忘れじの




ジリジリと体に照り付けてくる日差しを受けながら、買い物の為に街に下りてきたオレは 足早に街の中を動き回り、既に目的を全て果たしていた。
例年とは比べ物にならない暑さと、健全な生活を送っている者達が仕事や勉学に精を出している時間帯の為か何時もよりもすれ違う人間は少なく、尚且つ皆、何処と無く虚ろな表情をしている。
暑さに強いこのオレでさえ、確かに熱を感じ、汗を掻いているのだから並の人間には相当辛いだろう。
其処まで考えて共に暮らしている庵に一人置いてきた餓鬼がどうしている のか些か不安になり、手に持った袋を反対側の手に持ち変える。
オレの住んでいる庵に不意に現れたあの餓鬼は段々とオレの空間に入り込み、そうして何時しか傍に居るのが当然のようになってしまっていた。
餓鬼はオレを殺そうと初めの内は考えていたようだったが、その感情に付け込むような形でオレはあの餓鬼を上手く手中に収める事に成功した。
勿論、互いに初めはそのつもりなど微塵もなかったのだが。
そんな事を思い返しながらも真夏らしい軽装をした人々の合間を緩々とまるで存在しないモノのように気配を 消しながら歩む。
―――そういえば、オレが居ない間、奴は何時もどうしているのだろう。
今まで深く考える事も無かったその事柄が暑さの所為かより表層に浮かび上がってくる のに不快感と焦燥感を覚えながら庵へと戻る足の速度が少しだけ増したのを感じる。
オレの感情が他者よりも分かりにくい、とあの餓鬼は言っていたが其れは敢えて抑えている部分があるのだ。
其れはもしも本当にオレが餓鬼を拘束して、その言動全てを監視してやりたいと思えば簡単に出来てしまうからで、その甘美な誘惑は何時でもオレの中に巣食って いる。
だが其れは重すぎる執着だと分かっているからこそ、表に出す訳にはいかなかった。
何よりも解脱を望む心と相反するその望みはオレという存在自体を酷く苦しめるモノで敢えて考えないようにしていたというのが正しい。


(……暑い)


自身の頬を伝わる汗もそのままにオレは足早に街を抜け、森の方角へと歩んでいく。
こんな暑さでは森に向かうような酔狂な人物はオレくらいしか居ない。
何よりも普通の人間ではオレの庵に到達する前に、疲れ果ててしまうだろう。
だから、本当にあの庵にはオレと餓鬼の二人だけしか立ち入る事は出来ない。
ゾワリとした痺れが背中を伝い、瞳の傷痕を揺らして鈍い痛みを巻き起こす。
時たまあるこの感情の揺れが自分でも恐ろしいと思う。
何時か、何時かあの気まぐれな餓鬼をオレは手酷く飼い慣らしてしまいそうで、二度とその身を動かせなくさせてしまいそうで。
オレは走り出してしまいたい衝動を抑えながらも普段よりも速い速度で森の入り口にたどり着くとそっと中に入り込む。
昼間だというのに薄暗いその森の中で、五月蝿いくらいに響く蝉の合唱を聞きながら一体あと何回オレはこうして思い悩むのだろうと考えていた。
きっとこんなにも嫌な考えをさせてくるのは夏だからだろう。
餓鬼が初めにオレの前に現れたのも夏だった。
だから、もしも餓鬼がオレの前から消える日が来るならば恐らく夏だと勝手に想像を逞しくしてはその夢想に苦悩している。
愚かだと思えども、其れを否定出来る材料は何処にも無い。
そんな事を考えていると少し先に何かが落ちてきたのが視界に入り込んでくる。
オレは歩幅を小さくし、ゆっくりとその物体に近寄ると、地面には引っくり返りながらも苦しげに足を蠢かせている蝉が落ちていた。
まだ夏真っ盛りだというのにこの蝉はもうその生命を終わらせようとしているらしい。
バタバタと無様に羽を震わせ、蠢く一匹を嘲笑するかのようにオレの背中越しに居る他の蝉が更にその声を増した気がする。
オレが足を動かしてこの蝉を踏み潰すのは至極簡単な事だ。
このまま死ぬまで地面を這い回るのならば、いっそ此処で終わらせてやった方が良いのではないのだろうか。
そう考えて一歩、足を踏み出した瞬間、手に持っていた袋がガサリと小さな音を立てた。
其処で漸く我に返り、自然と蝉を跨ぐように片足を下ろす。
そうしてそのままもう片方の足も蝉を跨ぐようにして、オレは未だ背後でもがいているであろう蝉の小さな声を聞いた。
今、オレは一体何をしようとしていたのだろう。
口の中が妙に乾いて、脳内が苦々しい気持ちで満たされる。
オレは一度目を伏せてから背中に浴びせ掛けられる蝉の声を聞きつつ逃げるようにその場を後にした。


□ □ □


直ぐに庵に戻るつもりだったが、この混乱した脳内をどうにか整理したくなり庵には戻らず、庵の傍に流れる小川の近くに生えている木々の根元に腰を下ろす。
そうして直ぐ傍らに袋を置くと、ゆっくりと胡坐を掻く。
静かに目を伏せ、目の前の川のせせらぎだけに意識を向けると先ほどまであれ程五月蝿く感じていた蝉の声が遠ざかり、体に絡みつくようだった熱が引いていくのが 分かった。
もう少しだけ休んだら、何事も無かった顔をして庵に戻りまだ眠っているかもしれない餓鬼を起こして何か軽食でも作ってやろう。
このオレの中に潜む恐ろしく醜悪な感情を悟られたくは無い。
今まで他者に此処までの感情を抱いた事が無く、抱くとも思っていなかった。
だから時たま浮かび上がってくるこの本能に語りかけてくるような感情との折り合いの付け方が未だに下手なのだ。
何時か餓鬼が傍らに居る事に慣れれば、この嵐のような思いも無くなるのだろうか。
しかし深く呼吸をするとそのような雑念も空に溶けていく気がした。


(……此れならば……問題無い)


高まった精神が静まり、漸く普段通りになって初めて何者かの気配が近づいてくるのに気がつき目を開ける。
そしてそっと近づいてきた気配の方に視線を向けると着物を着た餓鬼が木々の合間を抜けてオレの前に立った。
まるで蜃気楼のようなその姿を見上げると餓鬼が背後からの光を受けながら、呆れたような表情をしている。


「居た居た……、こんな所で何やってるんだよ、もしかして具合でも悪くなったのか?」

「いや、そういう訳では無いのだが……」

「……その割には疲れた顔、してるけどな」


座っているオレの前に着物の裾を翻しながらしゃがみ込んだ餓鬼がそう言って此方の頬にその手で触れてくる。
ひやりとしたその手が此方の頬を労わるように触れてくる事で、自身の体が想像していたよりも熱くなっている事に気がついた。
そのまま餓鬼の手を掴み取り、その身を引き寄せる。
バランスを崩した餓鬼が驚いた表情を見せたのを視界の端に捉えながらも無視をして抱き締めると胸元に居る餓鬼が困惑しているのか小さな声で囁いた。


「おい……服、汚れるだろ」

「……そうだな」

「……街で何かあったのか……?」


餓鬼の膝が地面に着いているのを理解しながらもそう答えると訝しげに此方に問いかけてきた餓鬼が此方の胸元から顔を上げる。
やはりオレはこの餓鬼を手放す事は出来ないだろう、と確信めいた思考を持つ。
オレはそんな事を考えていると悟られないように何時もと同じように餓鬼にしか見せない笑みを浮かべ、首を横に振った。
そうして餓鬼の髪に手を這わせると其処を撫で梳かすようにする。


「……心配になって迎えに来てくれたのだろう?……感謝する」

「は……、藪から棒になんだよ……」

「……言っておかないと後悔しそうでな」


様々な思いを込めて、敢えて餓鬼の瞳を見つめながら感謝の意を伝える。
そうして照れているのか頬を赤く染めた餓鬼に顔を寄せるとその柔らかな唇に唇を触れあわさせた。
指先を這わせた髪が熱を帯びている事に気がつき、薄い唇から顔を離してから何処かぼんやりとしている餓鬼に向かって言葉を紡ぐ。


「帰るか……此処は暑いからな」

「……ん」


普段よりも大人しい反応を見せた餓鬼に愛らしさを覚えつつ、心の奥底で再び渦巻きそうになった欲を仕舞いこむ。
何時かオレと餓鬼が袂を分かつ事になった時、冷静さを持っていられるかは正直分からない。
もしもその時が来たならばきっとオレは餓鬼を守る為に自ら命を絶つだろう。
けれど今はまだ、この手の中に餓鬼が居てくれる。
だからそんな暗い先の事を考えるよりも如何に今、傍らに居てくれる餓鬼を幸福という気持ちで満たしてやれるのかを考えていたかった。


「何呆けてんだ、……帰るんだろ?軋間」


そっとオレの上より退いた餓鬼が此方に向かってまるで春の日差しのように温かな微笑みを見せながら手を差し伸べてくる。
オレは同じように静かに微笑み返しながら、そのオレよりもずっと華奢な手を壊さないように柔らかく握り返し、そっと立ち上がった。



-FIN-






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