぐ……ッ……は……」


敢えてなのか此方の感じやすい部分に容赦なく触れる男の所為で嫌でも声が出て飲み下しきれなかった唾液が口端から零れ落ちる。
男が何を考えているのか知らないが、このような仕打ちをされる意味も理由も分からない。
段々と脳内が霞んでいく感覚に流されそうになっていると不意に唇から男の指が抜かれる感覚がして、漸く呼吸がしやすくなった。


「……けほッ……っ……き、さま……一体どういうつもりだ!」


咳き込むのを抑えながら、男に向かって掠れた声で怒鳴りながら殴りつけてやろうとするが、いとも容易く片手で両手を拘束されてしまう。
そうしてぬるついた手に一度視線を向けた男が再び此方に視線を向けたかと思うと小さく囁いた。


「……今は此れしか方法が無いだろう」

「だから……何の話をしている」

「自分で気が付いていなかったのか?」


苛付いたように俺の口端を指先で拭ってから俺の手を離した男はそっと立ち上がり、手洗い場の方へと歩んでいってしまう。
残された俺はその後姿を見ながらも男の言っている意味が分からずに必死に頭を働かせる。
方法というからには何かをしたかったのだろうとは予測出来るが、其れが何なのかは思いつかない。
一人考えていると手を洗い終わったのか戻ってきた男が此方に近づいてきて、先ほどと同じように俺の前に座り込んだ。
本当はこのままズボンのポケットに入っているナイフを取り出しても良かったが、まだ苛立った様子の男に戸惑ってしまう。
此方がある意味被害者だというのにどうしてこんなに気まずい思いをしなければならないのだろうか、と俺は遂に黙ったままの男に向かって声を掛けた。


「さっきの……説明しろよ」

「……」

「……おい……」

「力が足りていなかっただろう」

「……え?」

「……消え掛けていたぞ」


するりと此方に手を伸ばし頬を撫でた男が言った言葉に驚いてしまう。
確かに最近、力の供給が足りずに少し気だるさを覚えてはいたが、まさか男に其れを感づかれ、助けられるとは。
今まで俺の事などまるで気にしている様子が無かった癖に、急にこんな風に優しくされると動揺してしまう。
俺はそんな動揺を悟られたくなくて、頬に添えられた男の手を掴んで外すと視線を部屋の隅に向けた。


「……アンタが助けてくれたのは分かったけど……其れならそうと言ってくれよ」

「……」

「……いきなりあんな事されたら驚くだろ」

「……素直に言ってお前が聞くとは思っていなかったのでな」


男の言葉に反論が出来ない自分が居て、黙り込んでしまう。
もしも助けてやる等と言われていたら俺は多分逃げ出していた筈だ。
それはなるべくなら男に借りを作りたくないのもあるが、それ以上に男と対等でありたいと願っている。
力の差が絶対的であるのは分かっているが、精神的な面では対等でありたかった。
こんな事を考えている時点で餓鬼なのだと分かっていても、そう思ってしまうのは仕方の無い事なのだと思う。
だが今回助けて貰った事は、素直に感謝するべきだろうと男に視線を向けた。


「……助けてくれた事は感謝する」

「……気にする必要は無い」

「……でも、次はもっと穏便にしてくれよ。アンタの指、結構太いから苦しかったんだぞ?」


俺は自分が発した言葉に羞恥を感じ、掴んだままでいた男の手を唇に引き寄せその指先に軽く口付けると冗談っぽくそう囁く。
するとその瞳に今まで見た事の無い色を宿した男が此方の唇を乾いた指先で撫でてくる。


「……七夜」

「……なんだよ、また何かするつもりか?」

「……」

「……軋間?」


先ほどまでの苛立った気配では無いが、何処か不思議な男の視線に思わず男の名を呼ぶと男がそっとその顔を此方に近づけてきた。
何時もよりも近い距離に何故か作られた心臓が嫌に動くのを感じていると、柔らかな声音で男が囁く。


「……先ほどよりも穏便な方法、か……其れはお前が嫌がると思っていたのだがな」

「え……」


そう言いながらくすりと笑った男に自然と顔に熱が集まる。
今の男の言葉に含まれた意味を理解してしまい、何も言えなくなってしまった。
急に至近距離でそんな事を笑いながらいうなんてずるいだろう。
―――何がずるいと思ったのかは自分でも良く分からないが。
しかし俺はこのままやられっぱなしでいるのも腹が立つと、態と男を見上げてから挑発的に笑んでみせた。
まさか俺がそんな反応を見せるとは思ってもいなかったらしい男が息を詰めた事に満足感を覚える。
すると俺の考えを読んだのか更に此方に男が顔を寄せてきて、どうにも引くに引けなくなってしまう。
思わず目を瞑ると男の吐息が掛かるのを感じた。
そして額に男の唇が軽く押し当てられる感覚がして、そっと目を開けると離れた男が何処か寂しげに微笑みながら言葉を紡ぐ。


「安心しろ、……本当に口付けたりはしない」


そう言ってから離れようとする男に俺は自分でも驚く程素早く顔を近づけ、乾いた唇に唇を押し当てた。
そのまま離れようとする俺を先ほどと同じように引き寄せた男が指よりも熱い舌先で此方の唇を舐めるのを感じ、其れを受け入れるように唇を開く。


「ん……」

「……、……」

「……っは、……」


たどたどしくも中を探ってくる舌先に心地良さを覚えながら、掴んでいた手に力を込めると男が此方の手を痛めないように手加減しながら握り返してくる。
どうしてこんな事になってしまっているのだろうと思いながらも魔力供給だけの意味ではなく、もうこの行為そのものに充足感を得ている自分を認めざるおえなかった。
そんな事を考えていると男が緩やかに顔を離したので、自然と視線が絡んだ。
荒くなった息を整えながら、男の肩に頭を寄せると俺の髪に手を這わせた男が其処を撫でてくる。


「……は……」

「……お前は本当に負けず嫌いで何を考えているのか分からないな」

「…………其れはアンタだけには言われたくない」

「だが……お前自身が煽ったのだからオレは次からこの方法しか取らんぞ」


髪を撫でながら囁いた男の言葉に自分が何をしたのかを改めて認識してしまい羞恥を覚えてしまう。
男は俺に逃げ道を与えてくれたのに、俺が自ら引き止めてしまった。
そもそもこんな山奥にわざわざ昼寝に来る時点で俺は疾うに男の傍に居る事に慣れてしまっていたのだろう。
もう此処までしてしまったのなら、後には引けない。
ならばもう一度くらい男を煽って見せても良いだろう。
流石に顔をあげて言うのは無理だったので俺は男の肩に顔を埋めたまま、そっと囁く。


「それはつまり……力を供給する時にしか、してくれないのか?」

「七夜」

「……ッ……」


掴んでいた手に指を絡めた男が此方の耳元で愛しげに俺の名を呼ぶ。
自分で言っておいて顔を染めてしまうなんて、可笑しいと思いながらも男がこんなに俺を甘やかすなんて今まで無かったのだ。
そうして俺がこんなに素直になる事もまた、今まで無かった。
そんな事を俺が考えている合間にも男は俺の髪に口付けてくる。


「……なんか、頭が壊れそうだ」

「?……まだ足りないのか」

「いや……どちらかと言えば足り過ぎてる」

「……そうか」


俺の言葉にクス、と笑った男は変わらずに俺の髪に口付け、今度は此方の背を撫でてくる。
温かなその手を感じながら、俺は男の広い背に手を這わせた。



-FIN-






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