星降る夜に




空気が痛い程に澄み渡り、生い茂った木々の合間を音も立てず獣のように歩む。
この森に立ち入るのはもう何度目かわからないくらいで、普通の人間ならば疾うに方角を見失い、惑っているだろう。
いや、もしかしたらある程度知識のある人間ならば隙間から見える夜空を頼りに方角を知る事は出来るかもしれない。
だが例え方角を知ったとしてもこの整備もされていない山道を登るのは不可能だ。
そして何より、この森の奥には主である『鬼』が居を構えている。
しかし、鋭い隻眼に灯る強い光に大抵の者が恐れ慄くだろう『鬼』に俺は敢えて会いに向かっているのだ。
それは『鬼』であるあの男が至極此方の興味を惹く存在である事もそうだが、何よりも奴の隣で眺める夜空は街の中で眺める夜空よりも美しく見える。
無論、そんな事を奴に伝えた事は今まで一度たりとも無い。
それどころか機会があれば奴の首を掻き斬ってやろうと得物は何時でもズボンのポケットに忍ばせてある。
其れを男は当然、理解しているだろう。
だから初めは此方を気にしていないようでいて、確りと警戒していた男は今でもその警戒の基準を下げてはいても無警戒になる事はほぼ無い。
互いに逢瀬を重ねても何処かしらに殺意を向けられる緊張感を持っている事に俺は満足していた。
俺が奴を仕留めたいと願うのは本能で、奴が獣から己の身を守ろうとするのもまた、本能だ。
そんなつもりは無いと示すようなつまらない言動を男から引き出す気も俺から出す気も端から持っていない。
ただ、今は流れ落ちる有限の時間の中で男の気高くも孤高な魂に少しでも寄り添っては理解と肯定と否定を示したいだけだ。
―――だからと言って其れを出来る程、自身が高尚な存在だとは思わないが。
そんな事を考えながら歩んだ先にある開けた草原に出るとその中心に鎮座している 巨木の根元に何時もの男の姿を見つける。
此方の気配など、もうとっくに察している癖に変わらずに俺に視線を向ける 事無く静かに座禅を組み目を伏せているらしい男に苛立たしさと可笑しさを 感じた。
態とらしく音を立てながら男の傍に寄り、目を伏せている男の前に立ち塞がる。


「よう、……今夜は随分冷えるな」


そのまま男に向かって身を乗り出すようにしながら声を掛けると漸く隻眼を 開いた男が相変わらずの無表情のまま小さく囁いた。


「……そうだな」


初めの方はそんな事を言うと直ぐに『帰れ』等と言っていた癖に今では早く座れと言わんばかりに此方を見詰めてくるのだから笑ってしまう。
俺はお望み通り男の隣に座り込むと空を眺める。
驚く位にこの森は星空が良く見えるのだ。
そして今日はお誂え向きにその夜空の中心には満月が浮かんでいる。
その情景はまるで絵画か何かに描かれそうな程だ。
けれど絵画と違うのは、その夜空が毎日姿を変える所だろう。
ある意味当然の事だが、ふとした時其れに気がついた俺は時間の流れを嫌でも感じた。
永久不変に見える世界ですら、時間には勝てない。
ならば『眼』を持たない俺が勝てる道理は無く、それならば消える迄の一瞬の間だけでも自身の心に従おうと思った。


「なぁ」

「……なんだ」


意味も無く発した言葉の後が続かず黙り込む。
ただ、きちんと男が俺の言葉に答えてくれる事が嬉しかった。
しかし何も言わないのもまずいだろうと思っていると俺が言い淀んでいる事を察したのか低く掠れた声で男が囁く。


「……寒いな」

「……ん?ああ……」

「空気が澄んでいるから星はよく見えるが」

「そうだな……、……あ」


男に促されるように顔を再び夜空に向けると丁度小さな星が天駆けていく姿が見えた。
あれは命の最期の輝きだと誰かが昔に言ったのはあながち間違いでは無いかもしれない。
その身を燃やし尽くして、そうして気がついたモノだけに看取られ消えていく。


「……綺麗だな」


俺の心からの賛辞に男はただ黙って頷いているようだった。
街での生活が不満な訳ではない。
好きな時に寝て、好きな時に用意された獲物を狩る為に散歩に出る。
与えられた食事をただ咀嚼し、作られた肺で呼吸をする。
それらは飼い慣らされた獣としてはとても幸福な生き方だろう。
けれど、それは常に退屈さが付き纏うのだ。
ただ、この男は行動や身体で俺を飽きさせる事が無い。


「……」

「……」


それは不意に此方の手に重ねられた男の掌の熱さもその一つだ。
こうして男から行動を示す事は珍しく、内心驚いてはいたが声には出さないように努めているとそのまま重ねられた手が動き、此方の指に絡んで叢に縫い止められるようにされた。
俺は其れに応える為に敷かれた手を動かし指先を絡ませる。
その間、俺達は声も出さずに広い夜空に視線を向けていた。
言葉を話せばこの静かな空間が乱され、男が手を離してしまう気がして。
繋がれた温度は俺の冷えた手をジワリジワリと温め、此方に侵蝕してくる。
ただそれだけの事なのに、この夜が永遠に続けば良いと願ってしまう。
そんな馬鹿らしくも切実な願いに答えるように見上げていた空にまた一つ、星が駆けていくのが見えた。
何ていう偶然なのだろうと口端に上る笑みもそのままに俺は繋がれた指先を少し動かしてからそっと戯れのような言葉を吐き出す。


「……今日は随分星が墜ちる日だな。……ちゃんとお願い事は出来たか、軋間?」

「……嗚呼、……お前は何を願ったんだ」

「俺?……それは秘密だ。言ったら意味ないだろ」

「……そうか」


ふ、と隣で笑った男と俺を木々の葉をさざめかせる程度の風が撫でていく。
無い筈の心が何かぼんやりと生温いモノで満たされていく感覚は息苦しくも心地よい。
俺はまだ暫し続くだろう時間を噛み締めるように美しい月を瞳の中心に捉え、男の温度に溺れるように静かに目を伏せた。



-FIN-






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