天竺葵に集う




ジリジリとした暑い空気が此方の身体を包んで溶かす。
幻想故に其処まで暑さを感じる器官は発達していないが、それでもここ最近の夏の暴れっぷりは身に堪えた。
けれど、この理不尽な暑さ自体は嫌いでは無い。
脳内すら溶かすような暑さは苛立ちと共に夢焦がれる位に欲しているある男の影を嫌でも思い出す。
しかし、俺がこれだけ焦がれていようともあの男は恐らく其れを認識すらしていないだろう。
それは俺が居るこの檻のような街から離れた凡そ人が住むような場所ではない山奥に男がまるで仙人のように隠れ住んでいるからだ。
会いに行きたいと願えどもどうにも俺の飼い主が其れを許さず、鎖に繋がれている。
別に鎖に繋がれたこの生活も、悪くはない。
人並みの生活、求めれば与えられる品々。
寧ろ、悪夢より這い出た亡者には考えられぬ程の素晴らしい待遇だ。
けれど、何かが。何かが足りない。
少しでも暑さを避けようとコンクリートの壁に背を凭れさせ、影に隠れていた俺は人気の無い裏路地をぼんやりと眺めていた。
こうして脳内が目まぐるしく思考を展開していても、身体はずっと動かず鈍るばかりだ。
日に日に思い出す影は濃くなる癖に、距離は縮まらず、息が詰まる。
ならば考えなければ良いと思いながらも、それが出来ないから俺は人に近くなったのだとも言えた。
亡者が人に近くなって、それで、一体どうなるのかなんて分からないけれど。
ふと、何かの気配を感じ、路地裏で唯一、日が射し込む隙間に目を向けると一匹の揚羽蝶が飛来してくるのが見えた。
つやつやとした黄色地に黒、青、赤の模様が描かれたその姿はまるで俺の事など気にも止めていないのかふわりと地面に降り立ち、その羽をゆるゆると開閉させる。
暗い路地裏の更に一段と濃い俺の影に降り立った蝶は暫くその羽を動かしていたかと思うとピタリと羽を閉じ、休んでいるようだった。
そんな無警戒さに微かに笑みを漏らすが、蝶には伝わる訳もなくあまり見る機会の無い蝶を観察する。
教会にあるステンドグラスのようなその模様は何故にその形に形成されたのかと、不思議と目が引き寄せられた。
世の中というのはどうにも複雑怪奇なもので、不必要だと思われる部分や何故に存在しているのか分からぬようなモノが必要とされるものよりも 遥かに多く存在している。
それら殆ど全てを殺せる『魔眼』を持っている男の不必要な影として存在している俺は正しく不必要なモノだろう。
けれど与えられた役割を全うもしていないまま、俺は今でもこうしてこの世界の底で息をしていた。
存在をしている時間が長いから、こうして考えなくても良い余計な事に思考が向いてしまうのだと舌打ちをする。
今、俺が本気でこの蝶を仕留めようと思えばいとも容易く其れは行われるだろう。
ただ意思を持っているかも分からぬような虫に殺意を向ける程、俺は落ちぶれてはいない筈だとため息を吐いた。
俺がこの体の内に篭る熱情に近い殺意を向けたいのは、ただ一人だけなのだから。


(……紅赤朱、……くれない、せきしゅ)


目を伏せずとも思い出せる、その姿に自然と唇を噛む。
初めは俺は俺の本体に殺意を向けていた。けれど今はあの男の事ばかり考えている。
もしも俺の傍に降り立った蝶のように背に羽があったなら、俺はきっと形振り構わずその羽を広げて男の傍に行くのだろう。
だが俺は生憎と人間の形をしているから其れは不可能だった。
例え夢の中で蝶の姿となり、男の森に行けたとして、其れはまるで無意味な事も分かっている。
俺は奴と渡り合う為の四肢を持って男の元にいかなければならないのだから。
尻ポケットに入れたままの得物に衣服越しに触れる。
この刃で男の首を穿つ事が出来たなら、俺はきっと何物にも変えられない満足感を得るだろう。
そうしてその時、俺は今度こそ地獄の底へと堕ちて這い出る事は出来ない筈だ。
男と殺り合い無傷で済む訳も無く、下手をしたら俺が圧倒的な力に蹂躙されるだけかもしれない。
それでも、そうだとしても、俺は自分でも抑えきれない程の欲求が身体の中に渦巻いているのを感じていた。
こんな感覚は初めてて、この情熱を持て余している自分に嗤ってしまう。
なんて報われないのだろうとわざと悲劇ぶってみたくもなる。
俺は衣服越しに撫でていた刃物をポケットに手を滑らせ取り出す。
そのまま黒い鞘に収められた飛び出し式の『七ッ夜』の切っ先を出すと、仄暗い空間の中でも周囲の僅かな光すら吸収しているかのように淡く光った。
俺は俺であるからこそ、奴との死合を望んで居る。
得物を握る掌に力を込めると、ピタリと吸い付くように収まった其れを一度横に薙ぐ。
その刃は美しい線を描いて、冷たい路地裏の空気を音も無く切り裂いた。
もう衝動は抑えられないところまで来ている。
早く、男に会って今すぐに息が止まりそうな程の戦いがしたい。
暑さの所為なのかもしれないが、それにしてもこの熱は可笑しくなりそうだ。


「……はあ……」


体の中に溜まった空気をゆっくりと吐き出す。
けれど飲み込んだ酸素は熱せられている為に、結局あまり意味が無かった。
俺は持っていた刃を静かに柄に戻す。
酷い欲求不満な俺が不自然な動きをしている合間にも蝶は相変わらず、地面の上で動かなかった。
一体こいつ等は普段何を考えて生きているのだろうか。
なんて心底くだらない事をふと、思ってしまう。
少なくともこうして意味の無い事で毎日焦れて苛立ちを溜めている俺よりはずっと幸せな人生を送っているかもしれなかった。
其れがなんだか無性に可笑しく感じられて、口端に笑みが上る。
すると閉じていた羽を開いた蝶が休憩を終えたのかゆっくりとその羽を動かし地面から飛び立った。


「……あ」


思わずその姿に声を上げると、蝶はまるで俺を慰めるかのように俺の周りを飛んでから路地裏の隙間から見える青空へと飛び立っていく。
まさに『自由』を絵に描いたようなその光景に目を奪われてしまった俺は、手に持っていた得物に視線を向けると其れを握っていた手の親指で滑らかな柄を撫でる。
もうそろそろ、俺もこの檻から出る覚悟を決める必要があるかもしれない。
―――ぬるま湯のようなこの生活から、地獄の底へと堕ちていく、その覚悟を。
撫でていた得物を尻ポケットに仕舞い込み髪を片手で掻きあげる。
微かに汗ばんだ其処に不快感を覚えながらも、背をつけていたコンクリート の壁から体を離す。
揺らめいた影法師に視線を一度向けてから、先程蝶が飛んでいった空を見遣る。
雲一つ無い青空にはもうあの蝶の姿は当然見えなかったが、蝶の影が空に浮かんで見えた。


「……そろそろ行くか」


誰かに伝える訳でもなく、一人そう呟く。
そうして絡みつく熱を振り払うように足を踏み出し、人の気配がある大通りの方へと向かっていく。
そんな俺の頭上には相変わらずの美しい青空が広がっていた。



-FIN-






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