夏の暑さも鳴りを潜め始めたとはいえ、まだまだ蒸し暑い森の中、オレは叢を踏み締め離れた距離に居る餓鬼を緩く見据える。
暑い暑い、と喚いていたかと思うと熱気払いに組み手をと強請る餓鬼の不可解さは共に暮らしはじめ身体を重ねるようになっても理解出来ない時がある。
ただ、此方も腹の中に溜まるような不快な暑さに多少気が立っているというのもあり、元来闘いというモノが好きな質な事もあってその申し出は躊躇なく受けた。
オレも餓鬼もこうして人気の無い庵で隠れるように住んでいるのは、俗世の理に馴染む事が端から出来ないからだ。
其れは、産まれ落ちての性質なのだから変えようもない。
だからこそ、こうして異質なモノ同士溺れるように側に居るのかもしれなかった。
「とりあえず軽く一本な」
「良いだろう」
オレがそう答えると浴衣を緩く纏った餓鬼が其の手に持っていた刃物の刃先を取り出し構える。
餓鬼もオレも庵で過ごす時用の浴衣のまま出て来てしまったから多少動き悪くはあるが、別に本気で闘う訳では無いのだから気にする事も無いだろう。
ただ、餓鬼の持つ刃物が太陽光の反射でキラリキラリと光るのが妙に瞬きをする瞼の裏に残った。
しかし其れを気にする事なく意識を餓鬼に向け直す。
オレに構えは必要ない、全て独学でこれといった型も無いからだ。
其れを充分に理解している餓鬼は一度試す様に刃先を横へ薙ぐと、緩く笑った。
「じゃあ始めようか……!」
そう、囁いた餓鬼の言葉が耳に届く前にフワリと残像を残して餓鬼が消える。
そうして此方の前に現れた餓鬼が振るう刃物を軽く避けると其処に居る筈の餓鬼の腕を掴み上げようと手を伸ばす。
しかし当然の如く伸ばした手は空を掴み、日差しの中にオレが纏っている浴衣の端が舞っただけだった。
そんなオレの姿を確認した餓鬼が一度引いた身体を再び此方に近づけ、白銀の軌跡を残しながら刃物を振るう。
刹那の間に幾度も放たれる斬撃を両腕に受けると浴衣がビリビリと嫌な音を立てて千切れ落ちた。
そうしてその欠片が叢に落ちる先に、目を細めて挑発的に笑う餓鬼の顔が見える。
―――途端に脳内が瞬間的に沸かされる気がした。
「うおっ……!?」
オレが炎を纏わせた手を伸ばすと、ひゅっ、と餓鬼が息の呑む音が聞こえる。
しかし直ぐにその腕から逃れた餓鬼がその瞳に本気の殺意を滲ませ此方に蹴りを放ってきた。
鋭い速度で飛んできた蹴りを身を捩って避けると、餓鬼の纏う浴衣の裾がはためく。
細くも筋肉のついた脚を捕まえようと避けた身体を動かし、片手を伸ばすが其れを読んだのか姿勢を下げた餓鬼が
常人には苦しいであろう態勢から斬りつけてきた。
其れを敢えて避けずに餓鬼ごと抑え込むようにするとそのまま叢に餓鬼を引き倒し跨る。
そうして抵抗しようとしている餓鬼の両手首を掴むと乱れた髪の隙間から酷く嬉しそうに笑っている餓鬼がその薄く色付いた唇から甘く囁いた。
「……どうした?やってみろよ」
引き倒した所為で着乱れた浴衣から餓鬼の首筋と鎖骨が影になっていても艶かしく感じられる。
このまま細く白い首筋を締め上げ、苦痛に呻く餓鬼の声を聞けたならきっと心地が良いだろう。
餓鬼の手首を掴んでいた内の片手を離しそうになるが、自身の首に伝う汗が餓鬼の頬に落ちるのを見て、不意に身体に絡み付いた熱が静かに引いていくのを感じた。
熱に溺れ、そのまま餓鬼を殺しかけたという事実にどっと疲れが押し寄せてくるが眼下に居る餓鬼は逆にクスクスと楽しそうな笑いを洩らす。
オレが可笑しいのと同様に、この餓鬼もやはり壊れている。
けれどその歪みが上手い具合に重なり合い、嵌っているのだろう。
オレが冷静さを取り戻したのを理解したのか、拘束していた手を離すと餓鬼が肩を竦めて微笑む。
「おやおや、戻ってきたのかい?」
「……嗚呼」
「なーんだ、残念だな」
冗談めかしつつも恐らく本気で呟いた餓鬼の上から退き、立ち上がると倒れている餓鬼に手を差し出す。
そして叢に落ちた刃物の刃先を仕舞い込み、袂に入れた餓鬼が其の手を躊躇う事無く取り、立ち上がるのを手助けする。
浴衣についた葉を取ってやると、オレの前に立った餓鬼が此方の浴衣についた葉を指先で掃ってきた。
まるで先程の殺意が無かったかのようにされて、謝罪しようとした言葉が喉に引っ掛かり出て来なくなる。
そんなオレの葛藤など疾うに見通しているのかオレの唇に指を当てた餓鬼が一度瞬きをしてから呟いた。
「先に言っておくが謝罪の言葉は不要だ、俺もアンタもそういう生き物なんだし。寧ろ鬼の末裔から本気の殺意を頂けるなんて、退魔の家系としては光栄な事だよ」
「……しかし……」
「だからもう良いって。……嗚呼、でも一つだけ言うなら……」
「……なんだ」
話している内に小声になった餓鬼に思わず顔を寄せるといきなり首に両腕を回され、耳元に顔を近付けられる。
「……久々にアンタのあんな顔が見られて正直、滅茶苦茶興奮した」
「……お前という奴は本当に変わっているな」
「そういう所も、好きなんだろ?」
溜息を吐いてその言葉に答えると、一層耳に顔を寄せた餓鬼が嬉しそうに耳朶に口付けてくるのを受け入れた。
折角熱気払いのつもりで組み手をしたというのに此れではまるで意味がない。
けれど、その即効性の毒のような声が耳に押し入ってくる感覚は悪くなかった。
そんなオレの考えを読んだのか、耳元から顔を動かした餓鬼が此方の唇に軽い口づけを落としてから身体を離す。
「さて、汗も掻いたし帰って風呂でも入ろうぜ」
餓鬼のその言葉には何も答えず互いに動いた所為で乱れた浴衣の前を直してやると餓鬼がオレの顔を覗き込み、柔らかく囁いた。
「アンタ、今、少しだけやらしい事考えただろ」
「………何もオレは言っていないだろう」
「顔を見れば分かるんだよ!」
そんな小生意気な事を言ってからケタケタと笑う餓鬼がその身を翻して共に住む庵に戻る道を進むのを見詰める。
風呂に入る前に、この生意気な餓鬼を望み通り泣くまで貪ってやるのも良いだろう。
そうして互いに『今』を生きている事を確認出来るならきっとこの不快な蒸し暑さも気にならなくなる筈だ。
「何ボサっとしてんだよ、軋間!」
少し離れた場所で此方を振り返った餓鬼がオレの名を呼ぶ。
オレは餓鬼の側へと足早に近付き、笑っている餓鬼の頭を撫でてからその隣に並び、庵へと向かった。
-FIN-
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