揺籃歌




ザラザラとした感覚が全身を包む。
先の見えない霧の中をその不快な感覚から逃れるように進むが、足元がまるで水飴のように溶けて絡み付いてくる。
此処は何処だ、と脳内で呟くのを聞き咎めたかのように頬を何か冷たい物が掠めた。
しかしそれでも必死に脚を動かすと、僅かではあるが進んでいるようだった。
そしてふと、視線の先に何か2つの棒のようなものが見えた。
其れに近づきながら、目を凝らすと其れは倒れ伏せた状態で投げ出された二本の脚だった。
見知ったその造形に胸が嫌な音を立てる。
そのまま次第に晴れていく霧の中でその脚の持ち主を探ろうと思わず手を伸ばすが急激に此方を奈落へと連れ込もうとする速度が増した。
だが、それでも赤い金魚のような着物を纏っているらしいその人物に触れたくて腕を千切れんばかりに差し出す。
そうしてやっと、其れに触れられた途端にオレが触れた部分からその脚が一気に赤い炎を噴き出して燃え落ちる。
オレは呻きにも似た悲鳴をあげ、その火を消そうとするが触れれば触れる程に脚が炭と化し、オレの身体は沈んでいく。
此れは、悪夢だ。其れも酷く質の悪い。
そう理解していながらも何時か目の当たりにしそうなその光景から目を逸らせないまま無情にも体が引き摺られるのを受け入れるしか出来なかった。


□ □ □


飛び起きそうになるのを抑えながら体を起こす。
仄かに温かい布団の中で普段はどちらかといえば高い体温のオレの身体が嫌に冷めていて、思わず隣に居る七夜の身体に手探りで触れた。
確かに其処にある生温い肌と規則正しく聞こえる寝息に、揺れていた思考が緩やかに正常に戻るのに安堵しながらそっと溜息を吐く。
すると触れられているのに気がついたのか、隣で眠っていた七夜が掠れた声で小さく呟いた。


「……きしま?」

「…………済まない、起こしてしまったな」

「……いや……」


次第に普段通りの声になってきた七夜に内心、悪い事をしたと思った。
恐らく声の調子で何かあった事を勘付かれてしまったのだろう。
他の人間になら幾らでも取り繕える自信があるが、七夜に対しては幾らこちらが誤魔化そうとしても大抵の事は無意味だ。
其れはオレと七夜が共に居る年月の長さの証なのだろうが。
少しだけ離れていた七夜が触れていた手を掴み、此方に擦り寄ってくる。


「……どうした?」

「……」

「……声が、震えてる」


暗がりの中、静かに告げられた言葉に何も言えなくなる。
ただの夢だと言うのにこんなにも動揺するのは本気で失いたくないからだ。
分かっていた筈なのに、改めて認識させられ、すぐ傍らに七夜が居てくれる事がどれ程の奇跡なのかを思い出した。
オレはそろりと布団の中に体を戻し、掴まれていた手を離すとその細い身体を抱き寄せる。
何の抵抗も無く胸元に収まった七夜が此方の脇を潜らせるようにして背中に手を這わせた。
浴衣越しにも伝わる七夜の指先の造形に心地良さを覚える。
そしてその手がゆるゆると背を撫でていく感覚に吐息が洩れた。
庵の外は昼から霧雨が降っていて、今も降り続いているようだ。
当然、庵の中も何処か湿っぽく、こんな夜だからこそあんな夢を見たのかもしれなかった。
あの檻の中も雨が降る夜は湿っぽく、一層陰鬱な気配を漂わせていた。
当時は其れに対してそのような感想を抱いた事も無かったが、今になってそれが理解できるという事は少しは人間に近くなったという事だろうか。
そんな事を思っていると背に這わされた掌の温さと共に七夜の柔らかな声が聞こえた。


「……子守唄でも歌ってやろうか?」


落ち着いてきたのが分かったのか、何処か笑いを含んだその言葉に此方も可笑しさを覚える。
オレは七夜を抱き寄せた手を動かしその髪を一度撫でた。
すると意外だったのか驚いた様子を見せた七夜が小さく笑ったのが聞こえる。
七夜のけして高くは無いが玲瓏として、妖艶にも聞こえる声での子守唄を聞けるならきっと良い眠りに落ちる事が出来るだろう。


「おやおや、冗談だったんだが……良いぜ、可愛い鬼の坊やに御歌を聞かせてあげよう」


そう言った七夜が一度軽く咳払いをした後、オレの背に這わせていた手を規則正しく叩きながら小さな声で囁くように歌を紡ぐ。


「……ねんねんころりよ、おころりよ」


雨の音と混ざって聞こえるその想像以上に耳触りの良い音と背を叩かれる動きに先程まで見ていた悪夢が遠退いていく。
甘え過ぎていると思いながらもこうして己の弱い部分を晒せるのは七夜にだけだ。
そして腕の中に居る七夜がオレの脚に脚を絡めてくる。


「……坊やは良い子だ、ねんねしな」


次第に瞼が自然と落ちて、急激に眠気が襲ってくる。
―――このまま何も考えず、七夜の腕に抱かれたまま眠ってしまおう。
そうすればもう、あの様な夢は見ずに眠りに落ちる事が出来る筈だ。


「……坊やのお守りは何処行った……」

「……」

「…………もう寝たのか?」


七夜の声が遠くに聞こえ、答える事も出来ずにいると額に何かが触れる感覚がして背に這わされた手の動きが止まるのを理解する。
そうして微かな欠伸が聞こえた。


「……お休み、軋間。次は良い夢を」


眠たそうな声でそう囁かれ、七夜が胸元に顔を擦り寄せてくる。
オレは其処でどうにか繋ぎ止めていた意識が温かな闇に包まれるのを感じ、抵抗をする事も無く七夜と共に眠りの谷へと沈んでいった。



-FIN-






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