青頭巾


※食人表現あり・二人とも死亡ネタ



彼に似た彼ではない男はその瞳を蒼く燃やして此方を見据える。
しかしその瞳にある感情は恐らく、哀れみの念。
もはや奇跡的に残った一欠片の理性で考えているオレにすらその感情は痛い程に伝わり、それがまた苛立ちと共に救いに感じられた。
自身の髪が風に嬲られ、視界の端に映る。
それは男とは対照的に紅く燃え上がり、きっともう暫くすれば全てが赤く染まるのだろう。
制御出来るなどとは思っていなかったが、彼の事を考えている間だけはオレは鬼ではなくただただ狂ったヒトとして居られた。
けれども、狂ったヒトはもう人にはあらず、鬼なのかもしれない。
その狂気が多方に向くか、個人に向くかの違いだ。


「……悪いな、紅赤朱。お前には此処で終わって貰う」


彼と同じ構えで、短刀を握った男はまるで独り言のようにそう言った。
彼との約束は守れなかったが、先に彼が約束を破ったのだからきっと向こうで笑って許してくれるだろう。
その逝き先が例え無間地獄だとしても、この先、鬼として生きるくらいならば此処で終わった方がマシだ。
そう考え、オレは体から力を抜く。
すると構えていた男が驚いたのか息を呑んだ。
そうして、一度溜息を吐くと今度は此方に声を掛けてくる。


「……そうか、アンタ、本当にやな奴だよ。……黄泉路に送ってやるのが俺になっちまったけど、其処は許せよ?」


わざとらしくそう言いながら舌打ちした男は、もう発する言葉も無いのか少し下ろしていた刃を掲げた。
これで、本当に終われる。
オレは今までの惨たらしくも何処か甘美な記憶を噛み締めながら此方に駆け寄ってくる男を遮断するように目を伏せた。



□ □ □



『ごめんな、約束……守れそうにない』

『何も言うな、七夜。……絶対に助かる道はある』

『……軋間……お願いがあるんだ……』

『ダメだ、七夜。……ダメだ……』

『俺を、愛してくれた……事……感謝してる。だから、……俺を忘れないでくれ』

『……勿論だ。お前を忘れるわけがないだろう』

『忘れないでくれ、………でも……死ぬなよ。……俺を、追わなくて良い……俺以外に殺されるな……』


心の中を見透かされ、理不尽な約束に息を呑む。
忘れないでいてくれと願いながら、死する事を許さないこの子供は本当になんて残酷なのだろう。
けれど俺が言葉を発する前に布団の中に居る子供は目を伏せ、まるでただの眠りについたかのようになってしまった。
そうして、その身体が細かな粒子となり肩からゆっくりと消えそうになるのをオレは無理矢理力を流し入れ、押し留める。
七夜の意思が無くなってしまっても、身体をこうして残しておく事は出来る筈だ。
ならばオレは自分の全てを使ってこの愛しい存在を手放さない。
そうすればきっと何時か、七夜は戻ってくる。
信じれば救われると本気で思っている訳ではなくとも山篭りをする僧侶の真似事をしていた位だ。
僅かにでも期待するのはけして間違っていない筈だと己に言い聞かせる。
そうでなければ今すぐに狂ってしまいそうだった。
既に温もりを無くし始めている彼の頬を撫でる。
その冷たさはもはや此処にいるのが、抜け殻のような身体だけなのだと如実に此方に伝えてきているような気がして、オレは自身の頬に伝わる雫もそのままにひたすら滑らかな肌を擦った。



□ □ □



「……今日は随分と良い天気だぞ」

そう呟きながら、何も語らない七夜の身体を絞った手拭いで拭く。
こんな生活を初めて、恐らく二ヶ月程度経っている。
ただ、時間の経過にも最近は興味が無い為正確な日数や日付は分からなかった。
気を抜けば直ぐ様消えるであろう彼の幻影を抱きながら、次第に自身の感覚が麻痺していく気がした。
七夜はまた目覚めるのだと、今はただ深い眠りについているだけなのだと。
真実から目を背け、現実逃避していると心の底では分かっていても、其れを口に出す事はおろか、七夜を繋ぎ止める力を無くす事は出来なかった。
…………けれどふと、思う時がある。
一体どれだけの時間をこうして過ごすのだろうか。
恐らく永遠に目覚めないだろう七夜の影をこうして抱き続け、そうして全てを 磨り減らす。
いっそ全てが擦り切れてしまえば、何も感じずに済むのだろうか。
オレは着物を肌蹴させて拭いていた七夜の体に直接触れる。
何の鼓動も聞こえず、冷えた体を摩ってみても此方の熱が移る事は無い。


(……何も変わらない、のか)


微かに笑みを浮かべているように見える七夜の顔に顔を近づけ口付ける。
オレよりもかさついた唇の感覚に背徳的な心地良さを覚えつつキチンと 七夜の浴衣を直してから布団を掛けてやった。



□ □ □



頭の中に黒い線が見える。
脳内で墨を手当たり次第に撒き散らしたかのようだ。
外は雷雨なのか時折庵の中にさえ響くような激しい音が聞こえていた。
もう、どのくらいの月日が経ったのか分からない。
けれど布団の中に居る七夜は段々と窶れていくオレとは対照的に何も変わらずに 其処で眠っている。
いや、眠っているのではない。もう、目覚める事は無いのだから。
オレは体を引き摺るようにして七夜の傍に寄る。
そうして静かに頬に手を添わせた。
こんなにも愛しているのに、どうして七夜は目を開かないのだろう。
あの幸福な世界はもう二度と手に入らない。
その事実を改めて突きつけられ、オレは遂に己の中の何かが音を立てて崩れ落ちて いく感覚を覚えた。
自分で命を絶ってしまおうかと何度も何度も考えても、最期の言葉が邪魔をする。


「七夜」


どうしてオレを置いていったのかと呪詛のような言葉を言えない代わりに名を 呼ぶ。
今まで人を愛した事が無かったオレが、其れこそ狂おしい程に、此処に横たわる子供を愛していた。
そんな何よりも愛おしく思える名をひたすらに呼び続ける。


「……七夜、……ななや……」


そう言いながら無意識に七夜の布団の中に仕舞われた腕を手に取り、その甲に口付けた。
そのまま舌を這わせ、五つに分かれた指先まで舐る。
細く形のいい指はオレの髪を慈しむように撫でるのが上手かった。
この体には様々な記憶が宿っている。
勿論、オレとの記憶も、そうして七夜自身の記憶も。
口の中に薬指をくわえ込み、飴のようにしゃぶってみせる。
そうして迷いながらも歯を立てた。
ブツリ、と鈍い音がして口の中に甘い味がする。
ぼたぼたと赤い色が世界に広がって、オレは背中に痺れを覚えた。
この血は本物だ、オレがずっと力と引き換えに保たせていたのだから。
七夜の体に流れていた時のまま何も変わってはいない。だからこそ、こんなにも美味に思える。
一度壊れた箍はもう元には戻らない。
オレは何かに追われるように七夜の体の隅々まで舌先で触れていた。
まるで砂糖菓子のような、甘さを持ったままの七夜の体は何の反応も見せない。
そのまま首筋に噛み付き浴衣の中に手をしのばせる。
死して傍に居る事が許されないのならば、こうしてしまえば良かったのだ。
―――どうして今まで気がつかなかったのだろう。
自然と浮かぶ笑みもそのままに次第に広がっていく赤い池の中で静かに 眠る七夜を貪る。
もう迷いはない、躊躇いも無い。
全てはあの日から決まっていた事柄なのだろう。
どうしてオレは失ってしまっているのに狂えないのだろうとひたすら心の中で考えていた。
もしかしたらオレは冷血なのかもしれないと悩みもした。
けれど実はもう疾うに狂っていたのだ。
自覚はしていなくても、七夜を失った穴は何にも埋められない。
オレは脳内に渦巻く黒い線が一層密度を増したのを感じながら耳の奥に庵の外で鳴る雷 と肉が引き千切れる音を聞いていた。



□ □ □



七夜をこの身に取り込み、数日が過ぎた。
全て終えて直ぐにどうしてこのような事をしてしまったのだろうと思っていた自分はもう何も言わなくなった。
寧ろもっとあれば良いのにとさえ思う。
ふと、町に下りて何かを代わりにしてしまおうとすら脳裏に浮かぶが其れは残った理性が軋んだような音を立てて止める。
何よりも脳裏に浮かぶ七夜が『俺以外を食らうのか』と激昂するように思えてならない。
だからオレは渇望を覚えながらもどうにか今までの日常を繰り返していた。
ただ、オレの日常の大半であった七夜の世話が無くなり何をしていいのか分からない時がある。
そんな時は昔していたようにこうして森の巨木の下に座り込み瞑想の真似をしてみる事にしていた。
今日も同じようにしていたのだが、珍しく来客らしい。
少し離れた場所の空間が絹を裂くように破れたかと思うと、真白な衣装を身に纏った見覚えのある怪猫が現れ出でた。
そうして鈴を転がすような声音で囁く。


「貴方……どうしたの?随分と酷い顔をしているわ」

「……いきなりな言い草だな」

「だって……其れにその髪、……七夜は?……七夜が居たらそんな風にならないでしょ」


久方ぶりに他人の口から発せられる子供の名前に嫌に心がざわついた。
もう子供の全てはオレのモノになったのに、どうして他者がその名を口にするのだろう。
何故、こんなにも直ぐに苛立つのか自分でも分からないまま、その場に佇んだままの白猫に出来るだけ普通を装い声を掛ける。


「髪?……オレの髪がどうかしたのか」

「……七夜は何処」


しかしオレの問いを無視した白猫はその目に疑惑を滲ませながら呟いた。
この森に入った時点で子供の気配が見つけられない事は白猫にも分かっているだろう。
其れでもオレに事実を伝えるという苦行を強いるならば、オレは其れに答えなければならない。
一度深く息を吸い込み、離れた場所に居る猫を射抜く。


「七夜は死んだ」

「!……そんな、わけ無いわ。だって彼はちゃんと魔力供給さえ出来たら……」

「していた。……けれど駄目だった」

「どうしてもっと早く私に相談しなかったの?……そうしたら……」

「……そうしたら?」


白猫の言葉を反復すると、猫は口を噤んだ。
後に続く言葉はもう分かっていた、『意地でも連れて帰ったのに』とでも言うつもりだったのだろう。
其れが分かっていたからこそ、七夜は伝えるなと言っていた。
なんて残酷なのだろうと思いながらも、オレから離れなかった子供を心底愛らしいとも思った。
だから魂も体も誰にも渡さない。


「七夜は死んだ。……だが、オレの中に生きている」

「……どういう意味よ」

「……そのままの意味だ。……装飾も何も無い、そのままの」

「…………まさか……貴方……」


見る見る内に青ざめていく白猫の顔を見ながらオレは歪んだ優越感を覚えていた。
オレのした事を出来るモノは誰も居ない。
何故ならば、オレが七夜と同化してしまったからだ。
ひとつになったものをわけることはにどとできない。
何もかもを理解したのか勝手にえずいている白猫を冷たい目で見ながら小さく囁く。


「……直ぐに帰ると良い。……此処には狂人しか住んでいない」

「……嘘……でしょ……?ねぇ、……貴方、そんな事する人じゃなかった筈でしょ……?」


まだオレの口から希望の言葉が出ると思っているらしい。
けれどオレはその希望を打ち砕く為に低く唸るように言葉を紡いだ。


「……嘘ではない。……奴は何もかも、オレが喰らった」

「……っぅ……」

「アイツは甘かったぞ、……臓腑も手足も目玉も髪の一房でさえ」


そう言って笑ったオレからよろよろと黙って離れた白猫は来た時よりも具合悪そうに しながら此方を振り返らずに消えてしまう。
此れで良い、もう邪魔者は来ない。
オレは満足感を覚えながら再び瞑想という名の追憶を行う為に目を伏せた。



□ □ □



倒れ伏せた先の草叢は何処か暖かく湿っていて、顔だけをあげる。
すぐ傍に男の靴先が見えてもう動かなくなり始めた体を動かした。
そうしてうつ伏せだった体を仰向けにすると此方を覗き込んでいる男と目が合う。
相変わらず青く光った瞳に映る憐憫の情を見て、思わず哂ってしまう。
すると此方を見ていた男が眉を顰めた。


「……ったく、お前ら二人とも迷惑な奴等だよ」


其処で漸く男の顔の中に微かに七夜の面影を見つけた。
そんなオレの思考が読めたのか舌打ちした男がその手に持った刃物を仕舞い込み、呟く。
もう段々と目が見えなくなってくる。
けれど煌々と輝く丸い月だけは随分とよく見えていた。


「悪いけど俺はお前を看取ってやる気は無いから。……アンタの望みを叶えてやっただけ優しいだろう」

「……」

「さよならだ、軋間」


そう言った男はもはや何も言わずにその場を立ち去ってしまう。
脈打つ速度の遅くなる心臓の音を聞きながら、目を伏せた。
この体には七夜が巡っている。
そんな事を考えていると瞼の裏に笑んでいる七夜が見えた。


『……馬鹿な奴だなぁ、そんなに寂しかったのか?』

『……当然だろう』

『そっか。ごめんな……軋間』

『謝っても許さない』

『うん。……じゃあアンタが許してくれるまでずっと傍に居るよ』

『……』

『ずっと、此れからは一緒だ』

『嗚呼……ああ……』


此れが死だというのならば、なんて幸せな最期なのだろう。
全て嘘でこの腕が死神の腕だとしても其れでも構わない。
オレは此方に伸ばされた温かな腕を迷うこと無く掴んでいた。



-FIN-






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