セラフィナイト




静かな空間の中で隣に居る男に凭れ掛かり、緩やかな波のようにやってくる睡魔を心地良く受け止める。
こんな風に仇である男の森にやってきては男の傍らに寄り添うようになったのは随分と前からで、理由というものも良く分かっていない。
ただ、この男の隣は何の雑音も無く、居心地が良かった。
そしてその空間の中心に居る男は日々、変わらずに俺を受け入れる。
自身の居場所等を求める程、俺は軟弱では無かったのだが、この安心感を得てしまったら最後、離れ難くなってしまった。


「……七夜、起きているか」

「……ん?……んー……」


不意に掛けられた低くも柔らかな声にウトウトとしていた意識のまま、適当に返事をする。
そんな俺の返答に男が苦笑した気配がして、髪の毛が撫でられる感覚がした。
男の掌は何時でも熱く、此方に緩慢な動作で触れてくる。
其れは恐らく男が傷つけたり、怖がらせたりしない為に身に着けた自然の動きなのだろう。
俺は撫で摩っていく掌の温かさを快く思いながら、その掌に目を伏せたまま頭を擦り寄せる。
すると男が撫でていた掌を動かしたかと思うと、此方の頬に触れてくるのを感じた。
スルリと撫でていく手付きに寝ぼけ眼を擦りながら開くと此方を覗き込んできていた男と視線が絡む。
恐らく俺以外には見せないであろう男の表情に心が和んだ。
だから俺は寝ぼけていたのもあり、男に微笑みを返すと一度驚いた顔をした男が頬に添えていた手を此方の肩に伸ばし、其処を掴んでくる。
そして、男の方に身体を向けさせられたかと想うと、真剣な表情をした男がその深い色を湛えた隻眼で俺を見つめてきた。
今までこんなにも真剣な顔で見詰められた事が無く、どのような反応を返せば良いのか分からない。
いつものように冗談を言おうかとも思ったが、上手く言葉が見つからずに次第に頭が不安からか眠りから現実へと近づいていく。


「軋間……?」

「……七夜」

「どうした?」


俺の言葉に暫し沈黙していた男は、意を決したようにその唇を震わせ、小さく掠れた声で囁いた。
其れに呼応するように春の温かな陽射しと、風が互いの髪を揺らす。


「……お前が好きだ」

「……は……」


漸く発せられた男の言葉に一拍、理解が遅れる。
好き、とはどのような意味なのだろう。
確かに嫌われていない自信はあった。
ただ、其れをこうして男に直接言われた事はなく、目の前の男は俺の反応を待っているようだった。
俺は自分でも野暮だと思いつつも、確認の為に肩に触れている男の手に己の手を寄せ、温かな其処に触れる。
すると普段はけして何事にも動揺を示さなさそうな男が微かに、安堵した表情をしたのが見えた。


「……その、好きっていうのは……あー、……えっと、……」

「……愛している、と言えば分かりやすいか」

「!?……あ……愛してるって……お前……」

「……この感情を言葉でどのように伝えたら良いのか分からないが、やはり言うのなら其れが一番適切だと思う」


照れ臭そうにしながらも真っ直ぐに向けられた視線と言葉に、身体が嫌になるほど熱を帯びる。
真面目な顔をして小難しげな書物を常日頃読んでいる癖に、此方を求める言葉は何処までも簡単な表現で、其れは驚く程此方に響いた。
見る見る内に自身の顔が赤くなるのを感じながら、男から視線を逸らす。
これ以上、男の真っ直ぐな視線に晒されていたら変な事を口走ってしまいそうだ。
けれど、俺のそんな思いが男に届く訳もなく、逆に心配そうに此方に顔を寄せてきた男はまるで棲家を無くした獣のような瞳で俺を見据えた。
男のそんな遣る瀬無い顔を見た事が無い上に、更に追い掛けるように此方の耳に聞こえてきた男の囁きが俺の羞恥心を煽る。


「やはり、嫌か……?」

「そんな事は言ってないだろ!……そもそも嫌とか、嫌じゃないとかじゃなくて……」

「……何かあるのか、他に」

「……そう言われると、良くわからないけどさ……」


自分の胸中を探りながら答えた俺の頬を労るように一度撫でた男に俯いていた顔を上げる。
向かい合った男の顔は陰になり薄暗くなってはいるが其れでもハッキリと見え、その顔は相変わらず俺を見守るような微笑を口端に浮かべていた。
俺はその笑みをズルイと思いながらも男に言葉を投げ掛ける。


「其れを伝えて今の俺達の関係が何か変わるのか?……だって変えたいと思ったから言ったんだろう?」

「……変える?」

「そうだよ……このままじゃ何か不満があったから伝えたんじゃないのか」


俺が少し早口でそう言うと、会話の合間にも悩んでいた様子の男が俺の手と触れている方の手を握り込んでくる。
思わず、其処に視線を走らせてから男を見遣ると男が曖昧に笑った。


「不満は、特に無い。ただ、……先程のお前を見て誰かに遣りたくないと思った」

「……」

「更に欲を言うならば、お前にもう少しだけ深く触れたい。そして出来るだけ多く」

「……其れは、……つまり、まぁ、……うん……」


男の発した言葉を改めて言い直す必要も無いのに言い直そうとして口を噤む。
このままだと心臓が動き過ぎて死んでしまうかもしれない、と柄にも無く感じた。
触れたいだなんて、直接的な表現を男の唇から聞く羽目になるとは思っていなかった上に掴んでいた手を絡めてくる男に抵抗も出来ない。
元々、側に居るようになってからはただの友人以上の触れ合いじみた事はしていたがまるで恋人同士のようなこんな触れ合いはした事が無かった。
わざわざ男が俺にこうして言葉を差し出し、触れてくるということはこのような触れ合いを男は今まで求めていたという事だろう。
―――そんな素振りなど見せた事も無い癖に。


「七夜」


低く甘い声で耳元に名を注ぎ込まれ、其れだけでゾクゾクとした痺れが体を包む。
そのまま繋いだ手を引かれ、顔を近付けられた。
けれど男は至近距離のまま戸惑う俺を気遣うように呟く。


「逃げるならば今しか無いぞ」

「……逃がす気なんてあるのかよ……」


無いな、と微かに笑いながら囁いた男が口付けてくる。
一度だけだと思っていたら軽い接吻を何度も繰り返され、思わず、身体が逃げようとしてしまう。
しかし其れすら押さえ込まれ、薄い唇が遂に顔中に落とされるのを黙って受け入れた。
脳内がグチャグチャに掻き乱され、ドロドロになったのを全て掬い上げられる感覚に身が焦がされる。
今まで感じた事の無い感情に自然と瞳に羞恥で透明な膜が張った。


「……七夜、……ななや……」

「ん、……う……もう、良いって……きしま……分かったから……」

「……すまない……大丈夫か?」


もうこれ以上されたら本当に可笑しくなってしまうと懇願するように囁くと慌てたように顔を離した男がぐったりとした俺の身体を支える。
慣れていないわけでもないのに男にこうして軽い接吻をされただけで息苦しい位胸が高鳴るのは何故なのだろう。
普段は禁欲主義にも見える男が俺を求めているのが嫌というほど分かって、それがまた此方を混乱させた。
そして何よりもこうして男に口付けられ、求められるのが気持ちよく、もっと奥深くまで触って欲しいと願ってしまう俺自身が 居て男としての矜持が揺らぐのを覚える。
逞しい胸板に顔を当てられ、あやすように背を撫でられるのは男として良いのだろうか。
そんな事を考えてみても、結局衣服越しに男の鼓動が伝わってきて何も考えられなくなる。
この男の全てが俺を求めているならば、俺は全てを捧げてもいいのかもしれない。
何時もならば馬鹿馬鹿しいと一蹴するような思考に染まっていると分かっていても、堅牢な腕から逃れる術も無く、寧ろ もっと強く抱きしめてみて欲しいと考えてしまう。


「……平気だ」

「そうか……、……お前に拒否されずに済んだ事を感謝している」

「感謝って誰にだよ……」

「其れは分からないが……ただ、隣に居るお前にずっとこうして触れたかった」


互いに互いの隣を居場所として認識した時点から俺はこの男に恐ろしい程愛され、認められていたのだと初めて理解した。
余り変えない表情の下でどれだけの葛藤がこの男を揺さぶっていたのだろう。
俺は今すぐ此方を襲わんばかりの男の激情を目の当たりにして、心底この男を愛おしいと思った。


「軋間」

「……ん?」

「………俺もアンタの事、好きだよ」

「……」


掠れてしまっていると分かる声で男に己の気持ちを伝える。
すると黙りこくってしまった男が俺を抱きしめる力を強め、首元に顔を寄せた。
言葉も出てこないらしい男の髪に手を這わせ其処を撫でると癖のある髪が指先に絡む。
俺を驚かせた礼を此れで少しは出来ただろうか。だとしたらお互い様だ。
願った通り強く抱きすくめられた俺は黙ったままの男の腕の中でひっそりと笑った。



-FIN-






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