アスチルベ




「よう紅赤朱、また会ったな」

「……お前が飽きずに来ているだけだろう」


青い学生服を着た餓鬼がオレの目の前に立ち塞がりそう囁くのを見上げながら呟くと餓鬼は不敵に笑った。
森の中でも開けた場所にあるこの巨木の根元はオレの気に入りの場所だったのだが、どうやって嗅ぎ付けたのか獣じみた餓鬼がやってくるようになって随分と経つ。
何時もいつも書物を読んでいる時や瞑想をしている時を邪魔するかのようにやってくる餓鬼に煩わしさを覚えながらも追い返しても必ずやってくる事に少しだけ可笑しみを感じていた。
しかし其れを表に出せば恐らく餓鬼が尻尾を踏まれた猫のように怒り出すのは想像に易い。
だから普段同様に無表情を努めながら手に持っていた書籍に栞を挟んで上着の衣嚢にしまい込むと両手を後ろに回して立っている餓鬼の視線を受けながらゆっくりと胡座を掻いていた脚を崩して立ち上がる。
どうせこの餓鬼は戯れのような仕合を望んでいて、一度闘ってやれば何時も満足するのか風の様に帰ってしまう。
どういう行動原理に基づいているのかは分からないが、ごねるよりも先に闘った方が楽だと理解したのは早かった気がする。


「……アンタだって闘うのは好きだろう?飽きないのはお互い様さ」

「相変わらず良く動く口だな。闘いたいならば、早く構えろ」

「ったく、せっかちな男は嫌われるぞ」


そう言いながらも笑いながら得物を取り出した餓鬼は鋭く砥がれた刃先を柄から取り出すとその刃先の出た短刀を逆手で構える。
だが何時もと僅かに餓鬼の表情や雰囲気が異っているような気がして内心、疑問に感じた。
何を企んでいるような、そんな雰囲気だ。
ただ、其れがどのような事なのかオレには判断がつかず、敢えて探る事を放棄する。
もしも何かされそうになっても、拒絶すれば良いだけだ。
オレは自身の纏っていた上着を叢に脱ぎ落とすと意識を餓鬼に向ける。
本気では無いが、両手が熱でチリつく感覚は独りでは味わえない感情を呼び覚ます。


「たまにはアンタから掛かっておいでよ、……何時も俺からだからさ」


一度得物を振った餓鬼がクスクスと笑いながらそう囁く。
やはり何か企んでいる、と思いながらもオレは何を言っても意味が無い事を理解している為に黙ったまま餓鬼に向かって叢を踏み締め駆けた。
耳横を通り抜ける風の音を聞きながら、利き手を握り込み前に突き出す。
充分に速度を持った其れを身体を捻り避けた餓鬼がオレの腹に向かって膝蹴りをしてくるのをもう片手で守りながら直ぐ様伸ばした手で捕まえようとするが餓鬼が柔軟性を駆使して逃れてしまう。
そうして餓鬼の唇に笑みが浮んだのが見え、咄嗟に拙いと感じ、体を離そうとするが餓鬼が何かを此方の腕に貼り付けてくる。
だが、そのまま逃れようとする餓鬼の手をどうにか掴むとバチバチという音と共に貼り付けられた符がオレと餓鬼の片手を同時に繋いでしまう。
拘束符か、と思ったオレがじとりとした視線を餓鬼に向けると慌てた様子の餓鬼が此方から視線を逸らしているのが見えた。


「……」

「……」

「………はは、失敗した」

「おい」

「……まぁ、ちょっとした冗談のつもりだったんだが……こうなるとは予想してなかった」

「……他に何か言う事があるんじゃないのか?」


餓鬼の口調から本当に冗談半分だったのだろう事は理解出来たが、だからと言って当然納得出来るものではない。
オレは手の甲を向かい合わせにしながら繋がれた手を持ち上げると必然的に一緒に持ち上がった餓鬼の手を見つつ囁いた。
すると漸く此方を見た餓鬼が、言い淀みながらも言葉を紡ぐ。


「悪かったよ。ただ、ちょっとばかしからかってやろうと思っただけなんだ」

「その悪戯に自分も掛かっていたら無意味では無いのか」

「勿論此れは計算外さ。アンタがまさか気が付いてるとは思ってなかったんだよ」


気が付いていた訳では無かったが、其れは言わなくとも良いだろうと黙ったまま餓鬼を見つめると此方の視線の意図を勘違いしたのか視線を繋がれた手に向けた餓鬼が小さく囁いた。


「大体、効果はアンタでも数時間位だから我慢するしか無いな……無理矢理引き剥がそうとしたら拙いとか言ってたし」

「そもそも此れは誰が作ったものなんだ。まぁ、こんな芸当が出来る者など限られているが……」

「……恐らくアンタの考えた通りの奴が作ったので間違いないよ」


刹那、頭の中に常に笑顔を浮かべている赤髪の女人の姿が映った。
其れを察したのかそう言った餓鬼は溜息を吐いてからもう片手に持っていた刃物の刃先を仕舞い、其れを衣服に仕舞い込む。
この状況下では戦うのも無理だと判断したのだろう。
―――しかし、数時間もコイツと共に居た事が無い為に今から気が重い。
そんな事を考えていると随分と普段より大人しくなっている餓鬼に気がつき顔を向けると怪訝そうな顔で此方を見返してくる。
考えてみれば、会うときは殆ど此方に殺意を持った餓鬼の姿しか見た事が無いものだからこうして間近できちんと餓鬼の顔を見たのは初めてかもしれなかった。
これだけ何時も大人しければ、少しは楽なのにとそんな事を思う。


「……なんだよ、そんな見詰めたって俺にも解決出来ないぞ」

「そんな事は分かっている」

「そうかい。なら、別に良いんだけどさ」


何処か拗ねたようにそう言った餓鬼が静かに顔を逸らしてしまうものだから絡んでいた視線は解けるが、手首で繋がれた手は相変わらず離れる事は無い。
どうしたものかと逡巡するのは一瞬で、身体に降り注ぐ日の光とは異なり吹きつけてくる風の冷たさに庵に戻るのが一番だと結論を出す。
そしてそのまま地面に置いた上着を取ろうと歩み出すと隣に居た餓鬼が驚いたのか声を上げた。


「おい!なんだよ、急に動くな」

「……上着を取る」

「動いてから言ったってしょうがないだろうが……全く……」


ぶつくさと言いながらもついてくる餓鬼を引き連れ、上着を拾うとそのまま庵に向かって歩み出す。


「え?何処行くんだよ」


すると、此方の腕を引いて立ち止まった餓鬼がそう言うので振り向いてからぶっきらぼうに囁いた。


「庵に戻る。此処は寒過ぎるだろう」

「…………良いのかよ、俺に住処を晒しちまって」


ふ、と笑ってそう言った餓鬼の言葉には答えずに前を見て足早に歩き出すと餓鬼が戸惑いながらも着いてきた。
そして普段通りに森を抜けようとするが、歩幅が違う為に隣で足早に歩く餓鬼に気が付き速度を緩める。
其れに気が付いたのか不貞腐れた様子になった餓鬼は其れでも文句を言わずにオレの隣に着いてきた。
恐らく餓鬼は寒さには強くないものだから、オレの案を飲むしか無いと思ったのだろう。
互いに無言のまま舗装されていない山道を歩んでいく。
何時もならば必要以上に言葉を発する癖に何も言わず、そうして殺意すら 見せてこない餓鬼に違和感を感じるが敢えて煽る必要も無いだろう。
ただ歩幅だけは気をつけつつオレはひたすら前を向き庵へと向かった。



□ □ □



やっと庵にたどり着き、押し合うようにしながら狭い引き戸を抜け中に入り込む。
暖を取る為の火もついていない為に中は冷えていたが風から身を守ってくれる 壁があるだけで大分違うのか隣で餓鬼が小さく吐息を洩らすのが聞こえた。
そして土間を抜け、板の間に腰掛けると隣に居る餓鬼が片手で靴を脱ごうとしているのに気がつき 声を掛ける。


「やり難くないのか」

「ん?」

「言えば良いだろう」

「別に片手でどうにかなるんだから言うのも面倒だろ」


結局オレの言葉を無視して器用に片手で靴紐を解いた餓鬼はもう片方の 紐も解き靴を脱ぐ。
そしてオレも同じように足裏を置いておいた手ぬぐいで清めてから餓鬼を引き連れるように庵に 上がる。
こうして誰かをこの庵に上げたのは初めての事で自身の空間に他人が居る のは不思議な心持がした。


「お邪魔します」

「……嗚呼」

「……」

「悪いが先に火を点けるぞ」


律儀にもそう言った餓鬼に一拍遅れてから答え、案内するように手を引きながら 部屋に入り込む。
普段居間として使っている部屋に入り込むと片手に持っていた上着を畳に置いてから囲炉裏に火を灯す準備をする為に餓鬼には悪いが共に部屋の端に積まれている薪の前まで着いてきて貰う。
そのまま薪を何本か取るとしゃがみ込みながら囲炉裏の傍に寄り其れを囲炉裏に置くと、片手が繋がれている為に動きにくいが此方の動きに餓鬼が合わせてくれている 為に余り時間も取らずに火は付いた。
揺ら揺らと動く火を見ながらオレは自身の傍にあった一枚の座布団を引き寄せると餓鬼の方に其れを押す。
そして静かに畳の上に座ると戸惑うようにした餓鬼がオレの出した座布団の上に座った。
互いに語る言葉も無く、火を見詰め続けていると隣に居た餓鬼が動いたのを感じ視線を向ける。
するとオレの視線を感じたのか瞬きをした餓鬼が繋がれていない方の手で自身の髪を掻きあげたかと思うと困ったような笑みを見せた。
今までこんな餓鬼の表情を見たことが無く、内心驚きを覚えるが其れを 表情に出さないようにしながら餓鬼の言葉を待つ。


「なんか……上手くいかないもんだな」

「……何がだ」

「何時もならもう少し無駄話が出来るんだが、アンタとはこういうの、……慣れてない」


そのままため息を吐いた餓鬼が囲炉裏に視線を向ける。
その横顔を見ながら、この餓鬼も随分人間らしくなったとオレが思う事でも無いがそんな感想を抱く。


「……慣れないのは仕方が無いだろう。オレだってお前とこうして対峙しながら話をするのは初めてなのだから」

「……」

「どうせ後数時間は共に居るんだ、其の間に慣れるだろうさ」

「……そうだな」


自分でもらしくないと思いながらそう囁くと囲炉裏から視線を外し餓鬼が嬉しそうな笑みを見せた。
本来ならば、餓鬼にされた仕打ちに怒っても何ら可笑しくは無い。
けれど今更怒る気にもなれず互いに触れ合っている手の甲の温度を感じながら再び囲炉裏に目を向ける。
そうして聞かねばならない事を思い出し、前を向いたまま言葉を紡ぐ。


「聞きそびれていたが……何故お前はこのような事をした」

「言ったろ、ただの悪戯だって」

「聞き方が悪かったな……此れをして、お前はどうしたかったんだ」

「……其れは……」


急に黙り込んでしまった餓鬼に違和感を覚え、再び視線を向けると何故か顔を赤らめた餓鬼が空いた片手で自身の口元を抑えていた。
まさかのその反応に意味が分からなかったが敢えて顔を覗き込むようにすると餓鬼が逃げようとする。
しかし手が繋がっている為に、逃れられる筈も無く顔を逸らした餓鬼を見据える。
餓鬼の無言の抵抗が続く中、オレは自身の加虐心が煽られるのを覚え態と餓鬼の名を珍しく呼んでみる事にした。


「七夜」

「!?……いきなり名前、呼ぶな……!」


畳の上で跳ねた餓鬼の言葉に答えず、更に追求してみる事にした。


「……何故顔を赤らめている」

「違うって……アンタがいきなり……」

「オレの問いに答えていないぞ。……答えろ」


空いている手で此方の胸元を押してきた餓鬼の細い手を掴むと出来るだけ低く囁くと微かに震えを見せた餓鬼が此方を見上げてくる。
餓鬼のこの表情は不可解だが悪くはない。
そして嫌悪から来ているわけでは無い事はオレでも分かる。
暫く確りと見つめていると色素の薄い瞳を瞬かせた餓鬼が観念したように俯いてから囁いた。


「……何時もアンタ、無表情だろ」

「……」

「……だから、……違う顔も見たかったんだよ。でも……戦う事しかした事ないし……」

「……は……」

「でも、冷静に今考えると……凄い馬鹿みたいな話だろ……だから……」


恥ずかしくなってきた、と呟いた餓鬼は耳までほんのりと赤くしていて其れが本心なのだと悟る。
人間に近くなったと思っていたが、オレが想像していたよりも一層可愛げも身につけたらしい。
餓鬼のこのような顔はオレにだけ向けられているのだ、と思うと正直、悪い気はしない。
勝手に唇に乗る笑みもそのままにオレは俯いている餓鬼に囁いた。


「……お前も随分、回りくどい奴だな」

「え……」


オレの言葉に顔を上げた餓鬼は一瞬、呆けた表情を見せ、赤くなっていた頬をより一層赤らめてから此方を凝視してくる。
そのまま、更に追い込むように囁いた。


「……言えば良かっただけだろうに」

「……其れが出来たら苦労しないだろ……!」


必死の形相でそう反論してきた餓鬼はそう言ってから仕舞ったという風な表情を作る。
そして握られている手を離させようとしているようだったが、想像よりも冷たい手を離すのはどうにもつまらなく感じられて、そのまま逃がさないように捕まえ直す。
無言でそれに抵抗してくる餓鬼は最終的に一度溜息をついてからポツリと呟いた。


「……離せよ……」

「嫌だと言ったら?」

「お前、調子に乗るなよ……別にお前に対して完全に殺意が失せた訳じゃないんだからな!」

「……そんな事は、重々承知している」

「……なら、なんで……」


その瞳の奥に緩やかな殺意を滲ませた餓鬼にそう言うと、直ぐに困惑した表情を浮かべた。
なのでオレは自身が思っている事をただ素直に唇に乗せる。


「……お前の手が冷えているからだ」

「……え?」

「こうしておけば、少しは温まるだろう」

「……馬鹿か、馬鹿なのか、アンタ……なんで、……もう、……クソッ……」


悪態をつきながらも、羞恥心の為か餓鬼の声は掠れていた。
ふと、もしかしたらオレはこの餓鬼はことを好いているのかも知れないと思う。
そうでなければこんなに他人に対して話す事も無い上に、少し意地の悪い事をしてしまう事も無い。
好いている、というのがどの程度のモノかまでは己でもまだ確りとは分からないが少なくとも餓鬼への興味はある。
そして、オレと餓鬼の思考が多少異なっていたとしてもこの餓鬼の反応は自惚れたとしても問題無いのではないだろうか。
連連とそんな事を考えていると、掴んでいた手が微かに震えているのに気が付き、意識を戻すと俯いた餓鬼が聞こえないくらいの声音で囁いた。


「……もう、勘弁してくれ……軋間……」


普段は『紅赤朱』としか呼ばない癖に、初めて餓鬼の唇から己の名が呼ばれ、ゾクリと背筋が粟立つのを感じる。
このままではどうにも可笑しな方向に進んでしまう、とその手を離すと直ぐに引っ込めた餓鬼がオレとは反対側を向いてしまった。
どうしたものかと思いながらもオレは近くに置いた上着を手を伸ばして引き寄せ、その中から仕舞い込んだ書籍を取り出すと、その上着を餓鬼の肩に引っ掛けてやる。
そして此方を見返してきた餓鬼を無視して書籍を開くと戸惑うようだった餓鬼は空いている手で肩にかかっている上着をしっかりと掛け直したのでそのまま書籍を片手で開け、先程までの続きを読み始める。
隣で餓鬼が困惑しているようだったが、暫くそうしていると諦めたのか静かに吐息を吐き出した餓鬼が大人しくしているのが分かった。
互いにこの状況で可笑しくなっているようだ。
オレは大して頭に入って来ない文字を追いながらそう思いつつ、囲炉裏の中から聞こえる微かな音に耳を傾けていた。



□ □ □



ふ、と肩に重みが掛かるのを覚え、知らぬ間に読み込んでいた書籍から目を離すと隣に居た餓鬼が微かな寝息を立てて寝ている事に気がつく。
そしてその肩から上着が落ち掛かっているのが見え、なるべく体を動かさないように書籍を閉じ、畳の上に置くと空いた腕を伸ばして其れを直してやる。
しかしその動きで目が覚めたのか瞼を開けた餓鬼が幾度か瞬きをしたかと思うと驚いたのか身体をビクつかせた。


「……すまん、眠ってた」


そうして掠れた声でそう言った餓鬼は複雑そうな表情をしたかと思うと片手で髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。
オレとしてもこんな風に餓鬼が眠りこけるとは思ってもいなかったが、疲れているのかもしれないと言葉を返す。


「別に気にしていない、……疲れているんだろう」

「いや、疲れてる訳じゃないんだが……まぁ、……そうかもな」


まるで自身を納得させるようにそう言った餓鬼が無意識に両手で顔を撫でた。
其処で漸く繋がれていた手が離れているのに気が付き、餓鬼を見ると同じ様に此方を見返している餓鬼と視線が合う。


「……気がついてたか……?」

「……いや……」


餓鬼の言葉にそう返し、互いに黙り込んだ。
そして思わずといった様子で餓鬼が噴き出したのに釣られるようにオレも自然と口端が上がる。
まさか二人して気が付かないとは考えもしなかった。
互いに一頻り笑った後、餓鬼がその瞳に残った雫を指先で拭うと肩に掛かっていた上着を畳みながら此方に差し出してくる。
其れを受け取ると半ば慌ただしく片手をついて立ち上がった餓鬼が此方を見つめてきたかと思うと静かな声で囁いた。


「……とりあえず帰るよ、長居して悪かったな」

「……そうか」

「……うん……」


どう言葉を掛ければ良いのか分からず、見つめ合い黙り込む。
散々会って戦っていたというのに今日までこんなにも長く共に居た事も無ければ話したことも無い。
オレは手に持った上着を畳に置くと餓鬼と同じ様に立ち上がる。
そして自身の中で言葉を探りながら語り掛けた。


「……送るか?」

「!……いいよ、一人で帰れる」

「では……戸口まで行こう」


餓鬼が何かを言う前にそう囁くと餓鬼は一瞬、唇を開きかけたがすぐに其れを閉じる。
オレはそんな餓鬼の前を行き、障子を開けると炊事場がある土間に向かう。
俺の後ろに付き従うようにしている餓鬼の足音は殆ど聞こえなかった。
そのまま土間に置いてある下駄を突っ掛け、板の間に座った餓鬼が靴を履くのを見守る。
丁度、俯いた餓鬼の手触りの良さそうな髪が降り、青い学生服の間から白く滑らかそうな項が見え、思わず視線を逸らしてしまう。
しかしオレがそんな所を見ていたなど考えてもいないだろう餓鬼は靴を履き終わったのか立ち上がったかと思うと真っ直ぐ此方に視線を向けてきた。


「どうした?」

「……何がだ?」

「?……何も無いなら、良いけどさ」


いきなりそう問われ、咄嗟に誤魔化すと餓鬼は微かに首を捻る。
随分と敏いな、と内心舌を巻きながらも押し合うように入り込んだ木造の扉の前に移動し、其処を開ける。
すると夕刻になった事もあり、寒さが増していた。
そしてぽつりぽつりと雨が降り出している。
オレは戸口の側に立てかけていた赤い唐傘を取り、同じ様に外を確認していた餓鬼に其れを差し出す。
語らずともオレの意図がわかったのか、餓鬼が首を横に振ってから言葉を紡ぐ。


「……いいよ、大した雨じゃないし」

「良いから持って行け。……それとも送って欲しいのか?」

「!……違うっての。……傘、借りたらアンタのが無くなるだろ」

「暫く出掛ける予定も無いから問題ない。……其れに直ぐに返しにくるだろう?」


オレの笑みながらの言葉に、言葉を詰まらせた餓鬼にそのまま更に呟く。


「……もう道筋も分かるだろう、次は直接来ると良い」

「……」

「……今度は茶くらい用意してやる」


そう言いながら傘を餓鬼の胸元に押し付けると微かに目元を染めた餓鬼が傘を受け取った。


「……アンタ、俺をからかって楽しんでるだろ」

「……さぁ、どうだろうな?」


ムスッとした様子でそう呟いた餓鬼に苦笑しながらそう答えると餓鬼は俺の横をすり抜け、引き戸を潜る。
そうして赤い傘を開いた餓鬼は一歩踏み出しながら此方に振り向いたかと思うと、態とらしく一度舌を出してから呟いた。


「アンタ、夜間に誰か知らない奴に首を斬られないように充分に気をつけろよ!」

「いきなり随分と物騒になったな……、まぁ、気をつけておこう」


そんな事を言いながらも餓鬼は笑っているのでオレも軽い調子で呟く。
ポツポツと降り続く雨は餓鬼の持つ赤い傘に降りかかり、その身を守っていた。


「じゃあ、この傘は有難く借りていくよ。……なるべく早く返しに来る」

「……嗚呼」


待っている、とは言えなかったが餓鬼は理解したのか、くるりと踵を返し、此方を振り向く事なく森の中を進んでいく。
その身体をオレの傘が守っている事に満足感を覚えながら、初めてこうして餓鬼と別れの言葉を言い合った事に驚きを感じた。
会っている回数は少なくない筈なのに、互いの別れすら見送った事が無かったのだから。
だが、様々な事を理解した今日から何かが変わる予感がして、オレは青い服を着た餓鬼の上で花開いている赤い傘の影が見えなくなるまでその姿を見つめていた。



-FIN-






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